006 映画誕生までの遠い遠い道のり [「映画」が成り立つためには]
006 「光と影」を動かすために
映画誕生までの遠い遠い道のり
●映画誕生前夜、1872年のニューヨークの様子 街灯はガス灯
●「映画前史」に入る前に
映画とはイリュージョン。光と影によって創り出される芸術です。それを、文学、絵画、彫刻、建築、音楽、舞踊、演劇に次ぐ第八の芸術と呼ぶ人もおります。
映画の誕生に直接・間接に影響を及ぼした発明・発見の数々は、古くは紀元前の歴史書にまで遡ることになります。映画誕生に至るまでにはそれ程古くからの遠い道のりがあります。そしてそれは光学だけに留まらず、化学や機械工学、はては心理学にいたるまで、幅広い分野にわたっている。そのあたりが私にとっては大いに興味を触発されたところでした。
さて今回は、映画誕生の前提となるいろいろな要素について、それぞれがどのように映画のために洗練され、組み立てられていったかという大筋の流れをたどってみることにしましょう。
●映画誕生に至る4つの流れ
映画はご承知のように、本来動かないはずの絵を機械的に動かして見せるものです。基本は仕掛けであり、カラクリともいえます。そしてそれらが「映画」を完成させるために必要な流れは大きく4つあると考えます。これらはこの順に進められたものではなく、相互にクロスオーバーしながら並行して開発されたものです。
①画像を定着させるためのメディアの進化 紙からセルロイドフィルムへ
②写真の発明と写真技術の進化 湿版写真から乾版写真へ
③写真を動かして見せる機構の進化 フィルム間欠給送の手法
④上映のための光源の進化 油からアークランプへ
●映画成立の概念図
※「動力」は、小型モーターが実用化される1920年代初頭までは手回しだった。
①「メディア」・・・紙からフィルムへ
ひとつは「メディア」です。この場合は「原版」と呼んでもいいかと思います。人は昔から絵を書くことを知っていました。紀元105年、中国で蔡倫によって紙をすく技術が発明された後、人は書画を紙に描くようになりました。
日本では絵巻物を開くに連れていろいろな動物たちが生き生きと活動している姿が現れる鳥羽僧正の「鳥獣戯画」(12世紀末・平安時代)をアニメの元祖と見る研究家もおります。
またそれよりも古く、飛鳥時代の法隆寺に伝わる玉虫厨子に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」(7世紀半)、これは崖下の飢えた虎のためにわが身を投ずる釈迦の落下のポーズが、厨子の一面に3つの連続した動作で描かれているものですが、これこそアニメの元祖、動画の源と見る人もおります。
●左/玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎図」
岩の上から身を躍らせて落下し、虎にわが身を与える様子が連続して描かれている。
右/「鳥獣戯画」の一部 右には水浴しているウサギも動感たっぷりに。
それからずっと下って17世紀に「幻灯」が登場しますが、最初の「種板(たねいた)」と呼ばれたメディアは紙から出発しました。透明度を出すために蝋に浸したパラフィン紙を使ったり、薄い雲母を使ったり、ゼラチンを薄く延ばしたものを使ったり、いろいろと考えられたようです。
ただ、これらは絵を動かすためには用をなさず、やがて登場するガラスが写真の発明と結びついてから、動く写真の研究に拍車がかかりました。
けれども、ガラスに定着された写真を動かすには予想以上の困難が伴いました。どんなにがんばっても仕掛けの域を出ることができなくて、映画と呼ばれるものになるためには、柔軟で透明な「フィルム」の発明を待たなくてはなりませんでした。そのフィルムも最初は紙に感光剤を塗ったものでした。
●幻灯機 光源の油の熱と煙を逃がすために高い煙突が付いている。
②「写真術」・・・湿板写真から乾板写真へ
二つ目の流れは「写真術」です。写真は1839年にダゲールによって初めて実用化されましたが、この「ダゲレオタイプ」はガラスに定着された銀盤写真で、ネガが無いため複製が作れず、もっぱら肖像写真などに使われていたようです。
1851年には湿板写真が考案されましたが、これも感光するまで長時間かかるため、頭をクランプで固定して肖像写真を撮影しなければならないという代物で、1秒間に何コマも撮影しなければならない映画には使えません。
結局1871年にハロゲン化銀を使った現在の写真の原型ともいえる乾板写真が考えられて、100分の1秒という高速シャッターが可能となりました。
この乾板写真の発明が、柔軟で透明なセルロイド(硝酸セルロース)のフィルムと結びつき、写真を動かす仕掛けが求める条件に一歩近づいたのでした。
●左/ニセフォール・ニエプスによる世界初と呼ばれる写真 1826年
感光性アスファルトを塗ったスズ板に8時間もかけて露光させたといわれる。
右/1860年代のリンカーン名刺写真 写真を名刺代わりに配ることが流行していた
③「機構」・・・静止画から動画へ
三つ目の流れは「機構」、つまり写真を動かすための仕掛けです。
初めは「幻灯」のような動かない絵や写真でしたが、それを動かして見せたのは工学的な機構でした。それは残像現象を利用した一種の錯視を生むための装置ですが、映画の開発が本格的に進められた19世紀後半では当然、1コマの写真が1瞬間ずつスクリーンに留まることによってフィルムに連続して記録された写真が動いて見えるという「間欠運動」の原理は分かっていました。
けれども、ガラス板の写真でどうすればその「間欠運動」と呼ばれる仕組みを作れるかということで大変な模索が繰り返されていたようです。その問題に最終的な解決策を与えたのも、連続写真を帯状に記録できるフィルムの発明によってでした。
なお最近の認知心理学では、写真が動いて見えるメカニズムは残像によるものではなく、脳の中に動きだけを感知する部分があり、物が動くとその向きを知覚するネットワークが働いて動きが見えるのだと定義して、「仮現運動」と呼んでいるようです。
●左/画面が正方形で幅広の紙フィルム 1889年
右/フィルム間欠送り機構の図 1898年
④「光源」・・・灯油ランプからキセノンランプへ
四つ目の流れは「光源」です。
映画がスクリーンへの上映という最終目的のために製作されるとすれば、映写機の光源の能力はとても大事な要素です。
映画以前の「幻灯」の時代には、油に火を点したランプが使われていましたが、1870年に電気が発明されると光源は電球に変わりました。その一方では、19世紀半ばに実用化されたアーク灯(アークランプ)も使われました。
20世紀に入ると、1920年代にはライムライト(石灰光)が使われていたこともありましたが、映画産業が発達するに連れ上映する劇場も大きくなると、プラスとマイナスの電極につないだ2本の炭素棒(カーボン)をスパークさせるアークランプが開発されました。
第二次大戦後は、特に1950年代あたりからカラー・大型映画の登場に対応するために、より強力な光源と演色効果を生むカーボンの開発が進み、性能が飛躍的に向上。このアークランプによる映画上映の期間がいちばん長期間に及びますが、1960年以降はアークランプと並行して、次第により明るくて安定した光を発するキセノンランプに変わりました。
ここでも映画は、多方面の技術革新に支えられて進化してきた姿を見ることができます。
●アークランプを光源にした35ミリ映写機
映画を形づくる根源は、古くは紀元前に端を発するものでした。それが「映画」として完成するには、あまりにも多くの分野の英知を必要としました。19世紀になってようやくそれぞれの分野の研究成果が顕著になって、それらがクロスオーバーして急激な技術革新が起こりました。それが映画の開発に拍車を掛け、「映画」は20世紀を目前にして一挙に実を結びました。
それまではそれぞれがてんでに研究開発を行っていたために横の連携がなく、それだけ映画の誕生にはずいぶん余計な時間が掛かってしまったという感じがしないでもありません。
とにかくこれで映画誕生以前のおおまかな要素はまとまりました。次回からは「映画前史」をもう少し細かく見ていくことにしたいと思います。
★前回の写真クイズの答えです。
答えは ビビアン・リー(1913~1967)
1930年代後半から60年代前半にかけての「絶世の美女」。
「風と共に去りぬ」(1939)、「哀愁」(1940)、「欲望という名の電車」(1951)など、話題作多数。
007 3Dを2Dに変換する最初のマジック [「映画」が成り立つためには]
007 3Dを2Dに変換する最初のマジック
それは「投影」から始まった①
カメラ・オブスキュラからマジック・ランタンへ
●chaos
ようやく「映画前史」についてお話しする段階になりました。
映画前史とはつまり映画史以前のことですが、前回に記した通り、映画はいろいろな分野における発明が蓄積され、やがてそれぞれの相関関係が発見されることによって異なる分野の技術が縄のようによられて実現したものと言えます。
従って長期的に多岐にわたる発明発見をただ年代順に並べてみてもそれらの関係は見えてこなくて錯綜するだけですから、ここでは映画の要素別に展望してみたいと思います。
まず、映画の映画たるゆえんである「投影」についての歴史を紐解いてみることにしましょう。
●特定の人種は「投影」の心理的効果を知っていた
「光と影」が意識されたときから映像の概念が生まれました。ものを映し出す映像。それは光と影によるまぼろしです。まぼろしを操る訳ですから、それはどこか妖しげなところから始まりました。
古代において、光と影をつかさどるのは魔術師や預言者の役割でした。アーサー王伝説に登場する魔法使いマーリンも、シェークスピアの「マクベス」に描かれた三人の魔女たちも、火は決して煮炊きするためではなく、特別な妖術を行う場合に使いました。
中世においてのそれは教会に仕える聖職者の領分でした。18世紀には降霊術師(スピリチュアリスト)が加わり、19世紀には、有名な奇術師(マジシャン)たちが自分の舞台効果を増大させるために積極的に光と影を操作する装置を採り入れようとしました。
いずれの場合も、光と影を操作すれば、何も無いところから何かを現して見せたり、目の前に見えていたものをアッという間にかき消して見せたり、実際のものより桁外れに大きく見せたりといったトリックが可能です。彼らはそれが科学的な現象であることを知っていました。
ところが一般大衆は科学など知りません。目で見たものをそのまま信じてしまいます。そこで彼らはそうした科学に疎い人たちにまぼろしを見せ、心理的効果をあおって自分たちの目的を達しようとしました。そのために、最初は動かない絵だったものを、いろいろな工夫を凝らして動いて見えるように見せる研究を重ねて、視覚効果を増幅させていきました。
●三次元(立体)の事象を二次元(平面)に記録する手法の発見
「投影」の古い記述は1544年の「カメラ・オブスキュラ」です。ラテン語で「暗い部屋」と名づけられたその装置は、外の景色を小さい穴を通して壁面に投影するものでした。現在のカメラの語源は16世紀にさかのぼることになります。
映画史に興味を覚えてからその図解を見たとき、「ああ、やはりこれが映画の原点なんだ」と大変感激したものでした。その図には私が小学校に上がる前、雨戸の小さな節穴を通して対面の白壁に写った外の景色に不思議を覚えたことと同じ現象が描かれていたのでした。
★関連記事 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-02-19
「カメラ・オブスキュラ」の原理は、紀元前のアリストテレスがすでに触れているほど大昔から分かっていた現象でした。紀元後にはピンホールカメラの原理で日食を観測する要領が説かれたり、いろいろな科学者が太陽の観測や光学的実験などに利用していたようです。
レンズは14世紀後半にはすでに眼鏡やルーペとして実用化されていましたから、世界初とされる1544年の図解にある「カメラ・オブスキュラ」には、レンズが付いていたと想定されます。
●世界初とされるカメラ・オブスキュラの図解 1544
●アタナシウス・キルヒャーによる「カメラ・オブスキュラ」 1646
レンズを経て壁面の紙に投影された風景をなぞって模写した。
15世紀に入ると「文芸復興」と呼ぶルネッサンスの真っ只中で、画家が自然の風景をそのままに描写するための手段として、かなり大仕掛けな装置で絵画が制作されるようになりました。投影された風景を羽根ペンや鉛筆でなぞって下絵を描いていた訳です。これは実景である三次元空間を平らな紙、つまり二次元の空間に置き換える遠近法の描画技法を生み出します。
「カメラ・オブスキュラ」とは、とりもなおさず、3D(立体)の実景を2D(平面)に変換する装置と言うことができます。太古には洞窟の岩肌に描かれた絵が、この手法により、現実の情景をそのまま縮小した形で、持ち運んだり、机上で見ることができるようになった訳です。
このテクニックは、学校や家庭でも広く風景の写生に使われた上、その現象の不思議を娯楽として楽しむことなどもあったようです。 これは写真の原型が16世紀にすでに芽生えていたことを物語っているといえるでしょう。
●代表的な遠近法の絵画 ラファエロ「アテナイの学堂」1509-1510 wikipediaより
●お絵かき教室、かな?
「カメラ・オブスキュラ」というと1646年にローマで「光と影の偉大なる芸術」を出版したドイツの学僧、アタナシウス・キルヒャーが有名です。けれども、実はそれより先にレオナルド・ダ・ビンチも透視図法などに利用したらしく、スケッチが残されているところから、「カメラ・オブスキュラ」の元祖はダ・ビンチという説もあるようです。
●左上/レオナルド・ダ・ビンチ 1452~1519 自画像
右上/ダ・ビンチによる「ガラス透写機」のスケッチ 1500
下 /ダ・ビンチが遠近法でリアルに描いた「受胎告知」 1472-73
●一方は写真機へ。一方は映画へ
さて、レンズを擁しシャープな画像を映し出す光学装置「カメラ・オブスキュラ」は、16世紀以降、二つの方向に向かうことになります。
一方は映画を上映する「映写機」の完成に向かって。つまり画像のアウトプットです。もう一方は現在のカメラの語源通り、「写真機」の完成に向かって。つまり外景のインプットてす。期せずして「逆転の発想」が行われる訳ですが、さすがに両輪がいっしょに回り始めた訳ではありませんでした。
まずは1645年。のちの映写機の原型となるものが「光と影の偉大なる技術」という書物の中で発表されました。その名は「マジック・ランタン」。分かりやすく言うと幻灯機です。この「マジック・ランタン」を発明したのもアタナシウス・キルヒャーでした。
●アタナシウス・キルヒャー 初期のマジック・ランタン
キルヒャーはドイツのイエズス会の学僧と言う立場から、「マジック・ランタン」を布教に活用しようと考えたようです。初期の「マジック・ランタン」は、薄いガラス板に神や骸骨を描いた単駒スライドだったようですが、1671年の改良型「マジック・ランタン」の図を見ると、8枚の絵が描かれた横長のスライド方式になっています。
これは明らかに物語に添って1駒ずつ場面転換しながら上映したものです。私たちはそこに、映画の原点が物事を語り伝えるためのメディアとしての方向性を持っていたことを知ることができます。
この「マジック・ランタン」の登場が、映写機の進化と絵を動かすという映画の本筋につながってくるのですが、それはまだまだ先のこと。
「マジック・ランタン」は電灯が発明される前の暗闇に咲くあだ花。摩訶不思議なイリュージョンの世界。しばらくの間は光と影に踊らされる妖やかしの世界が繰り広げられることになるのです。
●キルヒャーが1671年に「光と影の偉大なる芸術 Ⅱ」で著した改良型マジック・ランタン
ガラスに書いた8枚の絵を連続して投影できるように工夫されている
(この項、つづく)