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028 「囚人護送車」の中で行われたこと。 [技術の功労者]

028  ハードを売れば、ソフトが売れる


        「キネトスコープ」



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●時代背景 19世紀末はインフラ整備で膨大な鉄鋼の需要があった 1890年頃の様子


 1889(M22)年秋、エディスン研究所の技師ウィリアム・ディクスンは、「第4回パリ万国博」から帰還したトーマス・エディスンに、自分が開発した撮影兼映写が可能な「キネトグラフ」を見せました。エディスンはその成果を誉めましたが、あくまでも覗き見式にこだわりました。ディクスンは不本意でしたが、折角考えた「キネトグラフ」を元に、彼にとっては後戻りと思える覗き見式を考え出しました。その動画装置は「キネトスコープ」とネーミングされました。


●「キネトスコープ」は機械仕掛けの覗き見装置  
 「キネトスコープ」は、フィルムメーカーのジョージ・イーストマンの会社が開発した50フィートのセルロイド製ロールフィルムを使用するように設計されました。外観は縦長の木箱です。ちょうど大人が立って覗ける位置に、凸レンズの拡大鏡をはめた覗き窓が設定されています。
 これは当時はやりのピープ・ショー(覗き見ショー)の応用でした。この時代、ボードヴィル劇場などで人気があった出し物の一つがピープ・ショーですが、それが盛り場やイベント会場にもこの種の場所や装置が設置されて、人気を博していたのです。

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●中で演じられる曰くありそうな芸を、周囲の窓から覗き見るピープ・ショー。



  「キネトスコープ」のフィルムは木箱の中で、リールには巻かれずにエンドレスでつながれていて、箱の上下に設けられた多数のスプロケット(フィルムの穴に噛ませる、突起の付いた回転軸)を交互に通過するようになっています。このスプロケットは、ウィリアム
・ディクスンが35ミリフィルムの規格を考えたときに、パーフォレーション(フィルムの穴)の仕様と合わせて考案したものです。
  
 「キネトスコープ」の動力は蓄電器です。スイッチを入れると光源が点灯し、モーターがスプロケットを回転させてフィルムを送ります。通過するフィルムの1コマ1コマに回転シャッターが同期して断続的な光を与えることで、写真が動いて見えるのです。スピードは1秒46コマ。時間にして30秒足らずの〈動く写真〉の繰り返しです。このような仕様で1893(M26)年3月、「キネトスコープ」は誕生しました。


1894 初期キネトスコープ.JPG P1110630.JPG
●研究用「キネトスコープ」             ●商品版「キネトスコープ」1893

●映写式か覗き見式か、運命の分かれ道
 
ディクスンが映写もできる「キネトグラフ」を試作したことを承知しながら、エディスンが覗き見式にこだわった理由。それは、映写式動画装置では他の研究者たち・・・特にヨーロッパにおいて・・・すでに大きく差をつけられ、巻き返しが難しいこと。それは海外特許を得られる確率が低いということに通じるのですが、実業家としてのエディスンの見方を考えると、とにかく肝心なことは、ピープ・ショー方式の方がすぐにでも利益を生めそうだと判断したからではなかったでしょうか。

 実は、電気事業をしっかりと軌道に乗せたエディスンは、すでに新しい事業に取り掛かっていました。時代は重工業が花形でした。鉄道、橋梁などの巨大インフラや大型船舶、高層ビル建設などで、際限なく鉄材が求められていました。
 エディスンが没頭していたのは鉄鉱石から電磁的な方法で鉄を取り出す事業でした。彼はサウスカロライナにある鉱脈を買い、将来的には「エディソニア」と呼ぶ大工業地帯を形成するというビジョンの元に、精錬工場を稼働させていました。もし、その取り組みが成功すれば、〈動く写真〉よりもはるかに巨大な利潤を見込めることでしょう。そう考えるのは経営者として当然のことでした。

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●トーマス・エディスン        ●「キネトスコープ」の実際の開発者 ウィリアム・ディクスン

 かと言ってエディスンンが〈動く写真〉を軽視して、ディクスン任せにしていたという訳ではなさそうです。エディスンが考えていた将来的な〈動く写真〉とは、オペラ劇場の公演やボクシングを臨場感たっぷりに楽しめるもの、というからには、これは公開…つまり映写を視野に入れていたと見ることができそうです。

 それでもなお覗き見式にしたのは、「キネトスコープ」の動画にはガタつきがあり、回転シャッターの開角度が狭くて画面も暗く、拡大上映して鑑賞するに耐えられるようなものではなかったからでした。
  それに、彼が見聞きしてきたライバルたちの〈映写式動く写真〉の開発に遅れをとった今は、差別化の手法として覗き見式にこだわる必要があったのでした。
  
●エディスンの考えは、一家に1台の家電型娯楽機
 
「キネトスコープ」の開発にはすでに巨額の開発費がかかっていました。その早期回収を図るためにエディスンが考えたこと。それは、「キネトスコープ」の商品化、つまり、機械そのものを売ることでした。

 彼は先に自分が発明した「フォノグラフ」(蓄音機)が、当時のセレブ階層に大歓迎で受け入れられたことに自信を持っていました。それに彼は、近い将来「フォノグラフ」と「キネトグラフ」を結んで、音の出る写真動画を実現しようと考えていたのではないでしょうか。裕福な家庭のリビングルームで、居ながらにして劇場やリングサイドの興奮を音声といっしょに楽しめるもの。今でいうテレビのような構想だったのかもしれません。 


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●エディスンと「フォノグラフ」(蓄音機)1877(M10)

 ただし、いきなり家庭用に売り出しても、高価だし、果たして売れるものかどうか分かりません。今日のパソコンやプリンター、スマホなどの売り方に見られるように、ハード(キネトグラフ)の利益は薄く設定しても、ソフト(動画フィルム)でもうける、という手法も考えたかもしれません。 

 いずれにしてもハードを売るためにソフトは不可欠。ソフトとはこの場合、バラエティに富む35ミリの動画コンテンツをたくさん提供できる環境を用意することです。一つはそのための施設。もう一つは売り方と販売網です。エディスンはまずその施設として、ディクスンをリーダーに、早速、ウェスト・オレンジの研究所の中庭に撮影スタジオを建てる計画に取り掛かりました。

●世界初の撮影スタジオは「囚人護送車」?
  1894(M27)年2月、完成したスタジオの正式名称は「キネトスコーピック・シアター」でしたが、黒くて奇妙な外観が囚人護送車に似ていたところから、みんなからはそのあだ名と同じ「ブラック・マリア(ブラック・マライア)」と呼ばれました。

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●世界初、エディスンの動画撮影所「ブラック・マリア」1894  太陽の位置に合わせて回転できた

 「ブラック・マリア」の
外側はすべてタールで黒く塗られ、内部も真っ黒に塗られています。フロアの一方に人物が演技をする空間があり、対面には撮影のための電気仕掛けの「キネトグラフ」が…これは1メートル四方位の大きいものなので、床に固定されています。撮影時には屋根を開けると太陽光を採り入れることが出来ます。

 更にスタジオの床全体が車輪の付いたターンテーブルで、床下に作られた円形のレールの上に乗せてあるので、太陽の動きに合わせて向きを変えられるというものでした。世界初の映画撮影スタジオはこうして誕生しました。

 このスタジオからは、子供のジャグリング、ダンスをする女性、マッチョマンのポーズ、赤ん坊の入浴、猫のボクシング、ノミのハイジャンプなど、「キネトスコープ」用のいろいろなソフトが生み出されました。1本のフィルムは15秒程の長さの繰り返しで使うのですから、物語を考える必要はありません。ボードヴィルで人気のある役者の一発芸や、動きが面白いと思われるものは片っ端から「キネトスコープ」のソフトとしてフィルムに記録されていきました。


 ●「キネトスコープ」 34秒 無音

 ●キネトスコープのソフト 「くしゃみの記録」 8秒 無音 
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●「くしゃみの記録」1892


●他の開発者はみんな映写式の開発に取り組んでいた
 一方でエディスンは次の手を考えていました。「キネトグラフ」は世間に初めて登場するもので、しかも高額商品です。それを売ろうというのですから、まず多くの人にその登場を知らせ、楽しい機械だということを知ってもらう必要があります。そのための市場戦略をどう構築するか。PRをどう打ち出すか。このあたりにまで考えが及ぶところが、実業家としてのエディスンの腕の見せ所になってきます。

 ところで、エディスンが覗き見式にこだわって、ディクスンと「ブラック・マリア」で「キネトスコープ」用フィルムの制作に取り組んでいるとき、大西洋をはさんだ両岸で、他の研究者たちはみんな〈映写式動く写真〉を目標に開発を進めていました。  
 
同じアメリカではトーマス・アーマット、フランシス・ジェンキンズ、レイサム父子といった人たち。イギリスではバート・エイカーズ、ロバート・ポール。イタリアではフィロティオ・アルベリーニ。ドイツではマックス・スクラダノフスキー、ハーマン・カスラー。そしてフランスではリュミエール兄弟……。
〈映写式動く写真〉は欧米のあちこちでゴールを目前にラストスパートを迎えていたのです。 

                                 つづく



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027 人は〈時間のベルト〉を手に入れた。 [技術の功労者]

027 フィルムの幅は、なぜ35ミリ?
           ウィリアム・ディクスン / ジョージ・イーストマン

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●1889年「第4回パリ万国博覧会」のシンボル、エッフェル塔

 1887年、エディスンは、自分が発明した「フォノグラフ」(蓄音機)を動画用に転用した「光学蓄音機」の開発を、絶大の信頼を寄せている技師のディクスンに指示しました。それは翌年、一応の成果を収めたものの、紙製フィルムを使用する限界に突き当たり、技術的に行き詰っていました。
 その打開のきっかけを作ったのは、1889年、フランス革命100周年を記念する「第4回パリ万国博覧会」でした。それは白熱電球の発明で世界に揺るぎない名声を得たエディスンの、一大デモンストレーションの場でもありました。


●新素材は隘路を切り開く 
 1889年5月、トーマス・アルバ・エディスンは「第4回パリ万国博覧会」の会場に立っていました。歴史的な街区の美観を損なうという理由で反対も多かったというエッフェル塔が312メートルの威容を誇り、鋼鉄でアーチ形に組み立てられた巨大な空間を持つ機械館とともに〈鉄の時代〉の繁栄を圧倒的な華々しさで象徴していました。

 博覧会の様相は日暮れとともに一変しました。日本の参加も加え29ヵ国のパビリオンが立ち並ぶ広大な会場は、万博始まって以来の夜間開場。それはエディスンの白熱電球によって初めて実現したものでした。
 メインストリートやパビリオンはまぶしくきらめく電球で飾られ、エッフェル塔は電灯とアーク灯のコラボレーションで、フランス国旗をイメージしたトリコロールのライトアップ。広い庭園では連日、カラフルな照明に彩られた噴水ショーが開かれていました。それは、〈鉄の時代〉はまた〈電気の時代〉でもあることを誇示しているようでした。

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●「機械館」の様子

 この会場の一角に新しい技術を展示している建物があり、エディスンはある人物を訪ねることにしました。そこでエディスンは大きな啓示をうけることになります。その人物とはエチエンヌ・ジュール・マレーです。彼は完成させたばかりの「フィルム式クロノフォトグラフ」を展示して、上映の実演を見せていたのです。

 エディスンの訪問を快く迎えたマレーは、同じ展示館で出店しているオットマール・アンシュッツとエミール・レイノーを紹介します。アンシュッツは「エレクトロ・タキスコープ」で。レイノーは「テアトル・オブティーク」(光の劇場)の実演で好評を博していました(前
々回に記述)。けれどもエディスンは、マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」に最も関心をひかれたようでした。

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●オットマール・アンシュッツ ●エミール・レイノー

 全く新しい概念によるセルロイドのロールフィルムこそ、「光学蓄音機」の開発に行き詰まっているウィリアム・ディクスンの問題を解決するに違いない。それにしても〈動く写真〉の開発はこんなに進んでいる。なんと回り道をしたことか。
 エディスンは万博会場に9月いっぱい詰めていなくてはならなかったので、直接関係することはできません。はやる気持ちを抑えてエディスンは、早速ディクスンに「光学蓄音機」の研究をやめ、イーストマンのロールフィルムを使う方式に
方向転換するよう指示をあたえました。
                                             
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●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン  ●ジョージ・イーストマン

 このことは後の1894(M27)年の新聞で、「この転換は、マイブリッジやマレーの研究成果をヒントに発想したものです」とエディスン自身が明言しています。マイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」とマレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」がヒントだと言い換えてもいいでしょう。


●エディスンも〈動く写真〉の上映を考えていた?
 エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、それからわずか数ヶ月。パリ万博からエディスンが戻るまでに、早くも結果を用意していました。

 1889(M22)年10月6日。ニュージャージー、ウェストオレンジの研究室に足を踏み入れたエディスンはびっくり。なんと、スクリーンに映ったほぼ等身大のディクスンが、帽子を取って自分に挨拶する姿を見ることになります。「お帰りなさい、エディスンさん。このキネフォノグラフをきっと満足していただけると思います」。
 声はスクリーンの動作に合わせてディクスン本人が話したのですが、エディスンは思わずひざを打って言いました。「そうだよ、そうなんだよ。私の装置は人が等身大で現れ、演劇やオペラの動きと台詞はもちろん、ボクシングのパンチの音までいっしょに聞かせてやろうというものなんだよ」。

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●「ディクスンの挨拶」これは1891年撮影のもの

 それより先の6月のある日、エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、すぐにニューヨークはロチェスターのジョージ・イーストマンのオフィスを訪ねました。そこで彼は、「幅35ミリ、長さ50フィートのフィルムを4本ほしい」と頼んでいます。

 イーストマンの35ミリ幅、50フィートのロールフィルムを使ったディクスンの
「キネフォノグラフ」は、1秒に46コマというスピードで撮影され、上映時間は13秒ほどでした。フィルム送りのために突起のあるホイールが使われ、フィルムには穴が開けられていましたが、このパーフォレーションはフリーズ・グリーンを真似るまでもなく、1860年代に発明された自動電信機のテープに開けられた穴を思い出せばよかったのでした。(子供の頃、縁日で、テープの両サイドにピンクや水色を塗って売られていた、小さな穴の開いたテープがありました)


●「経費は最小、効果は最大」を考えたとき
 「キネフォノグラフ」はすぐに改良が加えられて1891(M24)年「キネトグラフ」となり、更に2年後の1893(M26)年、「キネトスコープ」として生まれ変わります。ここでも35ミリ幅のフィルムが使われましたが、ディクスンはこの数字をどこから割り出したのでしょうか。

 フィルムの幅は機械の構造を決定します。1コマの画面面積を大きく取ればきれいな画面になりますが、レンズもそれだけ大きくなり、機械も大型になります。ディクスン自身それまでの大型カメラの不便さを見ていますから、最小限度の1コマ面積をどれくらいにすればいいかと考えたに違いありません。また結果的に1コマの画面のアスペクト比(縦横比)を見ると3対4になっていて、黄金比が考慮されたようです。

 更にディクスンは、フィルム送りをスムースにするためのパーフォレーションの位置と形と大きさをいろいろ考えました。フィルムの片側だけ、コマとコマの間の真ん中など、いろいろ試した結果、フィルムの両サイドに、1コマに付き4つの穴を開ける仕様がいちばん安定するということを割り出しました。するとそれもフィルムの幅を決める際に考慮しなければなりません。

35ミリフィルム ディクスン.JPG P1050691.JPG       
●ディクスンの考えた35ミリ動画フィルム規格 画面のアスペクト比(横:縦)は4:3 
 この規格は世界標準規格として現在も変わらない。
 これを横にして2コマ分を1コマとして撮影するのがフィルム/スチルカメラの規格
 右は、ほぼ50フィートのフィルムロール。下のDVDと比較を。



●これは結果からの推量に過ぎませんが…
 イーストマン社が供給しているフィルムベース(生地幅)は42インチ(約106cm)でした。彼はこの生地から出来るだけ多くの本数を切り出したいと考えたはずです。

 
当時のフィルムの製造法はよく分かりませんが、製造設備はガラステーブルだったといいますから、おそらく溶かしたジェル状のセルロイド樹脂をその上で圧延したものと思われます。
 仕上がった
生地の天地左右は厚さにむらが出るため若干切り落とす必要があります。それを最小限にみて正味幅を105cm。この幅を元に、彼が必要とする1コマの画面の大きさと両脇のパーフォレーションを加えた必要最小限の幅が35ミリだったのではないでしょうか。

 そうするとフィルムの原反からは105cm÷35mm=30本の35ミリフィルムを切り出すことが出来る計算です。正味幅がもう少し狭い場合は28本だったかもしれません。
 また、ロールフィルムを利用するためにジョージ・イーストマンが考えたフィルムの幅が70ミリで、映画用はその半分の幅にしたという説もあります。
 いずれにしても、これがディクスンが考えた、明瞭な画質を保ちながら機構的な要求も兼ね備えた、必要最低限のフィルム幅だったのではないかと思うのです。この本数はコストパフォーマンスと言う面からも釣り合いのとれたものであったことはもちろんです。


●人はついに〈時間のベルト〉を手に入れた。
 
エディスン社のウィリアム・ディクスンが考案したフィルム規格が伝わると、〈動く写真〉の研究者たちがこぞって35ミリ幅のフィルムをイーストマンのところに指定して来るようになりました。その事実が何よりも、ディクスンのフィルム幅の妥当性を表明していると思うのです。(それにこだわらない研究者もおりましたが)

 そこでイーストマンの会社では、35ミリフィルムの量産体制に入るとともに、一般向けの小型カメラにも流用することを考えました。それは写真の楽しさを広めようと考えていたイーストマンにとっても好ましいことでした。
 こうして、35ミリロールフィルムというデファクト・スタンダードが生まれました。それがこれから到来する映画の時代を背景に、世界共通の国際規格として認められるまでにそう時間はかかりませんでした。

 私たちがつい最近まで楽しんで来た映画とスチル写真のフィルムは、材質と感光材は大きく改良されとはいえ、基本的には1889年にウィリアム・ディクスンが考えた仕様がそのまま使われて来たことはご承知の通りです。

 なお、35ミリフィルム発祥の真実についてはよく分かっていないようです。ただ、インチが単位の米国で、なぜセンチなのかという疑問はあります。
 
アメリカは1875年にメートル法を導入しましたが、それまでのヤード・ポンド法は現在も依然として使われていますから、この当時も両方の単位が使われていたのではないでしょうか。

 それはともかく、こうして人間は、時間を目に見える形で留めることのできる〈時間のベルト〉を手に入れました。絵に描き、影を動かし、写真に留め、今また人はその写真を動かそうとしています。この欲求はどこまで発展していくのでしょうか。


 次回は
「キネトスコープ」という動画メカをご紹介します。

キネトスコープ.jpg
●「キネトスコープ」1893   

                        次回に続く



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026 人はついに時間のベルトを手に入れた [技術の功労者]

026  人はついに時間のベルトを手に入れた
        ジョージ・イーストマン


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●19世紀末の典型的な業務用(プロ用)スチルカメラ  20世紀前半まで大いに活用された。


  これまでは〈動く写真〉を、メカニズムの開発という面から展望してきました。それが写真技術の制約を受けていた訳ですが、乾板写真の登場で露光感度や現像処理が飛躍的に高まったとはいえ、相変わらず硬いガラス板や透明度の低いゼラチンや紙製フィルムの膜面にしか露光できないで行き詰っていた、というところまでお話しました。
  その切実な問題は、アメリカのジョージ・イーストマンがセルロイド製のロールフィルムを発明することによって解決されます。今回は硬質な感光ベースに代わって初めて登場する、「フィルム」と呼ばれる柔軟なメディア(媒体)についてお話ししましょう。 


●みんなが写真を楽しめるように

  今でこそ写真といえばデジタルの時代ですが、つい最近まで、あるいは現在でも、プロ業界やマニアの間でロールフィルムが使われていることはご存知のとおりです。ところが、1884(M17)年にジョージ・イーストマンが最初に生みだしたロールフィルムは、紙製だったのです。それでも紙製フィルムが開発されると、〈動く写真〉の開発者は、「待ってました」とばかりにこぞってそれを導入しました。

200px-GeorgeEastman2.jpg●ジョージ・イーストマン

  そもそもイーストマンは、銀行員だった青年時代から、当時の先端技術である写真に興味を持ち、専門家が持つような湿板写真用のカメラを持っていました。
湿板写真(コロジオン湿板)は撮影の直前に感光液をガラスに塗り、露出時間も長くかかり、露光後は薬液が乾かないうちに現像しなければならないという代物ですから、カメラ自体が大きな木箱で重い上、がっしりとした木製の三脚や現像用具一式を馬車に搭載して運ぶほどの大仕掛けなものでした。
  プロでさえ大変な写真撮影を、なんとかもっと簡単に出来ないものかと考えたことが、本格的に写真に取り組むきっかけでした。

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1885~1900年頃のカメラマン 撮影器具類の運搬に馬車が必要だった

●〈動く写真〉用に、まず紙製ロールフィルムを
  ゼラチン乳剤を使い、乾いた状態で感光できる新方式の乾板写真(臭化銀ゼラチン乾板)が、ベネットによって発明されたのは1878(M11)年のことでした。
  
イーストマンはその情報をつかむと、自分でも実験を繰り返した末、2年後の
1880(M13)年、乾板の改良に成功。同時にその乾板を大量に生産できる機械の特許も得ました。そこで早速プロ向けの写真乾板の販売を始めたのですが、イーストマンのやり方は正直そのもの。不良品があればすべて良品と交換するという良心的なもので、短期間に多くのプロから絶大な支持を受けるに至りました。

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●写真撮影風景 上/1884 マグネシウム光による室内撮影
            下/1888 自然光と補助光を利用した写真スタジオ


  この信頼を元に、彼は写真の楽しみをもっと広く、誰にでも味わってもらえるようにと考えたのですが、ネックはガラスの乾板でした。そこで彼はガラスに代わる素材を考えました。そして紙をベースにした感光紙に思い至ったという次第です。
  この紙製感光シートが、硬い・重い・割れ易い、というガラス乾板で行き詰まっている〈動く写真〉の開発者たちの最後の突破口になりそうだと読んだイーストマンは、
1885(M18)年に、ある程度の長さで巻いて使える紙製感光シートを商品化します。すると予想通り、すぐに発明家たちから反響がありました。結果、この紙製ロールフィルムが、〈動く写真〉の研究を加速させることになったことは、前回にお話した通りです。

グリーン5.JPG P1050562.JPG 
●イーストマンの紙製フィルムを使ったフリーズ・グリーンとル・プランスの動画フィルム
★関連記事 グリーン  http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150330 
        ル・プランス 
http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150402


  
ただ、スチル写真なら紙ベースでもいいのですが、〈動く写真〉には機構上、透明度と丈夫さが不可欠であることを知っていたイーストマンは、紙製ロールフィルムは当座の役割として、すぐに本格的なロールフィルムを作るため、その生地となるシートフィルムの開発に取り掛かりました。


●透明で丈夫なロールフィルムの誕生
  
彼が着目したのはセルロイドでした。セルロイドは1869(M2)年にアメリカのハイアット兄弟がこの名称で登録したもので、合成樹脂のはしりとされていますが、成型加工が簡単なので象牙の代用品やメガネフレームなどの装飾品、あるいは玩具などに利用されていました。
 
  
イーストマンが技師の協力を得て、セルロイドのフィルムベースの開発に成功したのは
1886(M19)年のことでした。初めて生み出されたのは長さ50フィートあまりのフィルムシートでした。
  彼はまずプロカメラ用に「巻き取り式フィルムホルダー」を考案しました。フィルムシートからプロカメラ用の幅に裁断されたフィルム
は、スプールに巻かれ、もう一方のスプールで巻き取るという仕組みで、これはのちの映画用リールに発展するものです。

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  次に彼は最初の念願だった、誰でも写真を楽しめるように、小型軽量で持ち運べるカメラを開発しました。これが
1888(M21)年に"あなたはシャッターを押すだけ。あとは我々に…("You press the button, we do the rest")
という名キャッチで売り出された小型カメラ「ザ・コダック」です。この世界初の小型カメラは一躍イーストマンの名を高め、1892(M25)年、「イーストマン・コダック社」の誕生につながっていきます。

  
1888年といえば、エミール・レイノウがゼラチンフィルムに手書きした「テアトル・オプティーク(光の劇場)」を公開し、フリーズ・グリーンが紙製フィルムによる「マシン・カメラ」に成功し、エチエンヌ・マレーが「フィルム式クロノフォトグラフ」を完成させ、エジソン社のウィリアム・ディクスンが「光学蓄音機」で行き詰っていた頃です。

1895.JPG ●ロールフィルム使用のハンディカメラの例 1895

  セルロイドは、紙や木から作るニトロセルロースに樟脳を混ぜた天然素材です。ニトロ(硝酸)はダイナマイトの原料でもあり、発火の危険性が高く、それから作られるフィルムは極めて燃えやすい可燃性フィルムでした。「イーストマン・コダック社」はその問題に取り組み、
1908(M41)年、難燃性フィルムを開発します。

  ちなみに1950年代以降は、ポリエチレンテレフタレートによる安全な不燃性フィルムが使われるようになります。
  また、ついでながらジョージ・イーストマンは、収益を自社株の配当に比例して社員に分配したり、自己の持ち株の三分の一を社員に譲渡するなどして社員を優遇。また大学や病院などへの多額の献金など慈善活動も顕著で、人道的な経営者、篤志家としても知られています。


●フィルムの幅は決まっておらず、受注生産だった
  ところで1880年代末における〈動く写真〉の開発では、発明家や研究者はそれぞれがてんでに独自の仕様で進めていたため、フィルムの統一規格はまだありませんでした。注文に応じて指示された幅のフィルムを作って納める受注生産です。細いものでは13ミリ、広いものでは70ミリなど、いろいろな幅のフィルムが生地から切り出され、感光剤が塗られ、巻かれて納品されました。

1880 ロチェスターオフィス イーストマン.jpg●ロチェスターのイーストマンの会社

  
イーストマンは日増しに増加するフィルムの受注に備えて、1889(M22)年5月、ニューヨークはオンタリオ湖南岸のロチェスターに新しいフィルム工場を建てることになりました。それは8月に完成し、工場のガラステーブルの上で、幅3.5フィート、長さ200フィートに及ぶ長尺のフィルムベースの生産が開始されたのでした。(200フィートは正味の長さ。撮影の始めと終わりの、陽にさらされて黒味となる分だけ
実際はもっと長い) 


  こうして
ジョージ・イーストマンが開発したセルロイド製フィルムは、こ
れ以上研究を進めることが不可能と思えるほどの強固な〈動く写真〉の壁を一挙に取り除いてくれました。けれども、その開発において不可欠で中心的な役割を担うためには、もうワンステップ経る必要がありました。
  つまり、幅広で200フィートというフィルムシートをどのように使ったらいいかと言う目安のようなもの…それがありませんでした。そして、その指標を与えてくれたのが、実はエディスンの指示による「光学蓄音機」の開発で行き詰っていた同研究所の技師、ウィリアム・ディクスンだったのです。
                                                  つづく 

ウィリアム・ディクスン.jpg 

●「光学蓄音機」開発に行き詰っていたエディスン研究所の技師、ウィリアム・ディクスン
★関連記事 
http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-04
                               



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025 火(非)の無いところに、立つ煙。 [技術の功労者]

025  疑惑の人
          トーマス・アルバ・エディスン - 3

1888.7-22.JPG 1-22 edison 4.jpg 
●パ
リ万博に向けて建設中のエッフェル塔 1888年6月                ●トーマス・アルバ・エディスン 1880頃

 映画の発明に向けて、アメリカやヨーロッパでたくさんの発明家や研究者が苦難の研究を続けていた19世紀末。ガラスの写真で行き詰っていた機械的な問題にブレークスルーをあたえたものが、1888(M21)年、ジョージ・イーストマンによるセルロイド製ロールフィルムの発明でした。


  これによって映画の発明競争は一挙に最終段階に突入するのですが、それまで〈動く写真〉にさほど関心を示さなかったエディスンが、「機は熟した」とばかりに動き出します。

200px-GeorgeEastman2.jpg●ロールフィルムの発明者 ジョージ・イーストマン


●エディスンは〈動く写真〉では明らかに後発だった
  1877(M10)年、蓄音機「フォノグラフ」の発明で注目され、その2年後に「白熱電球」で世界をあっといわせたエディスンは、話題になっている〈動く写真〉に、決して無関心ではありませんでした。それどころか、ますます普及している「フォノグラフ」と〈動く写真〉を合体させたら…とすでに考えていたふしがあります。

  1882年、ニューヨークで彼は「エディスン中央発電所」の開設を急いでいましたが、南隣りのニュージャージー州ウェスト・オレンジで、あのエドワード・マイブリッジによる動画上映付きの講演会が開かれると聞くと、多忙な時間を遣り繰って出向いていきました。 

 その数日後、エディスンとマイブリッジは会うことになりました。そこでマイブリッジから出た言葉は思いもよらないものでした。自分の「ゾーアプラクシスコープ」とエディスンの「フォノグラフ」を同期させた、音声付き映写機を作れないものか、という相談だったのです。
 エディスンは即答を避けました。エンドレスで同じ動画が繰り返されるだけの装置では、エディスンの考える〈動く写真〉のイメージとは大きくかけ離れていたからではないでしょうか。結局その話は物別れに終わったようでした。

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●マイブリッジ   ●ゾーアプラクシスコープ
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 エディスンは〈動く写真〉の発明競争を十分意識はしていましたが、動かなかった背景には、それがどれほどの利益をもたらすのかをつかみ切れていなかった事業家としての見方がありそうです。それに彼のプライドが、今さら他の発明家の後を追うことを潔しとしなかったのかも知れません。

 けれども、マイブリッジも同じことを考えているということが、エディスンの気持ちを動かしました。後発だということを自覚していたエディスンは、他の発明家たちと全く方式の異なる装置を生み出さなければなりませんでした。
 思索を巡らす中でエディスンは、改良を加えて完成度を高めた「フォノグラフ」の仕組みを〈動く写真〉に転用することが、遅れを取り戻す近道になると考えました。「うまくいけば、誰もまだ完成させていない音声付き動画装置の発明を実現できるかもしれない」。

 他の発明家たちがこぞって上映式の動画装置を目指す中で、エディスンはあえて上映方式を選びませんでした。「フォノグラフ」の動画装置への転用は、先発の方式との明確な差別化を目指したからであると考えるのが妥当ではないでしょうか。

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●改良型フォノグラフ
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●オリジナルの研究を手がけてはみたものの…

 エディスンの発想は、蝋管に刻む螺旋状の音の溝の代わりに、連続写真を螺旋状に並べたら…というものでした。まずドラムにフィルムシートを巻きつけ、手回しで連続写真を螺旋状に写し込みます。次にその連続写真のシートを「フォノグラフ」のドラムに巻きつけて、回転させながらその動きを覗き見るというものです。

 こうして「フォノグラフ」から10年後の1887(M20)年。エディスンは研究所兼電気製品製造工場をウェスト・オレンジに建てたことを機に、活動拠点もメンロー・パークからそちらに移して、〈動く写真〉の開発に着手したのでした。



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●光学蓄音機用ロールフィム 動画参照



  蓄音機の動画版とも言うべき装置の開発を仰せつかったのは、日ごろエディスンから信頼され目を掛けられていたスコットランド生まれの敏腕技術者、ウィリアム・:ケネディ・ローリー・ディクスンでした。

  彼は成人して間もない1881年。青雲の志を抱いてイギリスからアメリカへやってきた青年の一人でした。彼の目的は一つ。世界的発明家の元で身を立てたいと思っていたのでした。幸運にもエディスンに会えた彼は早速、発足したばかりの「エディスン電気照明会社」に採用され、技術者としての手腕を発揮。今ではエディスンの助手として信頼され、技術面を支えていました。

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●ウィリアム・ディクスン            


●ディクスンによる光学蓄音機 (再現動画は無音声です)


  ディクスンが最初に使ったのは紙製のロールフィルムでした。紙フィルムの誕生は、ガラス板の写真で行き詰っていた動画の仕組みをそのしなやかさで見事に解決してくれ、たちまち〈動く写真〉の研究者たちに迎えられましたが、高速で送る時に均衡を保てない、すぐに切れてしまう、などの新たな問題が発生し、みんな苦慮していたのですが、ディクスンも全く同じ苦労を味わうことになりました。

  ところが翌
1888(M21)年、ジョージ・イーストマンがセルロイド製のシートフィルムを発明したという朗報が入りました。ディクスンは早速それを取り寄せてみると、それは1フィート四方のセルロイドシートにゼラチン感光材が塗られているものでした。彼はそのシートをシリンダの幅に断ち、巻きつけて使うことにし、試行錯誤の結果、一応の成功を見ました。これを彼は「光学蓄音機」と呼びました。

  けれども、写真を一コマごとに停止させる、動画に不可欠な間欠送り機構に無知だったため、またも研究は行き詰まってしまいました。


●「動く写真」に関する情報はエジソン周辺にあふれていた


この1880年代の終わりから映画誕生の年とされている1895(M28)年末までの10年足らずの間は、欧米の開発者たちの動きが入り混じっていて実に複雑です。


のちに映画撮影機のプロトタイプと称されるエチエンヌ・マレーの最新型「フィルム式クロノフォトグラフ」が発表されたのも1888(M21)年でした。あの写真銃や多重露光を考案した発明家です。

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●マレー            ●フィルム式クロノフォトグラフ 1888
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●フィルム式クロノフォトグラフ 1888                          ●フィルム式クロノフォトグラフ 1889



マレーも最初に開発した「クロノフォトグラフ」はまだロールフィルムが発明される前だったために、1枚のガラスの写真乾板の上に連続写真を多重露光の形で写し込むものでした。

  けれども1887年から取り掛かった
「フィルム式クロノフォトグラフ」は、ロールフィルムの採用によって、1本のフィルムの上に1コマずつの連続写真として記録できるようにしたものでした。そしてそこには電磁石で正確な間欠運動を起こすフィルム送り機構も付いており、メカニズムは「科学アカデミー報告」という学会で紹介されていました。


一方、この年、やはり先に述べたウィリアム・グリーンがエディスンに手紙を送っています。彼は今日、フィルムを正確に送るためのパーフォレーションの考案者として伝えられていますが、立体映画を撮影するカメラについての研究も続けていました。彼はエディスン宛てに、自分の撮影機兼映写機とエディスンの「フォノグラフ」を結びつけた音声映画撮影・再生装置について、詳しい図面を付けて送ったといわれています。ただし、この話はエディスン側によって否定されているようです。
グリーン.JPG グリーン 立体鏡映画カメラ.JPG
●グリーン         ●立体映画撮影・再生機
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また、1889(M22)年8月に開催されたパリ万国博覧会で、エディスンは「フォノグラフ」と「白熱電球」のデモを行っているのですが、その際、マレーがエディスンに、オットマール・アンシュッツの「エレクトロ・タキスコープ」やエミール・レイノウの「テアトル・オプティーク(光の劇場)」を案内したということも知られています。

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●アンシュッツ       ●エレクトロ・タキスコープ
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●レイノウ          ●テアトル・オプティーク〈光の劇場〉
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  つまりエディスンは、何人もの発明家が何年もかけて取り組んできた〈動く写真〉の最先端技術を、1890年までにほとんど見聞きすることができたということです。おそらくエディスンはその時、ディクスンに任せている蓄音機を応用した音声動画装置「光学蓄音機」の限界を知ったに違いありません。

  そしてもう一人、覚えておいででしょうかオーギュスタン・ル・プランス・・・。ニューヨークで世界初の映画上映を成し遂げようと、勇んでパリ行きの列車に乗り込んだまま行方不明になってしまった、あの発明家のこと。彼が失踪したのは1890(M23)年9月でした。


結局、ル・プランスの足取りはつかめなかったのですが、エディスンによる新方式の動画装置「キネトスコープ」が発表されたのはその翌年、1891(M24)年のことでした。そこで、〈動く写真〉の開発に後れをとったエディスンの名前がささやかれた訳です。
 
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●ル・プランス        ●単レンズ式撮影機
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●灰色疑惑の背景


エディスンは特許の取得に対しては最優先だったようです。それは発明家として当然のことですが、自分の成功は特許権が予想外の高額で売れたことに端を発している、ということも大きく作用していると思われます。また、その後、特許に関する係争で、何回か苦汁を飲まされてきたことも事実でした。

  
当時、アメリカの特許制度には「暫定特許出願」というものがありました。これは発明を構想の段階で出願しておけるもので、あとで誰かが同じようなものを発明した場合に、「それは自分が先に考えていたんだよ」と主張できるというものです。機構的な詳細記述は多少曖昧でも(実はそこが一番肝心な部分のはずですが)「このようなもの」という概念が新しければ、申請は受理されていたようです。

  
エディスンはアイディアが沸くたびに「暫定特許出願」を行っていたようです。蓄音機はまったくのオリジナル発明として誰もが認めるものですが、通信機にしても白熱電球にしても、この〈動く写真〉にしても、エディスンは優れたコーディネーターのようなもの。その手腕はすばらしいのですが、先に考えていた人たちからは反論され、訴訟も発生しました。 エディスンはその対抗策として、腕っこきの顧問弁護士団を編成していました。

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●エリス島の移民局

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●エリス島に上陸した移民

  またアメリカは、増え続ける移民を受け入れる窓口として、1892年、ニューヨークはエリス島に移民局を設置。移入した民族はさまざまで、いさかいがあり、治安が乱れ、アメリカの社会情勢は混沌を極めました。

  例えば、エディスンが1887年からウェスト・オレンジに研究所を構えている1890年代初頭のニュージャージーと言えば、マーティン・スコセッシ製作総指揮のテレビ映画「ボードウォーク・エンパイア」の舞台でもあります。移民の中からギャングが台頭し始めた時代です。それ以前から悪徳の魔手は政界、警察機構、司法の世界にまでおよび、贈収賄、買収などは日常茶飯事。みんな疑心暗鬼でライバルの動静を伺う。そのために探偵業が大繁盛。その探偵もスパイ、密告の手先、といった社会環境の中で、前回お話したような、金のためには何でもする連中を、〈エディスンのためを思って〉裏で操る「身内の勝手連」が存在していたとしたら・・・。

  オーギュスタン・ル・プランスの失踪事件で関係者の間でささやかれた
疑惑は、エディスンに垣間見えるそうした影の部分を、人々が感じていたからではなかったでしょうか。

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●時代背景  19世紀末 車が登場する直前の光景


★次回はジョージ・イーストマンの「ロールフィルム」について


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