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054 映画らしくなってきた「大列車強盗」① [黎明期の映画]

054 娯楽映画からスタートしたアメリカ映画。

エドウィン・S・ポーター「大列車強盗」-1


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●正面から撃たれて無事だなんて、映画ってなんてスリリングなんだ!

1902年に「あるアメリカ消防夫の生活」を発表したエディスン社の映画製作部長エドウィン・スタントン・ポーターは、翌1903年に発表した「大列車強盗」でその人気を不動のものにしました。この映画は、映画史上初の西部劇として映画ファンに記憶されています。

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・S・ポーター

●劇的要素も、ダイナミックにスケール・アップ 

 アメリカ人なら誰もが大好きな西部劇。19世紀後半のサーカスやヴォードヴィルでは欠かせない演目でした。
 また10セントで買える「ダイム・ノヴェル」や「ウェスタン・ノヴェル(西部小説)」に登場する数々のキャラクター・・・凶悪犯ビリー・ザ・キッドと彼を捕えた保安官パット・ギャレットも、西部きってのガンファイター"ワイルド"ビル・ヒコックと男装の麗人カラミティ(災難)・ジェーンも、ワイアット・アープもジェシー・ジェームズも"バット"マスターソンも、「ワイルド・ウェスト・ショー」の"バッファロー"ビル・コディの活躍も、20世紀初頭のアメリカでは10年か20年前の、ついこの間のこと。まだまだ記憶に鮮やかな出来事でした。

ビリー・ザ・キッド.JPG パット・ギャレット.JPG IMGP8292.JPG
●左から ビリー・ザ・キッド、パット・ギャレット、カラミティ・ジェーン


 もっと言えば、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドで知られた最後の強盗団「ワイルド・バンチ」はまだ現役だったし、エディスン社の西部劇映画で1914年にデビューして一躍売れっ子スターとなる俳優ウィリアム・S・ハートは、保安官ワイアット・アープと友だちだったという時代なのです。(ちなみに、ビリー・ザ・キッドを追跡して射殺したパット・ギャレットが暗殺されたのは1908年でした)

ウィリアム・S・ハートI.JPG
●後に、初の西部劇スターと呼ばれるウィリアム・S・ハート

いわば昨日のことのような西部劇の世界を、当時のニューメディアである映画で撮ってみようと考えたポーターは、前年の「あるアメリカ消防夫の生活」の経験を生かして、更にスリル満点の劇映画を作り上げました。

ただこの作品は、「あるアメリカ消防夫の生活」と比べて表現手法はそれほど進んではいません。どちらも室内はスタジオのセットで。他は野外ロケ。撮影の仕方も基本的に1シーン1カット撮影です。ただ、この映画の方が、野外ロケがスケールアップしていることで、より映画的な迫力を持つ作品になっています。

このフィルムも映画史上有名な作品ですから、YOU-Tube の動画を添付させていただきました。

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●これまで通りの約束を守って、相変わらず1シーン1カットで

 以下に14シーンを列記してみますが、長くなるのでファースト・シーンだけ詳細に採録してみましょう。

1.給水塔脇の通信室(全景)
1.JPG

執務している当直の係員(通信士)。
ピストルを持った二人の悪漢が押し入り、通信士を縛り上げて出ていく。

最小限に表記するとこれだけですが、この1カットの中には以下の動きが含まれています。


・執務している当直の係員

・下手のドアが開き、二人の悪漢が入って来てホールド・アップ。

 拳銃を向けられたまま、係員、壁の紐を引く。(機関車入構OKのサインか)

 窓の外に機関車入構。係員は手続きの書類を作成。

 「おかしな真似するんじゃねえぞ」と書類を確かめたあと、物陰に身を隠す悪漢二人。
・下手の窓から機関士の腕が出て、係員から書類を受け取って消える。

・強盗、拳銃で通信士を殴り倒すと、壁のロープを取って床に倒れた通信士を縛り上げ、猿ぐつわをかませて出て行く。

 これだけのアクションを1カットで見せているため、話の流れは分かっても、どんな人相の強盗なのか、係員が書いた書類はどういうものなのか、といったディテールは分かりません。  
 この映画の14カットすべてに言えることですが、1カットと言っても実は1シーン(場面)であり、その内容はこのように豊富なのです。現在の編集なら、上記の・印のようにカットが分けられることでしょう。

以下、シーン順に概略を列記します。

2.給水塔・脇(全景)
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機関車が止まり、給水塔の陰に隠れていた一味4人、機関車に乗り込む。



3.郵便車両(全景)
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悪漢二人、係員を射殺し、現金袋を担いで去る。

4.走る機関車の後部
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悪漢二人、助手と格闘。助手は敵わず地上に放られる。(止め写し)

やがて列車は止まり、強盗にせかされて機関士が機関車を降りる。

5.線路
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機関車から降りた機関士、客車との間の連結器を外して機関車へ戻る。

悪漢二人続いて乗り込み、機関車だけ動き出す。

6.停車している列車の脇(全景)
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列車脇に並べられた乗客から次々と金品を奪う悪漢たち。(このカットが長い)

乗客の一人が逃亡を図り、悪漢に撃たれて線路上に倒れ伏す。

7.線路
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離れて停まっている機関車に収奪物の袋を担いだ悪漢の仲間が追いつき、乗り込むと、走り出す機関車。

8.線路(かなり進んだ場所という設定)
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機関車が停まり、現金袋をしょった悪漢一味、下手の沢へ駆け下りる。(カメラ左にパン)


9.小川のほとり(全景)
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手前に小川。悪漢一味、正面から降りてくると、小川伝いに下手に移動。

つながれている馬に飛び乗り、逃走。

10. 給水所脇の通信室(全景)
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気が付いた通信士。口を使って事件を知らせる信号を打つが、再び倒れる。
下手ドアより少女登場。通信士のロープを解き、水を掛けると
気が付いて起き上がる通信士。

11.保安官の溜まり場(ホール全景)
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ダンスに興じる保安官たち。
(観客サービスのためかずいぶん長い。ここでウェスタンを1曲聞かせたか?)

そこに急を知らせるホールの通信士
ダンスをやめて出動する保安官たち。

12.林の中の道(全景)
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銃撃しながら追撃する馬上の保安官たち。
途中、悪漢のしんがりに追いつき、倒しながら更に前進。

13.別の林の中(全景)
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現金袋を開けて分け前の算段をしている悪漢たちの向こうに姿を現す保安官たち。

猛烈な銃撃戦始まる。次々と倒れる悪漢たち。

現金を回収する保安官たち。

14.悪漢の首領?(上半身)…おまけのサービスカット
14.JPG
 
なんと、真正面から観客に向けて銃弾を発射する。


 最後の
カットはストーリーとは関係の無いもので、フィルムを配給するカタログには、映画館で上映の際、「映画の頭につけても終わりにつけてもどうぞご自由に」とあったそうです。
 初めてこのカットを見た観客はびっくり仰天。ところが実際には無害であることが分かると、ピストルで撃たれるスリルを味わいたくて、リピーターとして何度も映画館へ押しかけたということです。
 このあたり、どんな危険なことでも安全が保障されて疑似体験できる映画の特性を良く物語っているエピソードだと思いませんか。

 ただ、私には、このカットはそれだけではないものが感じられました。私たちは日頃映画を観る時は安全無害を前提として、どんな危険な状況が起きても椅子に座って楽しんでいます。それは「観客」という立場にあるからです。「観客」とは「客体」であり、「主体」ではありません。
 だから安全なのですが、ところがこの画面の悪漢は、こともあろうにスクリーンの向こうからその「客体」に向かって発砲したのです。ポーターはおそらく茶目っ気を出して思いつきでやったことだと思うのですが、それがどういう意味を持つことなのか。それについてお話しするのは、このブログの最終回あたりになると思います。

YOU-Tube の動画をご覧になった方は、ダンスを踊る婦人の黄色いスカートや、金庫の爆破と銃撃戦の炎が赤く着色されたパート・カラーであったことが楽しかったのではないでしょうか。
 手作業による着色は手がかかるため特別の場所での上映に限られ、他のプリントはモノクロのまま上映されたようです。

なお、この音楽はあとで付けたものですが、当時欧米ではピアノかオルガンを主体に、バイオリン、ドラム、場合によってはタンバリンを添えるなどの即興演奏付きで上映されたものと思われます。
 また、下図のように効果音(Sound Efects / 略してSE)を付けて上映することもありました。

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★次回は「大列車強盗」の映画表現上の進化について見てみたいと思います。












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053 「アメリカ消防夫の生活」をダメ出しする。 [黎明期の映画]

053 映画には、文章とちがう言葉が必要だ。


「あるアメリカ消防夫の生活」-2


映画で語るための手法の模索

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●突然ですが、上はウォルト・ディズニーの初期の短編「ミッキーの消防夫」1930 消防車の出動シーン
 下/スチームエンジンを搭載した蒸気車。1876
 「あるアメリカ消防夫の生活」を見ると、まだこの種の車が活躍していたらしい。
 消防車の場合は蒸気圧を利用して放水するものと思われる。
 


前回、YOU-Tube の動画によって、1902年末に製作されたエドウィン・ポーターのセミ・ドキュメンタリー映画「あるアメリカ消防夫の生活」をご覧いただき、作品についての感想を少し述べておきましたが、映画が独自の表現手法(映画言語)を見出していく初期の作品として、この映画について少し細かく述べてみようと思います。


くどいようですが、比較対照のためにYOU-Tubeの動画を再掲載しておきます。




●参考のために再度掲載します。


●小説と映画では、物語の紡ぎ方が違う


 この映画が作られたのは、物語性を帯びた映画がまだまだ未熟な段階であったことで、当然ながら作劇上の問題が目に付きます。まず、この作品に主人公は居るのかという、そんな初歩的なことから考えなければなりません。

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●ファースト・シーン
 円内に写った壁紙とベッドに注目


ドキュメンタリーで通すなら主人公は不要とも思われますが、最初の消防夫の画面には、上手(画面に向かって右手)の円の中にベッドルームの母と子が描かれます。こういった見せ方はドキュメンタリーには無い手法ですから、観客は円の中の場面と消防夫との関係に意味を見出そうとします。多くの観客はそれを消防夫の妻子と見るでしょう。そこからこの映画はドラマなのだと言う認識が生まれます。とすれば、この消防夫がこの映画の主人公かも知れないと、思うでしょう。


でもこの映画ではそれは最後まではっきりしませんし、最後になってさえはっきりしません。このようにこの映画は、最初の主人公と思われる人物がどこへ行ったか分からないまま、ドラマが進行していくのです。


●主人公をどう描き分けるか


 さて、物語が進み、消防隊が火災現場に駆けつけたあと、親子の救出シーンになると、煙に巻かれている部屋の壁紙の模様やベッドの形が、どうやら初めのカットで空想された部屋…つまり、その消防士の自宅のようなのです。

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●救助を求める女性も、救出する消防夫も、顔が映っていないために誰か不明。



とすれば、彼は自宅の火災、妻子の危機という悲劇に見舞われているということになります。その割には、最初に通報を受けた宿直室の彼は、立ち上がって何か一声叫んだあと数歩歩くだけでそれほど急を要している様子はありませんでした。


では彼が主人公だと思ったのはまちがいだったのでしょうか。それは、映画の画面のどこにも主人公の驚きや親子救助の活躍が描かれていないからなのですが、そんなはずはありません。


いや、実は描かれているのです。まず火災現場に急行する消防馬車に乗っているはずです。火災現場では人一倍消火活動に精を出し、親子の救出を果たしたのは彼かもしれません。いや、主人公が彼なら、二人を救出する役は当然彼の役回りです。

8.JPG
シーケンス cc.jpg
●上/フル・ショット(全景)だけでは誰が活躍しているのか不明。
 下/女性と少女を救出する消防夫は背中しか写っていないから、誰かは不明。


その大事な彼の活躍がどこにも見当たらないのはなぜか。それは火災現場で活躍する同じ格好をした消防夫たちの中に埋没してしまっているために、観客は主人公を特定できないのです。それはこの映画の消防士のようにヘルメットをかぶっていたり、制服姿の場合は特に要注意で、それが不明確では映画で物語を紡ぐ上では致命的です。書物による物語なら特定の人物を中心に据えて描いていくわけですが、この作品はその方法をまだ見つけていないということが分かります。
 この映画は見終わったあとで、「火災現場で親子を救出したのは、どうやら夫の消防夫だったといいたいようだ。それでなければ物語のケリが付かないものね」と観客が自分で納得して帰るという結末です。


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●ラスト・シーン/娘の無事を喜ぶ女性の脇に立っている消防夫が誰かは不明。


●実験に臨んだポーターの苦悩


主人公が消防士で、たまたま自宅で火事が起き、駆けつけて家族を救う、というのはあまりにも出来すぎたご都合主義の三流ドラマです。この映画から別の物語を考えてみましたが、他に思い浮かびません。だとすれば彼は任務上当然のことをしたまでで、妻子が無事でよかったという喜びはあるにしても、観客を感動させるほどのドラマにはなりえません。


そのあたり、サイレントで台詞のない映画ですから分かりやすさを第一に考え、どこか知らない家の火災より妻子の災難という設定の方が観客が感情移入しやすいという計算だったのでしょう。こういう話なら、観客はコミックで読んだりヴォードビルで観たりして、似たような物語を知っているから、サイレントでも十分伝わったかもしれません。それにしても、ロング・ショット(全景・遠景)だけで撮られた救出シーンを見て、どれだけの観客が、危機に遭遇している親子を救ったのが夫だったということを理解できたでしょうか。


つまりこの映画は、物語や人物を描くという前に、とにかくスリリングなものを作ってみたいという作者の願望から生まれたものだと考えます。「スリリング」…これこそ映画の醍醐味となる部分ですが、この映画を企画したポーターはそこに気付いていたということこそが重要なのです。その実験をポーターはこの映画で試みたのだと思います。


そしてこの映画を作りながらポーターは、映画には小説のような文章表現がまったく当てはまらないことを知ったはずです。それは、映画には映画ならではの独自の語り口、表現法が必要なのだという認識への大きな転換になったと思います。


●ポーターがほんとうに表現したかったこと


ポーターがもし現在の編集技法を知っていたら、肝心の火災現場における救出シーン


はもっと緊迫感を帯びたものになったことでしょう。そのために欠かせない技法がクロース・アップやカットを細かく割る編集上のテクニックなのだということが、現在の私たちには分かります。

シーケンスaa.jpg
●こういったクロース・アップがもっと活用されていたら・・・


例えば、消防馬車の出動場面に緊迫した主人公のアップを入れれば、妻子の救出に向かおうとしている彼の義務感を超えた決意のようなものが伝わると思います。


また、消火・救出活動を行っている状況が、彼のアップぐるみの細かいカット割りで編集されていたら、親子救出ではそれこそ拍手喝采。ラストは消防士ぐるみで3人が抱き合えば、涙ウルウルものだったでしょう。


●新しい映画技法が二つ


作品としての質はともかく、この映画には2つの新しい映像表現が使われています。ひとつは例の回想場面。ピクチャー・イン・ピクチャー(P in P)と呼ばれる手法ですが、これは別の場所で進行している出来事との同時進行として使われました。この手法はその後、空想画面の表現にも応用されるようになります。画面の中にもう一つの画面が現れると、観客は「これは彼が空想しているんだ」「彼女は今、昔を回想しているのね」というようにすぐに理解できるようになりました。これが映像で語ることば、つまり「映画言語」と呼ばれるものです。


もうひとつはフェードです。ポーターは「次の場面との間には時間の経過があるのですよ」という意味を持たせてフェード・アウト(溶暗、F.O)で処理しました。この映画ではほとんどのカットがご丁寧にフェード・アウトで処理されています。


この手法はまもなく、芝居の一幕と同じ意味合いで、フェード・イン(溶明、F.I)で始まりフェード・アウト(溶暗)で終わる一場面(シーン)を示す「映画言語」として定着していきます。


このように、人間関係の見せ方やドラマチックな盛り上げ方は現在の編集テクニックから見れば稚拙なところもある訳ですが、100年以上も昔、1920年代にプドフキンやエイゼンシュテインによるモンタージュ理論が唱えられる前に、これだけの認識と編集技術が生まれていたことに驚ろかされるのです。


●これは困った!
 
この記事を書き終わったあとで、重要なことに気付きました。
 最初の回想に描かれている部屋と、火災現場の部屋のベッドの配置や壁紙の柄が似ていたので、同じ部屋の出来事だと思っていたのですが、よくみると、回想の部屋には無い額が後半のシーンでは飾ってあり、サイドテーブルの上にあったスタントが無くなっています。また、カーテンの色もちがいます。すると別の部屋の状況と言うことになります。その場合には上記の私の話は成り立たなくなります。でも、女性がかけていた揺り椅子はあるのです。困りました。ポーターの想定は、愛する妻子の危機を決死の活躍で救助するヒーローの物語ではなかったのでしょうか。それとも、あるいはそこまで正確に考慮せずに、別の日にでも撮影したのでしょうか。(そうでありますように)
 これは間違い探しではありませんので、記事はこのままにしておこうと思います



★次回はエドウィン・ポーターがこの翌年に作ったおなじみの作品「大列車強盗」をご覧いただきます。




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052 人の妻子か、自分の妻子か。 [黎明期の映画]

052 少し映画らしくなってきた「あるアメリカ消防夫の生活」
初歩的なモンタージュの試行
「あるアメリカ消防夫の生活」-1


フライヤーⅠ号.jpg
●時代背景 ライト兄弟、「フライヤーⅠ号」による初飛行の成功で、空の時代を拓く 1902
                 このような歴史的偉業の記録に、映画はすぐにその特性を発揮し出した。 

 (無音21秒)

 リュミエール兄弟による映画発明以降、欧米の映画関係各社は映写機と撮影機の機能向上を図る一方で、映画そのものの製作と配給に事業をシフトし始めていました。
 
20世紀のはじめ。映画といえばフランスのジョルジュ・メリエスでした。イギリスではブライトン派(前回記事)による社会派とも言うべきドキュメンタリータッチの映画づくりが探求されていましたが、今回はアメリカの様子を見てみることにしましょう。 

●エディスン社は版権、著作権対策もひと足早かった
  20世紀初頭におけるアメリカの映画業界では、エディスン社を筆頭に、エディスン社から移籍したウィリアム・ディクスンが経営に参画しているバイオグラフ社(正式名称はアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフ・カンパニー)、そして新興のバイタグラフ社の3社が作品づくりにしのぎを削っていました。 

  
エディスン社はハード面においては「特許」。ソフト面においては初めからコンテンツとしてのフィルムの「上映権」を重要視していました。ちなみにアメリカで映画の著作権に関する法律ができたのは1912年なのですが、写真の著作権は認められていました。

  そこでエディスン社では映画フィルムそのものが写真なのだという理屈で、1894年以降、自社製作の映画フィルムをそのまま紙焼き(密着)したもの……つまり内容が同一の紙のフィルムを提出して著作権登録を行うようにしていました。考えたものですね。

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●著作権登録のために作られたペーパー・フィルムをもとに、昔の映画の再現が可能となっている。
 ありな書房「魔術師と映画」より


 でも、このアイディアは100年後の私たちに恩恵をもたらしてくれました。セルロイドのフィルムならとっくに劣化や焼失で消滅したはずですが、紙フィルムはそのまま残ったのです。現在私たちは、米国国会図書館に保存されているその紙フィルムを1コマずつ映画フィルムで複写して復元された「ペーパー・プリント」によって、当時の貴重な映画を見ることができるのです。

   それはともかく、エディスン社でも、売れるオリジナル作品をたくさん市場に供給するために優秀なフィルム制作者を掻き集め、ヒット作を狙って製作に力を注ぐようになりました。映画はそれまでの機械技術からコンテンツ重視の時代へと転換したのです。
 そんなエディスン社の動きの中でめきめきと頭角を現してきたのが、今や映画製作・演出部長に昇進したエドウィン・スタントン・ポーターでした。 

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・S・ポーター

●全6分の内容を採録すると……
 ポーターは1902年の末に「あるアメリカ消防夫の生活」という作品を作りました。この映画は1901年にジェームズ・ウィリアムスンが作った「火事だ!」というフィルムにインスパイアされたものですが、実際の消防夫が火災現場に急行するドキュメンタリーフィルムとスタジオで撮影した火災シーンを合体させ、更に劇的な迫力を生むように構成された意欲作です。

1901 火事だ! (2).JPG 1901 火事だ! (3).JPG
●ジェームズ・ウィリアムスン「火事だ!」 1902

 この作品は、消防署と火災現場という二つの場所で同時に起こっている出来事をどのように見せたらいいかという必要性から考えられた場面構成が、当時としてはきわめて画期的でした。つまり、映画言語として重要なごく初歩的なモンタージュが効果的に行われていることで知られている作品なのですが、YOU-Tubeの中にありましたので、ここに添付させていただくことにしました。

 最近の映画史の書籍などでは、単に「アメリカ消防夫の生活」と記載されるようになりました。が、そのタイトルだと一般的な消防夫の生活になってしまいます。この作品の原題はLife of an American Fireman。「一消防夫」ですから、特定の消防夫ということになります。
 従ってこのフィルムは、単に一般の消防夫の日常を描いたドキュメンタリーではなく、特定の消防夫を主人公とした劇映画として構想されたものではないでしょうか。

 ・・・であればこのフィルムでは、火災に遭うのは彼の最愛の妻子であり、その二人を救出するヒーローは彼でなくてはなりません。今ならご都合主義と笑われるでしょうが、当時の観客は純情です。そうあって初めてドラマしての危機感が劇的に拡がり、無事救出の感動が増すはずです。ポーターの製作意図はそこにあった、と私は思っているのですが・・・





 
以下は以前見られたYouTubeの動画をもとに私が採録シナリオ(構成台本)の形で書き出したものですが、画面は9シーン。撮影に当たっては、ポーターによっておそらくこのようなシナリオが書かれていたものと思われます。

1..消防署・宿直室 全景
    1.JPG

   当直の消防夫が椅子に掛け、留守を守る妻と娘を思い描いている。
  画面右上の円の中にその様子が合成で示されている。
  (別の場所との同時進行表示)
    円内/娘をベッドに寝かせてキスをする妻。
  空想イメージが消えると、消防夫、帽子をかぶって出て行く。

2.火災報知器のアップ
    シーケンスaa.jpg

   腕がフレーム・インし、ふたを開けレバーを引き下げると、
  ふたを閉める(火災発生の通報が行われた)。
FO

.  消防署・詰め所(ベッドルーム) 全景
  2.JPG
  
当直者が寝ている。
  警報が聞こえ、ベッドから一斉に跳ね起きる。
  大急ぎでズボンを履き、床の中央に開けられた穴からポールを伝
  って階下に降りる消防夫たち。


4.消防署前・正面
  3.JPG
  消防馬車が並んでいる。
  そこへポールから次々と降り立つ消防夫たち。
  待機していた消防馬車に飛び乗ると、走り出す馬車
3F.O

5.別の消防署前・全景
  4.JPG
  ただちに出発していく馬車2台。
  あとを追うように梯子馬車が画面直前を右に横切る。
F.O 

6.大通り
  シーケンスaaa.jpg   
 
    全速力で現場へ急行する消防馬車。画面右奥から左手前へ、
  その数なんと
9F.O

7.大通りから火災現場へ(外)
  5.JPG  
  やってくる消防馬車。
  
3台目の消防馬車の移動に合わせて、カメラ左にパンすると…
 6.JPG
  総動員でホースを用意している先着の消防夫たち。
F.O

8.火災現場(室内)
  7.JPG

  煙に包まれている女性。
  いったん窓辺に寄るが、そのままベッドに倒れ伏す。
  
   やがて一人の消防夫がドアを破って入ると、カーテンをむしりとり、
   ハンマーでガラス窓を打ち破る。
   消防夫は倒れている女性を抱き抱えると、窓の外のはしごに消える。
   
すぐに別の消防夫が窓から入り、ベッドの子供を抱き上げて運び出
   す。
   
次に上がってきた二人の消防夫が、ホースで火災を鎮火する。
                                       
F.O
.
火災現場(外)   
   1
階正面入り口から消防夫が飛び込んでいく。
   8.JPG
   2階の窓から救いを求めている女性の姿。   
   外の消防夫たちがはしごを掛けるが、女性の姿は室内に消える。
  10.JPG
   と、程なく窓辺に女性を担いだ先ほどの消防夫があらわれ、
   はしごを降りてくる。  
   地上に降ろされた女性は、「まだ二階に娘が居るのです」と訴える。
   先ほどの消防夫は再びはしごに取り付くと、少女を胸に抱えて降りて
   くる。
  12.JPG
  シーケンスdd.jpg  
   救出された少女は、駆け寄った女性(母)の胸にしっかりと抱かれる。F.O

●ポーターのねらいは成功したか
  この映画は冒頭で述べたように、異なる場所で起きている状況を同時に見せるカット・バック手法の先駆として語られる有名な作品です。

   ところが、上記の採録を呼んだだけでお分かりのように、火災現場に掛けつける消防馬車の緊迫感はともかく、火災現場の女性の救出劇がそれほどスリリングに描かれているとは思えません。

  それは上記の8シーンと9シーンに見られるように、一番の見せ場であるクライマックスの救出シーンが、例の1シーン1カットで撮られてしまっているからです。
 このシーンに、前回紹介したジェームズ・ウィリアムスンのクロース・アップがインサートされていたらどんなに効果的だったでしょうか。この作品で折角火災報知機のクロース・アップを使いながら、とても残念です。

 また、女性が救助を求める様子や親子救出の状況も未整理で、緊迫感を欠いています。
 こうした点から、折角映画的な「2箇所同時進行描写」に着目して知恵を絞りながら、必ずしも成功したとはいえなかったポーターの苦悩をうかがい知ることができるのです。
 

 
それでは、この映画のどこに、どのような問題があるのでしょうか。
                                        この項・つづく                                                                  


★F.O フェード・アウト
   画面が次第に暗くなる。暗転、溶暗。その反対がF.I  フェードイン、溶明。
★インサート
   一連の画面の流れの中に別のカットを挿入すること。
   普通は流れに関連するものをアップで入れたりするが、例えば記憶喪失者の記憶が次第によみがえるという場合、過去の映像をフラッシュで瞬間的に挿入したりする。


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051 型にはまるな。枠からはみ出せ。 [黎明期の映画]

051 風景狙いに枠(フレーム)は邪魔。
   イギリス ブライトン派

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●19世紀末~20世紀初頭 ニューヨーク

カメラを移動中のカメラマン.jpg
●撮影機を移動させようとしているムービーカメラマン 1900年前後
 カメラが軽量になったせいか、三脚がかなり軽便になっている。



 1895年12月28日の
映画誕生から1901年に至る5年ほどの間、映画は、アメリカではエディスン社の「ブラック・マリア」のスタジオから、フランスではジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社のスタジオから、その多くが生み出されていました。
 
カメラを固定し、セットの端から端までを額縁の中の絵画のように撮影していた時代はスタジオ撮影だけで済んでいたのですが、物語を作ろうという意識が芽生えると、先進的な人たちはその額縁が邪魔であることに気づきました。

1893 ブラック・マリア.JPGスター・フィルム社 スタジオ.jpg
●左/エジソン社のスタジオ「ブラック・マリア」1894
 右/メリエスのスター・フィルム社のスタジオ 1897

 

●寄れなくば 寄らせて撮ろう 大写し

 イギリスでは1899年に、後に「イギリス映画の父」と称されるロバート・ウィリアム・ポールが、ニュー・サウスゲートにスタジオを作って喜劇などの製作を始めていました。
そのいい意味でのライバルが、〈動く写真〉の開発に貢献したウィリアム・フリーズ・グリーンです。
 彼は英仏海峡に面した有名な海水浴場のある保養地ブライトンで映画の技術者を養成していたのですが、そこから輩出された人たちが、のちにブライトン派と呼ばれる流れを生み出します。その中にジェームズ・ウィリアムスンという薬剤師がおりました。

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●ロバート・ポールのスタジオ 1899

ロバート・ポール.jpg フリーズ・グリーン.jpg ジェームス・ウィリアムスン.JPG
●ロバート・ポール             ●フリーズ・グリーン                          ●ジェームズ・ウィリアムスン                 

 ウィリアムスンの趣味は写真でしたが、1895年にリュミエール兄弟によって〈動く写真〉が確立すると、彼の関心は当然ことのように映画に移り、早速手にした映写機を撮影機に作り代えて、自分で映画を撮るようになりました。

 
最初は彼の映画もリュミエール兄弟やメリエスのフィルムの真似から始まりました。ウィリアムスンは、彼らが撮った舞台劇よりも、実写の方に興味を抱きました。彼にはセットを作って映画を作るほどのお金はありません。必然的にカメラを外に持ち出すことになりました。

 持ち出すといっても木箱製で重い三脚付きのカメラは、現在のコンパクトなビデオカメラのように自在に移動させることはできません。彼が1898
年に撮った「ビッグ・スワロー(大飲み)」は、何とカメラが人物に寄って行く代わりに、人物がカメラに向かって近寄ってくるという演出を考えたのです。実景の中で奥から手前に。この動きは舞台やセットでは出せない斬新な視覚効果をもたらしました。

 ●「ビッグ・スワロー(大飲み)」1898

 いきなり正面からムービーカメラを向けられた紳士。「失礼な。何のまねだ」とか言っているのでしょうか。大声で文句を言いながらカメラに向かって来ると、その口元が画面いっぱいになり、カメラマンをカメラ・三脚ともども丸呑みにしてしまうというブラックユーモアです。
 アップもアップ、ビッグ・クロースアップBCUと呼ばれる極端な大写し。こんな大口は誰も見たことがなかったので、みんなびっくり、口をあんぐり。

 初期のクロースアップについては、1900年の作品で「おばあさんの虫眼鏡」という作品がありました。これはまず、虫眼鏡を覗くおばあさんを下から見上げた感じのクロース・アップから始まります。その後はおばあさんの見た目で、虫眼鏡で覗いたように丸くマスキングされた画面に、彼女の身の回りにあるはさみとかペットのネコなどが大写しされるというものでした。

  この作品は、早くも翌年、同じタイトルで似たような内容で、直ちにパテ・フレール社によって剽窃されました。また1902年にはアメリカのバイオグラフ社が「おじいさんの虫眼鏡」のタイトルで製作しました。こういったやり口は20世紀に入っても相変わらず続いていたのです。

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●「おばあさんの虫眼鏡」1900 のクロース・アップ

 とにかく、「映画は舞台を丸ごと撮影するもの」という考えにこだわらず、カメラを自由に実景の中に置き、見せたいものを大きく見せる手法をまず考え付いたのはイギリスの映画作家たちだったようです。
 文学でもなく演劇でもない映画特有の表現法、語り口を見出していく過程では、こんなことが大きな発見だったのです。


●セミ・ドキュメンタリーにセットは不要

 ウィリアムスンはこの年、もう1本の映画を撮っています。19世紀初頭は広範囲な植民地支配により、大英帝国が意気軒昂だった時代です。1898年に清朝政府の元で起きた義和団の乱のニュース映画を見た彼は、事件の様子が良く分かる再現フィルムを作ろうと思い立ちました。今で言うセミ・ドキュメンタリーです。

 自分の別荘を英国牧師の教会に見立て、メインキャストは家族を総動員して、1900年の末か1901年のはじめに「中国における伝道会襲撃」という5分の作品を仕上げました。
 蜂起した義和団が教会に侵入。暴徒から家族を守ろうとする勇敢な宣教師。奮戦空しく家族は暴徒の銃撃に倒れ伏す。そこに到着したイギリス海軍の兵士が義和団を銃撃し、暴徒は退却する、といった流れです。

 ●「中国における伝道会襲撃」1901 無音

 この映画は4つのシーンで構成されているという説がありますが、ここに添付した映像は1場面1カットの撮影手法です。ただこの場合はそれがかえって作為を感じさせず、実際に起こった事件の生々しさを伝えることに役立っています。

 この映画がメリエスの映画と決定的に違うところは画面のパースペクティブ(奥行き、遠近感)です。実景でしか描けない画面の手前から奥までの情景の深さ。それにより、例えばこの動画の後半、画面下手(向かって左)から続々と登場するイギリス軍兵士のように、登場人物の動きがいかに躍動的に描かれているかが分かるでしょう。ここにおいて映画は明らかに、メリエスが固持した舞台空間枠の呪縛から開放され、同じフレームの中に映画独自の広大なひろがりを見出したのでした。


●続かなかったユニオン・フラッグの心意気

 1900年にはまた、ロバート・ポールが「軍隊生活―または兵士はいかにして作られるか」という映画を作りました。これはイギリス軍における兵士の日常生活をアピールするために製作されたPR映画といえるものなのですが、当然ながら軍隊生活の描写はとてもリアルでした。
 このように、写実性、記録性に重きを置き、社会性を尊重したのがブライトン派の特徴といわれています。こうした映画の作り方は、イギリス映画がフランス映画やアメリカ映画とはひと味違う道を歩むことになる方向性を示唆したものでした。

 とはいえ、当時はメリエスのスター・フィルム社が世界を制覇し、パテ・フレール社、ゴーモン社が肉迫。アメリカではエディスン社が作品づくりにめきめきと力をつけてきていました。一方で台頭してきたライバルはイタリア映画です。これらの会社から作り出される映画のほとんどが娯楽作品でした。また、ドイツやスゥエーデンといった国々は社会性を反映させた作品を作り始めるなど、世界中で映画は事業として動き出していました。

 ブライトン派を中心とした真面目一辺倒のイギリス映画は、こうした世界動向の渦中にあって、観客の興味は徐々にアクの強い海外の娯楽作品に向けられるようになりました。
 ブライトン派によって、折角映画ならではの表現手法が見え始めたのに、娯楽性の希薄なイギリス映画は次第に衰微し、息を吹き返すのは第一次世界大戦をはさんだ後の約30年後。トーキー映画が登場するまでイギリス映画はあまり目立たない存在での推移を余儀なくされるのです。


※クロース・アップ
 
 一般にクローズアップと言われますが、クローズ(動詞/閉じる)ではなく、クロースもしくはクロウス(形容詞/近い)が正しい言い方です。
ビッグ・クロースアップ(BCU))は、例えば目の部分だけとかの極端な大写しをいいます。

セミ・ドキュメンタリー
 ドキュメンタリー手法を用いて現実の出来事をより効果的に脚色して作られた小説、演劇、映画など。ここでは映画。


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