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062 100年前、それは映画の分岐点 [技術と表現の進歩]

 


62 100年前、それは映画の分岐点-②
     劇場の添え物
から、「映画」として独立。

映写技師 20C初頭.jpg
●300メートルリールの手回し映写機を操作する映写技師 1910年代後半。
 左の助手が映写ハンドルを回すと巻取りリールも連動して回転する。
 

 前回は、1908年に映画フィルムの規格が確立し、35ミリ幅で300メートル(約1,000フィート)、しかも不燃性の長尺フィルムが生産されるようになったことをお話しました。それが長編映画時代への足ががりとなるのですが、まず取り掛からなければならなかったのは、そのフィルムを取り扱う環境づくりからでした。
 また、カメラマンと映写技師、照明、大道具・小道具、音響効果、衣装などは20世紀に入った頃から専業化していましたが、長編映画の製作が進むと、作品としてまとめ上げる人=監督と、演じる人=俳優とが明確に分けられるようになり、それぞれが専門性を要求されるようになりました。こうして最初は演劇の真似事をしていた映画は、ようやくそれとは異なる独自の方向を目指して歩き始めます。


●フィルムが長くなって映写機と撮影機が変わった
 
フィルム規格の確立は、まず映写機の改良につながりました。それまで100メートル程度のフィルムしか掛けられなかったリールが300メートルリールに変わり、手回しで約15分の連続上映が可能になったのです。1時間の映画ならリール4巻分。それを架け替えて、続けて上映すればいい訳です。

初期の映写機 アーク灯使用.jpg
●1909年、レンズの前に3枚羽根の回転シャッターを取り付けてフリッカーを軽減
 このあと回転シャッターは、本体内蔵に変わる



  翌1909年には、映画のちらつき(フリッカー)を低減させる3枚羽根の回転シャッターも開発されたので、観客は目を疲れさせずに見られるようになりました。
  同年にはまた、300メートルフィルムを使える撮影機も登場しました。それまでは木箱ひとつの中で17メートルのフィルムを回転させて撮影していたのですが、本体の外に300メートルのフィルムを装填する箱と、巻き取ったフィルムを収める箱を取り付けました。

デブリエ・パルボ35ミリカメラ 1908.jpg●これが最初のカメラのかたち 1900年頃
IMGP7930-2.JPG 長尺カメラ.jpeg
●長尺フィルム用撮影機 2例 1910年代


 この木箱様式の撮影機は、
1920年頃にはすべて二こぶラクダのような形をした金属製に変わります。300メートルフィルムを搭載できたことによって、フィルムを惜しげもなく回せるようになりました。同じカットを何回も撮り直すことで、演技の質が向上しました。(300m/約1000ftのカメラは大型のため、主としてスタジオで。野外ロケには下の写真のように122m/400ftのフィルムを装填したカメラが使われたようです。)


IMGP8379.JPG
●1920年代のダンディ式、じゃなかった電動式撮影機


●映写機2台による連続上映方式が定着
 
1巻15分の継続上映が可能になると、今度はそれを一つの単位として、30分以上の長い映画も作られるようになりました。すると、フィルム交換の時間が問題になってきました。せっかくいいところで何分も待たされたのでは、観客は興ざめです。そこは大繁盛の業界ですから、すぐに2台の映写機を並べて上映する方式が考えられました。

 1台目にロール1、2台目にロール2のフィルムを掛け、ロール1が終わる直前に2台目の映写機に切り替える。この辺りは映写技師の腕の見せ所なのですが、それを交互に繰り返すことによって、2時間でも3時間でもまったく切れ目無しに上映することが可能となったのです。この上映方式は1914年以前には始まっていたということです。


●撮影・上映は、ようやく手回しから電動式に
 
一方で、映写技師と撮影技師(カメラマン)の省力化にも開発の目が向けられました。長時間連続の手回しハンドル操作は疲れます。回転スピードが狂ったら困りますので、交代要員が付くようになりました。

 それもつかの間、1910年に小型電動モーターが開発されると、早速、撮影機、映写機に導入されることになりました。こうして場末の「小屋」と呼ばれるような映画館以外、映写機の動力はモーターに移行していき、1920年以降、電動方式が一般的になります。

IMGP8383.JPG
●1906年、ニッケル・オデオンは誕生以来1年でここまで成長。
 1910年にはアメリカだけで10.000館。1週間に3,000万人もの動員を記録するほどに成長する。


 前回、映画解説者や活動弁士はトーキー映画の出現によって失職してしまったことをお話しましたが、では電動モーターの出現によって映画のカメラマンや映写技師たちも失業してしまったのでしょうか。
 いやいや、彼らは撮影や映写に関する光学的・機械的な知識と技術を高いレベルで身につけていました。彼らの作業は軽減されこそすれ専門性はますます求められて、その立場は揺るぎませんでした。同じ「技」であり「専門家」でありながら、両者のちがいはどこにあるのでしょうか。

 電動式映写機には、電圧の変化に対応するため、映写スピードを116コマから24コマ程度までフレキシブルに変えられるダイヤルが付いていました。映画館に観客が殺到すると、熟練した映写技師は映写スピードを速めて客の回転率を高めるような操作もやったということです。


●映画は高尚な娯楽である
 
映画が産業として成長し始めると、世界中で映画が製作されるようになりました。
 元祖フランスでは、映画にも伝統的な芸術の味わいを採り入れようとしました。1907年に誕生したフィルム・ダール社(文字通り芸術映画社)は、低俗な見世物と思われている映画の社会的評価を高めるために、当代一流の作家を起用。晩年のサラ・ベルナールを初めとするそうそうたる舞台俳優を揃えて、「エリザベス女王」など数本の映画を製作しました。

IMGP8386.JPG
●1912年「エリザベス女王」臨終の場における舞台の大女優サラ・ベルナールの熱演


 1908年公開の長編「ギーズ公の暗殺」は、過去にリュミエール兄弟シャルル・パテもクライマックスの1場面を短編で制作しているほど有名な話でした。
 フィルム・ダール社は全場面の映画化に臨み、俳優の演技を軸に、美術、音楽(サン・サーンス作曲)を融合させ、映画美学というべきものを追求しようとしました。

 ●「ギーズ公の暗殺」1908 無音 50秒

 確かにこの映画は2時間以上におよび、長編映画のさきがけとも言えるものでした。けれども、残念ながらこの時代には映画の演技術とカメラワークが確立していなかったために、演劇そのものの大げさな演技と舞台をそのまま撮影するやり方は、新しいメディアとしての映画に求められる表現に逆行するものでした。観客は舞台そのものを見ているような映画に失望して結局は失敗。フィルム・ダール社は翌年早くも破産してしまいます。
 けれどもフィルム・ダール社の功績は、単なる娯楽と見られていた映画の前途を、娯楽から芸術までという幅広い領域にまで拡大したのでした。


●長編をつくるため、製作面が分業化
 
最初の映画は、例えばジョルジュ・メリエスのように、一人の製作者がストーリーを考え、自ら主役を演じていました。カメラマンはもちろん別ですが、メリエスは自分で舞台装置を設計し(建具作業は別ですが)、衣装をデザインし(裁縫は別ですが)、演技はすべて彼の頭の中にありました。それは短編だからこそ出来たこと。長編はそうは行きません。必然的に役割分担の必要が生じてきました。そこで役立ったのは、フィルム・ダール社の、演劇をベースにしたスタッフ、キャストの考え方です。

SN00059.png porter edwin.jpg
●ジョルジュ・メリエス          ●エドウィン・ポーター


 現場で作品全体を仕切るのは監督。その指揮の元に撮影技師(カメラマン)、道具方、照明係、衣装係といったスタッフが働く仕組みが生まれました。監督としては「大列車強盗」を演出したエドウィン・ポーターはそのはしりといえるでしょう。
 また出演者は、当初フランスではコメディ・フランセーズの役者などでしたが、1910
年前後から前回述べた「ブロンコ・ビリー」のように、舞台以外から客を呼べる役者が登場してきました。これは間もなく映画俳優という新しい職業を形成していきます。

 こうして長編映画の製作・上映環境は着実に進展していきました。1910
年代後半には、途中の休憩を含めて2時間半程度の興行が一般的になりました。ここに、今日の上映形態に似た、映画館での楽しみ方が固まったわけです。


 これまで4回にわたり、カラー、音声、フィルムの長尺化、それが及ぼした影響についてまとめてきました。それぞれの全体的な流れを展望するためにかなり先までお話しましたが、次回からはタイムラインを再び1908年前後に戻して続けたいと思います。
 次回と次々回は映画史で避けて通れない、トーマス・エディスン主導の映画特許政策について押さえておきたいと思います。



 








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路渡カッパ

機材もシステムも随分現代に通じる馴染みあるものになってきましたね。
フィルム・ダール社の破産、観客の要望を読み違えるとこうなるのですね。(^_^ゞ
by 路渡カッパ (2015-06-22 09:29) 

sig

路渡カッパさん、こんにちは。
さすがカッパさん。歴史に学んでいらっしゃる。笑
まだまだ手回しの時代は続くのですが、それ以外はかなり整ってきましたね。やはり進化は必要性から生まれるようです。
フィルム・ダールは芸術家の集団でした。映画はお下劣なお遊びじゃなく、高尚な芸術ですよ、ということで、映画の質を高めようとしたのですが、相変わらず舞台芸術をそのまま撮っていた。映画ならではの手法を見いだせなかったのですね。ニッケル・オデオンの観客はそんなものを求めてはいないのです。フィルム・ダールはお高く留まっているように映ったのでしょうね。映画はやはり圧倒的多数の大衆のものなのでしょう。


by sig (2015-06-22 10:48) 

さる1号

分業化が進んで長時間上映の映画が作れるようになったのですね
長さを競うような事はなかったのかな
by さる1号 (2015-06-22 12:17) 

sig

さる1号さん、こんにちは。
長尺のフィルムが生産・供給されるようになって、長い映画が作られるようになり、製作スケールが拡大したことで分業化が進んだというところでしょうか。
後で書くことになりますが、当時の業界をリードすることになるエディスン主導の特許会社は長編づくりには反対でした。「映画は息抜きなのだから、観客を疲れさせないように、300m、15分以内にとどめるように」、これが指針でした。それに反発を覚えたクリエーターが、インデペンデントとして長編の名作を作りだしていくことになります。
by sig (2015-06-22 19:04) 

駅員3

複数台で連続上映・・・もう規格が確立されたの直後から始まったのですね。
草創期の人たちの涙ぐましい努力の結果現在がある・・・こんな素敵な歴史もこちらのブログを拝読しなければ、知らずに通り過ぎていたところです。
by 駅員3 (2015-06-23 08:01) 

sig

駅員3さん、こんにちは。
たまたま私は映画の技術的進展に興味をもって調べて来たのですが、基本的にはどの分野でも同様のことが行われて現在があるのでしょうね。私たちは本当にいい時代に存在していると思います。
かといって、昔の人たちが不運だと感じていたわけではなく、それぞれの時代の人はそれぞれが、いい時代に生まれて来たものだ と満足していたのではないでしょうか。文化文明とはそんなものではないでしょうか。
by sig (2015-06-23 11:03) 

風来鶏

そう考えると、富士フィルムの8㎜カメラに使われた"マガジンポン!"のアイディアは画期的でしたね(^_^)v
by 風来鶏 (2015-06-23 16:52) 

hatumi30331

100年か〜
色々あった時代の流れ・・・
映画の歴史やね。

by hatumi30331 (2015-06-23 20:27) 

sig

風来鳥さん、こんばんは。
マガジン、ポンはユーザーフレンドリーなアイディアでしたね。このブログでは延べませんが、実は戦前~戦後にかけて9ミリ半(幅が9.5ミリ)という小型映画規格があり、これを販売していたのがパテ社で、カートリッジに入ったものでした。9ミリ半については以前ブログに書きましたが、11月にお話会を予定して準備しているところです。もしご興味がおありでしたら
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2010-06-08

by sig (2015-06-23 22:59) 

sig

hatsumi30331さん、こんばんは。
100年と言えば十昔。人が生まれてから死ぬまでの長さですから、山あり谷あり。映画の世界だけじゃなく、どの世界にも共通なことだと思いますよね。
by sig (2015-06-23 23:04) 

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