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046 100年以上前からあった超大型映像 [1900年、パリ万国博]

046 100年以上前からあった超大型映像
   1900年パリ万国博覧会―1        

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●1900年パリ万国博覧会 機械館式典ホールイラスト

 
紀元1900(M33)年。19世紀の成果を総括し、20世紀の幕開けを祝うかのように華々しく開催されたパリ万国博覧会。それは、パリにおける5回目の国際博覧会で、それまでの(植民地政策による)著しい発見と驚異的な科学の進歩を讃え、近代化を一挙に進めたフランスの心意気を世界に示すものでした。

 博覧会では展示のしかた、演出法が大きくものをいいます。1900年パリ万博はその新しい手法として、誕生5年目の「映画」が大活躍した最初の博覧会でした。すでに浸透していた映画は新しい活路を模索して、あの手この手のアイディアで来場者の度肝を抜きました。115年も前の博覧会ですが、そこには現代の私たちでさえびっくりするほどの桁外れのアイディアと技術が凝らされていたのです
(20世紀は1901年1月1日から、とされたのはこの時からのようです

●エチエンヌ・マレーは「動く写真の権威」として評価されていた
 セーヌ河畔。エッフェル塔を中心としたパリ万博は、4月に始まり11月まで200日間に亘って開催されました。 
 生かじりの美術史から見れば、この時期の建築、装飾はアール・ヌーボーかと思われるのですが、パリの女神像をトップに頂いた曲線美豊かなアーチ状の入場門を見ると、それはどう見てもネオの付きそうな装飾過剰なロココスタイル。

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●パリの女神像がトップに立つ入場門 の壮麗さ

 広場のしつらえや大噴水に至るまで、ブルジョア的なそのムードは、むしろ前回1889年の万博で建設されたエッフェル塔のたたずまいに良く似合っている感じ。そのエッフェル塔にはこの万博で初めて「エスカレーター」がお目見えし、会場のメイン道路では、椅子に座って移動できる「動く歩道」が人気を集めていました。

1900エスカレーター.JPG 
●1900年パリ万博で初お目見えのエスカレーター  

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●動く歩道
 動く歩道は速度の異なる3層で、最高速の椅子席、立ち乗りの中速、低速の3段階のスピード。


 
きらびやかなグラン・パレとプチ・パレ、たくさんのパビリオン、大観覧車、レストランなどが立ち並ぶ中で、まず「百年回顧パビリオン」に目を留めると、そこでは1882(M21)年に写真銃で飛ぶ鳥を撮影した「動く写真」の権威、エティエンヌ・マレーによる「映像70年史」のテーマ講演を聞くことができました。

 彼が1888年に開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」の仕組みが、リュミエール兄弟をはじめ動く写真の研究者にヒントを与えたということはよく知れ渡った事実で、映画撮影機・映写機の発展に大きく貢献したことが高く評価され、多くの科学者から尊敬を集めていたことが伺えます。

 エティエンヌ・マレー.png 1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●エティエンヌ・マレーと後発に多大なヒントを与えた「フィルム式クロノフォトグラフ」 1888

 パリ万国博の会場には、地元フランスのリュミエール社が映画のリーディングカンパニーとしての威信をかけて超大型映像を出展。ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は、この世界博を初めて動く写真として記録しようと張り切っていました。その記録フィルムはメリエスの新作として世界的な需要が予測されました。

 シャルル・パテのパテ・フレール社、レオン・ゴーモンのゴーモン社も自社のPRスペースを確保して、映画の撮影機や映写機をあれこれ展示して実演して見せていました。更にはアメリカのエディスン社さえ大西洋を渡って自社の技術のデモンストレーションに加わりました。
 このように第5回パリ万博は、当時の映画関係の最先端を行く企業が勢揃いして世紀のイベントを盛り上げた、初めての国際博となりました。 

●100年以上も前の70ミリ映画
 リュミエール兄弟が映画発明者としての威信をかけて挑んだのは、映画の可能性でした。「シネマトグラフ」はもう下降期に入っていましたから、兄弟は新しい映画の方向性を示そうと考えました。それは、今日の映画を先取りする大型映画でした。

 
兄弟の構想はスケールが違いました。なんと、エッフェル塔の足元のアーチに巨大なスクリーンを張って映画を上映しようと考えたのです。リュミエール社のパビリオンはその話題性を考えると、この万博の「テーマ館」的役割を与えられていたのかもしれません。さすがに風で揺れたり破れたりするアクシデントを考え、場所は「機械展示パビリオン」の中ということになりました。

LUMIERE.jpg1900 リュミエール72mm映画.JPG
●リュミエール兄弟(左)と「機械展示パビリオン」中央の72ミリ映画超大型スクリーン(右)

 そこは高い丸天井を持つ大きな円形の建物でした。リュミエール兄弟は、観客が建物の内側のどの位置からでも映画を鑑賞できるように、天井中央から幅25メートル、高さ15メートルものスクリーンを下げました。(スクリーンの大きさにはいろいろな説有り)

 スクリーンは裏側からも見やすいように、水に浸して透明感を出すことを考えました。上映は夜間で、昼はスクリーンを下の水槽に浸しておき、上映前に天井の巻き上げ機で巻き上げて設置しました。スクリーンの裏から上映するリア・スクリーン方式は、当時としては珍しい手法ではありません。

 映写機は大会場用に新たに設計されました。大口径レンズを備え、強力なアーク灯を光源に、72ミリ幅のフィルムが使われました。映像は会期の始めに撮影された万博会場案内といった内容だったようですが、人々は画面の大きさと、それまでに見たことのない鮮明な映像に驚きの声を上げました。無料ということもあって、会場の床を補強しなければならないほどの人気で、会期中
25,000人もの観客を集めたそうです。
 現在最大の70ミリ映画と同じ大型映像が115年も前に発想され、存在していたということは驚嘆に値します。

1900リュミエール社72mm.JPG●72ミリ映画のフィルムの1コマ

メリエスが一役買った360度シアター「シネオラマ」
 リュミエール兄弟の代わりにエッフェル塔の下に陣取ったのは、フランス人、ラウール・グリモワン・サンソンの「シネオラマ」(別名シネコスモラマ)と呼ぶパビリオンでした。
 サンソンも撮影機、映写機の開発者で、1897(M30)年にはパノラマ映像の特許を取得するのですが、パリ万博に向けてのパノラマ映画撮影は18965月に開始されました。つまり、4年がかりのビッグ・プロジェクトでした。

 彼のアイディアは、当時はやりの気球による世界名所巡りというコンセプト。それまでには複数台の幻灯機で、スライドによる360度全円周上映には成功していたのですが、それを映画で見せることによって、実際に気球に乗った気分で世界旅行を疑似体験してもらおうという意欲的なパビリオンです。

 撮影のために開発された装置は、360度の情景をいっぺんに撮影するために10台もの撮影機が放射状に並べられ、一つのクランクを操作するだけで10台のカメラが同時に回るような、チェーンによる同期の仕組みが考案されていました。ただし歯車による操作は重く、クランクを回すのは3人がかりでした。

raoul grimoin-sanson.jpgラウール・グリモワン・サンソン
IMGP8102.JPG シネオラマのフィルム.jpeg
●「シネオラマ」の撮影では3人の技師がいっしょにクランクを回して撮影
 右は10台のカメラのうちの1台のカメラによって写された1コマ


 サンソンが監督する撮影隊は500キロもある撮影装置と気球を積み込んだ列車でパリを出発。イギリス、ベルギー、スペイン、アフリカと3年以上の撮影旅行を敢行しました。
 サンソンは撮影されたモノクロ映画フィルムをカラーで上映するためにジョルジュ・メリエスに協力を求めました。サンソンはメリエスが会長を務める奇術アカデミーの会員でもあったのです。

 メリエスは快く協力を約束し、サンソンの元に着色女工を派遣したほか、彼の撮影所に隣接した着色アトリエの操業もフル稼働となりました。映画の上映時間は約6分。フィルムの長さは1400メートル。全体は
その10倍の4,000メートル。約80,000コマもの写真が1コマずつ流れ作業方式で、女工さんの手で着色されたのでした。

P1050418.JPGIMGP8071.JPG
●ジョルジュ・メリエスとフィルムを着色するための「彩色アトリエ」

●夢の「鳥人間」を一足早く体験…全円周映画
 「シネオラマ」パビリオンの内部は直径30メートル程度の円形で、周囲はすべてスクリーン。中央に分厚いセメントで囲まれた円柱状の映写室があり、10台の映写機がスクリーンに向けて放射状に据えられた映写窓が見えます。今風に言えば、前代未聞のマルチプロジェクションシステムが、今まさに稼働しようとしているのです。

 映写室の上は気球のゴンドラを模した観客席で、気球旅行の雰囲気を煽るために頭上を大きな気球が覆っています。観客席から見渡せば、左右は360度の風景、天地は足元から空までを展望できる趣向です。まだ飛行機が生まれる前のこと。鳥のように空を飛んでみたいという願いが叶えられるのですから、うわさがうわさを呼ぶ超人気パビリオンでした。

P1050901-2.JPG「シネオラマ」内部

IMGP8100.JPG
●「シネオラマ」気球は雰囲気づくりのための飾り。その下が観客席。
 観客席の下が映写室で、10台の映写機が360度の映画を映写している。

 場内が暗くなると、いよいよ奇想天外、驚天動地の気球旅行の始まりです。パリの街が次第に足元に遠のいていくことで、自分の乗ったゴンドラの上昇を感じるうちに、まもなくエッフェル塔よりも高い450メートルの高度からパリ市街を展望することになります。

 気球は上昇と下降を繰り返しながら、ブリュッセル、ロンドン、バルセロナと空の旅が続きます。嵐の大海原を越えたイタリアでは謝肉祭の賑わいや大砲を打ち合う軍隊の軍事教練、ニースではカーニバル、スペインでは闘牛といった賑わいを眼下に見下ろしながらの爽快な遊覧飛行です。

 音響についての当時の記述は見当たらないのですが、これだけの映像スケールですから、小規模ながらオーケストラ演奏が付いていたのではないかと推察します。 

●技術的には時期尚早。現代技術ではじめて完成
 ところがこの大仕掛けな出し物「シネオラマ」には設計上の問題があったようです。観客が興奮のるつぼにある時、映写室では大変な騒動が持ち上がっていました。10台の映写ユニットから発散されるアーク灯の熱を排出させる換気装置はフル回転でしたが、暖まったセメントの壁が保温効果を発揮して室内の温度は45度から60度にも上昇していたのです。

 映写時の動力は電動モーターによるものと考えられますが、ついに一人の技師があまりの暑さに気を失って倒れました。その時親指が換気装置の回転翼で切断されるという事故になってしまったのです。今思えば、リハーサルなどはどうなっていたのかとか、会場の安全基準はどうだったのかなどと気になるのですが。

シネオラマ 映写室.JPG
●映写室内部 10台の映写機のうちの3ユニットを描写
 10台の映写機はチェーンで同期させていたことが分かる。
 3本のタワーはアーク灯光源で、上部への配管で放熱。 

 それはともかく、警察の調べが入り、主催者側も黙認できません。関係者や観客の脳裏によみがえったのは3年前に起きた「チャリティ・バザール」。映写機の光源が火元で死者117名を出したあの大惨事でした。

1897.5LePetitJournal_-Bazar_de_la_Charité.jpg●パリ/チャリティ・バザールの大惨事 1897.5 

 当時のフィルムは可燃性です。高熱で発火したら爆発します。そんな危険な興行を続けさせることはできません。こうして大きな期待を担って公開された「シネオラマ」でしたが、たった3回(1回の説有り)の公演で閉鎖されてしまったのです。

 その結果グリモワン・サンソンは、このビッグイベントの成功に賭けた投資家たちを巻き込んで破産してしまいます。しかし彼の映画に対する情熱は醒めず、その後は映画技術開発史の研究に向けられていきます。
 彼の構想は並外れで、
1914年に第一次世界大戦がはじまると、ガスマスクを発明して大金が転がり込んだり、1923年にはスクリーンに写さない文字通りの立体映画を構想したりしています。

 
今日の大型イベントに欠かせない大型映像は、こうした試行錯誤の蓄積の上に、最新科学技術を統合することにより、ようやく当時のアイディアを実現できたものと言えると思います。


★次回は「1900年パリ万博」第2
回。またまた奇想天外な出し物が登場しますよ。
★ライト兄弟の飛行機「フライヤー1号」の初フライトは1903年です。


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045 それは美女の変身から始まった。日本映画の発祥-2 [日本映画事始め]

045 トリックではなかった、美女の変身
   19世紀末、日本映画事始め-2


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●歌舞伎座 2009.10.1 撮影

前回からの続きです。

●「活動写真」の出発点も日本橋だった
 1897年(M30)9月になると、日本橋の写真材料輸入商・小西本店(後の小西六~コニカ~現コニカミノルタ)に、バクスター&レイと称する撮影機と映写機が、数本のフィルムといっしょにイギリスから届きました。これはヨーロッパで人気急上昇の「映画」というものの情報をつかみ、将来性を読んでいち早く発注しておいたものと思われます。
 
「シネマトグラフ」でも「ヴァイタスコープ」でもないこの機械は、イギリスで独自に開発されたものでしょう。またフィルムもリュミエール社、メリエスのスター・フィルム社、あるいはエディスン社で製作されたオリジナルではなく、当時欧米でたくさん出回っていた複製品か、剽窃して作られたものだった可能性もあります。

 
小西本店では早速撮影してみることになり、当時20歳の店員浅野四郎(のちに大塚と改姓)が起用されました。マニュアルがあるわけではなく、教えを請う人もおらず、ちょうど私たちが始めてパソコンに触れたときのようだったのではないでしょうか。恐る恐る触っているうちに映写機の使い方はすぐに分かったと思います。なにしろ手回しですからね。フィルムは映写機に掛ければすぐに見ることができますからちょろいものです。

 
けれども撮影機はそうはいきません。フィルムを入れてカメラは回せても、撮影には写真の知識と技術が必要です。また撮影したフィルムは現像しなくては見られません。
 そこで、取引先の日本橋三越写真部の柴田常吉に協力を頼むことになりました。
二人は勇んで撮影機を抱えて街に繰り出しました。そして外光の下では「日本橋の鉄道馬車」「上野の汽車」、室内では「浅草江川一座の足芸」などを試験的に撮影。自社で現像し、プリントにも成功しました。この二人が日本で最初の映画カメラマンということになります。

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●日本初の映画とされる大塚四郎撮影「日本橋」1897

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●左/浅草公園六区に立つ凌雲郭(浅草十二階)1890(M23)
 右/日本で最初の映画カメラマン・柴田常吉



●早くも宣伝映画登場
 
1898(M31)年に入ると小西本店はいよいよ映画機材に本腰を入れ、フランス、ゴーモン社の撮影機(「クロノ・ゴーモン」と思われる)を輸入しました。
それを神戸のお金持ちが購入し、映画を撮ることになりました。そこで経験者として柴田常吉が再び起用され、「京都芸者の潮来出島」「車屋の水喧嘩」などを制作。落成2年目の歌舞伎座で公開されました。

 
この年、京橋で開業していた今で言う広告代理店の「広目屋」が活動写真のPR効果に着目。小西本店に「三井呉服店」「沢之鶴」「岩谷天狗(たばこ)」の映画制作を依頼してきました。いわば日本で最初のPR映画。これを撮影したのも柴田常吉です。


●旧と新。歌舞伎と活動写真のコラボレーション
 
1899(M32)年になると「広目屋」の駒田好洋という人が独立して、「日本率先活動大写真」という大層な名前で「ヴァイタスコープ」を使った映画制作を始めました。
 彼はすでに知己の間柄の浅野四郎、柴田常吉を起用して、銀座、日本橋、浅草仲見世の様子や、日本を代表する風俗として柳橋、新橋、祇園芸者の踊りなどを撮影し、広目屋の提供で歌舞伎座で上映しました。


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●歌舞伎座 1896(M29)

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●歌舞伎座における「日本率先活動大写真」公開 1899.6

 
当時歌舞伎は文明開化の延長線上で新しいかたちを模索しており、政財界、文化人の後援による「活歴」(史実に即した作劇)という活動を展開したり、坪内逍遥を主唱者とする新歌舞伎の動きなど、近代歌舞伎への試行錯誤が続けられていました。到来して間もないニューメディア・活動写真は、ちょうどフランスのジョルジュ・メリエスが自分のマジックのステージにいち早く動く写真を導入したように、歌舞伎座も新機軸のテストケースとして舞台に活動写真を導入することを考えたものと思われます。

 駒田好洋はその後「ヴァイタスコープ」をもって地方を巡業して回り、フィルムの解説も行いました。「すこぶる非常に…」という強調語がトレードマークになり、「頗(すこぶる)」の文字を染め抜いた衣装で演壇に登り、活動弁士第1号となりました。


坪内逍遥.JPG●坪内逍遥

 
このような動きの中で歌舞伎座の井上竹次郎は、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎による新歌舞伎十八番「紅葉狩」を活動写真にすることにしました。美女に紅葉狩りの宴に誘い込まれた平維茂(たいらのこれもち)が、本性を現した鬼と戦って成敗する、という有名な能の題材を歌舞伎に仕立てたものです。
 
撮影者は柴田常吉。舞台上では暗くて撮れないので、裏の空き地に背景をしつらえて、外光で撮影されたものです。

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●現存する日本最古の映画フィルム「紅葉狩」1899(M32)


 フィルムは200フィート、5分弱。美女から鬼への変身はジョルジュ・メリエスのようにトリックを使ったものではなく、あくまでも撮影機を固定したまま、演技の進行をそのまま撮影したものに過ぎません。現在そのフィルムの一部が残っていますが、この現存する日本最古の映画は、2009年7月、映画フィルム初の重要文化財に指定されました。


●劇映画第1作は、捕り物活劇だった
 
日本における劇映画の第1作とされるのは、やはりこの年に広目屋が製作した「稲妻強盗捕縛の場」です。撮影は柴田常吉。この映画は関東地方を荒らしまわった強盗の実話に基づいて、その逮捕の状況をドラマ形式で再現したもので、新演劇の俳優・横山運平が刑事に扮して出演しました。日本における劇映画第1号。映画俳優第1号というわけです。

横山運平.JPG●日本映画の俳優第1号 横山運平

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●神田・錦輝館における活動写真の上映 1897 スクリーンの後ろから上映

 
また1899(M32)年にはリュミエール社から2度目の技師派遣としてガブリエル・ヴェールが来日し、日本の生活習慣や農村風景、歌舞伎の舞踊や芝居の情景などを撮影しています。

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●リュミエール社からの派遣技師ガブリエル・ヴェールと撮影フィルム


●日本映画事始めにおける私の思い入れ
 
なお1899(M32)年の4月には、書生芝居の川上音次郎と貞奴の一座19名がアメリカ、フランス巡業に旅立っています。私としては、この二人こそ日本における映画スター第1号の名誉と重鎮の栄誉を担って欲しかったと思うのですが、この19世紀末から20世紀初頭にかけては活動写真のほとんどが歌舞伎の出し物や時代劇で、音次郎の目指す新派演劇にそぐわない方向性を示していたこと。また1909年からはその中心を「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助という人気俳優が固めていたこと。更に言えば、活動写真がまだ本格的な映画俳優を求めるほどに成長していなかったということ…つまり二人の活躍の場が無かったからではないかと思っています。

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●上/後に新派女優第1号となる貞奴と座頭・川上音次郎
 下/川上音次郎一座の書生芝居 中村座 1891


 20世紀に入り、
川上音次郎一座は1907年にもヨーロッパ巡業を行いましたが、1908(M41)年1月に落成した吉沢商店の目黒行人坂下の撮影所でその第1作として、一座総出演の「和洋折衷結婚式」と題する喜劇を撮っています。二人が出演したこの映画を観てみたいものです。川上貞奴が帝国女優養成所を開設したのはこの年の9月でした。
 なお、川上音次郎は活動写真全盛の1911(M44)年11月、大阪帝国座出演中に死去。48歳でした。

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●牧野省三監督「怪鼠傳」1915 の尾上松之助(左)        ●尾上松之助

 
日本の活動写真界も20世紀に入ると、フランスのパテ社、ゴーモン社、アメリカのエディスン社などからのフィルム輸入と並行して、本格的な映画製作を始める会社が出てきます。監督という職業が生まれ、俳優が生まれ、名作が生まれ、活弁の名士も登場します。そこにはまた面白い展開があるのですが、残念ながらそれはこのブログの方向ではありません。

★次回はフランスに戻って、1900年に華々しく開かれた「第5回パリ国際万国博覧会」が舞台です。












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044 19世紀末、日本映画事始め-1 [日本映画事始め]

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    19世紀末、日本映画事始め-1

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●明治期末、活動写真が上映されていた歌舞伎座(この建物ではありませんが
)2009.10.14 高層ビル着工直前撮影

歌舞伎座GP8139.JPG●明治後期の歌舞伎座 木挽町(現在の銀座
)

 これまでは、リュミエール兄弟による1895年12月28日の映画誕生以後、19世紀末までの主としてフランスとアメリカの動向を見てきましたが、今回は日本の様子に簡単に触れておくことにしましょう。

●一挙に3機種揃った1896年(M29)
 日本における映画の発祥は、機材の輸入時点とするか、初上映の日(特別上映、試写会等)とするか、一般に向けての初公開の日とするかによって、日にちと場所に多少のずれがあるかもしれません。
 手元資料、文化出版局「日本映画史大鑑・松浦幸三編著」によれば、日本に「動画」の機械が最初に輸入されたのは1896年(M29)。神戸商館十四番館・リネル商館によるもので、9月にエディスンの「キネトスコープ」が輸入され、覗き見式であるところから「写真活動眼鏡」と呼ばれました。

キネトスコープ2.jpg●エディスン社「キネトスコープ

 「写真活動眼鏡」はその後神戸の鉄砲輸入商の手に渡り、11月、来神中の皇族にご覧いただいた際の新聞記事で初めて「活動写真」という言葉が使われ、同月25日から12月1日まで、神戸市の神港倶楽部で一般に初公開されました。

 上映されたフィルムは5種類で、「西洋人スペンセール(スペンサー)銃をもって射撃の図」「西洋人・縄使い分けの図(投げ縄芸)」「旅館(ホテル)にてトランプ遊戯の図」など。そのうち1本は3人の祇園芸妓による晒布舞で、これは1826年のシカゴ万博出場の際、エディスン社のカメラマンが撮影したものと伝えられています。

 「キネトスコープ」1892年末にアメリカで誕生してから日本に輸入されるまでに4年近くもかかっていますが、実は「キネトスコープパーラー」が人気を集め始めた1894(M27)年頃にそれを知った日本人がエディスン社に輸入を申し入れたところ、断られたという記録があるようです。輸入が実現した1896年(M29)頃は、アメリカでは「キネトスコープパーラー」の人気が落ちた頃で、その後にエディスン社は「キネトスコープ」の海外輸出を解禁したと推測されます。

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●デトロイトの「キネトスコープパーラー」1894

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●左/リュミエール社「シネマトグラフ」1895              ●エディスン社「ヴァイタスコープ」 1896

 このように「キネトスコープ」の輸入が遅れたこともあって、その月には早くも、前年にフランスで公開されたばかりのリュミエール兄弟の映写機「シネマトグラフ」が12本のフィルムとともに輸入され、後を追うように12月には、大阪心斎橋通りの雑貨輸入商と東京京橋の薬品輸入商により、エディスン社の新鋭機「ヴァイタスコープ」が数本のフィルといっしょに輸入されました。辰野金吾設計の日本銀行本店が完成し、歌舞伎座が落成した時代です。

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●1896年完成当時の日本銀行 梅堂国貞・画


●リュミエール社の世界紀行撮影技師といっしょに渡来
 「シネマトグラフ」を輸入したのは現在の稲畑産業㈱の創業者、稲畑勝太郎です。稲畑は京都府の使節として合成染料や染色技術を学ぶために1877(M10)年渡仏。リヨン工業学校~リヨン大学と8年間の留学生活を送る中で、父の写真乾板工場を手伝うリュミエール兄弟の兄、オーギュスト・リュミエールと同窓になりました。

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●フランスとの産業・文化の架け橋となった稲畑勝太郎 ●コンスタン・ジレル

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●シネマトグラフに記録された稲畑勝太郎とその家族

 そのつながりで稲畑は1896(M29)の渡欧の際に、公開されたばかりの「シネマトグラフ」の機械とフィルムを購入し、リュミエール社が始めた「シネマトグラフ世界紀行取材班」の技師コンスタン・ジレルとともに帰朝しました。


●AHIMOTUVWXY

 稲畑は京都四条河原でテストした後、1897年2月15日、大阪南地(難波)の演芸場で公開しました。その際稲畑は、新京極の大道で弁舌さわやかに物売りをしていた坂田という男を雇い、上映したフィルムの画面に合わせて即興の解説をさせたということです。これはその後に映画の場面に合わせて解説と台詞の声色を使う「弁士」という日本独自の職業に発展します。

 
「シネマトグラフ」は一坪(1.8㎡)の広さに映写され、例によって1本約1分のフィルムが10本程度上映されました。日本初の映画上映の様子を、翌16日の大阪毎日新聞は次のように伝えています。

 「事物の時々刻々に変化する有様を詳細に描写し、更に電気燈の力を借りて幻燈の如く之を白幕の上に反映せしむるにありて、其の精細なるものに至りては、一分時間内に生ずる活動の有様を九十回に分かちて描写することを得ると云ふ。(中略)欧米諸国の人情風俗、続々として幕上に活躍し来る一幅の活画(くゎつぐゎ)とは之をや云うならん。兎に角未見の人には一顧の価値あるべし」

 1分を90回に…というのは間違いで、正しくは1秒16コマですから60秒は960コマとなります。それを記者が90と聞き間違えたのでしょうが、本当の数字を知ったら飛び上がってしまったでしょう。
 また当時は日本人にとって初めてのメディアですから呼び方がなく、「活画」と記されています。この言葉を考えるのも大変だったことでしょう。

 なお、この時の上映は「映画」の仕掛けを隠すためもあって、「シネマトグラフ」は白幕の後ろに設置して上映したそうです。今で言うリア・スクリーン上映方式です。白幕は単なる白布で、風にはためかないように鉄棒で重石をしただけのものですから、アルファベットの文字は裏文字で鑑賞されたのでしょうか。そうだとしても当時の大方の日本人には分からなかったかもしれません。それにアルファベットは26文字中、裏返しにしても同じ文字が11個もあるのです。実際はフィルムを裏返しに巻きなおして上映したのだと思いますが。(それよりも、看板文字はともかく、まずタイトル自体が付いていないのでした。)


●「活動写真」という言葉が定着
 
2月の「シネマトグラフ」公開に続いて、同月、「ヴァイタスコープ」が大阪新町演舞場で初公開。その後は「キネトスコープ」「シネマトグラフ」「ヴァイタスコープ」の3機種三つ巴の興行合戦となりましたが、当然のことながら覗き見式の「キネトスコープ」は早々に駆逐され、「シネマトグラフ」と「ヴァイタスコープ」のせめぎ合いとなりました。この時の「ヴァイタスコープ」の新聞広告によると、

 「この活動写真の原動機は十文字商会が率先販売の石油発動機を使用し、発電機は三吉工場のダイナモーを用い、大装置によりて大写真を活動す。機械の運転者は米国費府ダニエル・クロース氏、外に説明者有りて1枚毎に説明の労をとる。伏して請う、千客万来あらんことを」

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●左/「ヴァイタスコープ」ポスター  エディスン、この時50歳のはず。若すぎ。
 右/同、発明者米国理学博士エジソン氏、技師クロース氏とある  皇室御用達?


 この広告でも「活動写真」という言葉が出てきます。アメリカでモーションピクチャー、ムービングピクチャーと呼ばれていたものの直訳だと思います。それまでは「写真活動」に始まり「自動幻燈」「電気作用自動写真」「蓄動射影」「飛動活画」などという言葉が考えられましたが、この記事により「活動写真」という言葉が定着していきます。(当時は「かつどう」ではなく「くゎつどう」と発音)

横田永之助.JPG●日活創始者・横田永之助

 3月になると稲畑勝太郎は本業が多忙となり、「シネマトグラフ」の権利を横田永之助に譲り、活動写真事業から手を引きます。この横田永之助こそ、後に日本活動写真株式会社(日活)の創始者として日本映画界のリーダーシップをとる人です。
 
                       つづく











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043 それはエディスン社の勝手でしょ。 [草創期の映画]

043 エディスン社の専横、始まる。
    19世紀末、混迷の映画世界-3

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●時代背景 19世紀末・ニューヨーク

前回からの続きです。
  世界企業に成長したフランスの
リュミエール社。それが、米国マッキンリー大統領による保護政策でアメリカからの撤退を余儀なくされました。目の上のたんこぶが取り除かれたエディスン社は、国内に台頭したライバル、アメリカン・ミュートスコープ社(AMC)との抗争に本腰を入れる状況が整いました。

●エディスン社とAMCとの関係について
 両者の関係については前に書きましたが、簡単におさらいしておきましょう。
 1895年10月、トーマス・エディスンと決別してエディスン社を退社したウィリアム・ディクスンが製作部長として迎えられたAMCでは、ディクスンがエディスンの特許に触れないように考えた同じ覗き見式の「ミュートスコープ」を市場に投入して、エディスン系「キネトスコープパーラー」に追い打ちをかけました。
 機械の外観もスマートで、画面が大きく鮮明映像が楽しめるAMCの「ミュートスコープ」は、たちまちエディスン社の息のかかった「キネトスコープパーラー」の市場を席巻するほどの勢いを見せました。
1894デトロイトのキネトスコープパーラー.JPGキネトスコープ2.jpg  ミュートスコープ A-2.JPG
●左、中/エディスン社系「キネトスコープパーラー」と「キネトスコープ」
 右、AMCの「ミュートスコープ」 

  同時にAMCは「バイオスコープ」と呼ぶ撮影機と「バイオグラフ」と呼ぶ映写機を開発して、上映方式の先手を取りました。
 
エディスン社は覗き見式の「キネトスコープパーラー」が成り立たなくなったところに、タイミング良く、トーマス・アーマットが上映式「ファンタスコープ」をエジソン社直系の代理店「ラフ&ギャモン商会」に持ち込んだので、エディスン社では得たりとばかりに翌1896年4月、アーマットに改造させた「ヴァイタスコープ」を急きょ発表して、ようやく映写機開発競争に追いつくことができました。

  そこに1897年末、リュミエール社の「シネマトグラフ」がアメリカから放逐されるという追い風が吹き、エディスン社も活気を取り戻しましたが、その前にはAMCが立ちはだかっている、というところまでです。
 
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●トーマス・アーマットと彼の「ファンタスコープ」
 
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●アーマットがエディスン社で「ファンタスコープ」を改造して完成させた「ヴァイタスコープ」

IMGP7866-2.JPG●リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」

AMCでディクスンは、製作現場で大活躍
 ところで、1896年の大統領選挙運動で活躍したのがAMCでした。AMCは大統領候補ウィリアム・マッキンリーの執務風景を撮影したフィルムの最後に、はためくアメリカ国旗をモンタージュした宣伝映画を制作しています。これは世界初の選挙PR映画といえるでしょう。
  マッキンリーが大統領になると、AMCはその弟を顧問に迎え、政界とのパイプを強固にしました。

ウィリアム・ディクスン.JPG●AMC製作部長のウィリアム・ディクスン

  一方、ライバルのリュミエール社がアメリカから撤退する以前から、ディクスンはAMCの監督として、改造を加えた「バイオスコープ」で自社作品を撮り始めました。さし当たってはマッキンリー大統領の国内歴訪の旅に随行した記録映画でしたが、1899年秋には南アフリカに赴き、ボーア戦争(南アフリカとイギリスの戦争)の戦場で望遠レンズを利用したパノラマ撮影も行っています。当時の大方の映画開発者の例にもれず、元は技術者でありながら監督もこなすセンスの持ち主だったようです。
  このようにAMCはもっぱら真実の記録を目指していましたが、エディスン社は対照的に娯楽作品を目指していました。

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●エディスン社「ブラックダイアモンド・エクスプレス」1897

●エディスン社のはかりごと
 エディスン社としては、映画の開発でフランスのリュミエール社に立ち遅れたとはいえ、アメリカでは先発です。何が何でも後発のAMCにその座を譲るわけには行きません。映写機で後れをとったAMCを引き離すには、戦略しかありません。エディスン社にはそういう時のために、営業部長ウィリアム・ギルモアと法律家フランク・ダイヤーを筆頭とするやり手の顧問弁護士たちが抱えられているのです。

ウィリアム E ギルモア.jpg●エディスン社営業部長、ウィリアム・ギルモア

図Edison BIOGRAPH.JPG

  彼らがAMCの独走を指をくわえて見ているはずはありません。こういう場合を考えて手は打ってあったのです。それは、6年も前に申請してボツになってしまった撮影機の特許の申請内容に、AMCの「バイオスコープ」に対抗できる機構になるように修正項目を追加して、別の特許として申請しておいたのでした。6年も前のことを知る特許の審査員は少ないでしょう。これはそこを読んだエディスン社が仕掛けた起死回生策ともいうべき巧妙なトリックでした。

●急を告げるAMCとエディスン社の抗争
 
それは18973月に始まりました。特許庁は抵触審査を行うことを宣言しました。同じような特許が出願された場合、どちらに優先権があるかを審査するものです。

  最初はAMCに有利に展開しました。写真を動かしそれを上映する技術はすでに何人もの発明家が不満足ながらも実現している上、発明が2年以上経っても行使されない場合は無効であることを理由に、特許庁はエディスン社の主張を取り下げました。
  AMCは、それでエディスン社の特許申請は無効、と胸をなで下ろしたのですが、その考えは甘かった。その程度で引く位なら最初から仕掛けてはいないエディスン側でした。

 不利と分かるとエディスン社は、特許局長に直談判を行いました。その動きを察知したAMCは、エディスン社が申請した特許を保留にするように特許局長に申し入れました。このあたりが私立探偵社の出番です。双方の間に激しいスパイ合戦が繰り広げられたことは想像に固くありません。
 その結果、エディスン社の法律顧問フランク・ダイヤーがどのように話を進めたものか、AMCの申し入れは却下されてしまったのです。

4 edison 13.jpg●トーマス・エディスン

  こうして1901年7月、「映画撮影機の発明者はトーマス・エディスンである」、ということが
認められました(「映画」の発明ではなく「撮影機」の発明が認められたのですが、一般に映画の発明はエディスンと言われるゆえんです)。これでトーマス・エティスンは、映画という新しいジャンルにおいても「発明王エディスン」の誇り高き名を天下に認めさせることができるようになった訳です。エディスン社はそれを錦の御旗として(古い!)、早速、特許の権利の行使に入りました。

  エディスン社は、当時、雨後の竹の子のように登場し始めた小規模な興行会社や機材販売会社に対して、撮影機の製造とフィルムのコピーを禁止するとともに、興行の場合は入場料に対する一定の歩合を収めるように通告しました。
 その結果、翌年春までだけでも、亜流の撮影機を作って販売していた7社ほどがまず告訴されました。それをきっかけにこの件に関する訴訟は20世紀に入ってからも続けられていきます。

 これは一見、特許権を持つ者として当然の権利行使に見えますが、その裏には、将来性が見えてきた映画という新しい産業を押さえるのは今、というエディスン社の強い意志が露骨に見え隠れしていることに関係者は気づいていました。エディスン、この年50歳。

●エドウィン・S・ポーター、エディスン社に入社。
 エディスン社がこのような係争をはじめていた1897年(1899、1900の説もあり)、一人の若者がエディスン社を訪ねてきました。彼は「エドウィン・スタントン・ポーター、ペンシルベニア生まれの27歳です」と名乗りました。アメリカ海軍で電気技師として勤務したのち除隊。セールスマンをやっていたのですが、新しい映画の仕事に興味を持ったということでした。


 当時は映画の作り方を教えてくれる先輩がいるわけではありません。当初は単に情景を撮ったり、ニュースのようなフィルムを撮影するカメラ助手から始まりました。


 ポーターの興味は、本来動かない写真がなぜ動くのかという点でした。彼は撮影された35ミリフィルムを透かして見ました。同じような写真が連続しているだけです。ヴァイタスコープ(エディスン社の映写機)に掛けて、ハンドルを回してみました。すると見事に動きが生まれます。早く回したり、遅く回したり、逆に回したり、いろいろ試してみるのはごく自然な成り行きでした。



 こうした作業や思考を重ねる中から、彼は後に述べることになる映画史に残る作品を生み出すことになります。その作品とは「アメリカ消防夫の生活」と「大列車強盗」の2作ですが、このブログではまだまだ先のお話です。

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「大列車強盗」エドウィン・ポーター 1903 この件については まだ先になります。



AMC、バイオグラフ社に社名変更
 
ところで、AMCとエディスン社の関係は振り出しに戻り、ついに裁判に持ち込まれました。
  エディスン社の論理は巧妙でした。裁判にはトーマス・エディスンも召還されました。AMCはそこで最後の切り札を出しました。エディスンが発明したという「ヴァイタスコープ」の母体は、トーマス・アーマットが考案したものではないかと迫ったのです。

  エディスン社との係争の途中、1899年にAMCは、ディクスンが開発に参画した「バイオグラフ」の名を冠して「アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社」(以後、バイオグラフ社と表記)となりましたが、こうしてエディスン社を揺さぶっておいて、バイオグラフ社は、お互いの利益にならない敵対関係を収めようと、調停に持ち込みました。
  銀行と投資家をバックにもつ同社は、この年の末に50万ドルでエディスン社の〈動く写真〉に関する権利をすべて買い取ることを申し出ました。エディスン社も理解を示し、ようやく和解が成立したかに見えました。

  ところが、1900年末にバイオグラフ社が最初の30万ドルを支払う段階になって、皮肉なことに突如として経済危機が襲い、銀行が破産してしまったのです。そしてまた話はご破算となり、結局、19017月にエディスン社が裁判に勝利しました。バイオグラフ社は1897年に遡って賠償金を支払わなければならないことになったのでした。
  このような経過を経て、欧米における映画事業は次第にエディスン社の思惑通り、その腕に抱え込まれていきます。エディスン社の専横ともいえるこの施策は、20世紀に入ると、映画の振興に比例するように更に拡大していきます。

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●ニューヨーク郊外ウェスト・オレンジのエジソン研究所 1900

●ヴァイタグラフ社の登場
 ところで18983月に、アメリカにまた一つ、新しい映画会社が誕生しました。
  ジェームズ・スチュアート・ブラックトンとアルバート・スミスは、エディスンの初期の映写式「キネトスコープ」を購入しましたが、市場に出回っているフィルムよりも自分たちの方がもっと面白いフィルムを作れると考え、その映写機を撮影機に改良して「ヴァイタグラフ」と名づけました。

  その後、同じくエディスン社の「ヴァイタスコープ」の営業権をもつ巡回興行師ウィリアム・ロック(ポップ・ロック)と出会い、楽しい映画を作ることで考えが一致。1898年の夏、「屋上の夜盗」という映画を撮りました。泥棒と警官による単純な追いつ追われつのドタバタ喜劇なのですが、滑稽なギャグが人気を呼んだことに自信を得た3人は、共同でヴァイタグラフ社を興します。
 この会社はやがてスチュアート・ブラックトンによるアニメーションをはじめ、初期のアメリカ映画を代表する作品を生み出していくことになります。

   アメリカにおいては、エディスン社、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社。
フランスにおいては、リュミエール社、メリエスのスター・フィルム社パテ社、ゴーモン社……
  ここに、映画創生期における欧米の代表的な映画会社が揃いました。
とはいえ、技術的には相変わらずモノクロ、サイレント。そして駆動は手回しの時代です。 
                                              
つづく

◆20世紀の段階に入る前に、この辺りで日本の動向に触れておきたいと思います。
 次回と次々回は「日本映画事始め」を予定しております。









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042 元祖「シンデレラ」実写版。 [草創期の映画]

042「シンデレラ」実写版元祖はジョルジュ・メリエス。            


        19世紀末、混迷の映画世界-2 


   リュミエール社の転換とメリエスの進展

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●ジョルジュ・メリエスの「シンデレラ」1899 
 中央は「12時までよ」と指差す妖精  右がシンデレラ


前回からの続きです。



●リュミエール社とAMCの追い上げで窮まったエディスン社


 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」は、1896(M29年早々から始められた「シネマトグラフ世界紀行取材班」ともいうべき技術者の海外派遣が大きなPR効果をもたらし、その名は機材、フィルムともにたちまち世界に広がりました。リュミエール社は本国フランスはもちろん、この年の春にはニューヨーク、ブロードウェイにアメリカ支社を開設すると、全土の主要都市に事業の手を広げ、翌1897(M30)年には支社を拡張しなければならないほどの勢いがありました。

IMGP7913.JPG●リュミエール兄弟 


●登場したばかりの自動車のパレードを撮影したリュミエール社のフィルム2種 1896(M29)
 自動車は馬の代わりにエンジンが搭載されただけ。スピードも自転車並みということが分かる。
  最初のフィルムで゛は、画面中央に手回しで撮影しているカメラマンの姿も写っている。

  トーマス・エディスンが1896(M29)年4月にようやく市場に送り出した「ヴァイタスコープ」 は、リュミエール兄弟に遅れることわずか4ヶ月でしたが、すでに市場は先発の「シネマトグラフ」に抑えられていました。「ヴァイタスコープ」はデビュー当時はエジソンの名前によってそこそこ売れたものの、あとがまったく振るいませんでした。

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●トーマス・エディスン ●元エディスン社社員、現AMC所属 
            ウィリアム・ディクスン


 その上エディスン社は、ウィリアム・ディクスンが転籍した「アメリカン・ミュートスコープ・カンパニー(AMC)」からも、「ミュート・スコープ」と新鋭の映写機「バイオグラフ」によって、「キネトスコープ」の事業を断念せざるを得ないところまで追い上げられていました。

 この時点でエディスンン社は、「キネトスコープ」の役割は終わったと考え、専属代理店だったラフ&ギャモン商会をお役御免として切り捨てました。エディスン社が次の上映式「ヴァイタスコープ」を手にするお膳立てをしてくれた会社です。エディスン個人はその功績を考え、ラフ&ギャモン商会との決別を苦悩したことでしょう。ところがそういうシビアな処断は、大抵営業部長のウィリアム・ギルモアかお抱えの法律家フランク・ダイヤーによってなされるのでした。ところがここにまた、エディスンに救いの神が現れます。

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●ディクスンの退社後、
 エジソン社に営業部長として君臨するウィリアム・ギルモア

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●エディスン社がトーマス・アーマットに改造させた「上映式ヴァイタスコープ」


●リュミエール社、アメリカから撤退


1897(M30)3月。「アメリカはアメリカ人の手で」と自国の産業保護政策をアピールしていた共和党のウィリアム・マッキンリーが大統領に選ばれたのです。これは明らかにアメリカの競争相手をターゲットにした排他政策で、「遡及効果を持つ保護主義」によって外国製品には過去に遡って高い関税が課せられることになりました。 


当時はアメリカも家内工業から資本主義への転換期で、事業家は市場の独占を目指しました。が、その前に外国企業を締め出す必要がありました。フランスのリュミエール社はその矢面に立たされることになったのです。


リュミエール兄弟は初めから、「シネマトグラフ」にはエディスンの(実はウィリアム・ディクスンの)考案によるフィルム仕様(幅やパーフォレーション)を前提にしていることを否定していませんでしたが、案の定、エディスン社はリュミエール社に対して特許侵害の訴訟を起こしました。また、税関からは「遡及」による不法輸入罪をでっち上げられる始末。アメリカ支社の支配人はたまらず、7月末、ハドソン河から汽船でフランスへ逃亡を図るという事件にまで発展しました。

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●リュミエール兄弟の最初の「シネマトグラフ」


その年の末、リュミエール兄弟は不本意ながらアメリカから撤退することにしました。こうしてリュミエール社のアメリカでの活動は1年半ほど、ニューヨークではわずか4ヶ月ほどの短期間で幕を下ろすことになったのでした。リュミエール兄弟はそれまで展開していた「シネマトグラフ」技術者の海外派遣も止めざるを得なくなりました。こうして一時は世界産業にまで発展したリュミエール社でしたが、いちばん反応の良かったアメリカから追い払われてしまったのでした。


1898(M31)9月、リュミエール社は、それまで誰にも売らなかった方針を曲げて、「シネマトグラフ」の販売を決意しました。けれどもその頃には、前年に誕生したレオン・ゴーモンの映写機「クロノ・ゴーモン」の方が優れた機能を備えていました。映画制作は続けられましたが、年間400本だったレベルが50本程度にまで縮小されました。ただし、それまでに作られた1,000本にもおよぶリュミエール社の映画は、依然として世界中で高い人気を維持していたことは言うまでもありません。


●新機軸に向けて動き出したリュミエール兄弟


リュミエール兄弟は元々技術者でしたから、作品を作るよりも映写機や写真機の製造と写真技術に専念することに方向転換しました。この時代の映画は見世物でしたから、もっぱらヴォードヴィルやバーレスク、ミュージックホールなどの幕間に上映されていたのですが、リュミエール兄弟はそれまでに得た手ごたえから、映写機器や上映設備を考える中から映画専門の環境づくりに考えが及び、これは20世紀に入って世界で初めての「映画館」の誕生につながっていきます。

 また一方では、1900年に控えた世紀のビッグイベント「パリ万国博覧会」に向けて、映画の新たな可能性をアピールするため、大スクリーンでの上映や立体映画の開発に力を入れていくことになります。

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●19世紀末には映画館は存在せず、通常はヴォードヴィル劇場のようなところで上映されていた。


●メリエス、長編作に新境地


リュミエール兄弟が実写の特性をそのまま生かした記録やニュース性のあるものを制作していたのに対して、ジョルジュ・メリエスは自分が行ってきたマジックを映画のトリックという方法に置き換えながら、最初から物語性のある映画を作ってきました。


数々の短編で腕を磨いたメリエスが、スター・フィルム社として(当時としては)本格的な長編に臨んだのが、1899(M32)年の「ドレフュス事件」と「シンデレラ」でした。いわば「シンデレラ」実写版の元祖ともいうべき作品です。

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●もうおなじみの ジョルジュ・メリエス


ドレフュス事件は、なんとその前年に起こった現実の出来事です。軍の情報をドイツに売り渡したスパイの疑いで裁かれたフランス陸軍のアルフレッド・ドレフュス大尉が国家反逆罪に問われ、南米ギアナ(ガイアナ)の悪魔島に流刑されますが、弟の懸命の努力で無罪の証拠が挙げられ、クレマンソーやゾラの支持もあって軍の上層部にまで捜査が及んだ結果、陰謀であったことが判明して無罪となった、という事件です。



●「ドレフュス事件」1899 11分



 メリエスの「ドレフュス事件」は、それをあたかも実写記録のように見せた再現劇として構成されました。注目すべきは20メートルのフィルム12本を使い、11の場面で構成したことです。

 例によって1巻のフィルムを撮影機を据え置いたまま回し切る撮影技法は変わらず、1シーンごとにそのつど完結しますが、今日のように連続した1本の映画として上映すると11分ほどかかる11
シーンのドラマがここに現れたということです。有名な事件ですから、観客は場面を見ただけでそのなり行きは分かっています。この映画が本物のようなリアルさで大評判を呼んだことは想像に固くありません。
 このように、現実の事件をドラマチックに再構成してみせる手法は、のちにセミ・ドキュメンタリーと呼ばれるようになります。

 なお、ドレフュス事件が解決しないうちに、当時の大統領が暗殺されるという事件が発生します。軍を守るために裁判のやり直しを断固として拒否したことが原因だとされていますが、メリエスはその大統領の葬儀を撮影しています。この実写記録は今でいうニュース映画のさきがけともいうべきものでしょう。 

1899ドレフュス事件.JPG
●ドレフュス事件 1899 イリュストラシオン誌の写真 (メリエスの映画ではありません)



1899シンデレラ.JPG
●史上初のシンデレラ映画、ジョルジュ・メリエス監督「シンデレラ」1899 
 全20シーンの第6シーン 
  このあと、結婚式、婚礼の行列、花嫁花婿のバレエなど、盛りだくさんです。
 
 
116年前の人たちが観た 元祖・実写版「シンデレラ」。
 どうぞお楽しみください。



●「シンデレラ」1899 5分50秒  

 「シンデレラ」でメリエスは、「ドレフュス事件」の成功を更に発展させました。長さは「ドレフュス事件」の約半分。120メートルですが、メリエスは主な興行主へはカラーで配給することを考えていました。それは他社の追随を許さない彩色アトリエを擁するスター・フィルム社ならではの企画でした。

 原作に忠実にと描かれた絵コンテは20ものシーンになりました。登場するキャラクターはなんと35人。文字通り絢爛豪華なコスチュームプレイです。主要な役者はシャトレ劇場やフォーリー・ベルジェールからスカウト。シンデレラに魔法をかける妖精役はモンマルトルのキャバレーの踊り子でした。

 妖精の魔法によって、ネズミが御者に、カボチャが馬車に変わるところなど、まさにメリエスのために書かれたような物語。例によって止め写し、ディゾルヴ(多重露出)をふんだんに使ったトリッキーなアクションが、彼のロベール・ウーダン劇場に押しかけた観客を沸かせました。そしてその反響はフランスに留まらず、イギリスにまで及びました。


これらの大作映画になると登場人物の衣装を制作することも大仕事です。モントルイユの撮影所に隣接するコスチュームアトリエでは、10数人もの女工が、メリエス夫人の指示の元で衣装作りに励んでいました。

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●スター・フィルム社のコスチューム・アトリエ

 長編映画が成功するとメリエスは、従来の1巻20メートル(手回しで約1分)というフィルムの制約を破り、20世紀に入ると次第に100メートル以上の作品に主力を注ぐようになります。ようやく、1作1シーン1分、というチョー短編映画の時代が終わりを告げたのでした。 


                                                                                           つづく


★次回は、エディスン社と、同社と決別したウィリアム・ディクスン所属の「AMC」の抗争を中心に…

※フィルムの長さの表記で、メートルとフィートが混在していますが、参考資料を重んじ、換算せずにそのまま記述することにしています。それは当時、フィルムの長さはオーダーメードで作られることもあり、フィートとメートルの両方で作られた可能性があると思われるからです。

※なお、撮影には生フィルムを使うため、フィルムの最初と最後は感光することを前提に(リーダーと言いますが)長めに作られているはずです。けれども、表記の20mは実質的な長さと考えております。


★「ドレフュス事件」「シンデレラ」はYOUtube kaliyamashitaさんの動画を使わせていただきました。


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