063 発明王エディスンのもう一つの顔 [映画をめぐる確執]
063 映画はいったい、だれのもの?
映画特許戦争-①
●時代背景 1910年代、ニューヨーク下町風景
1910年を挟んで、手回しだった撮影機や映写機が電動式となりました。フィルムも300メートル(1,000フィート)の長尺を使えるようになりました。長時間の娯楽を楽しめるようになった映画の人気は一気に高まります。
産業としての地位を確立した映画。利益は膨大。誰が覇権を握るか。1897年から続いているエディスン社による特許訴訟は更に過激になっていました。そこで展開されたのは、観客不在の”仁義なき戦い”(古い!)でした。
●どこにでもありそうな話ですが…
1891年にトーマス・エディスンの名前で特許申請がなされ、2年後に認められた「キネトスコープ」。この覗き見式動画機は、その後、トーマス・アーマットが発明したフィルム送りの間欠機構と、ウッドヴィル・レイサムが考案したフィルムのたるみ(レイサム・ループ)を採り入れて、「エディスンの新発明」との触れ込みで「ヴァイタスコープ」の名で、1896年に映写機として生まれ代わりました。
エディスン社が1897年から10年にわたって展開することになる500回を越える特許侵害訴訟(口頭弁論202回、控訴300回)は、逆から見れば、いかに当時の映画業界が、エディスンの発明とされた映写機の特許を疑問視していたかを物語っていると言えるでしょう。
●トーマス・エディスン
●トーマス・アーマットと彼がエディスン社系列「ラフ&ギャモン商会」に持ち込んだ映写機ファンタスコープ
●ファンタスコープから生まれたヴァイタスコープ
●ウッドヴィル・レイサムと「ヴァイタスコープ」の機構のかなめの一つであるレイサム・ループ
エディスン社では当然、これだけのおびただしい紛争に早く決着を付けたいと考えていました。それを一番感じていたのはエディスン自身だったはずです。
側近は阿吽(あうん)の呼吸で、早期決着のためにすばやく行動を起こしました。それはエディスン社がリーダーとなり、同業各社を従えて映画業界を独占するトラストをまとめ上げることでした。エディスンの特許を無視する会社を映画界から締め出すことが目的です。
エディスン社では、すご腕の取締役・法律顧問ウィリアム・ギルモアを参謀とすれば、10年にわたる長期の特許戦争を直接指揮したのは、最高顧問弁護士フランク・ダイヤーでした。法律事務所ダイヤー&ダイヤー社を率いるリチャード・ダイヤーの弟です。
1897年から始まったAMC(アメリカン・ミュートスコープ・カンパニー)に関わる審理でフランク・ダイヤーは、一つのレンズで動く写真(Moving Picture)を撮影する装置を初めて作ったのはトーマス・A・エディスンであると主張します。この法廷は、弟フランク・ダイヤーが証言台に立ち、兄リチャード・ダイヤーが訊問に当たるという構図でした。このフランク・ダイヤーの主張はいったんは認められ、エディスン社は早速権利行使に入ります。
けれども、数日後の法廷で、それ以前に単レンズ式撮影機を作り上げていたのはオーギュスタン・ル・プランスだと主張する彼の実弟アドルフ・ル・プランスの証言に虚を突かれます。AMCはル・プランスの特許を使っていたこともあり、アドルフの証言を全面的に支援します。それによってエディスン側の論理はいったんは突き崩されそうになります。
●オーギュスタン・ル・プランス
●オーギュスタン・ル・プランスの単レンズ式撮影機
ところが、アドルフ/AMC側が決定的証拠となるその映写機の実物を提示できなかったため・・・既述の通り、1890年9月、オーギュスタン・ル・プランス、撮影機他一式とともに行方不明・・・1901年7月、法廷は「映画撮影機の発明者はトーマス・エディスン」との決定を下しました。その渦中で証人アドルフ・ル・プランスがファイヤー・アイランドで銃殺された姿で発見された事件も既述の通りです。
その後さらに曲折を経て1907年秋、シカゴの連邦裁判所でフランク・ダイヤーは、エディスンの特許を侵害する映写機を使った会社に対する訴訟に勝利。その判例は、その気になればいつでも、すべての映画製作者の上映を禁止できるほど強力な権利を保障したものでした。ここにエディスンは、アメリカの映画界で最高の権力を手にしたのでした。
●ウィリアム・ギルモア
エディスン社がまず取り組んだのは、配給(流通)を押さえること。人気絶頂の5セント映画館ニッケル・オデオンを牛耳ることでした。
1905年に初登場したニッケル・オデオンは瞬く間に全米に広がり、1908年には5000館を越え、1週間に1500万人もの観客動員数を記録するほどまでに急成長していました。そのためエディスン社だけでは製作が間に合わず、その間隙を縫うように中小零細の映画会社が製作したいろいろなフィルムが上映されていました。当然それらはエディスン社には無許可です。
それは営業妨害だということで、エディスン社は自社の特許を認めようとしないこれらの製作・配給・レンタル業者を排斥するために動き出しました。
●ニッケル・オデオンの例 1906 ●300mフィルム仕様の映写機
次はPRです。エディスン社はシカゴ・トリビューン紙を動かして、ニッケル・オデオンが上映している映画は青少年の教育上好ましくないというキャンペーンを張りました。
確かに中には公序良俗に反するような映画も上映されておりましたから、教育関係者や年少の子を持つ親たちは真っ先に、エディスン社のムーブメントを信頼できるものとして支持しました。そして遂にその運動が議会を動かして、全米に前例の無い映画の検閲制度が生まれました。
もちろん検閲に合格する「良い映画」を作っているのは、エディスン社に特許料を納めている会社という訳です。
この運動は、その後に続くエディスン社の戦略を隠蔽し、社会的支持を得るために効力を発揮することになります。
1907年の暮れ。映画フィルムのレンタル業者を集めた会合で、フランク・ダイヤーはこう宣言しました。「撮影や上映のために雇われたあなた方は、先般のシカゴ連邦裁判所の判例が示す通り、すべてエディスン社の特許を利用しているとみなされる。従って、その業務に関わるものは誰でも規定の料金を支払わなければならない。これに違反すれば有罪を宣告されることになるだろう」
それまでに、エディスン社の、ライバルに対する執拗な訴訟のやり方を見聞きしていたフィルムレンタル業者たちは震いあがりました。
●現在でもありそうな話ですが…
頃はシカゴやニューヨークの場末の一角で、ギャング組織が地盤固めに取り掛かり始めていたような時代です。
辣腕と悪辣は表裏一体。ギルモアやダイヤーのような、社会の裏側に通じている法律や政治の専門家は、新聞社、探偵社など情報ルートにも仲間を持ち、金で動く悪徳連中を背後に従えて、一皮向けばダークサイドのダースべーダー。
●1900年代 ニューヨーク湾のエリス島に降り立った移民たち
彼らの常套手段はアメとムチ。日頃ライバル会社の動きをつかむために放っておいたスパイから情報が入ると、まずは部下を差し向け、表向きは低姿勢で慇懃無礼な"ご挨拶"。その手に乗らないとマスコミを巻き込んで、誹謗中傷の宣伝戦。それにも動じないと金を握らせて口封じ。これが実は最後通告で、それを撥ねつけられたとたん、手の平を反すように徹底した嫌がらせが始まる。
もちろん彼らが直接姿をさらすことはないし、エディスンはあくまでも総帥として、どこかの国のお大臣のように「秘書がやったこと、私は関与しない」と、公衆の前でにこやかに微笑んでさえいれば、すべてはうまく運ぶのでした。
それまでも、その後も、エディスン社の特許と称するものを受け入れない映画製作や配給会社には、その筋の男たちがいやがらせや殴り込みをかけて恐喝したり、暴力によって営業ができなくなる程に会社を破壊したり、という暴挙が続いていました。
こうした様子は、ピーター・ボグダノヴィッチ監督によるそのものずばりの「ニッケル・オデオン」(1976)や、ハリウッド創生期を背景としたパオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の「グッドモーニング・バビロン!」(1987)(未確認)など、当時の映画界を舞台にした映画に遠慮がちに描かれています。
余談ですが、こういったアンフェアなやり方は決して過去の話ではありません。政治の世界における政権争いや派閥争いを持ち出すまでもなく、程度の差こそあれ、身近なところでは会社内の出世争いや、仲良しの集まりであるはずの同好会にすら見受けられるようです。
相手に肩書きがあればそれを鵜呑みにせず、その肩書きをどうして得たかという人間としての質を見極めることこそ大事。トップの覚えも良く、立派な肩書きで一見好人物。正論を唱え腕も立つように思える人間が、実は上役にはおべっかを使い、裏ではライバルの弱点を調べ上げ、恐喝まがいの悪辣な手段で引きずり降ろして成り上がった要注意人物だったりして。おのおのがた、ご油断めさるな。
つづく
064 9人だけれど「独り占め」・映画特許会社 [映画をめぐる確執]
064 9人だけれど「独り占め」
映画特許戦争-②
●ニューヨーク郊外、ウェストオレンジのエディスン研究所 1900年頃
前回からの続きです。
●1社独占はおよしなさい。
1907年.映画の「配給」をある程度抑えることに成功したエディスン社の次の策略。それは「製作」の独占でした。
エディスン社の相次ぐ提訴で競合する映画会社は沈黙させられ、今や映画市場はエディスン社と宿敵バイオグラフ社の2社による寡占状態になっていたのですが、エディスン社ではなんとかそのバイオグラフ社も排斥し、市場からの撤退に追い込みたいと考えていました。
バイオグラフ社・・・12年前の1895年にエディスンと袂を分かったウィリアム・ディクソンが取締役として在籍する最強のライバル会社です。
●ウィリアム・ディクスン
こうして1908年は、映画史にとって大きな転機を迎えることになりました。
製作の基盤は生フィルムです。フィルムを押さえることは映画産業の要を握ること。エディスン社の策士、法律顧問のウィリアム・ギルモアは、映画製作会社のカルテルの形成をめざし、1900年代初めにアメリカの90パーセントのフィルム需要をまかなう独占企業に成長していたイーストマン・コダック社のジョージ・イーストマンを囲い込むことを画策しました。
●ウィリアム・ギルモア
彼の耳には同社が、1897年5月に発生したチャリティ・バザールの大惨事以来研究を続けている不燃性フィルムの完成(1909年秋)が目前であるというニュースが伝わっていました。ギルモアの考えは、そのフィルムを含めて、映画に関するすべての権利をエディスン社1社で独占することでした。
●ジョージ・イーストマン
話を受けたイーストマンはエディスンに会い、「製作、プリント、配給、興行まで、映画のすべてを独占することは、あなたにとって決してプラスとはならないでしょう。私たちにとって重要なことは、なによりも良い映画を作ることではないですか。私が考えているのは、世界をリードしているアメリカとフランスのメジャー映画会社によるカルテル(同一業種の連合)です」と伝えました。
イーストマンはフランスの会社を2社仲間に入れることを考えていました。1社は敬愛して止まないジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社。その加盟をぜひエディスンに認めさせたい。
物語映画の祖とされるメリエスは、この頃、旧態依然の作品で人気に陰りを見せ始めていたとはいえ、1905年には「千一夜物語」(440m)と「リップ・ヴァン・ウィンクルの伝説」(405m)。1907年には「海底20万マイル」(265m)という30シーンもある大作を発表。舞台劇風芸術路線の作風を曲げないで、巧妙なトリックを使った映画製作はまだまだ健在でした。
●ジョルジュ・メリエス ●シャルル・パテ
もう1社はパテ・フレール社。同社はそれまでイーストマン・コダック社の最大の得意先でしたが、1906年には同社に対抗してフィルム生産工場を開設。1日の生産量は12,000メートルにもおよび、イーストマン・コダック社をしのいでいました。そのためエディスン社でもパテ・フレール社なしでのカルテルは考えられないはずです。
イーストマンにしてみれば、自社のフィルムはヨーロッパでもどんどん使って欲しい。その意味でエディスン社の連合に供給を限定するメリットは薄いのですが、エディスン社と話をまとめるためには妥協も必要でした。
なお、映画発明の栄誉を担うリュミエール社は、1897年3月にマッキンリー大統領の保護政策でアメリカから追い払われるように撤退を余儀なくされた後は、映画製作への情熱は消滅したかのようでした。
同社は1902年に映画関係機材の特許をすべてパテ・フレール社に売り、元々の写真材料の生産と映画専門館の事業へと方向転換を図っていましたから、イーストマンの考えの対象にはならなかったようでした。
●トーマス・エディスン
●それじゃ、グループで独占しようじゃないか
ところがエディスン社では早速、カルテルよりも強力な独占力を持つトラスト(同一業種の合同)の形成に向けて動き出しました。そこには法律家フランク・ダイヤーの考えが反映していたと見ていいでしょう。
建前は、フィルムの無断コピーを禁止することによって品質の確保を図ること。次に、同業間における無駄な競合を排除するため、というものでした。
中味は、エディスンの持つ映画特許のすべてについて共同利用を許可する代わりに、製作される作品のすべてから特許料を徴収すること。また、加盟会社以外の映画を扱う配給業者には加盟会社の映画を配給しない、というものでした。
更に加盟会社にとって魅力だったのは、イーストマン・コダック社は加盟会社にだけ生フィルムを供給するということでした。フィルムの供給を断たれれば、映画は作れません。「仲間になれば面倒を見てやる。従わなければ映画は作らせない」という、これはエディスン社によるあからさまな映画産業の独占宣言でした。
●持つべきものは「切り札」
このトラスト編成に対してバイオグラフ社が黙っているはずはありません。それはエディスン社に対して徹底抗戦できる切り札を持っていたからです。
バイオグラフ社はそれを元に、大銀行でこのあとタイタニック号(1912)の実質的なオーナーとなる金融界の総帥モルガングループを後ろ盾に、加盟18社を結集した対抗トラストを結成します。
対するエディスン社は、スタンダードオイルで石油業界を独占するロックフェラーグループの支持を得ていました。こうして財界を巻き込んで一触即発の危機にまで至ったのですが、そこで効果を発揮したのがバイオグラフ社の切り札です。
●映画特許会社(MPPC)の設立
バイオグラフ社の切り札・・・それは、トーマス・エディスンの発明とされるものに含まれていて、実はウッドヴィル・レイサムの発明であるレイサム・ループ(フィルム送りのたるみ)と、トーマス・アーマットとチャールズ・ジェンキンスが発明したフィルムの間欠送り機構。この二つの特許をバイオグラフ社は彼らから譲り受けていたのでした。
バイオグラフ社は、エディスン社の特許に自社のこの特許を加えて、利益を分配することをエディスン社に申し入れました。
●ウッドヴィル・レイサムとレイサム・ループ
●上左/トーマス・マット 上右/チャールズ・ジェンキンス
●下/アーマットがエジソンのところに持ち込んだ映写機「ファンタスコープ」
こういう問題への対処はすべてフランク・ダイヤーの役割です。エディスン社としては到底受け入れられる条件ではありません。当然話し合いは物別れ。
するとバイオグラフ社は、いちかばちかの大勝負に打って出ました。「我々は現実味の無い無駄な話し合いをこれ以上続けたいとは思わない。あくまでもエディスン社主導で映画市場を支配しようというのなら、わが社は直ちに自社の所有する映写機の特許を世界中に開放するだろう」。
そんなことをされたらエディスン社の特許は意味がなくなってしまいます。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。バイオグラフ社のこのハッタリには、さすがのダイヤーも折れるしかありませんでした。
●エジソン研究所 1908年頃
こうして1908年12月18日。ニューヨーク郊外ウェスト・オレンジのエディスン研究所に、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社(社長はスチュアート・ブラックトン)、ルービン社、シーリグ社、エッサネー社、カーレム社、それにフランスのパテ・フレール社、ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社の9つのメジャーが揃い、映画特許会社(MPPC Motion Picture Patent Company)が発足しました。
これはメジャー各社が、エディスンを映写機の発明者として承認することでもありました。そして合衆国内では、この9社以外では映画を製作したり配給したりすることが出来なくなったのです。
そしてこの年の暮れ、MPPCは各社の傘下にあるフィルムレンタル業者(配給社)と興業者を集めてMPPCの結成を告知しました。その席でエディスン社の取締役であり顧問弁護士のフランク・ダイヤーは声高らかに宣言しました。
「今後アメリカでは、承認された製作者、承認された撮影機、承認された映写機によるものだけが上映されます。これらの映画は、承認された興業者が、承認されたフィルム賃貸業者を経て、承認された映画館で上映されることになります。すべての映画館は毎週2ドル。すべての賃貸業者は年間5000ドル。すべての製作者はフィルム1フィートにつき0.5セントの許可料をトラストに支払うことにご賛同ください」
つまり、これにより、認可されていない競争相手や脆弱な賃貸業者を排除して映画市場の健全化を促し、いざという時には力になって上げよう、と言うわけです。
●ロバト・ポール ●レオン・ゴーモン
この話が伝わると、ヨーロッパの国々の映画製作者から、いろいろ懸念の声が漏れてきました。MMPCのメンバーとなったジョルジュ・メリエスの元には、イギリスの友人ロバート・ポールから、アメリカ映画を求めているヨーロッパの市場はどうなるのかとの疑念が寄せられました。また、レオン・ゴーモンとイタリアのチネス社からは、自分たちも仲間に入れてもらえるようにエディスンに掛け合ってほしいと懇願されました。
1900年以降、イタリア映画界の振興は目覚ましく、チネス社の他にはイタラ社、アンプロージオ社による「ローマの征服」「カラブリアの地震」といったスペクタクルな歴史劇路線の力作を生み出し始めていたのです。
ともあれ、エディスン社の長かった特許10年戦争の幕は、一応降りました。この組織の内容は実際にはカルテルでしたが、周囲からは怖れを込めて「エディスン・トラスト」と呼ばれたものでした。
エディスン社による1社独占をエディスンに提言し、それを実現できなかったウィリアム・ギルモアがエディスン社を去ったのは、それから間もなくのことでした。
●1908.12.19 MPPC設立の祝宴でかつてのライバルたちと集うエディスン(前列左)
●1908.12.18 MPPC設立に集まった9社の関係者 中央はトーマス・エディスン
●老兵は消え去るのみ
10年にわたる特許戦争終結の功労者はフランク・ダイヤーであることについて、エディスン社内部で異論を唱える人はおりませんでした。エディスンの右腕だったウィリアム・ギルモアはあくまでも参謀の立場でした。トラスト設立に対して具体的な実績はありません。二人とも敏腕とはいえ、エディスンにとって統率者は二人も要らない。ギルモアが早々にエディスン社を去った裏には、彼自身にそういう判断が働いたのかもしれません。
そして、ギルモアの後釜としてウェスト・オレンジのエジソン研究所総支配人およびエディスン社副会長の座に座ったのはフランク・ダイヤーでした。
このあとエディスン・トラストは、特許を盾に、違反会社に対してますます容赦の無い制裁を加えていきます。当時のことですから、違反会社の中には姑息な手段を弄したり、悪辣な手を使う配給業者もあったようです。が、いずれにしても彼らに対する法律上の実働部隊・執達吏の行使は、フランク・ダイヤーの兄、リチャード・ダイヤーが経営する法律事務所「ダイヤー&ダイヤー社」の仕事でした。
また同時期、MMPCが映画の社会的、教育的使命を表向きに謳った倫理規定を敷衍するための「映画検閲国家委員会」も発足しました。こうして、アメリカ全土における映画の検閲制度が発足します。
ところで、こうした特許戦争のさなかの1907年春。働き口を探してニューヨークにやってきたしがない俳優カップルがありました。二人は巡り巡ってバイオグラフ社の門をたたきます。その彼こそ、後の世に「映画の父」と称されるデビッド・ウォーク・グリフィス、その人でした。
つづく