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025 火(非)の無いところに、立つ煙。 [技術の功労者]

025  疑惑の人
          トーマス・アルバ・エディスン - 3

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●パ
リ万博に向けて建設中のエッフェル塔 1888年6月                ●トーマス・アルバ・エディスン 1880頃

 映画の発明に向けて、アメリカやヨーロッパでたくさんの発明家や研究者が苦難の研究を続けていた19世紀末。ガラスの写真で行き詰っていた機械的な問題にブレークスルーをあたえたものが、1888(M21)年、ジョージ・イーストマンによるセルロイド製ロールフィルムの発明でした。


  これによって映画の発明競争は一挙に最終段階に突入するのですが、それまで〈動く写真〉にさほど関心を示さなかったエディスンが、「機は熟した」とばかりに動き出します。

200px-GeorgeEastman2.jpg●ロールフィルムの発明者 ジョージ・イーストマン


●エディスンは〈動く写真〉では明らかに後発だった
  1877(M10)年、蓄音機「フォノグラフ」の発明で注目され、その2年後に「白熱電球」で世界をあっといわせたエディスンは、話題になっている〈動く写真〉に、決して無関心ではありませんでした。それどころか、ますます普及している「フォノグラフ」と〈動く写真〉を合体させたら…とすでに考えていたふしがあります。

  1882年、ニューヨークで彼は「エディスン中央発電所」の開設を急いでいましたが、南隣りのニュージャージー州ウェスト・オレンジで、あのエドワード・マイブリッジによる動画上映付きの講演会が開かれると聞くと、多忙な時間を遣り繰って出向いていきました。 

 その数日後、エディスンとマイブリッジは会うことになりました。そこでマイブリッジから出た言葉は思いもよらないものでした。自分の「ゾーアプラクシスコープ」とエディスンの「フォノグラフ」を同期させた、音声付き映写機を作れないものか、という相談だったのです。
 エディスンは即答を避けました。エンドレスで同じ動画が繰り返されるだけの装置では、エディスンの考える〈動く写真〉のイメージとは大きくかけ離れていたからではないでしょうか。結局その話は物別れに終わったようでした。

マイブリッジ.JPG IMGP7708.JPG
●マイブリッジ   ●ゾーアプラクシスコープ
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 エディスンは〈動く写真〉の発明競争を十分意識はしていましたが、動かなかった背景には、それがどれほどの利益をもたらすのかをつかみ切れていなかった事業家としての見方がありそうです。それに彼のプライドが、今さら他の発明家の後を追うことを潔しとしなかったのかも知れません。

 けれども、マイブリッジも同じことを考えているということが、エディスンの気持ちを動かしました。後発だということを自覚していたエディスンは、他の発明家たちと全く方式の異なる装置を生み出さなければなりませんでした。
 思索を巡らす中でエディスンは、改良を加えて完成度を高めた「フォノグラフ」の仕組みを〈動く写真〉に転用することが、遅れを取り戻す近道になると考えました。「うまくいけば、誰もまだ完成させていない音声付き動画装置の発明を実現できるかもしれない」。

 他の発明家たちがこぞって上映式の動画装置を目指す中で、エディスンはあえて上映方式を選びませんでした。「フォノグラフ」の動画装置への転用は、先発の方式との明確な差別化を目指したからであると考えるのが妥当ではないでしょうか。

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●改良型フォノグラフ
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●オリジナルの研究を手がけてはみたものの…

 エディスンの発想は、蝋管に刻む螺旋状の音の溝の代わりに、連続写真を螺旋状に並べたら…というものでした。まずドラムにフィルムシートを巻きつけ、手回しで連続写真を螺旋状に写し込みます。次にその連続写真のシートを「フォノグラフ」のドラムに巻きつけて、回転させながらその動きを覗き見るというものです。

 こうして「フォノグラフ」から10年後の1887(M20)年。エディスンは研究所兼電気製品製造工場をウェスト・オレンジに建てたことを機に、活動拠点もメンロー・パークからそちらに移して、〈動く写真〉の開発に着手したのでした。



エジソン 螺旋フィルム.jpg


●光学蓄音機用ロールフィム 動画参照



  蓄音機の動画版とも言うべき装置の開発を仰せつかったのは、日ごろエディスンから信頼され目を掛けられていたスコットランド生まれの敏腕技術者、ウィリアム・:ケネディ・ローリー・ディクスンでした。

  彼は成人して間もない1881年。青雲の志を抱いてイギリスからアメリカへやってきた青年の一人でした。彼の目的は一つ。世界的発明家の元で身を立てたいと思っていたのでした。幸運にもエディスンに会えた彼は早速、発足したばかりの「エディスン電気照明会社」に採用され、技術者としての手腕を発揮。今ではエディスンの助手として信頼され、技術面を支えていました。

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●ウィリアム・ディクスン            


●ディクスンによる光学蓄音機 (再現動画は無音声です)


  ディクスンが最初に使ったのは紙製のロールフィルムでした。紙フィルムの誕生は、ガラス板の写真で行き詰っていた動画の仕組みをそのしなやかさで見事に解決してくれ、たちまち〈動く写真〉の研究者たちに迎えられましたが、高速で送る時に均衡を保てない、すぐに切れてしまう、などの新たな問題が発生し、みんな苦慮していたのですが、ディクスンも全く同じ苦労を味わうことになりました。

  ところが翌
1888(M21)年、ジョージ・イーストマンがセルロイド製のシートフィルムを発明したという朗報が入りました。ディクスンは早速それを取り寄せてみると、それは1フィート四方のセルロイドシートにゼラチン感光材が塗られているものでした。彼はそのシートをシリンダの幅に断ち、巻きつけて使うことにし、試行錯誤の結果、一応の成功を見ました。これを彼は「光学蓄音機」と呼びました。

  けれども、写真を一コマごとに停止させる、動画に不可欠な間欠送り機構に無知だったため、またも研究は行き詰まってしまいました。


●「動く写真」に関する情報はエジソン周辺にあふれていた


この1880年代の終わりから映画誕生の年とされている1895(M28)年末までの10年足らずの間は、欧米の開発者たちの動きが入り混じっていて実に複雑です。


のちに映画撮影機のプロトタイプと称されるエチエンヌ・マレーの最新型「フィルム式クロノフォトグラフ」が発表されたのも1888(M21)年でした。あの写真銃や多重露光を考案した発明家です。

マレー.jpg 1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●マレー            ●フィルム式クロノフォトグラフ 1888
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1887クロのフォトグラフ 2.JPG  1890 マレイのフィルム式クロノフォトグラフ 2.JPG
●フィルム式クロノフォトグラフ 1888                          ●フィルム式クロノフォトグラフ 1889



マレーも最初に開発した「クロノフォトグラフ」はまだロールフィルムが発明される前だったために、1枚のガラスの写真乾板の上に連続写真を多重露光の形で写し込むものでした。

  けれども1887年から取り掛かった
「フィルム式クロノフォトグラフ」は、ロールフィルムの採用によって、1本のフィルムの上に1コマずつの連続写真として記録できるようにしたものでした。そしてそこには電磁石で正確な間欠運動を起こすフィルム送り機構も付いており、メカニズムは「科学アカデミー報告」という学会で紹介されていました。


一方、この年、やはり先に述べたウィリアム・グリーンがエディスンに手紙を送っています。彼は今日、フィルムを正確に送るためのパーフォレーションの考案者として伝えられていますが、立体映画を撮影するカメラについての研究も続けていました。彼はエディスン宛てに、自分の撮影機兼映写機とエディスンの「フォノグラフ」を結びつけた音声映画撮影・再生装置について、詳しい図面を付けて送ったといわれています。ただし、この話はエディスン側によって否定されているようです。
グリーン.JPG グリーン 立体鏡映画カメラ.JPG
●グリーン         ●立体映画撮影・再生機
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また、1889(M22)年8月に開催されたパリ万国博覧会で、エディスンは「フォノグラフ」と「白熱電球」のデモを行っているのですが、その際、マレーがエディスンに、オットマール・アンシュッツの「エレクトロ・タキスコープ」やエミール・レイノウの「テアトル・オプティーク(光の劇場)」を案内したということも知られています。

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●アンシュッツ       ●エレクトロ・タキスコープ
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エミール・レイノー.jpg レイノウのテアトル・オプティーク1893.jpg
●レイノウ          ●テアトル・オプティーク〈光の劇場〉
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  つまりエディスンは、何人もの発明家が何年もかけて取り組んできた〈動く写真〉の最先端技術を、1890年までにほとんど見聞きすることができたということです。おそらくエディスンはその時、ディクスンに任せている蓄音機を応用した音声動画装置「光学蓄音機」の限界を知ったに違いありません。

  そしてもう一人、覚えておいででしょうかオーギュスタン・ル・プランス・・・。ニューヨークで世界初の映画上映を成し遂げようと、勇んでパリ行きの列車に乗り込んだまま行方不明になってしまった、あの発明家のこと。彼が失踪したのは1890(M23)年9月でした。


結局、ル・プランスの足取りはつかめなかったのですが、エディスンによる新方式の動画装置「キネトスコープ」が発表されたのはその翌年、1891(M24)年のことでした。そこで、〈動く写真〉の開発に後れをとったエディスンの名前がささやかれた訳です。
 
ル・プランス2.jpg IMGP7742.JPG
●ル・プランス        ●単レンズ式撮影機
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●灰色疑惑の背景


エディスンは特許の取得に対しては最優先だったようです。それは発明家として当然のことですが、自分の成功は特許権が予想外の高額で売れたことに端を発している、ということも大きく作用していると思われます。また、その後、特許に関する係争で、何回か苦汁を飲まされてきたことも事実でした。

  
当時、アメリカの特許制度には「暫定特許出願」というものがありました。これは発明を構想の段階で出願しておけるもので、あとで誰かが同じようなものを発明した場合に、「それは自分が先に考えていたんだよ」と主張できるというものです。機構的な詳細記述は多少曖昧でも(実はそこが一番肝心な部分のはずですが)「このようなもの」という概念が新しければ、申請は受理されていたようです。

  
エディスンはアイディアが沸くたびに「暫定特許出願」を行っていたようです。蓄音機はまったくのオリジナル発明として誰もが認めるものですが、通信機にしても白熱電球にしても、この〈動く写真〉にしても、エディスンは優れたコーディネーターのようなもの。その手腕はすばらしいのですが、先に考えていた人たちからは反論され、訴訟も発生しました。 エディスンはその対抗策として、腕っこきの顧問弁護士団を編成していました。

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●エリス島の移民局

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●エリス島に上陸した移民

  またアメリカは、増え続ける移民を受け入れる窓口として、1892年、ニューヨークはエリス島に移民局を設置。移入した民族はさまざまで、いさかいがあり、治安が乱れ、アメリカの社会情勢は混沌を極めました。

  例えば、エディスンが1887年からウェスト・オレンジに研究所を構えている1890年代初頭のニュージャージーと言えば、マーティン・スコセッシ製作総指揮のテレビ映画「ボードウォーク・エンパイア」の舞台でもあります。移民の中からギャングが台頭し始めた時代です。それ以前から悪徳の魔手は政界、警察機構、司法の世界にまでおよび、贈収賄、買収などは日常茶飯事。みんな疑心暗鬼でライバルの動静を伺う。そのために探偵業が大繁盛。その探偵もスパイ、密告の手先、といった社会環境の中で、前回お話したような、金のためには何でもする連中を、〈エディスンのためを思って〉裏で操る「身内の勝手連」が存在していたとしたら・・・。

  オーギュスタン・ル・プランスの失踪事件で関係者の間でささやかれた
疑惑は、エディスンに垣間見えるそうした影の部分を、人々が感じていたからではなかったでしょうか。

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●時代背景  19世紀末 車が登場する直前の光景


★次回はジョージ・イーストマンの「ロールフィルム」について


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