032 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」とは [技術の功労者]
032 ようやく真打登場! リュミエール兄弟。
「シネマトグラフ」
●「シネマトグラフ」による撮影風景 1巻約1分を1カットで回し続けて撮影
時は1895(M28)年。「映画の誕生」が秒読み段階に入っている中で、トーマス・エディスンは、頼りにしていた技師のウィリアム・ディクスンに去られた上、ヨーロッパでは亜流の「キネトスコープ」が出回って苦慮していました。
そんな中でフランスのリュミエール兄弟は、〈動く写真〉の仕組みを決定づけるための難題をすばらしいアイディアによって解消したことにより、トーマス・エディスンよりも後発でありながら最初の映画と言われるものを撮影。テスト上映を経てこの年の暮れ、後に映画誕生とみなされる一大エポックが訪れることになります。今回はリュミエール兄弟が作り上げたその装置について見てみましょう。
●リュミエール兄弟の才能と恵まれた環境。
リュミエール兄弟・・・兄はオーギュスト。弟はルイ。二人はフランスのリヨンで、父アントワーヌが興した乾板写真用の乾板や印画紙の製造工場を引き継いで経営していました。
父の時代には一時経営危機に陥ったこともあったのですが、兄弟が開発した「エチケットブルー」と名付けた新しい製造法による写真乾板が大好評で業績を盛り返し、今では1日50,000枚もの乾板と4,000メートルもの印画紙を生産するほどでした。
●リュミエールの写真工場における感光乳剤の調合 1894
悠々自適の生活に転身した父アントワーヌが、1894(M27)年の夏にフランスに持ち帰ったエディスンの「キネトスコープ」。リュミエール兄弟は、欧米で話題の動画装置に初めて接する興味はあっても、自分たちが向かう〈上映式〉とは異なる方式に、それほど期待していなかったようです。
●アントワーヌ・リュミエール ●リュミエール兄弟
●エジソンの「キネトスコープ」
リュミエール兄弟も、話では「キネトスコープ」のことは知っていました。「キネトスコープ」を開発したとされるエディスンが、時代は<上映式>に向かっているにもかかわらず<覗き見式>にこだわっていること。そしてその真意が、フィルムの間欠送り装置が未熟で画面が安定しない上、シャッターの開角度が狭いために画面が暗くて上映に適さず<覗き見式>に甘んじていなければならないことも推測できました。
『問題はフィルム送りの仕組みにある…。それさえうまく行けば<上映式>は完成だ。広い部屋で大勢がいっしょに楽しむことが出来るようになるんだ。』兄弟の考えは一致しました。
●そのヒントはミシンのカムにあった。
ここで、後に書かれた兄オーギュストの記述を要約してみましょう。
「ある朝、気分が優れなくて弟の部屋へ行くと、弟はベッドで一睡もしないでそのことを考えていたらしく、ようやくその仕組みを思いついた、と言いました。
ルイの説明では、それはミシンの布送りだというのです。なるほど。それを聞いて、私が考えていた一時的な解決法は不要なものとなりました。ルイは一夜にしてシネマトグラフを発明してしまったのです」
「シネマトグラフ」とは、あとで彼らが名づけ、これが「映画誕生」として評価されることになる機械の名称なのですが、その仕掛けはこうです。
ミシンを踏むと針が下りる時に布は一瞬停止し、針が上がった瞬間に布が送られます。この連続で布が縫われていくわけですが、これは偏心カムの作用によるもので、1877(M10)年にフランツ・リューローが発明し、機械工業では周知の技術でした。ルイはそれを縦位置にすることで、正確なフィルム間欠送り機構に応用できることを思いついたのでした。
●偏心カムを応用した間欠コマ送りの仕組み
Eが左回りに回転すると、ABの爪がフィルムのパーフォレーション(穴)にかかって、フィルムを1コマ掻き落とす。爪が外れた瞬間、コマは停止し、回転シャッターの開口部が通過してスクリーンに投影される。この運動が1秒間に16コマのスピードで継続し、動きとして認識される。
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●「シネマトグラフ」は撮影・映写・プリンターの複合機
リュミエール兄弟は早速ハードの開発に取り組みました。前提として、すでに発表されていたエチエンヌ・ジュール・マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」★3やウィリアム・フリーズ・グリーンの「立体映画撮影・再生機」★4の仕組みのように1台で撮影と映写の両方ができるものとし、更にプリントも行える機能を付け加えることにしました。
つまり、撮影機、映写機、プリンタと三拍子揃った複合機です。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムに焼き増しできるプリント機能は写真業であるリュミエール兄弟ならではのアイディアで、少なくともここには何本ものフィルムを複製して活用する、という考えが反映されていた訳です。
●左は撮影機(カメラ)として使う場合
●撮影機を開けたところ。17m(50ft)の生フィルムは箱の中で巻き取られる。
撮影時には、ハンドルは裏ぶたを閉めた外から差し込んで操作する。
映写機として使う場合は、この状態の背後にランプハウスを設定し、フィルムはそのまま下に流す。
●複合機ならではの数々の新機構
ところで、撮影・映写兼用機として使う場合に大事な問題はシャッター羽根です。撮影時にはクリアな画像を得るために切り込み(スリット)は狭く、映写時には明るい光量を維持するために広い方が良いのです。リュミエール兄弟はその両方を使い分けられるように回転シャッターを2枚合わせにして、スライドさせることによって開角度を変えられるようにしました。シャッター羽根の開角度はもちろん、撮影時における露出の調整にも役立ちました。
●2枚組回転シャッター羽根
次にフィルムです。リュミエール兄弟はニューヨークのセルロイド会社から生地原反を購入すると、フィルム幅を35ミリとしました。フイルム送りのためのパーフォレーション(フィルム両脇の穴)は、最初、1コマに付き1つでした。けれどもフィルム走行の安定性を考慮して、すぐに1コマにつき4つずつにしました。フィルム1本の長さは17メートル(50フィート)とし、すべて自社で作り上げましたが、その品質を決める感光乳剤は、当時のイーストマン社のコダックフィルムの質をしのぐものだったようです。
なお、上記のフィルム規格は意図的か偶然か、エディスン研究所に在籍していたウィリアム・ディクスンが考案し、「キネトスコープ」で使用されている規格と全く同じものでした。
この点について、のちのリュミエール兄弟は、「フィルムの仕様はたまたまそうなったこと。長さは巻いたフィルムがそれまでしか収容できなかったから」と言ったことが伝えられていますが、このあたりもエディスン側からの特許関連の横槍を憂慮した答えのように思えます。
ただ、ウィリアム・ディクスンが開発したフィルム規格を、のちに映画の発明者と認定されるリュミエール兄弟も用いたということが、「映画フィルムは幅35ミリ/1コマ4パーフォレーション」という国際規格を決定的なものにしたと考えられるのではないでしょうか。
●ウィリアム・ディクスンが考えた35ミリフィルム規格
リュミエール兄弟もこの規格に習い、今日まで映画フィルムの国際規格として通用。
●撮影スピードは1秒間に16コマ
次は撮影スピードです。「動く写真」の研究者たちはそれぞれいろいろなスピードでテストしていましたが、リュミエール兄弟も彼らと同じテストを繰り返さなければなりませんでした。当時はまだ小型モーターが開発されていませんから、撮影は手回しのハンドル操作です。(撮影機にモーターが搭載されるのは1910年代に入ってからです)
エディスンの「キネトスコープ」は1秒46コマ。それは間欠送り機構を備えていないため、画面のチラ付きをㇱャッターの回転スピードで視覚的にごまかすためのスピードでした。「シネマトグラフ」はもっと遅くていいはず。そこで1秒10コマまで下げてみましたが、これでは遅すぎ。結局1秒16コマのスピードで落ち着きました。
これは結果的に、「視覚の残存時間は1/10~1/20秒」とするタンドールの実験結果を支持するものでした。「シネマトグラフ」のハンドル操作は、1秒2回転で設計されました。
●光源はアーク灯。集光レンズに絶妙のアイディア
次に、映写機として使用する場合です。フィルムの後ろに光源を設置する必要がありますので、映写の時にはカメラ部の裏ぶたを開いて、その後ろにランプハウスを配置します。
大勢に一度に見せるための高い照度を得るためにアーク灯を使うことにしましたが、集光レンズの役割を、なんと、水を入れたフラスコに担わせたのです。これによって発火しやすいフィルムに当たる熱を和らげるという一挙両得の構造を実現したのでした。
●このレプリカではフラスコより進化した大型凸レンズが採用されている。
映写には技師が当たり、撮影時と同じ1秒2回転の速さでハンドルを回します。50フィートのフィルムの上映時間はおよそ1分足らずです。機械には巻き取りリールは無く、レンズ前を通過したフィルムはそのまま下の箱にとぐろを巻き、上映後にリワインダーを使って巻き戻すという原始的な仕組みでした。
「シネマトグラフ」はここに、1秒に2回転というハンドル操作をよどみなく1分間継続できる特技を擁する撮影技師(カメラマン)と映写技師という新しい職業を、将来的に生み出すことになります。(当初は同一人物の役割でしたが)
●左/「シネマトグラフ」と映写技師
手回しで上映スピードを一定に保つ熟練者。フィルムはそのまま下へ。
右/「シネマトグラフ」のフィルム通過部
●移動可能なカメラで野外ロケのフィルムメーキング
リュミエール兄弟と父アントワーヌには、機械の開発と並行して準備しなければならないことが山積していました。1895年3月22日、パリの科学振興協会で最初の公開を行った後も何回かの小規模な公開を行って話題を高めながら、何とか年内(1895年中)に初めての一般上映会を、それも興行という有料の形で行いたいと考え、多忙な中で会場探しやポスター作りの手配なども進めていました。
その一方でソフト、つまりフィルムメーキングもしなければなりません。リュミエール兄弟の開発した「シネマトグラフ」は、エジソンが「ブラック・マリア」★5の床にデンと据え付けている1トンもの撮影機とちがって小型軽量でしたから、木組みの三脚をつけて容易に外でロケをすることが出来ました。
初めて完成した「シネマトグラフ」でリュミエール兄弟が撮影した風景。それは、いちばん身近な自分たちの工場の出口であり、父アントワーヌの別荘がある最寄り駅のホームであり、自宅の庭などでした。
こうして年内ぎりぎりの1895(M28)年12月28日を目標に、リュミエール兄弟はハード、ソフトともに万全の体制を整えて臨めるよう、その準備に余念がありませんでした。
●「シネマトグラフ」公開に向けたポスター
その頃アメリカでは、エディスンと袂を分かったウィリアム・ディクスンが、転職先のレイサム父子★6がその後の映画発展に不可欠な画期的な方法を編み出すのを助け、彼らといっしょに新しい会社を興す準備を着々と進めていました。
その会社は<覗き見式>の「キネトスコープ」一辺倒で進んでいるエディスン社を圧倒する、強力なライバルとなって立ちはだかってくるのです。エディスンとディクスンの確執はまだまだ続きます。
つづく
●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン ●ウッドヴィル・レイサム
■関連記事
★1「キネトスコープパーラー」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/2
★2「キネトスコープ」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/3
★4「立体映画撮影・再生機」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-25
★5「ブラック・マリア」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★6レイサム父子http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150419
031 映像は、魔法に近いものなんだ。ジョルジュ・メリエス [技術の功労者]
031 映像は、魔法に近いものなんだ。
ジョルジュ・メリエス
●時代背景 19世紀末、セレブの社交生活
これまでに述べてきた〈動く写真〉。それは、エディスンの「キネトスコープ」による<覗き見式動画>に対抗するように浮上してきた<上映式動画>への渇望が高まった時点から、単なる動画ではなく「映し画」、つまり「映画」へと明確に舵を切ったのでした。この点が今日、「動画」と「映画」を認識する上で大事な点だと思うのですが、これまでは〈動く写真〉を機械的側面(ハード面)から見てきました。それは、装置ができて初めて映画が作れる訳ですから致し方のないことでした。
さて今回は、のちに映画発明者としての栄誉を担うことになるリュミエール兄弟と友好を保ち、「表現としての映画」(ソフト面)を牽引していくことになるジョルジュ・メリエスについて、簡単に押さえておくことにしましょう。
●マジックのステージに新しい表現によるトリックを。
ジョルジュ・メリエスは1888(M21)年以来、パリ中心街の一角に「ロベール・ウーダン劇場」というマジック専門のシアターを持っており、彼自身マジシャンであり、興行師でもありました。
「ロベール・ウーダン劇場」とは、その名が示す通り魔術師と称えられたマジックの奇才ロベール・ウーダンの劇場だったのですが、それを故あってジョルジュ・メリエスが譲り受けたのでした。
●ロベール・ウーダン劇場 ●ロベール・ウーダン
メリエスは、ステージに「マジックランタン」(幻灯機)★1を早くから採り入れて、映像によるトリックの演出を積極的に行いました。また、オッフェンバック、ベルレーヌ、モローといった芸術家たちとも交流があるインテリで、その洗練された感性は、それまで奇術、魔法、魔術と呼ばれてイカサマ呼ばわりされることもあったマジックのいかがわしさを払拭。ある種芸術的な出し物としての評価が高まっているところでした。
●ジョルジュ・メリエス 自作自演のステージはそのまま映画に引き継がれる。
実際彼のステージは、単に奇をてらった出し物を見せておしまいではなく、ストーリー展開はもちろん、ステージ上の舞台装置、照明はもちろん、彼自身が演じるコスチュームのデザインに至るまで、高度な芸術的・演劇的手法が採り入れられていました。
彼が〈動く絵〉〈動く写真〉という新しいメディアの台頭を知った時、自分の想像する奇想天外な物語をその手法で綴ってみたいと考えたことは十分に想像できます。
●メリエスの関心は動く映像に向けられていた
1888(M21)年。彼は近くのグレヴァン蝋人形館でエミール・レイノウによる「テアトル・オプティーク(光の劇場)」★2の公演があると聞くと、早速出かけて行きました。
そこで絵が実際に動くことを見たメリエスはいたく感動。興奮のあまりレイノウに面会して絶賛したくらいに「動画」に心を動かされました。メリエスはマジック愛好家からプロのマジシャンになったくらいですから、新奇なものをいち早く自分のステージに採り入れることには人一倍積極的な人物だったのでしょう。
●「テアトル・オプティーク(1888)」とエミール・レイノウ
『レイノウの「テアトル・オプティーク」では、確かに等身大の人物が動いて見えた。残念ながら、それは写真ではなくて絵だったが。あれが写真であれば、早速自分のマジックのステージに採り入れるものを……。』
けれども、世間にはまだ、彼の求めに応じられるレベルの映像装置は生まれておりませんでした。彼は自分でも〈動く写真〉について研究を始めることになります。
●メリエスも「キネトスコープ」と出会った。
1894(M27)年5月。そんなメリエスのところに、マジシャン仲間の友人が、50年代と思しき男性を伴って訪れました。彼らは最近パリにオープンしたばかりの「キネトスコープパーラー」★3で、エディスンの動画装置を覗き見てきたところだというのです。
男性は1880年代に乾板写真が実用化されたころから乾板や印画紙の製造をはじめ、今ではリヨンに300人の従業員を擁する写真工場を構えているアントワーヌ・リュミエールと名乗りました。
「私には二人の息子があって、兄は化学、弟は物理学の学位を持っています。私は今はその工場を二人にやらせています。その二人に私は〈動く写真〉の開発を勧めたのですが、二人とも興味をもって進めています。実はここだけの話、あともう少しというところまで来ているんですよ」。そう。前回の最後にちょっとだけ紹介した、あのリュミエール兄弟のお父さんです。
メリエスも「キネトスコープ」の名は聞き及んでいましたから、たちまちみんなで動く写真談義が始まりました。この日はもっぱら「キネトスコープ」で〈動く写真〉を見たときの驚きが話題になったようでした。
●「キネトスコープパーラー」と「キネトスコープ」1894.4~
●
●アントワーヌ・リュミエール ●オーギュストとルイのリュミエール兄弟
●<覗き見式>ではだめ、ということで意見は一致。
ところが7月になったある日、メリエスを訪れたアントワーヌはかなり興奮していました。「メリエスさん、見てください。アメリカに発注していたキネトスコープが届いたんです。12本のフィルムもいっしょです。息子たちに見せるために取り寄せたんですが、その前に劇場の皆さんにも、と思いましてね」。こうしてジョルジュ・メリエスは初めてエジソンの「キネトスコープ」に接することになります。
●「キネトスコープ」を覗き見る客
「どう思います?」と意気込んで聞くアントワーヌにメリエスは、「これは確かに面白い。新らしもの好きが喜ぶでしょう。でも、この映像がスペクタクルなものになるには、箱の中では無理でしょうね」と極めて冷静に答えました。メリエスもまた、画面の人物が等身大に拡大できない<覗き見式>では、自分のステージには無用、と考えたのでした。
「そこですよメリエスさん。私の息子たちが、きっとそれを成し遂げて見せるでしょう」。アントワーヌ・リュミエールは胸を張って答えました。
翌日アントワーヌ・リュミエールはリヨンの会社に「キネトスコープ」を持ち帰り、二人の息子たち……オーギュストとルイのリュミエール兄弟に見せました。これが縁で、アントワーヌ・リュミエールを介してリュミエール兄弟も、ジョルジュ・メリエスと親しく言葉を交わすようになります。
●研究者の数だけ映写機が誕生
とにかく1895(M28)年というこの1年は、「映画誕生」に向けての研究が、欧米においてほとんど同じレベルで仕上がっていたという大変な年でした。
それはヨーロッパにおいて特に顕著でした。原因の一つは、エディスンの「キネトスコープ」の特許がアメリカ限定で、ヨーロッパに及んでいなかったことが挙げられます。
ヨーロッパの研究者たちは、エディスンに任されてラフとギャモン★4が独占販売を許されている「キネトスコープ」が法外に高価だと知ると、自分で作り上げようとしました。そうした動きの中で、いちばんの問題であるフィルムの間欠送りの仕組みも、それぞれがてんでに考えて、いろいろな方法が編み出されました。
●いろいろな間欠送り機構が考案された
これら大勢の研究者のうち<覗き見式>を発展させようと取り組んだ人は一人もおりません。全員が「キネトスコープ」を参考に<上映式>を目指したのです。なんとこの年から翌年に掛けて、数十人におよぶ研究者の数だけ、似たような映写機が誕生したのでした。
ただその中でドイツの発明家マックス・スクラダノフスキーが考案した2連のフィルムを使う映写機「ビオスコープ」は、ひときわ異彩を放っています。
●動画の研究の権威でもあったマックス・スクラダノフスキー
彼は最後まで、映画の発明者は自分であると信じて疑いませんでした。
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●「キネトスコープ」はハードとソフトのパッケージで。
とにかく困ったのはエディスン側です。大西洋の対岸のヨーロッパで、こんなに追い討ちを掛けられるとは思いもよりませんでした。それまで、特許を侵害されたら待ってましたとばかりにお抱え弁護士たちが動き、お得意の訴訟を起こしてきたエディスン弁護士軍団ですが、今回はそれができません。
●トーマス・エディスンと世界初の撮影所「ブラック・マリア」1894
そこでエディスン側が考えたこと。それはソフトを押さえることでした。エディスン側は、「キネトスコープを買わなければ、フィルムは売れません」ということにしたのです。一種の抱き合わせ販売です。フィルムベースは他から手に入れることはできても、エディスン社がウェスト・オレンジの「ブラック・マリア」★5から生み出しているあの内容と同レベルのフィルムは真似できまい。これがエディスン側が考えた第一段階の市場戦略でした。
さあ、思いもよらない対抗策に、ヨーロッパの研究者たちは困ってしまいました。機械は作れても、ソフトとしてのフィルムはどのように作ればいいのかわかりません。何を題材に、どう撮ればいいのか、ノウ・ハウというべきものは誰も持っていないのです。まさに映画以前の問題に突き当たらざるを得ませんでした。
このような混沌を背景にして、1895(M28)年も押し詰まった12月28日、いよいよリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開の日を迎えることになります。
★次回はようやくリュミエール兄弟と「シネマトグラフ」のお話です。
●この日がのちに映画誕生の日となる
リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開のポスターの1種 1895
■関連記事
★1 「マジックランタン」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-06
★2 「テアトル・オプティーク」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-30
★3 「キネトスコープパーラー」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19
★4 ラフとギャモン http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19
★5 「ブラック・マリア」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
030 いよいよ大詰め。映画誕生前夜のうごめき。 [技術の功労者]
030 去る者は追わず。
キネトスコープパーラー -2
●デトロイトのキネトスコープパーラー 1894
この経営者はのちにイギリス映画界の大御所となる。
1894(M27)年後半、ラフとギャモンが経営する「キネトスコープパーラー」がアメリカ東部に登場すると、それはたちまち全土に広がりました。同時に話題は海を越えたヨーロッパに伝わり、パリにも代理店が置かれることになりました。ロンドンでも「キネトスコープ」の注文が相次ぎました。「キネトスコープ」が新しい娯楽として爆発的に歓迎されればされるほど、ソフトととしてのフィルムの需要が追い付かなくなってきました。
●一人ずつ見せるのか、大勢に一度に見せるのか。
「キネトスコープ」はアメリカでの特許があるにもかかわらず、その人気にあやかろうとする熱心な興行師の中には、見よう見まねでキネトスコープに似せた機械を作って、興行やパーラーの開業を目論む人たちも出てきました。機械自体が売り物でしたから、1台購入して分解してみれば一目瞭然だったわけです。
特にパリ、ロンドンでは、キネトスコープの特許が米国に限定されていることを知ると、いろいろな人たちがキネトスコープそっくりの機械を自作して、「キネトスコープパーラー」を始めるような始末でした。
ただ、フィルムは簡単には作れません。そこで厚かましくもエディスン社にフィルムの提供を申し出た興行師もおりました。さすがにエディスンはそれを断りました。
偽キネトスコープを作った人たちの中には、1回に一人の覗き見式ではなく、一度に大勢が楽しめる上映式の方が効率がいいのではないかと考える人たちもいて、偽キネトスコープを上映式に改良しようとする人まで出てきたのです。
●キネトスコープの内部(仕組み)
●詭弁のようにも思えるが…
いずれにしても、大西洋を挟んだ両側で「キネトスコープ」が一挙に広まったのですが、それは同時に、単調な動きが繰り返されるだけのフィルムの内容に人々が飽きてしまう傾向に拍車をかけることになりました。
先行きの危機感を覚えたラフとギャモンは、エディスンに、一人ずつ交代で覗いていたのでは回転率という点からも効率が悪いと訴え、フィルムの内容を充実させ、早急に上映式「キネトスコープ」を作るように提案しました。それに対するエディスンの返事は意外なものでした。
「我々はキネトスコープの販売で、すでに満足すべき利益を上げているではないですか。上映式を売り出してみたまえ。全米で10台も売れようものなら、1回だけの上映で観客はいっぺんに見終わってしまう。一人ずつ覗いて見るからいつまでも行列が出来るんです。あなた方の言う上映式は、折角毎日金の卵を産み続けるニワトリを殺してしまうことになるんですよ」
エディスンはあくまでも、さながらオペラグラスを覗いてステージを楽しむ、そんな様子をイメージしていたようなのです。これを伝え聞いたディクスンは、自分が進めてきた上映式「キネトスコープ」の研究続行が、ここウェスト・オレンジの研究所では絶望的であることを感じ取りました。
●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン
●エディスンの切り札は功を奏さなかった。
自信を持ってそこまで言うエディスンには、実はとっておきの切り札があったのです。それは今で言うトーキー映画、つまり音声付き、それもステレオで聴ける〈動く写真〉の構想でした。
エディスンのスタジオ「ブラック・マリア」では、ウィリアム・ディクスンによるそのためのテストフィルムも作られ、エディスンはその成功に賭けていました。「キネトスコープ」の脇から2本のイヤフォンケーブルが出ていて、客はそれを左右の耳にはめて立体音響を聞くのです。電動式蓄音機「フォノグラフ」と覗き見式動画機「キネトスコープ」を合体させたこの新式マシンは、エディスにより「キネトフォン」と名づけられました。
●ブラック・マリア
●ブラック・マリアの内部 右に立ツ人物の左がキネトスコープカメラ
左のフォノグラフ(蓄音機)で録音の実験をしている。録音は同期していない。
●イヤホンで音も聞ける「キネトフォン」
●ディクスンによる「キネトフォン」のテスト撮影 16秒
ヴァイオリンを弾いているのがディクスン。実際は音を同調させた。
例によってエディスンは、マスコミの前で新方式の「キネトフォン」をPRし、新聞は大きく書き立てました。けれども、画面と音声の同期を図る仕組みは考案されていなかったため、実際には動きと音声は次第にずれ始め、音量も小さすぎました。もともと騒音に囲まれているパーラーの中ですから、音声が小さいのは致命的です。ということでキネトスコープパーラーでの興行は呼び物にはならず、音楽好きのお客にはかえって不評を買うことになったようでした。
●反乱の兆し
とはいえ、「キネトスコープパーラー」の人気は今でもうなぎのぼりです。しかし、上昇気流はそのあとが怖い。幾たびか辛酸をなめてきたエディスンですから、そういう時ほど危機感を抱いて次の手を打つことが必要であることは心得ていました。
そこで初めてエディスンは、キネトスコープの販売代理人であるラフとギャモンの要請を飲むことにしました。直ちにエディスンはラフとギャモンの「キネトスコープ社」に技師を派遣して、上映式キネトスコープの開発に当たらせることにしました。
「さあ、ようやく出番が回ってきたぞ!」、そう思ったのは、初めから上映式キネトスコープの開発を進めてきたウィリアム・ディクスンでした。
けれどもなぜか「キネトスコープ社」に派遣された技師は彼ではありませんでした。自分でしか成し得ないと自負していたディクスンにとっては青天の霹靂。エディスンが彼に与えた屈辱と絶望感は、いかばかりだったでしょう。
結局、派遣された技師は、上映式キネトスコープを実現できずに終わるのですが、これを契機にディクスンの心は決まりました。彼の協力を求めている人たちが他にいたのです。
ウッドヴィル・レイサムと、グレイとオトウェイと名乗る兄弟の親子トリオ。彼らは、ラフとギャモンによるニューヨークの「キネトスコープパーラー」1号店がオープンした時に訪れてインスピレーションを受け、エディスンにも受け入れられて、同じナッソー通りに「キネトスコープパーラー」を開いたばかりの父子です。
●1894年にすでに存在していたスポーツ専門チャンネル。
ウッドヴィル・レイサムは南部の名門の出で、南北戦争当時は少佐でしたが、戦後は物理と化学の教授を務め、1894年に退職したばかりでした。
同一地域で先に開業しているラフとギャモンとの競合を避けること、という条件付きということもあって、彼らは他のパーラーとの明確な差別化戦略を打ち出しました。
当事アメリカで人気を博していたのはボクシングでした。そこで、ボクシング専門のパーラーと銘打って1894(M27)年8月にオープンしたところ、長蛇の列。警官が出動して整理するほどの人気を呼びました。現在で言うスポーツ専門チャンネルのようなものが登場したのです。
実はこのレイサム兄弟も、覗き見式キネトスコープには不満を抱いていました。
●キネトスコープのボクシング
エディスンはレイサム父子を厚遇し、彼らから相談を受けたウェスト・オレンジのスタジオ「ブラック・マリア」を貸しました。彼らはそこに特設リンクを組んで人気絶頂のボクサーを呼び集めました。つまりそこで、やらせによるボクシング試合の情景が撮影されたのです。
カメラはリンク全体をフレームに収めた固定ショットで、試合の流れをそのまま写し続けているだけでしたが、6ラウンドをそれぞれ1分。計6本のフィルムに記録されました。
公式試合ではないため、全体の試合の流れは観客が喜ぶように運び、クライマックスは6巻目の最後に訪れるように計算されていました。(動画の萌芽期にすでに構成が考えられ、演技指導が行われていたと見ることが出来ます。構成はシナリオの前提であり、演技指導は監督と呼ぶ役職の誕生につながります)
これを1ラウンド25セントで「キネトスコープパーラー」に掛けました。つまり、最終の6ラウンドまで6分間すべてを覗き見るためには1ドル50セントが必要でした。けれどもこれが大当たりをとったのでした。
●ディクスンの決別
覗き見でこれだけ反響が大きいのだから、いっぺんで大勢の観客に見せられる映写方式なら絶対に成功する。そう確信したウッドヴィル・レイサムはエディスンに提言しますが、エディスンは首を縦に振りません。
彼は息子たちに、すでに上映式の動画装置を手がけた経験を持つウィリアム・ディクスンを、エディスンの研究所から引き抜くことを示唆しました。
ディクスンは間もなくレイサム兄弟と技術面で隠密裏に連絡を取り合うようになり、上映式キネトスコープの開発に力を貸すことになります。そして1895(M28)年4月、兄弟との研究に見通しがつくと、ディクスンはついに意を決して、8年間勤め上げたエディスン研究所を後にします。
●ウッドヴィル・レイサム
レイサム父子の「キネトスコープパーラー」は絶好調でした。その隆盛を横目で見ながら、米国内に散らばった他のパーラーの人気は、次第に頭打ちになってきました。パリの代理店からは、新作を早く、という矢の催促です。
観客が落ち込む前に手を打たなければ・・・。エディスンの周囲でも、一日も早く大勢の観客の前で上映できる映写機を完成しなければ、と考える人たちもおりましたが、エディスンは動きません。ウェスト・オレンジには日一日とあせりが高まっていました。
エディスンにしてみれば、ディクスンに裏切られた感じでした。8年間も技術に関しては自分のパートナーとして優遇したはずなのに、後ろ足で砂を掛けるようにして出て行ってしまった。・・・。「困ったことになった。こんな時こそディクスンが居てくれたら・・・」などと、エディスンは決して弱音を吐くような人ではありませんでした。
●映画誕生前夜。ヨーロッパにおけるその他の動向。
折も折、イギリスでは光学機械製造業者のロバート・ウィリアムポールが、エディスンの「キネトスコープ」を元に、同類の装置を製作していました。実は彼は、1894年の暮れに開店したロンドンの「キネトスコープパーラー」から頼まれたのでした。
●ロバート・ウィリアム・ポール
そのパーラーの持ち主は、エディスン社から元締めを任されたラフとギャモンから、イギリスにおけるパーラーの代理店を認められており、イギリス全土に「キネトスコープパーラー」を広げたいと思ったのでした。ところが何しろ「キネトスコープ」の値段が高すぎる。そのため、ロバート・ポールに類似の覗き見式動画自販機づくりを頼んだのでした。
エディスン側からの特許権侵害訴訟を恐れていったん断ったポールでしたが、「キネトスコープ」の特許は米国に限定されているから大丈夫、と言われて、取りかかったのでした。
この後、ロバート・ポールは独自の撮影機、映写機を開発し、映画の製作にも乗り出し、後に「イギリス映画の父」と呼ばれることになります。
●シャルル・パテ
「キネトスコープ」の登場に心を動かされたフランス人の一人に、シャルル・パテがおります。パテは1894年秋から、結婚間もない妻と二人で有り金をはたいたお金でエディスンの「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)を買い、それを元手にパリの盛り場や縁日などを巡回する興業を行っていました。
1895年が開けて間もない頃、やはり「キネトスコープ」を購入したいと相談に来た友人との間で、フィルムに話題が及びました。パテが「エディスンのフィルムはこれしかないんですよ。同じ場所ではすぐに飽きられてしまいます。だから場所を変えてやるしかないのですよ」 というと、その友人は「それじゃ,あなたがフィルムを作ったらどうですか」 。
それをきっかけにパテはその後、弟といっしょに映画製作の道に入り、やがてフランス屈指の映画会社「パテ・フレール」を創立することになります。
●レオン・ゴーモン
●ジャック・ドゥメニ ●エチエンヌ・マレー
●フィルム式クロノフォトグラフ
●アリス・ギイ
同じ年、学生時代に写真を学んだレオン・ゴーモンは、31歳でパリ、サン・ロック通りにある勤め先の写真会社を自費で買い取り、「ゴーモン社」を設立したところでした。
顧問にはエッフェル塔の設計者ギュスターヴ・エッフェルを迎え、前述のエチエンヌ・マレーが開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」をその共同開発者ジャック・ドゥメニといっしょに販売しながら、発声映画の研究・製作に取り掛かることが目的でした。映画製作を目的とした最初の企業と言えるでしょう。
その前年、ゴーモンが前の写真会社の副社長を務めていた時に、うら若い一人の女性の訪問…今でいう就活…を受けました。彼女は面接したゴーモンに、歳は20歳、名はアリス・ギィと名乗りました。彼女は後に「ゴーモン社」で、世界初の女性映画監督として活躍し、名を残します。
●リュミエール兄弟
そして、同じくフランスではリュミエール兄弟が、動画装置の最後の難関となっていたフィルム送りの円滑な仕組み(レンズの後ろで1コマ1コマを一瞬の間止める間欠送り機構)について、すばらしいアイディアを思いついたところでした。
★次回はジョルジュ・メリエスについて簡単に押さえておきましょう。
029 これぞ、エディスンの「動画自販機」。 [技術の功労者]
029 さあてお立会い、動画の自販機だよ。
キネトスコープパーラー - 1
●「キネトスコープパーラー」 エディスンの名と胸像が飾ってある 1894(M27)
戦後世代は米国寄りの教育で、「映画の発明者はアメリカのエディスン」と教えられました。けれども今は「フランスのリュミエール兄弟」が定説です。そのちがいはどこにあるのでしょうか。
19世紀末、欧米の〈動く写真〉の開発者たちがこぞって映写式装置の開発にしのぎを削っていた頃、エディスンはいち早く覗き見式動画装置「キネトスコープ」★1を完成させました。キネトスコープはたちまち大衆の耳目を集め、一躍話題の中心になりますが……
●発明王エディスンの誤算
「キネトスコープ」の機械そのものを売るという思い切った勝負に出たトーマス・エディスン。彼のキネトスコープ用フィルムを撮影するためのスタジオ「ブラック・マリア」★2はフル稼働で、<覗き見>に向きそうな素材を考え出しては撮影を続けていました。
このフィルムはキネトスコープの本体を売るために欠かせないコンテンツでしたが、決しておまけではありません。エディスンはフィルムの権利もしっかり考えていました。
●「ブラック・マリア」 ●「キネトスコープ」
キネトスコープの特許は米国内に限って申請しました。認可は1891(M24)年に下りましたが、なぜヨーロッパを含めなかったのか。それは、〈動く写真〉の開発はヨーロッパの方が先行していることをエディスンは知っていたからでした。
つまり、キネトスコープは機構的にフランス、イギリスに遅れをとっているため、特許の可能性が薄い。その代わりアメリカ本土では、〈動く写真〉でトップを走っていたオーギュスタン・ル・プランスが失踪★3した後では、エディスンに先行する研究は存在しなかったからでした。
このように、エディスンが映写式装置ではなく覗き見式を進めたこと。そしてキネトスコープの特許を米国内だけに留めてしまったこと。これがのちのちエディスンが苦境に立たされる分かれ道になるのですが、いかに過去に白熱電球を発明し「稲妻を手なづけた男」と賞賛され、アルバート・アインシュタインに「人類史上もっとも偉大な発明家」とまで言わしめたエディスンでも、神ならぬ身の知るよしもありません。
それはそれとして、さて、本命のキネトスコープ自体をどう売るか、です。
●トーマス・エディスン ●小型発電型フォノグラフとエディスン1888
●プロモーション開始はニューヨークから
エディスンは特許をとった翌1892(M25)年に「キネトスコープ社」を設立しましたが、その経営には、鉱山所有者で、カリフォルニアでは金満家のチャールズ・ラフと義弟のフランク・ギャモンが当たることになりました。
エディスンは「キネトスコープ社」(ラフ&ギャモン商会という説もあり)にキネトスコープとフィルムの製造独占権を与えました。
ラフとギャモンは、翌年に控えたシカゴ万国博覧会をキネトスコープデビューの好機と考えました。彼らは、更に改良がくわえられた「小型発電型フォノグラフ」(蓄音機)といっしょに、キネトスコープ10台を揃えた大々的なブース展開プランを立てていました。ところがエディスン側では製造が間に合わず、お流れになってしまいました。
そこで彼らは、ニューヨークでキネトスコープのアンテナショップを開くことを考えました。これが当たれば全米に広げることが出来るかもしれません。
こうして1894(M27)年4月、「キネトスコープパーラー」1号店がニューヨークのブロードウェイに登場しました。外観の装飾は当時の流行であるゴテゴテの中国風で、火を吹く竜をあしらった物々しさ。入口正面にはエディスンの胸像が飾られ、誰でも知っているあの大発明家による新機軸であることを誇示しています。
フロアの中央には「キネトグラフ」が数台並べられています。今で言うネットカフェのような、いかにも時代の先端を標榜する人種が喜びそうな、小洒落た雰囲気のフロア構成です。
●「キネトスコープパーラー」1894
●大当たりした「キネトスコープパーラー」
パーラーオープンのニュースを知って、早速珍しがり屋の客が列を作りました。キネトスコープは言うなればピープ・ショーの自動販売機です。覗き窓の脇にコイン投入口があり、料金は当時としては高額な25セント。大変な開発費がかかったことを考えれば、うなずける料金設定です。
コインを入れるとスイッチが入ってモーターが回りライトがつき、動く写真が始まります。並べられたキネトスコープには「ブラック・マリア」で撮影された、犬、ネコ、闘鶏、床屋の様子、ボクシング、ダンスなどのフィルムがそれぞれセットされ、13秒ほどの動画が3回繰り返されるとおしまいです。すると客は次のキネトスコープに移動して、また25セントを投入するのです。
●電動式動画自販機「キネトスコープ」を覗き見る人
下は{ブラック・マリア}で撮影された動画フィルムの例
●ひんしゅくを買いながらも人気があった「キス」
キネトスコープの客の大半は<覗き>を楽しむだけですが、写真が動くということ自体が驚きであった時代です。話題が話題を呼んで来客は引きもきらずの大好評。中には予想通り、ぜひリビングにおいて楽しみたい、というセレブ客も出てきました。エディスンの予想は当たりました。
こうしてキネトスコープパーラーはセンセーショナルな新聞記事の見出しとともに、「アメリカにエディスンのキネトスコープ登場!」というイメージを印象付けることに成功しました。
●「キネトスコープパーラー」は英仏にも広まった。
けれども本命は、個人客よりも、たくさんの機械を購入して「キネトスコープパーラー」の名で興行をしてくれる商売人です。ラフとギャモンは、彼らに看板と機械と興行権を売ることを考えたのです。今日のフランチャイズ方式のはしりかも知れません。
ニューヨークでのお披露目興行の成功に勢いを得たラフとギャモンは、この年の秋にはまず戦略拠点として、サンフランシスコ、アトランティックシティ、ワシントン、バルチモアに直営のキネトスコープパーラーを開設。興行を軌道に乗せる一方で、フランチャイジー(加盟者)探しにも本腰を入れたので、各地にキネトスコープパーラーが出現しました。
キネトスコープパーラーの評判はアメリカに留まりませんでした。成功を聞きつけたイギリスとフランスの興行主からも機械の注文が来るようになりました。「キネトスコープ」は1台250ドル、300ドルという高値で輸出されるようになり、関連してフィルムも続々とプリントされました。こうしてキネトスコープは、1年も経たないうちに、欧米を筆頭に世界各地に広まっていきました。
つまりこの時期、覗き見式か上映式かを問わなければ、〈動く写真〉をいち早く事業化したのは、トーマス・エディスンしかおりませんでした。
●ディクスンは「上映式」の開発を続けたかった。
「キネトスコープ」の評判が高まれば高まるほど心中穏やかでないのは、これまで実際に「キネトスコープ」を開発してきたウィリアム・ディクスンでした。
●ウィリアム・ディクスン
彼は最初にエディスンに見せた、上映もできる「キネトグラフ」★4が、エディスンによって半ば無視された形で覗き見式に変更させられたことが納得できませんでした。
「欧米がリードする〈動く写真〉の開発の流れが例外なく上映方式に向かっているのに、どうして自分の上映方式を認めずに逆行するのか。これでは大西洋の向こうに後れをとり、取り返しのつかないことになってしまう」。
強いあせりと同時に、自分が苦労して完成させた「キネトスコープ」が、すっかりエディスンの名前に変わっていることにも、少なからず不満を感じていました。このディクスンの苛立ちが、このあと新しい展開を見せることになります。
つづく
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