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065 土に合い、水になじめば、花は咲く・・・D・W・グリフィス [表現の功労者]

065 土に合い、水になじめば、花は咲く
       デビッド・ウォーク・グリフィス―①

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●時代背景 1900年代初頭のニューヨーク

  アメリカにおける映画事業の独占が、エディスン社主導の元にMPPCMotion Picture Patent Company)の名称でようやくまとまろうとしている頃、組織を構成する1社であるバイオグラフ社に現れた若い夫婦。
  彼は才能を開花させる場所を得て、数年でアメリカ映画を、いや世界映画史に残る偉業を示
すことになります。


●ご存知なら、あなたも映画通

  デビッド
・W・グリフィスは、今日「映画の父」として、映画関係者ならずとも映画大好き人間なら誰でも知っている有名人です。映画の技術的な発明はリュミエール兄弟ですが、グリフィスは映画の表現手法を編み出し、映画言語の基盤を確立したからです。
  つまり、それまでに見られたような、舞台劇をそのままフィルムに移し変えたような退屈なものではなく、撮影段階とその後の編集の工夫で、動く写真(Motion Picture
)でしか表現できない映画ならではの見せ方を発見し、提示したのです。

GRIFFITH.jpeg●D・W・グリフィス

  彼が映画監督として歴史に刻んだ代表作は「国民の創生」(1915)と「イントレランス」(1916)ですが、そんな彼も最初はなかなか望む場所を得られずに遠回りをしていたようです。なぜなら、彼がバイオグラフ社に現れる前は、エディスン社にも足を運んで試行錯誤しているのです。


●演劇の演出家になりたかったグリフィス
  グリフィスは南北戦争が終結した10年後の1875年に、リンカーン大統領と同じケンタッキー州で生まれました。アメリカ北部と南部のちょうど中間に位置するケンタッキー州の大方は北軍に属したのですが、大農園を経営する父は奴隷解放に反対し、南軍で戦いました。
 戦後、農地と奴隷は解放され、グリフィスの少年時代は困窮を極めていました。そんな中でも両親は彼に高い教育を受けさせました。

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●ケンタッキー州は奴隷制をとっていたので、南北戦争では両軍に分かれた 1861

 成長するにつれグリフィスは、自分が文系に向いていることを知り、小説や戯曲を書き始めました。彼の中にはすでに舞台の演出家になりたいという明確な願望が芽生えていたようです。
 映画誕生とされる1895年はグリフィスが20歳の時になります。その頃の映画は見世物の域を出ず、演劇よりもはるかに低俗なもので、演出家を志すグリフィスの眼中には無かったと思われます。成人するとグリフィスは演劇活動も始めました。ライターも俳優も、彼にとっては演劇の演出家という最終目的達成のためのステップだったと思われます。

 グリフィスが俳優としてニューヨーク・デビューを果たしたのは
31歳の頃でした。同じ俳優のリンダ・ア-ヴィドスンと知り合い、結婚。でも芝居ではなかなか二人の生活費は稼げません。ところが映画は世の中の人気を得て、今や芝居をしのぎそうな勢いです。そこで彼は手持ちの戯曲の売込みを思い立ち、どうせなら、と業界トップのエディスン社に当たってみました。1907年の春のことです。

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・ポーターと彼の代表作
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●「あるアメリカ消防夫の生活」1902    ●「大列車強盗」1903 

 グリフィスに会ったのは、あの「大列車強盗」の監督で名高いエドウィン・S・ポーターでした。ポーターは、ルックスもよく役者もやっているというグリフィスを一目見て、これは俳優として使えると直感しました。当時ポーターは週単位でニッケルオデオンに配給するための短編映画の製作に追われ、いつもと違う新鮮な役者の登用の必要性を感じていたのです。


●まずはエジソン社で、映画俳優としてスタート

 ポーターはグリフィスの持ち込んだ戯曲…それは「トスカ」の翻案でしたが…に一応の敬意は払いながらも、自分で構想していたアクション映画にグリフィスを起用することにしました。芝居の戯曲として書かれたものをそのまま映画のシナリオとしては使えないことをポーターは知っていたからかも知れません。根本的な違い。それは演劇は限られた舞台空間でしか展開できませんが、映画にはその制約が全く無いことです。当時の映画人はやっとその違いに気づき始めた頃なのです。

 エドウィン・ポーター監督の新作は「鷲の巣から救われて」。
 
岩山の平地にある開拓者の家。外で遊ぶ幼い息子を残して母親が家の中に入ったその瞬間、大鷲が息子を文字通り鷲づかみにしてさらって行きます。鷲の巣を探し当てた父親・つまりグリフィスが仲間の協力でロープを伝って崖を降り、息子を助け上げようとしたところ、襲い来る大鷲。壮絶な格闘。ようやく大鷲を倒してグリフィスは息子と共にロープで引き上げられていきます。めでたしめでたし。

 ●「鷲ノ巣から救われて」1907 無音 57秒
 
シーケンス 02.JPG      
             鷲の巣から.JPG 
●2点とも「鷲ノ巣から救われて」1907 役者として出演しているグリフィス

 物語は他愛なく、映画とは言えセットもまだまだ芝居の舞台の域を出ていません。大鷲と息子を吊り上げて背景の絵を巻き取ることで鷲の飛行を表現していますが、1900年パリ万国博における巨大パノラマの視覚効果が応用されていることが分かります。

 いずれにしてもポーターのこの作品は「大列車強盗」をしのぐ出来ではなく、グリフィスの映画デビュー作品として知られているようです。それにしても舞台装置家ロバート・マーフィの手による大鷲とその操演にこそ注目すべきでしょう。


IMGP8246ok.jpg1907.JPG
●鷲は左のパノラマの応用で、背景画を左に移動させることで飛行感を出している 

(この発展形がスクリーンプロセス。止まっている車の背景スクリーンに、走る車から撮影した風景を投影して実際に走っているように見せるテクニックは現在も使われている)


●どっちの水が甘いか

 「鷲の巣から救われて」(1908)は興行的にはなかなか評判が良かったので、グリフィスは映画も面白そうだという気がしてきました。ポーターの映画づくりの手法は、自分が考えていた演劇の演出家の仕事と基本的には同じものだったからです。戯曲を書いたりした経験を持つ自分なら映画監督も悪くない。食うために探し当てた映画の世界で自分の力が試せるなら、一丁やってみようか。…けれども入社早々で映画1本に出演しただけのグリフィスを、すぐに映画監督にしてくれる人はおりません。

P1120784.JPG ディクスン.png 
●時代背景 T型フォードが街にあふれている 1908                  ●ウィリアム・ディクスン 

 そこでグリフィスはリンダといっしょに、エディスン社の最強のライバル、あのウィリアム・ディクスンが在籍するバイオグラフ社を訪れたのでした。ショービジネスの世界における当時の求職活動というのは、ボードヴィルの役者もマジシャンもサーカスのジャグラーも空中ブランコも、大抵、家族か夫婦か恋人同士かでコンビを組んで会社訪問をし、面接を受けてその場で採用・不採用が言い渡されるというようなやり方が普通でした。

 案ずるより生むが安し。バイオグラフ社では、グリフィスの持ち込んだシナリオと二人の役者としての素養を読み取って、夫婦込みで俳優として契約してくれたのでした。
 エディスン社を辞してバイオグラフ社に移籍したデビッド・グリフィス。そこから水を得た魚のように、彼の本領が発揮されていくことになります。  
                                            
つづく


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066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…グリフィス② [表現の功労者]

066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…
       デビッド・ウォーク・グリフィス―②

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● 「アメリカの恋人」と呼ばれたメアリー・ピックフォード

 1905年には全米でわずか数100軒だった「ニッケル・オデオン」(映画館)は、1908年には10,000軒を突破。
 映画産業急成長のさなかの1907
年、エディスン社で俳優としてデビューしたD・W・グリフィスが本当に映画づくりの面白さを知ったのは、エディスン社のライバルであるバイオグラフ社に移ってからでした。

●俳優をやめて、監督業に
 バイオグラフ社に入ったデビッド・グリフィスと妻のリンダ・ア-ヴィドスン。その最初の仕事は、場末のペニー・アーケードなどで需要が続いている同社の売り物、覗き見式「ミュートスコープ」向けパラパラ動画への出演でした。一方グリフィスは短編映画のアイディアやシナリオも書き続け、採用されるとギャラに加えられるようになりました。

ミュートスコープ.jpg ミュート スコープ.JPG
●コインを入れて覗き見るパラパラ動画「ミュートスコープ」 

 こうして夫婦で10本ほどのパラパラ動画に出演した頃、妻のリンダが活劇映画の主役に抜擢されました。「ニッケル・オデオン」で上映されるのです。グリフィスは脇役として出演したのですが、完成試写で自分の演技を見たグリフィスは失望。二度とカメラの前に立ちたくないと思いました。それがかえって、俳優よりも監督への志向を強めたのでした。

IMGP8668.JPG●D・W・グリフィス

 その夢が実現したのは1908年6月のことでした。上層部につながりを持つ撮影技師ビリー・ピッツァ―が推薦してくれたのです。今では「国民の創生」「イントレランス」という超大作の監督として知られるグリフィスですが、最初からスケールの大きい作品を作っていたわけではありません。「ドリーの冒険」。それがグリフィスの監督デビュー作でした。240メートル。10分ほどの短編です。 

 少女ドリーがさらわれて、馬車に引かせた荷車の樽の中に閉じ込められてしまいます。疾走する馬車の揺れで樽のひもは緩み、ドリーを閉じ込めたまま樽は路上に。疾走する馬車。転がる樽。そしてとうとう樽は河に落ち、波にもまれて流されていきます。流れは次第に急流となり、あわや、というときに釣り人に発見され、無事にドリーは助け出される、というお話です。 


●名優との出会いが創作意欲を拡大

 「ドリーの冒険」は大ヒット。グリフィスはバイオグラフ社の監督として、映画特許会社(MPPC)の決まりに添って毎週300メートルの作品1本と150~200メートルの作品1本を作り続けることになりました。その一方で、俳優の採用やスカウトも任されるようになりました。急カーブで発展途上の映画界は、ライターや監督に限らず、常に新しい俳優を必要としていたのです。

 実際にグリフィスは「ドリーの冒険」で、アーサー・ジョンスンという青年をスカウトしました。また、ヴァイタグラフ社から引き抜かれ、衣装やシナリオにも堪能な女優、フローレンス・ローレンスを自分のシリーズ作品に起用しました。そして、ビリー・ビッツァ―とはその後コンビを組むようになります。

IMGP8664.JPG ビリーbitzer.jpg
●フローレンス・ローレンス                     ●ビリー・ピッツァ―


 また翌年グリフィスは、エディスン社から移籍したばかりのマック・セネットに勧められて、彼の主演による「カーテンレール」という短編も作っています。
 フランスのコメディアン、マックス・ランデを尊敬するセネットのプランによるもので、長いカーテンレールを馬車に横に積み込んだために起きるドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)ですが、あたかもフランスの喜劇映画を見るような味わいがあります。
 けれどもはじめは誰でも先駆者の模倣から始まるもの。細かく見ると群集劇としての演出やカット変わりの編集の仕方などに、すでにグリフィスの才覚が現れている作品と見ることができます。

 ●「カーテンレール」1909 121
●時代背景 1908年、T型フォード生産開始
1908 t型生産開始.JPG   1908 T型生産開始.JPG
 馬車に代わってドタバタコメディに自動車がバンバン登場するようになります。

 このように彼がすぐに監督の仕事をこなせたのは、戯曲やシナリオの修行を積んできたからこそ、といえるでしょう。まるでアメリカン・ドリームを絵に描いたような絶好調な滑り出し。いや、反対にこのようなサクセスストーリーからアメリカン・ドリームという言葉が生まれたのかもしれませんね。


●俳優に厳しかったグリフィス
 当時のD・W・グリフィスの幸運は、たくさんの名優に恵まれたことでした。1909年、16才のメアリー・ピックフォードを起用。5才からステージに立っていたメアリーはバイオグラフ社で70以上の作品に出演していましたが、グリフィスの元でスリラーや西部劇などに出演し、役柄の幅を広げて有名になり、「アメリカの恋人」と呼ばれるまでになりました。

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●1910年頃のニッケル・オデオン 完全な映画館スタイルが確立している

 グリフィスは立場を利用して女優たちと付き合うようなことは決してしませんでした。それは演技指導には役に立たないとして、むしろ厳しい姿勢を貫いたといわれています。(女優の奥さんが同じスタジオで仕事をしていたからかも知れない、なんて)
 有名になったメアリーは21でグリフィスの元を離れます。別れ際にグリフィスが彼女に言った言葉は「君を作ったのは私だということを忘れるな」。

 そんなグリフィスにとっていちばんの収穫は、メアリーがスタジオに招待したリリアンとドロシーのギッシュ姉妹に出会ったことでした。彼はとりわけリリアン・ギッシュに関心を寄せました。

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●リリアン(左)とドロシー(右)のギッシュ姉妹

●ドラマの盛り上げ方を編み出したグリフィスの手腕
 1912年製作の「見えざる敵」では、拳銃の大胆なクロースアップが部屋に閉じ込められたギッシュ姉妹の恐怖を観客に共有させます。

 家に電話をかけても通じない父親の心配。ようやく仲間に連絡が取れても、途中のアクシデントでなかなか車が到着できないもどかしさ。それが姉妹と車の仲間を交互につなぐ(カットバック or クロスカット)ことによって危機感を高めていきます。やがて姉妹の恐怖は極限に達し、健気にも意を決して拳銃を奪おうとする姉。が、銃口を向けられて卒倒してしまいます。

 ●「見えざる敵」1912

 この作品では、彼の師であるエドウィン・ポーターが作った「あるアメリカ消防夫の生活」のような、誰が何をやっているのかよく分からないといった撮り方やつなぎ方は全くみられません。

エドウィン・S・ポーター.jpg シーケンス cc.jpg
●エドウィン・ポーター「あるアメリカ消防夫の生活」(1902)では、
 まだ全身像の描写から抜け出せなかった。

 ポーターの映画では人物はすべて全身像だったからなのですが、グリフィスは正面から、脇から、引いたり寄ったりして自在にカメラポジションを移すと同時に、カメラアングルフレームサイズを変えています。どのように撮り、どのようにつなげば自分が伝えたいことを表現出来るか。それは彼が短編製作の中で試行錯誤の末編み出した手法であり、それがとりもなおさず<映像で語る>ということの実践であったのです。
 ここにはすでに、今日の私たちが観ているサスペンス映画と同じ手法によってドラマの興奮が高められているのです。

■「見えざる敵」のカットバック
 左の室内と右の野外の情景が交互につながれて同時進行を表している
 また人物の大きさが、全身からクロース・アップまで変化に富んでいる

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①                  ②

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③                  ④

シーケンス 07.JPGシーケンス 08.JPG
⑤                  ⑥

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 これらの俳優たちが、そしてこれらの作品づくりの経験が、グリフィスの頭の中でおぼろげながら揺らいでいる新しい構想を次第に明確にしてくれることになります。けれどもそれは数年先のこと。今、彼が目の前の現実として注目しなければならなかったのは、1910年にジョバンニ・パストローネが発表した壮大な歴史劇「トロイ陥落」の大成功に代表されるイタリア映画の躍進ぶりでした。


●アメリカで本格映画会社と呼べるかたちの芽生え 
 ところで、1900年代早々から人気急上昇の「ニッケル・オデオン」ですが、その経営やショー・ビジネスなどを足掛かりにして、1910年前後からその後のアメリカ映画界を代表する傑物たちが台頭し始めていました。彼らの多くはユダヤ人で、東欧や中欧からの移民でした。

 ポーランド移民の4兄弟ワーナー・ブラザーズは1903年にニューキャッスルにストア・ショーの「カスケード座」を開業後、1923年に「ワーナーブラザーズ・ピクチャーズ」を設立します。。
 のちに「パラマウント映画」の創設者となるアドルフ・ズーカーはハンガリー生まれの毛皮商でしたが、エドウィン・ポーターの「大列車強盗」の人気を見て、映画の隆盛を予見。毛皮工場で働いていたオーストリア移民のマーカス・ロウといっしょに「ニッケル・オデオン」を始めます。マーカス・ロウはその後1910年に「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」の設立に参加します。
 ハンガリー生まれの裁縫師ウィリアム・フォックスは1906年にブルックリンに「ペニー・アーケード」を開館したことを皮切りに、1909年にはニューヨークに本格的な映画館「シティ劇場」をオープンします。こうして地盤を整えたのち、1915年に「20世紀フォックス」を立ち上げます。
 「ユニバーサル映画」の創始者、ドイツ生まれの洋服セールスマン、カール・レムリ(カール・レムレエ)は、1906年にショー・ハウスを開館しますが、次第に映画作りに舵を取り始めます。
また、「コロンビア映画」は一足遅れて1917年に、カール・レムリの秘書を経て業界のマナーを学んだ、軽演劇の役者上がりのハリー・コーンにより創設されます。

カール・レムリ Carl Laemmle.jpg●カール・レムリ

 彼らにはまだ映画を新しい産業として推進しようなどという高邁な考えはありませんでした。ましてや芸術などとは思いもよりませんでした。ただ、それまであいまいだった「製作」「配給」「上映」を個別の事業として明確に区別して利益を上げようとする、はっきりとした目的がありました。

 アメリカの映画事業者たちは、映画は決して知的なものでも高尚なものでもなく、ただ自分たちのような移民が体験した苦境を忘れさせ、低所得者層の願望をひと時なりとも叶えて上げたいという心意気がありました。そのあたりが、娯楽重視のアメリカ映画を形作った根幹をなしているのかもしれません。

 1908年には彼らも、トーマス・エディスンの肝入りで発足した映画特許会社(MPPC)に無理やり組み込まれた興業者の一人ということになります。従ってMPPCは、彼らの精力的な動きに対して最初からかなりの無理をはらんでいたためにやがては瓦解せざるを得ないことになるのですが、それはまだまだ先の話です。                    

つづく

★掲出の動画は本来サイレントですが、音楽・効果音は後世に公開当時を想定して擬似的に付けられたものです。

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