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046 100年以上前からあった超大型映像 [1900年、パリ万国博]

046 100年以上前からあった超大型映像
   1900年パリ万国博覧会―1        

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●1900年パリ万国博覧会 機械館式典ホールイラスト

 
紀元1900(M33)年。19世紀の成果を総括し、20世紀の幕開けを祝うかのように華々しく開催されたパリ万国博覧会。それは、パリにおける5回目の国際博覧会で、それまでの(植民地政策による)著しい発見と驚異的な科学の進歩を讃え、近代化を一挙に進めたフランスの心意気を世界に示すものでした。

 博覧会では展示のしかた、演出法が大きくものをいいます。1900年パリ万博はその新しい手法として、誕生5年目の「映画」が大活躍した最初の博覧会でした。すでに浸透していた映画は新しい活路を模索して、あの手この手のアイディアで来場者の度肝を抜きました。115年も前の博覧会ですが、そこには現代の私たちでさえびっくりするほどの桁外れのアイディアと技術が凝らされていたのです
(20世紀は1901年1月1日から、とされたのはこの時からのようです

●エチエンヌ・マレーは「動く写真の権威」として評価されていた
 セーヌ河畔。エッフェル塔を中心としたパリ万博は、4月に始まり11月まで200日間に亘って開催されました。 
 生かじりの美術史から見れば、この時期の建築、装飾はアール・ヌーボーかと思われるのですが、パリの女神像をトップに頂いた曲線美豊かなアーチ状の入場門を見ると、それはどう見てもネオの付きそうな装飾過剰なロココスタイル。

1900 バリ万博3b.JPG
●パリの女神像がトップに立つ入場門 の壮麗さ

 広場のしつらえや大噴水に至るまで、ブルジョア的なそのムードは、むしろ前回1889年の万博で建設されたエッフェル塔のたたずまいに良く似合っている感じ。そのエッフェル塔にはこの万博で初めて「エスカレーター」がお目見えし、会場のメイン道路では、椅子に座って移動できる「動く歩道」が人気を集めていました。

1900エスカレーター.JPG 
●1900年パリ万博で初お目見えのエスカレーター  

パリ万博10.jpg
●動く歩道
 動く歩道は速度の異なる3層で、最高速の椅子席、立ち乗りの中速、低速の3段階のスピード。


 
きらびやかなグラン・パレとプチ・パレ、たくさんのパビリオン、大観覧車、レストランなどが立ち並ぶ中で、まず「百年回顧パビリオン」に目を留めると、そこでは1882(M21)年に写真銃で飛ぶ鳥を撮影した「動く写真」の権威、エティエンヌ・マレーによる「映像70年史」のテーマ講演を聞くことができました。

 彼が1888年に開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」の仕組みが、リュミエール兄弟をはじめ動く写真の研究者にヒントを与えたということはよく知れ渡った事実で、映画撮影機・映写機の発展に大きく貢献したことが高く評価され、多くの科学者から尊敬を集めていたことが伺えます。

 エティエンヌ・マレー.png 1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●エティエンヌ・マレーと後発に多大なヒントを与えた「フィルム式クロノフォトグラフ」 1888

 パリ万国博の会場には、地元フランスのリュミエール社が映画のリーディングカンパニーとしての威信をかけて超大型映像を出展。ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は、この世界博を初めて動く写真として記録しようと張り切っていました。その記録フィルムはメリエスの新作として世界的な需要が予測されました。

 シャルル・パテのパテ・フレール社、レオン・ゴーモンのゴーモン社も自社のPRスペースを確保して、映画の撮影機や映写機をあれこれ展示して実演して見せていました。更にはアメリカのエディスン社さえ大西洋を渡って自社の技術のデモンストレーションに加わりました。
 このように第5回パリ万博は、当時の映画関係の最先端を行く企業が勢揃いして世紀のイベントを盛り上げた、初めての国際博となりました。 

●100年以上も前の70ミリ映画
 リュミエール兄弟が映画発明者としての威信をかけて挑んだのは、映画の可能性でした。「シネマトグラフ」はもう下降期に入っていましたから、兄弟は新しい映画の方向性を示そうと考えました。それは、今日の映画を先取りする大型映画でした。

 
兄弟の構想はスケールが違いました。なんと、エッフェル塔の足元のアーチに巨大なスクリーンを張って映画を上映しようと考えたのです。リュミエール社のパビリオンはその話題性を考えると、この万博の「テーマ館」的役割を与えられていたのかもしれません。さすがに風で揺れたり破れたりするアクシデントを考え、場所は「機械展示パビリオン」の中ということになりました。

LUMIERE.jpg1900 リュミエール72mm映画.JPG
●リュミエール兄弟(左)と「機械展示パビリオン」中央の72ミリ映画超大型スクリーン(右)

 そこは高い丸天井を持つ大きな円形の建物でした。リュミエール兄弟は、観客が建物の内側のどの位置からでも映画を鑑賞できるように、天井中央から幅25メートル、高さ15メートルものスクリーンを下げました。(スクリーンの大きさにはいろいろな説有り)

 スクリーンは裏側からも見やすいように、水に浸して透明感を出すことを考えました。上映は夜間で、昼はスクリーンを下の水槽に浸しておき、上映前に天井の巻き上げ機で巻き上げて設置しました。スクリーンの裏から上映するリア・スクリーン方式は、当時としては珍しい手法ではありません。

 映写機は大会場用に新たに設計されました。大口径レンズを備え、強力なアーク灯を光源に、72ミリ幅のフィルムが使われました。映像は会期の始めに撮影された万博会場案内といった内容だったようですが、人々は画面の大きさと、それまでに見たことのない鮮明な映像に驚きの声を上げました。無料ということもあって、会場の床を補強しなければならないほどの人気で、会期中
25,000人もの観客を集めたそうです。
 現在最大の70ミリ映画と同じ大型映像が115年も前に発想され、存在していたということは驚嘆に値します。

1900リュミエール社72mm.JPG●72ミリ映画のフィルムの1コマ

メリエスが一役買った360度シアター「シネオラマ」
 リュミエール兄弟の代わりにエッフェル塔の下に陣取ったのは、フランス人、ラウール・グリモワン・サンソンの「シネオラマ」(別名シネコスモラマ)と呼ぶパビリオンでした。
 サンソンも撮影機、映写機の開発者で、1897(M30)年にはパノラマ映像の特許を取得するのですが、パリ万博に向けてのパノラマ映画撮影は18965月に開始されました。つまり、4年がかりのビッグ・プロジェクトでした。

 彼のアイディアは、当時はやりの気球による世界名所巡りというコンセプト。それまでには複数台の幻灯機で、スライドによる360度全円周上映には成功していたのですが、それを映画で見せることによって、実際に気球に乗った気分で世界旅行を疑似体験してもらおうという意欲的なパビリオンです。

 撮影のために開発された装置は、360度の情景をいっぺんに撮影するために10台もの撮影機が放射状に並べられ、一つのクランクを操作するだけで10台のカメラが同時に回るような、チェーンによる同期の仕組みが考案されていました。ただし歯車による操作は重く、クランクを回すのは3人がかりでした。

raoul grimoin-sanson.jpgラウール・グリモワン・サンソン
IMGP8102.JPG シネオラマのフィルム.jpeg
●「シネオラマ」の撮影では3人の技師がいっしょにクランクを回して撮影
 右は10台のカメラのうちの1台のカメラによって写された1コマ


 サンソンが監督する撮影隊は500キロもある撮影装置と気球を積み込んだ列車でパリを出発。イギリス、ベルギー、スペイン、アフリカと3年以上の撮影旅行を敢行しました。
 サンソンは撮影されたモノクロ映画フィルムをカラーで上映するためにジョルジュ・メリエスに協力を求めました。サンソンはメリエスが会長を務める奇術アカデミーの会員でもあったのです。

 メリエスは快く協力を約束し、サンソンの元に着色女工を派遣したほか、彼の撮影所に隣接した着色アトリエの操業もフル稼働となりました。映画の上映時間は約6分。フィルムの長さは1400メートル。全体は
その10倍の4,000メートル。約80,000コマもの写真が1コマずつ流れ作業方式で、女工さんの手で着色されたのでした。

P1050418.JPGIMGP8071.JPG
●ジョルジュ・メリエスとフィルムを着色するための「彩色アトリエ」

●夢の「鳥人間」を一足早く体験…全円周映画
 「シネオラマ」パビリオンの内部は直径30メートル程度の円形で、周囲はすべてスクリーン。中央に分厚いセメントで囲まれた円柱状の映写室があり、10台の映写機がスクリーンに向けて放射状に据えられた映写窓が見えます。今風に言えば、前代未聞のマルチプロジェクションシステムが、今まさに稼働しようとしているのです。

 映写室の上は気球のゴンドラを模した観客席で、気球旅行の雰囲気を煽るために頭上を大きな気球が覆っています。観客席から見渡せば、左右は360度の風景、天地は足元から空までを展望できる趣向です。まだ飛行機が生まれる前のこと。鳥のように空を飛んでみたいという願いが叶えられるのですから、うわさがうわさを呼ぶ超人気パビリオンでした。

P1050901-2.JPG「シネオラマ」内部

IMGP8100.JPG
●「シネオラマ」気球は雰囲気づくりのための飾り。その下が観客席。
 観客席の下が映写室で、10台の映写機が360度の映画を映写している。

 場内が暗くなると、いよいよ奇想天外、驚天動地の気球旅行の始まりです。パリの街が次第に足元に遠のいていくことで、自分の乗ったゴンドラの上昇を感じるうちに、まもなくエッフェル塔よりも高い450メートルの高度からパリ市街を展望することになります。

 気球は上昇と下降を繰り返しながら、ブリュッセル、ロンドン、バルセロナと空の旅が続きます。嵐の大海原を越えたイタリアでは謝肉祭の賑わいや大砲を打ち合う軍隊の軍事教練、ニースではカーニバル、スペインでは闘牛といった賑わいを眼下に見下ろしながらの爽快な遊覧飛行です。

 音響についての当時の記述は見当たらないのですが、これだけの映像スケールですから、小規模ながらオーケストラ演奏が付いていたのではないかと推察します。 

●技術的には時期尚早。現代技術ではじめて完成
 ところがこの大仕掛けな出し物「シネオラマ」には設計上の問題があったようです。観客が興奮のるつぼにある時、映写室では大変な騒動が持ち上がっていました。10台の映写ユニットから発散されるアーク灯の熱を排出させる換気装置はフル回転でしたが、暖まったセメントの壁が保温効果を発揮して室内の温度は45度から60度にも上昇していたのです。

 映写時の動力は電動モーターによるものと考えられますが、ついに一人の技師があまりの暑さに気を失って倒れました。その時親指が換気装置の回転翼で切断されるという事故になってしまったのです。今思えば、リハーサルなどはどうなっていたのかとか、会場の安全基準はどうだったのかなどと気になるのですが。

シネオラマ 映写室.JPG
●映写室内部 10台の映写機のうちの3ユニットを描写
 10台の映写機はチェーンで同期させていたことが分かる。
 3本のタワーはアーク灯光源で、上部への配管で放熱。 

 それはともかく、警察の調べが入り、主催者側も黙認できません。関係者や観客の脳裏によみがえったのは3年前に起きた「チャリティ・バザール」。映写機の光源が火元で死者117名を出したあの大惨事でした。

1897.5LePetitJournal_-Bazar_de_la_Charité.jpg●パリ/チャリティ・バザールの大惨事 1897.5 

 当時のフィルムは可燃性です。高熱で発火したら爆発します。そんな危険な興行を続けさせることはできません。こうして大きな期待を担って公開された「シネオラマ」でしたが、たった3回(1回の説有り)の公演で閉鎖されてしまったのです。

 その結果グリモワン・サンソンは、このビッグイベントの成功に賭けた投資家たちを巻き込んで破産してしまいます。しかし彼の映画に対する情熱は醒めず、その後は映画技術開発史の研究に向けられていきます。
 彼の構想は並外れで、
1914年に第一次世界大戦がはじまると、ガスマスクを発明して大金が転がり込んだり、1923年にはスクリーンに写さない文字通りの立体映画を構想したりしています。

 
今日の大型イベントに欠かせない大型映像は、こうした試行錯誤の蓄積の上に、最新科学技術を統合することにより、ようやく当時のアイディアを実現できたものと言えると思います。


★次回は「1900年パリ万博」第2
回。またまた奇想天外な出し物が登場しますよ。
★ライト兄弟の飛行機「フライヤー1号」の初フライトは1903年です。


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047 100年以上も前に、トーキー映画? [1900年、パリ万国博]

047 100年以上も前に、トーキー映画?

 1900年、パリ万国博覧会―2

音声映画と万博ドキュメンタリー映画 
 

1898-2.JPG 1894ジスモンダ-2.JPG
●フランスの人気女優サラ・ベルナール 1898年(M31)頃 
 と ミュシャによる「ジスモンダ」のポスター

 前回からの続きです。

1900(M33)年の第5回パリ国際万国博では、まだとてもトーキー映画とは呼べないながら、音の付いた映画が上映されました。また、すでに立体画像の原理は解明されていましたから、赤青メガネで見る立体写真も上映されたようです。つまり、誕生してわずか5年、115年前の〈動く写真〉は、早くも手彩色ながらカラー映画の体裁を持ち、試験的ながら音声を備え、更に立体映像までもが一通り登場しているのです。

  ということは、写真が動き出したとたんに、このように現実の時間と空間をそのままの状態で〈コピー〉することが当然のことのように発想されていたということです。1900年のパリ万博はまさに、映画がタイムマシンとしての
機能を備えるための試金石ともいうべき場であったのです。

IMGP8217.JPG
●赤と青の色眼鏡で立体映像を見る観客 ただしこのイラストは1890年のもの

●映写は手回し。音声は蝋管蓄音機。

フランス人フェリクス・メスギッシュは、1896年リュミエール社が始めた「シネマトグラフ世界紀行取材班」の技師として北米各地を記録して回っていた経験者ですが、パリ万博では音の出る映画「フォノラマ」の技師として参加していました。1880年代から蓄音機と合体させて音の出る動く写真の研究を始めた科学者は何人かおりましたが、彼は仲間と三人で同時録音用のマイク式蓄音機を開発し、「シネマトグラフ」と同調(まだ同期と呼べるような技術ではない)させる音声映画の特許を取りました。

それを聞き及んだ大西洋汽船会社が、「これは話題になる」とパビリオンのスポンサーになっていました。パリの街頭風景では、雑踏、話し声、物売りの声など。歌手の歌なども上映されたようです。パビリオンの装置とフィルムの現像はゴーモン社が請負い、フィルムは例によって手彩色による擬似カラー映画として上映されました。


●名女優サラ・ベルナールも出演。

一方、クレマン・モーリスの映画劇場「フォノ・シネマ・テアトル」では、お芝居の音声映画を楽しむことができました。彼はポートレート写真家というコネクションをフルに生かして、知り合いの俳優や歌手を集めました。

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●左/「フォノ・シネマ・テアトル」のポスター
   最下段に「ハムレット」サラ・ベルナールとある。
 右/ミュシャが描いたサラ・ベルナールのポスター(部分)

中でも話題を呼んだのは、舞台の人気女優サラ・ベルナールの出演です。1870年以降、大女優の名を欲しいままにし、エジソンが発明した蓄音機の蝋管にも彼女の声が録音されているという彼女。そして1885年には、彼女をポスターに描いた無名の挿絵画家アルフォンス・ミュシャを一躍有名にし、そのポスターによってアール・ヌーヴォーの象徴と称えられた彼女が「ハムレット」の主役を演じ、台詞を話し、迫力満点の決闘シーンを見せてくれるとあっては、人気が高まらない訳はありません。

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●「ハムレット」で主人公ハムレットを演じるサラ・ベルナール(左)

  「フォノ・シネマ・テアトル」ではこの他に「シラノ・ド・ベルジュラック」「才女気取り」といったおなじみの出し物が、音声を伴って上映されました。

観客は音声をラッパ型の拡声器で聞くか、各自がイヤフォンで聞く形式だったようですが、スクリーンで演じている役者の台詞が動きといっしょに聞こえてくることに、どんなに驚いたことでしょうか。

サラ・ベルナールは当時56歳ですが、1907年以降フランスに興る「フィルム・ダール」という映画運動に参加して中心的な役割を果たしていきます。




●音の出る映画も、手回し映写で音合わせ。

 また、パテ・フレール社も「シネフォノグラフィック(映画蓄音機)」と称するものを出展していました。これも蝋管蓄音機の音声を拡大して聞かせるものです。
 撮影も映写も手回しの時代です。どの音声映画も機械的に画面と音声を同期させる方法は考えられておらず、映写室の映写技師は蓄音機の音をイヤフォンで聞きながら、画面とうまく合うように、映写機の回転ハンドルを回していたのでした。

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●パテ・フレール社による音声同調映画。
 右の映写技師が、音声と映像が合うように映写機のクランクを回した。



●時代遅れの「キネトスコープ」も使い方次第。

 ところで、1900年パリ万博の映像展示の中に、前回紹介した超大型映像とは対極にある小規模な展示上映のイラストがあります。

並べられた数台の映写機は、50フィートフィルムをエンドレス上映するエディスン社の「上映式キネトスコープ」のように見えます。小さいスクリーンの後ろからそれぞれ別々の映画を映していますが、次から次へと順に移動して観る映像展示手法として、11分程度の長さがちょうど良かったのでしょう。

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●図中央の仕切りに設定されたスクリーン窓に映る映画を順番に見ていく展示方式。



   
各社こぞって、会場記録に映画が大活躍。

地元のリュミエール社、スター・フィルム社、パテ・フレール社、ゴーモン社はもとより、アメリカのエディスン社も加わって、博覧会の情景は克明に映画に記録されました。

 特にスター・フィルム社のジョルジュ・メリエスは、他社の追随を許さないコンテンツとしてパノラマで撮影することに主眼を置きました。実はあの360度シアター「シネオラマ」のグリモワン・サンソンから、撮影機を360度回転させることができる回転軸のアイディアを提供してもらっていたのです。
  早速、自分の所有するロベール・ウーダン劇場で機械仕掛けの自動人形を組み立てている技師にそれを作らせました。「シャンドマルス」「セーヌ川から見たパノラマ」「アンヴァリッド」「シャンゼリゼ大通りとプチ・パレ」など会場の様子を活写した360度パノラマ映画はこうして生まれました。

 各社とも、自社が販売した映写機用のコンテンツとして世界の代理店に供給するために撮影されたフィルムは、図らずも20世紀の始まりを後世に残す貴重なタイムカプセルとなったのでした。

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●リュミエール社による万博記録映画 1900

●無音 90秒
1900動く歩道.JPG
●可動歩道 遅い/中間/速い・・・三連の動く歩道

★1900年、パリ万国博覧会の記事はまだ続きます。

 次回はパノラマ。といっても仰天パノラマ。またまた奇想天外なお話になりますよ。








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048 100年以上前の、びっくりパノラマ。 [1900年、パリ万国博]

048 100年以上前の、びっくりパノラマ。


1900年、パリ万国博覧会-3
陸上、海上の壮大なトラベル・シミュレーション

1886サイクロラマの制作 NY.JPG
●巨大パノラマの製作  1886
 戦闘シーンを描く画家たち  人物の大きさでスクリーンの巨大さが伺える

 前回からの続きです。


これまではパリ万国博における映像関連の出し物を展望してきましたが、映像を使わずに人気を集めているパビリオンがありました。それは大パノラマです。絵や写真の書割で立体感を表現するパノラマは、映画の話とは関係がないかに見えますが、実はそうではないのです。


●広大な立体表現と動きが生む、大迫力の臨場感


パノラマは、陸海空とも交通機関が未発達で、まだ世界を自由に往来することができなかった18世紀末に登場しました。内側に歪曲した見上げるような巨大な壁面。そこに透視図法によって立体的に描かれたのは、当時の人たちが行ってみたことのない異郷の風景です。
 雪に覆われたアルプスの山並み、猛獣たちが群れを成すアフリカの大草原、夕陽に染まった崇高な回教寺院など、観客はまさに自分がその世界にいるような臨場感を味わうことができたために、大変人気があった見世物でした。


遠い景色は壁面に描かれ、中景、近景と風景を何層にも書き分けて立体感を出す手法はすぐに考えられました。これらは演劇における舞台装置の作り方と無縁ではありません。また、平面の背景に遠近感を生み出すトリックアート技法もふんだんに利用されました。
  そのうちに前景に本物の樹木や岩石、草や小屋などを配して立体感を強調したり、照明で朝昼夜の時間経過を演出するなど、手の込んだジオラマ技法も応用されました。

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●ルイ・ダゲール           ●ル・プランス


写真の祖ダゲール自身もジオラマを製作。また前に述べた失踪事件の当事者オーギュスタン・ル・プランスも動く写真の研究に取り掛かる前はパノラマ製作を監督していました。パノラマは映画が生まれるまでは、行ったことも無い風景の中に身を置くという疑似体験ができるスリリングな異空間だったのです。


特に1900年パリ万博では、前回紹介した映像による空の旅に対して、海の旅、陸の旅がパノラマ、ジオラマ技術を集大成した途方もない体感イベントとして展開されていたのでした。


●立体パノラマ「ステレオラマ」が見せた海の叙情


それまでの国際博でも単純なパノラマ手法は使われていましたが、「海の詩」のタイトルで公開された「ステレオラマ」は、背景や照明にアイディアを凝らし、海面を動かして波の律動感を演出するなど、情景のリアリティを強調した出し物でした。

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●「ステレオラマ・海の詩」1900  観客席側より  奥に艦隊の移動が見られる


「ステレオラマ」の舞台設定は地中海の南、アフリカ北端の海岸線です。観客の前には、汽船の窓から展望する感じで4つの窓があります。窓の向こうに照明が入ると広い海原が現れ、揺れる波のかなたにアルジェの海岸沿いの街並みが望めます。


水平線上に太陽が昇ると背景はゆっくりと横に移動し、観客は船に乗っているような気分。やがて空が次第に曇ってくるに連れて海上の波浪が激しく立ち騒ぎ、嵐がやってきます。それもつかの間、再び太陽が顔を出し、寺院の尖塔や古い街並みがまぶしく輝き出したかと思うと、手前の海上に戦艦や巡洋艦などの大艦隊が現れ、威風堂々と通り過ぎていくのです。

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●「ステレオラマ」舞台裏  波を起すクランク式の装置が見られる 艦隊は上の奥に去っていく



  さて、その舞台裏は・・・。一番奥の背景は空。ゆるい弧をもつ可動式の板面に、朝の空、曇り空、晴れて輝く空の様子が順に描かれていて、ゆっくりと移動し、時間の流れに合わせて照明が変わります。波の彼方の遠い街並みは一連の書割です。これもゆっくりと横移動して船の動きを感じさせます。

  中景から近景は、遠近感を計算して並べられた40枚の金属性の波の板が連なり、電動機に連結されたクランクによって、静かな海上、荒れる海上の動きを表現しました。
 これらの仕掛けは電動でしたが、そのコントロールはバックヤードで技師が進行に合わせて手動で調整していたことは言うまでもありません。


●陸の旅をシミュレートした「シベリア横断鉄道の旅」


もうひとつの立体パノラマは「シベリア横断鉄道の旅」です。バイカル湖の区間を除いてあと1年で完成するシベリア横断鉄道でしたが、ここではその旅の楽しさを一足早く満喫できるという触れ込みで、観客は長蛇の列を作っていました。
 それは実際に走っているような錯覚を伴うリアルな体感を味わえる壮大なシミュレーションマシンで、豪華な特別列車による夢のようなシベリア旅行をたっぷりと楽しませてくれるものでした。


100mを超える長大な会場には、実際のシベリア横断鉄道の車両が3両。貴賓室、寝室、広間、バーを備え、腕の立つシェフの料理を提供する食堂も付いた超豪華版で、観客は思い思いにそれぞれの車両に乗り込みます。席ごとに料金設定があったかもしれません。また、下の図を見ると、柵越しの立見席もあったことが分かります。この席はいちばん料金が安かったのでしょう。

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●「シベリア横断鉄道の旅」1900 右・観客席 左・何層もの背景画


車両の対面にはモスクワ・北京間を結ぶ40日間1万キロの汽車の旅で展望できるハイライトシーンが描かれた背景があり、それを車窓から展望するという趣向です。高さ7.6m、幅107mにも及ぶ巨大背景には、フランスの装飾家の手でモスクワ、オムスクの都市風景、イルクーツク、バイカル湖、万里の長城、北京の風景が描かれていて、列車の進行に応じてゆっくりと巻き取られて、次々と変化していくのです。

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●三層の背景画はエンドレスで、それぞれ回転スピードが異なる


更に、列車のスピード感を演出するために、奥の背景画は分速5m。中景の紗のスクリーンに描かれた潅木類は分速120m。一番手前、窓の下の小砂利を敷き詰めた水平ベルトは分速300mでそれぞれエンドレスで横移動するように考えられていたのでした。居ながらにして走る列車に乗った気分で、普段は味わえない海外旅行…どんなに壮観だったことでしょう。こんなパノラマ、今でも観てみたいと思いませんか。


●「マレオラマ」では船の揺れを体感


前記のシベリア横断鉄道の旅がスピード感を楽しむ趣向に対して、「マレオラマ」は船旅をテーマに、実際に船の揺れを味わえるように設計されたシミュレータでした。つまり、観客を乗せる甲板は、ローリング(横揺れ)、ピッチング(縦揺れ)機構によって波の動きを体感できるようになっていたのです。


航路はニースを発ってトルコのコンスタンチノープル(イスタンブール)まで、イタリア半島一周の大航海。観客は実物大の船の甲板に立って右舷と左舷に展開する(絵による)風景を楽しむことができました。


この2種の背景画はそれぞれ縦12m、総延長760mという桁外れの大きさ。この大作を描くために画家が1年間の特別航海を敢行してスケッチし、その情景を大勢の画家たちが8ヶ月も掛けて画き上げたもので、合計20000㎡にもおよぶものでした。

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●観客席である船のデッキと背景画の位置関係、および揺らす装置と背景画フロート


この背景画は、甲板の両端に見えないように設定された巨大な巻き取り軸に巻いてありました。その重量はまた大変なものですから、それを支えてスムースに回転させるために、巻き取り軸の下部はフロート(浮き)で浮かせてありました。


また、揺れを起す装置は羅針盤の平行維持装置を巨大化したものでした。その他にも電動ポンプ、水圧エンジンなどに当時の最新テクノロジーが投入されていたということです。揺れに弱い観客には、気分が悪くなることまでシミュレートされていたかもしれません。

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●巻き取り軸に巻かれた背景画がフロートで浮いている


●映画がパノラマのお株を奪った


前回の気球、今回の列車、汽船の窓から眺めた風景は、そこに映画の撮影機をセットしさえすれば、そのままパノラマ映画になるほどの精細なものでした。そうした撮影法がパノラミング(略してパン)と呼ばれるゆえんです。


また・風景の書割の代わりにスクリーンを設定し、その裏から汽車の窓から写した景色を上映すれば、それはもう本物の風景です。この手法は後にスクリーン・プロセスと呼ばれます。


 このように、立体パノラマが驚くべき臨場感で見せていた広大な光景は、ご存知のように20世紀には、スクリーンに巨大な情景を映し出せる映画が肩代わりするようになります。
 行ったことも無い国、見たことも無い場所への憧れを満たしてくれていた巨大パノラマは、映画の登場によりやがて廃れ、消えていく運命をたどるのです。
 


★「1900年、パリ万国博覧会」、あと1回つづきます。

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049 100年以上経って、何が進歩したか [1900年、パリ万国博]

049 100年以上経って、何が進歩したか。
 1900年、パリ万国博覧会―4   まとめと日本の万博所感

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●EXPO70 

 前回からのつづきです。

20世紀の博覧会は、総じて映像博なのですが…
  私の記憶にある万国博覧会(万博)。それは1970(S45) 年に大阪千里丘陵で開催された「EXPO70
/日本万国博」と、1985(S60) 年の「科学万博-つくば85」です。この二つの万博は経済成長の絶頂期ということもあって、主要各国のパビリオンや日本企業のパビリオンは超大型の映像展示に多額の経費を投じ、それは絢爛豪華なものでした。

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●1970年「EXPO'70」日本万国博

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85 つくば博 マルチ映像.JPGつくば85 ホログラフィ.JPG
●1985年「科学万博つくば85」上2枚は大型マルチ映像
 下はホログラフィによる立体映像展示

 メインは当時の最先端映像技術を反映して、前者はマルチスクリーン、後者は大型映像のオンパレード。見世物としてのスペクタクルを、それはそれは華やかに盛り上げていました。
 それはまさしく、100年以上前に考えられた気宇壮大なアイディアに当時の技術が及ばなかった無念さを晴らして上げるかのように、今日の進んだ技術力で完璧に作り上げて見せた世界でした。今、私たちの生活を支えている高度な技術のほとんどは、19世紀が考え出し、20世紀が作り上げたのだと確信せずにはおられません。

 けれどもその後日本経済は成長を止め、わずか1990(H2) 年に大阪鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会(花博)」の開催を見たばかり。それとても、目だった新技術が無いところを、たまたま「宇宙船地球号」と唱える世界的な自然回帰・環境保護の時代に救われて、金を掛けない庭園博で済ませてしまったものでした。
  博覧会とは本来、技術の進歩を誇示し人類の躍進を約束するものでした。その意義が希薄になってしまったのです。 

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●1989年「横浜博覧会」(地方博)におけるアイマックス上映と双方向シミュレーションシアター

 
それ以後も「安定成長」と呼ぶ欺瞞の元に減速経済は更に進行し、博覧会はもっぱら地域おこしを標榜する小規模な地方博の時代へと推移。その地方博すらも消滅して今日に至っている訳ですが、目玉にしたい新しい展示手法と言ってもせいぜい大型4Kシアターくらい。博覧会そのものの魅力が大きく退化したという感じを免れません。
  そしてその内容も、100年以上前のアイディアをただ単に今日の先端技術でなぞったに過ぎないのではないかとさえ思えてくる状況。映像という側面ひとつをとってさえ、それほど「1900年パリ万国博」は、情熱と冒険心と実験性にあふれた熱狂的なものだったのです。

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●2005年 名古屋「愛・地球博」
 上/2005インチ「レーザードリームシアター」
 下/CGによる立体映像シアター


  翻って現在の国内情勢を考えたとき、バブル崩壊後今日に至るまで、超長期の減速経済下で、国も自治体も企業さえも疲弊して意気消沈のまま。この状態では国民の間に厭世感が蔓延してしまいそうです。唯一の救いがオリンピック/パラリンピックですが、これでいいのか日本。技術立国の誇りはいずこに。みんなが一丸となって経済発展に打ち込んできたあの心意気よ、もう一度……。

 4回にわたって100年以上前の意気軒昂だった国際イベント「1900年パリ万国博」を展望しながら、自国を振り返って感じたのはこのことです。日本も決して負けてはいなかった。アイディアと技術力で躍進してきたあの頃の自信の復活と士気高揚を願う理由はそこにあるのです。


 ●パリ万国博覧会の明と暗
  余談ですが、映画発明の先駆者として評価され、社会的にも成功したエティエンヌ・マレーと対照的なのは、1888M21)年に「テアトル・オプティーク」で大好評を博したエミール・レイノウです。

 エティエンヌ・マレー.png  1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●映画撮影・映写機のプロトタイプといわれる「フィルム式クロノフォトグラフ」
 を発明したエティエンヌ・マレー

エミール・レイノー.jpgレイノウのテアトル・オプティーク1893.jpg
●エミール・レイノウと「テアトル・オプティーク(光の劇場)」

 彼が一手でその興行を請け負っていたグレヴァン博物館では、次第にリュミエール社の世界ニュースやゴーモン社の実写フィルムなどを採り入れるようになりました。そのため、7年間に亘って延べ50万人以上も動員した「テアトル・オプティーク(光の劇場)」でしたが、時代の流れには抗し切れず、パリ万国博が始まる直前の1900(M33)年3月に、遂に興行を外されてしまったのです。

 彼の悲劇は、出し物について、例の繰り返しのエンドレス方式ではなく、当時はだれも考えなかったストーリー性を重視したことにありました。そのために彼は「テアトル・オプティーク」という独自の方式を開発した訳ですが、実は映画の発展にとってそこが一番大事なところだったのですが、時代はそのことにまだ追いついていませんでした。彼は時代を先取りしすぎたのかもしれません。
 撮影機、映写機といったハード面が先行し、フィルムの規格がエジソン社(のウィリアム・ディクスン)が考えた35ミリ幅の映画フィルムがデファクト・スタンダードとなると、その方式がたちまち広まってしまい、それ以外の上映方式をいつまで維持できるかは時間の問題だったのです。

 落胆したレイノウは、自分の発明の一切を消滅させようとしました。「テアトル・オプティーク」の装置を打ち砕き、7本の作品のうちの5本を、闇にまぎれてセーヌ川に沈めてしまったのです。レオン・ゴーモンが工芸学校に寄贈したいから「テアトル・オプティーク」の装置一切を売ってほしいとレイノウを訪れたのは、その数日後のことでした。


●パリ万博の閉幕を待っていたかのように
 いろいろな話題を残して「1900年パリ万国博」は閉会しました。「映画」というニュー・メディアを生み出したフランス。中でもパリはそのメッカとしてたくさんの事業家を輩出して世界をリードするようになりましたが、新世紀、1900年代初頭を飾る中心人物は、やはりあのジョルジュ・メリエスでした。

 万博記録映画の製作も一段落を迎えたジョルジュ・メリエスは、すぐさま兼ねてから頭の中にしまっていた次のアイディアに取り掛かりました。その結果、またまた奇想天外な作品を作り上げて、世界をあっと言わせるのです。 

  ところで、この第5回パリ万博の翌1901年の暮れ。シカゴ近郊のトリップ・アベニューという静かなベッドタウンで、女の子といってもいいくらいにかわいい男の子が誕生しました。彼はこの家に4男として生まれましたが、8年ぶりにできた子ということもあって、母親はフリルの付いたかわいい洋服を着せて愛情いっぱいに育てました。
 この子の名は、一家が懇意にしていた聖パウロ会のウォルター牧師の名をもらって、ウォルター・イライアス・ディズニーと名付けられました。
                                          つづく

P1050418.JPG●ジョルジュ・メリエス

★お待ちどうさま。ようやく「月世界旅行」にたどり着きました。次回をどうぞ。

 

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