068 ハリウッドに、きらめく星たち [ハリウッドシステム]
068 ハリウッドに、きらめく星たち
スターシステムの発祥
●ルース・ローランド
1910年代。映画は安上がりな娯楽として、製作面・興行面ともに世界的に大きく発展します。特にアメリカでは映画人口の急増に伴い映画会社は張り切って作品を製作し、「ニッケル・オデオン」(5セント映画館)も充実。銀幕を彩る庶民の憧れ、ムービー・スターが誕生しました。
●フルショット(全身)からの開放
この当時、映画の出演者はすべて無名でした。映画が話題に上り、何々社の何とかという映画に出ていたあの子、でははなはだ具合が悪い、そういう状況がでてきました。そこで映画会社は、会社の名を付けて「バイオグラフガール」「バイタグラフガール」「パワーズ・ガール(パール・ホワイト)」などとして宣伝しました。あのメアリー・ピックフォードも、はじめは「リトル・メアリー」でした。
こういった呼び方がアメリカで起こったことは興味があります。ヨーロッパ、特にフランスではシャルル・パテが指示したように、画面には必ず俳優の全身が入っていなければならない、という観念が強くあったのです。
その理由として、初期の映画の目的はスクリーンに・・・スクリーンとは名ばかりの白布でしたが・・・それは上下左右がおよそ2メールで、生きて動く人の〈分身〉を、あたかもそこにその人物が存在するかのように、等身大で映し出すということが大事なアピールポイントの一つだったのです。
それを破ったのがアメリカの映画人でした。
←フルショット
アメリカ映画では表現の必要性から、全身(フルショット)だけでなく、次第に膝から上(ニーショット)、腰から上(バストショット)、肩から上の顔の表情(クロース・アップ)というように、段階的にカメラを寄せて撮ることが考えられるようになるのですが、フランスの映画人はそんなアメリカ映画を見て「みんな足が切れてるじゃん」と嘲ったものだそうです。
↑ニーショット(ミディアムショット)
↑バストショット
●D・W・グリフィス ↑クロースアップ
※写真は平凡社「21世紀の歴史 大衆文化」より
実はこういった撮影法こそ映画独自の表現につながる訳ですが、このように撮り分ける手法を意識的に採り始めたのがD・W・グリフィスだったのです。
彼の映画に見るように、それまで全身しか映していなかったスクリーンに俳優のクロース・アップが登場すれば、観客はその俳優に注目するようになります。「なんとかガール」ではなく、その名前が知りたくなるのは当然のことです。つまり、このクロース・アップこそスター誕生のキーワードだったのです。
●スター誕生、それは仕組まれたものだった
1908年の暮れに映画特許会社(MPPC Motion Picture Patent Company)の結成をみたばかりのメジャーでは、特定の俳優の名が売れるとギャラが高くなるとして喜ばなかったのですが、その逆手を取って俳優の名前で映画を売り出そうとした人物が、独立系映画会社「インデペンデント・モーションピクチャー・カンパニー(IMP)」のカール・レムリです。
●ユニヴァーサル映画創始者 カール・レムリ
彼は「ニッケル・オデオン」のチェーン経営から映画の将来性を見抜き、1909年にニューヨークに「IMP」を創設。映画製作に取り組んでいましたから、宣伝のやり方は熟知していました。
1910年.彼は「バイオグラフガール」の名で一番人気だったフローレンス・ローレンスと、密かに2本の出演契約を結ぶことに成功しました。
けれども、彼女を「IMPガール」として売り出すには「バイオグラフガール」のイメージが強すぎました。それなら彼女を名前のまま売り出そう。そう考えた彼は一計を案じました。
●フローレンス・ローレンス
数日後、あの有名な「バイオグラフガール」が電車にひかれて死亡した、と新聞に追悼記事が載りました。もちろん写真といっしょにです。スクリーンで彼女を知っている人たちは悲しみました。
ところが3週間ほどして彼女がセントルイスで生きていたという記事がフローレンス・ローレンスの名前で掲載され、彼女自身がグランドオペラハウスに登場すると報道されました。人々が熱狂して迎えたことは言うまでもありません。
カール・レムリの思惑は見事に当たり、バイオグラフガールだった彼女はその時からフローレンス・ローレンスという名で呼ばれるようになったのでした。これが現在につながるスター・システムの発端です。
以後、各社はただちに呼応し、メアリー・ピックフォードも、リリアン・ギッシュもメイ・マーシュも、もちろん男優も、みんな名前で呼ばれるようになり、スター・システムという形が発足しました。映画がギャグや物語の面白さより、主演俳優の人気に左右されるようになったのです。
●西部劇シリーズで人気が高かったウィリアム・S・ハート
●バンプ女優(バンパイア…悪女)として売り出した
セダ・バラ(左)とニタ・ナルディ(右)
●セックスアピールが売り物。「イット・ガール」と呼ばれたクララ・ボウ
●メーベル・ノーマンド ●ポーリン・フレデリック
カール・レムリは「IMP」を核に同業社を併合。「ユニバーサル」の名のもとに1915年からハリウッドの北で本格的に映画製作を開始します。彼はそこに「ユニバーサル・シティ」と呼ぶ映画づくり専門の街を作り上げました。現在もハリウッドのメジャーであり続ける「ユニバーサル」映画はこうして誕生したのでした。
●1910年頃のハリウッド
●映画づくりには企業風土とお国柄が反映
1912年から1915年にかけて、アメリカではエディスン社がエジソン・トラスト(MPPC)のリーダーとして、名実ともに権勢を誇っていました。
10万ドルをかけて同年設立されたブロンクス・パーク撮影所のグラスステージの広さは800平方メートルもあり、水中シーンの撮影用に13万ガロンの水を貯えたプールもありました。また、野外ロケとスタジオでの作品づくりを並行して進められるように、常時6~7チームの俳優グループを抱えていました。お得意は西部劇映画で、あの「大列車強盗」の大ヒット以来、東部の閑散とした郊外で西部劇を作っていました。東部製の西部劇というわけです。
シーリグ社は1907年暮れから、すでにロサンゼルスで映画づくりを始めていました。アパートの屋上に撮影所を作り、地元の芸人集団を集めてメロドラマを作っていました。
また1909年には破産した動物園から猛獣を買い取り、シオドア・ルーズベルト元大統領の「アフリカでの大猛獣狩り」を再現。これが大当たりしてからはライオンを筆頭に100頭以上もの動物を抱える動物園を経営。猛獣映画を看板にするようになりました。
●「ブロンコ・ビリー」 マックス・アンダースン ●トム・ミックス
また、「大列車強盗」で撃たれ役を演じたマックス・アンダースンは、エッサネイ社の社長として自分のニックネームをそのままタイトルにした短編シリーズ「ブロンコ・ビリー」を、週替わりの「連続活劇」の形で毎週1本ずつコンスタントに送り出していました。彼が製作・脚本・監督・主演を務めた短編シリーズは7年間、400本に及ぶほどの快進撃でした。
その向こうを張って西部の活劇で人気を得ていたのはトム・ミックスでした。彼はそのたくましくて明るい風貌からまずフランスで人気を得て、アメリカ人といえばトム・ミックスという好感度で、彼の作品はアメリカでも大当たりしました。
もちろん女性客も意識したコメディ、メロドラマなども作られていましたが、無声映画の時代ですから言葉に頼ることはできません。必然的に俳優の動作が主体です。スラップスティック(ドタバタ喜劇)を筆頭に、馬、オートバイ、自動車、汽車など動きのあるものを利用した追いかけアクションやずっこけ警官ものなどが人気でした。
トラストの一員であるフランスのパテ・フレール社やジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は自国で製作した作品をアメリカに持ち込みました。
要するにエディスン・トラストの構成員同士が、それぞれ競い合いながら、ニッケケル・オデオンの隆盛を盛り立てていたのでした。
●パテ社の連続活劇「ポーリンの冒険」(1914~)で
女性初のアクションスターとなったパール・ホワイト
総じて娯楽を前面に打ち出したアメリカ映画とは対照的に、ヨーロッパの映画は探偵やサスペンスものなど知的な味わいのある作品をはじめ、歴史や文学を素材としたもの、恋愛ものなど、芸術的色彩の濃いものが多かったようです。中でもドイツ映画では絵画に共通する表現主義的な作品が実験的に作られ始めていました。
振興著しかったデンマーク映画はドイツの掌中にあり、帝政時代にあったロシアは経済的にフランスとつながりを持っていましたので、映画もフランスの影響を受けていました。またイギリスは謹厳実直な国民性から、リアリティのある社会派ドラマを得意としていました。
こうした世界の動きの中で特筆大書すべき異色な展開を見せていたのがイタリア映画界でした。当時まだバイオグラフ社の監督だったD・W・グリフィスの目は、そこに向けられていたのでした。
つづく
067 たどり着いたは、西の果て ハリウッド [ハリウッドシステム]
●「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード
1908年暮れにエディスン社を軸に映画特許会社を構成したMPPC(Motion Picture Patent Company)は、想定していたメリットを生み出すには至りませんでした。彼らの悪辣な妨害を嫌った映画人が、東のニューヨークを避けて西海岸で映画を作り始めたのです。その拠点が新天地ハリウッドでした。
●第二次映画戦争始まる
映画の人気の急激な高まりは、全米映画市場の独占をめざす「エディスン・トラスト」、つまりMPPCの製作だけでは供給を満たすことができなくなってきました。
彼らはフィルムの長さの単位が1本300メートル(1000ft)であるところから、手回しで15分程度の短編に制限していたのですが、それでは1回1時間半から2時間におよぶ興行で何本ものフィルムを上映しなければならず、アイディアが続きません。
また、監督たちの中には、もっと長い作品を作りたいという欲求が湧き上がっていました。それ以前に、観客がそれを欲するようになっていました。
●ニッケル・オデオン 1906
こうした市場背景の中で、意欲的な製作者や監督たちはMPPCの傘下で作品を製作する限界を感じるようになりました。MPPCに加盟していない映画会社はここぞとばかりに結束し、彼らだけのトラスト「ゼネラル・フィルム・カンパニー(GFC)」を結成して張り合いました。
ところが1912年頃の状況を見ると、MPPCとGFCの二つのトラストを合わせても、ニッケル・オデオンの半数以上しかフィルムの需要を満たすことができず、他社の入り込む余地が残されていたのです。そこを押さえたのが、自らをインデペンデントと称する独立系映画会社で、その筆頭がカール・レムリ(カール・レムレエ)率いる「インデペンデント・モーションピクチャー・カンパニー(IMP)」でした。
●カール・レムリ ●D・W・グリフィス
一方、MPPCとGFCに所属していた映画人の中にも、トラストの枠から外れたいという人たちがインデペンデントの旗印を掲げました。MPPCの一員、バイオグラフ社の看板監督にのし上がっていたD・W・グリフィスもそう考えている一人でした。
●独立系映画人は、西部へ移動
インデペンデントによる映画づくりは、当然MPPCやGFCの領域を侵すことになります。MPPCは特許という法律を盾に、撮影現場や編集スタジオに手下を差し向けて映画づくりを妨害しました。
インデペンデント側では世論に訴えると同時に、1900年に成立していたシャーマン・トラスト禁止法を持ち出して法廷闘争を展開しました。第二次映画戦争とも言うべき映画トラストとインデペンデントとの法廷闘争が始まりました。
●ニッケル・オデオン「レックス・シアター」の盛況 1912
その終結まで、1914年から1918年までの第一次世界大戦を挟んでまた10年近くもかかるのですが、その間インデペンデントの映画人は、MPPCの実力行使の魔手をかいくぐり、あたかも自分たちが製作している幌馬車隊の西部劇のように、ニューヨークから大陸横断鉄道で西の果てへと逃れていきました。そして彼らが落ち着いたところ、そこが「ヒイラギの林」を意味するハリウッドでした。
●ハリウッドに足りないものはない
この場所に目を付けて最初に撮影所を作ったのは、実はMPPCの一員シーリグ社でしたが、グリフィスの所属するバイオグラフ社も、1910年には撮影隊を派遣して映画づくりを始めました。また独立系カール・レムリの「IMP」も、対抗意識をあらわにして、1912年にハリウッドに拠点を構えました。
●上/1905年のハリウッド 下/バイオグラフ社の撮影所 1910
当時のハリウッドは、家屋がまばらに点在するだけの僻地でした。けれども大都会ロサンゼルスに近い上、海、峡谷、砂漠といった自然のロケーションにも優れ、その上ほとんど雨が降らない好天続き。それこそ映画づくりの格好の舞台だったのです。
またインデペンデントの映画会社にとっては、いざMPPCの魔手が延びても、隣のメキシコに逃げ込めば安全というメリットもありました。
アメリカではこうして、それまで東海岸で興隆してきた映画製作が次第に西海岸に移行。トラストと独立系が競合しながら映画製作を始めたことで、映画の都ハリウッドの繁栄がスタートしたようです。
ただ、製作以外の配給部門、宣伝部門、財政部門などはそれまで通り東海岸で継続されたため、映画産業は東海岸と西海岸とで別の役割を担うようになります。
●メガホンで演技を指示するグリフィス(右)
グリフィスはハリウッドに移る前に、ニューヨークの古いホテルに設けられたバイオグラフ社の撮影所で、「淋しい別荘」「ニューヨークの帽子」「インディアン女の恋」など、前回に述べたフローレンス・ローレンス、メアリー・ピックフォード、リリアンとドロシーのギッシュ姉妹、メエ・マーシュらを起用した短篇をたくさん撮っています。
●メアリー・ピックフォード主演のサスペンス映画「淋しい別荘」1909
中でも1911年から12年に製作された「戦い」「虐殺」「ケンタッキー丘の抗争」「ビッグアレイの銃士たち」「エルダー・ブッシュ・ガルチの戦い」といった作品はすべて戦争や争いがテーマであり、これらの作品づくりの経験が、彼の後のインデペンデント大作「国民の創生」(1915)、「イントレランス」(1916)に結びついていると見ることができます。この大作2作については後に述べますが、あれだけ大規模な作品ですから、その構想はすでにこの頃から練られていたのではないでしょうか。
●メエ・マーシュ
●メエ・マーシュの主演作「虐殺」1911
がけ下の戦闘シーンは、のちの「国民の創生」(下)の戦争シーンにそっくり
●「国民の創生」1915
つづく
066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…グリフィス② [表現の功労者]
066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…
デビッド・ウォーク・グリフィス―②
● 「アメリカの恋人」と呼ばれたメアリー・ピックフォード
1905年には全米でわずか数100軒だった「ニッケル・オデオン」(映画館)は、1908年には10,000軒を突破。
映画産業急成長のさなかの1907年、エディスン社で俳優としてデビューしたD・W・グリフィスが本当に映画づくりの面白さを知ったのは、エディスン社のライバルであるバイオグラフ社に移ってからでした。
●俳優をやめて、監督業に
バイオグラフ社に入ったデビッド・グリフィスと妻のリンダ・ア-ヴィドスン。その最初の仕事は、場末のペニー・アーケードなどで需要が続いている同社の売り物、覗き見式「ミュートスコープ」向けパラパラ動画への出演でした。一方グリフィスは短編映画のアイディアやシナリオも書き続け、採用されるとギャラに加えられるようになりました。
●コインを入れて覗き見るパラパラ動画「ミュートスコープ」
こうして夫婦で10本ほどのパラパラ動画に出演した頃、妻のリンダが活劇映画の主役に抜擢されました。「ニッケル・オデオン」で上映されるのです。グリフィスは脇役として出演したのですが、完成試写で自分の演技を見たグリフィスは失望。二度とカメラの前に立ちたくないと思いました。それがかえって、俳優よりも監督への志向を強めたのでした。
●D・W・グリフィス
その夢が実現したのは1908年6月のことでした。上層部につながりを持つ撮影技師ビリー・ピッツァ―が推薦してくれたのです。今では「国民の創生」「イントレランス」という超大作の監督として知られるグリフィスですが、最初からスケールの大きい作品を作っていたわけではありません。「ドリーの冒険」。それがグリフィスの監督デビュー作でした。240メートル。10分ほどの短編です。
少女ドリーがさらわれて、馬車に引かせた荷車の樽の中に閉じ込められてしまいます。疾走する馬車の揺れで樽のひもは緩み、ドリーを閉じ込めたまま樽は路上に。疾走する馬車。転がる樽。そしてとうとう樽は河に落ち、波にもまれて流されていきます。流れは次第に急流となり、あわや、というときに釣り人に発見され、無事にドリーは助け出される、というお話です。
●名優との出会いが創作意欲を拡大
「ドリーの冒険」は大ヒット。グリフィスはバイオグラフ社の監督として、映画特許会社(MPPC)の決まりに添って毎週300メートルの作品1本と150~200メートルの作品1本を作り続けることになりました。その一方で、俳優の採用やスカウトも任されるようになりました。急カーブで発展途上の映画界は、ライターや監督に限らず、常に新しい俳優を必要としていたのです。
実際にグリフィスは「ドリーの冒険」で、アーサー・ジョンスンという青年をスカウトしました。また、ヴァイタグラフ社から引き抜かれ、衣装やシナリオにも堪能な女優、フローレンス・ローレンスを自分のシリーズ作品に起用しました。そして、ビリー・ビッツァ―とはその後コンビを組むようになります。
●フローレンス・ローレンス ●ビリー・ピッツァ―
また翌年グリフィスは、エディスン社から移籍したばかりのマック・セネットに勧められて、彼の主演による「カーテンレール」という短編も作っています。
フランスのコメディアン、マックス・ランデを尊敬するセネットのプランによるもので、長いカーテンレールを馬車に横に積み込んだために起きるドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)ですが、あたかもフランスの喜劇映画を見るような味わいがあります。
けれどもはじめは誰でも先駆者の模倣から始まるもの。細かく見ると群集劇としての演出やカット変わりの編集の仕方などに、すでにグリフィスの才覚が現れている作品と見ることができます。
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
●時代背景 1908年、T型フォード生産開始
馬車に代わってドタバタコメディに自動車がバンバン登場するようになります。
このように彼がすぐに監督の仕事をこなせたのは、戯曲やシナリオの修行を積んできたからこそ、といえるでしょう。まるでアメリカン・ドリームを絵に描いたような絶好調な滑り出し。いや、反対にこのようなサクセスストーリーからアメリカン・ドリームという言葉が生まれたのかもしれませんね。
●俳優に厳しかったグリフィス
当時のD・W・グリフィスの幸運は、たくさんの名優に恵まれたことでした。1909年、16才のメアリー・ピックフォードを起用。5才からステージに立っていたメアリーはバイオグラフ社で70以上の作品に出演していましたが、グリフィスの元でスリラーや西部劇などに出演し、役柄の幅を広げて有名になり、「アメリカの恋人」と呼ばれるまでになりました。
●1910年頃のニッケル・オデオン 完全な映画館スタイルが確立している
グリフィスは立場を利用して女優たちと付き合うようなことは決してしませんでした。それは演技指導には役に立たないとして、むしろ厳しい姿勢を貫いたといわれています。(女優の奥さんが同じスタジオで仕事をしていたからかも知れない、なんて)
有名になったメアリーは21才でグリフィスの元を離れます。別れ際にグリフィスが彼女に言った言葉は「君を作ったのは私だということを忘れるな」。
そんなグリフィスにとっていちばんの収穫は、メアリーがスタジオに招待したリリアンとドロシーのギッシュ姉妹に出会ったことでした。彼はとりわけリリアン・ギッシュに関心を寄せました。
●リリアン(左)とドロシー(右)のギッシュ姉妹
●ドラマの盛り上げ方を編み出したグリフィスの手腕
1912年製作の「見えざる敵」では、拳銃の大胆なクロースアップが部屋に閉じ込められたギッシュ姉妹の恐怖を観客に共有させます。
家に電話をかけても通じない父親の心配。ようやく仲間に連絡が取れても、途中のアクシデントでなかなか車が到着できないもどかしさ。それが姉妹と車の仲間を交互につなぐ(カットバック or クロスカット)ことによって危機感を高めていきます。やがて姉妹の恐怖は極限に達し、健気にも意を決して拳銃を奪おうとする姉。が、銃口を向けられて卒倒してしまいます。
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
この作品では、彼の師であるエドウィン・ポーターが作った「あるアメリカ消防夫の生活」のような、誰が何をやっているのかよく分からないといった撮り方やつなぎ方は全くみられません。
●エドウィン・ポーター「あるアメリカ消防夫の生活」(1902)では、
まだ全身像の描写から抜け出せなかった。
ポーターの映画では人物はすべて全身像だったからなのですが、グリフィスは正面から、脇から、引いたり寄ったりして自在にカメラポジションを移すと同時に、カメラアングルとフレームサイズを変えています。どのように撮り、どのようにつなげば自分が伝えたいことを表現出来るか。それは彼が短編製作の中で試行錯誤の末編み出した手法であり、それがとりもなおさず<映像で語る>ということの実践であったのです。
ここにはすでに、今日の私たちが観ているサスペンス映画と同じ手法によってドラマの興奮が高められているのです。
■「見えざる敵」のカットバック
左の室内と右の野外の情景が交互につながれて同時進行を表している
また人物の大きさが、全身からクロース・アップまで変化に富んでいる
① ②
③ ④
⑤ ⑥
⑦
これらの俳優たちが、そしてこれらの作品づくりの経験が、グリフィスの頭の中でおぼろげながら揺らいでいる新しい構想を次第に明確にしてくれることになります。けれどもそれは数年先のこと。今、彼が目の前の現実として注目しなければならなかったのは、1910年にジョバンニ・パストローネが発表した壮大な歴史劇「トロイ陥落」の大成功に代表されるイタリア映画の躍進ぶりでした。
●アメリカで本格映画会社と呼べるかたちの芽生え
ところで、1900年代早々から人気急上昇の「ニッケル・オデオン」ですが、その経営やショー・ビジネスなどを足掛かりにして、1910年前後からその後のアメリカ映画界を代表する傑物たちが台頭し始めていました。彼らの多くはユダヤ人で、東欧や中欧からの移民でした。
ポーランド移民の4兄弟ワーナー・ブラザーズは1903年にニューキャッスルにストア・ショーの「カスケード座」を開業後、1923年に「ワーナーブラザーズ・ピクチャーズ」を設立します。。
のちに「パラマウント映画」の創設者となるアドルフ・ズーカーはハンガリー生まれの毛皮商でしたが、エドウィン・ポーターの「大列車強盗」の人気を見て、映画の隆盛を予見。毛皮工場で働いていたオーストリア移民のマーカス・ロウといっしょに「ニッケル・オデオン」を始めます。マーカス・ロウはその後1910年に「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」の設立に参加します。
ハンガリー生まれの裁縫師ウィリアム・フォックスは1906年にブルックリンに「ペニー・アーケード」を開館したことを皮切りに、1909年にはニューヨークに本格的な映画館「シティ劇場」をオープンします。こうして地盤を整えたのち、1915年に「20世紀フォックス」を立ち上げます。
「ユニバーサル映画」の創始者、ドイツ生まれの洋服セールスマン、カール・レムリ(カール・レムレエ)は、1906年にショー・ハウスを開館しますが、次第に映画作りに舵を取り始めます。
また、「コロンビア映画」は一足遅れて1917年に、カール・レムリの秘書を経て業界のマナーを学んだ、軽演劇の役者上がりのハリー・コーンにより創設されます。
●カール・レムリ
彼らにはまだ映画を新しい産業として推進しようなどという高邁な考えはありませんでした。ましてや芸術などとは思いもよりませんでした。ただ、それまであいまいだった「製作」「配給」「上映」を個別の事業として明確に区別して利益を上げようとする、はっきりとした目的がありました。
アメリカの映画事業者たちは、映画は決して知的なものでも高尚なものでもなく、ただ自分たちのような移民が体験した苦境を忘れさせ、低所得者層の願望をひと時なりとも叶えて上げたいという心意気がありました。そのあたりが、娯楽重視のアメリカ映画を形作った根幹をなしているのかもしれません。
1908年には彼らも、トーマス・エディスンの肝入りで発足した映画特許会社(MPPC)に無理やり組み込まれた興業者の一人ということになります。従ってMPPCは、彼らの精力的な動きに対して最初からかなりの無理をはらんでいたためにやがては瓦解せざるを得ないことになるのですが、それはまだまだ先の話です。
つづく
★掲出の動画は本来サイレントですが、音楽・効果音は後世に公開当時を想定して擬似的に付けられたものです。
065 土に合い、水になじめば、花は咲く・・・D・W・グリフィス [表現の功労者]
065 土に合い、水になじめば、花は咲く
デビッド・ウォーク・グリフィス―①
●時代背景 1900年代初頭のニューヨーク
アメリカにおける映画事業の独占が、エディスン社主導の元にMPPC(Motion Picture Patent Company)の名称でようやくまとまろうとしている頃、組織を構成する1社であるバイオグラフ社に現れた若い夫婦。
彼は才能を開花させる場所を得て、数年でアメリカ映画を、いや世界映画史に残る偉業を示すことになります。
●ご存知なら、あなたも映画通
デビッド・W・グリフィスは、今日「映画の父」として、映画関係者ならずとも映画大好き人間なら誰でも知っている有名人です。映画の技術的な発明はリュミエール兄弟ですが、グリフィスは映画の表現手法を編み出し、映画言語の基盤を確立したからです。
つまり、それまでに見られたような、舞台劇をそのままフィルムに移し変えたような退屈なものではなく、撮影段階とその後の編集の工夫で、動く写真(Motion Picture)でしか表現できない映画ならではの見せ方を発見し、提示したのです。
●D・W・グリフィス
彼が映画監督として歴史に刻んだ代表作は「国民の創生」(1915)と「イントレランス」(1916)ですが、そんな彼も最初はなかなか望む場所を得られずに遠回りをしていたようです。なぜなら、彼がバイオグラフ社に現れる前は、エディスン社にも足を運んで試行錯誤しているのです。
●演劇の演出家になりたかったグリフィス
グリフィスは南北戦争が終結した10年後の1875年に、リンカーン大統領と同じケンタッキー州で生まれました。アメリカ北部と南部のちょうど中間に位置するケンタッキー州の大方は北軍に属したのですが、大農園を経営する父は奴隷解放に反対し、南軍で戦いました。
戦後、農地と奴隷は解放され、グリフィスの少年時代は困窮を極めていました。そんな中でも両親は彼に高い教育を受けさせました。
●ケンタッキー州は奴隷制をとっていたので、南北戦争では両軍に分かれた 1861
成長するにつれグリフィスは、自分が文系に向いていることを知り、小説や戯曲を書き始めました。彼の中にはすでに舞台の演出家になりたいという明確な願望が芽生えていたようです。
映画誕生とされる1895年はグリフィスが20歳の時になります。その頃の映画は見世物の域を出ず、演劇よりもはるかに低俗なもので、演出家を志すグリフィスの眼中には無かったと思われます。成人するとグリフィスは演劇活動も始めました。ライターも俳優も、彼にとっては演劇の演出家という最終目的達成のためのステップだったと思われます。
グリフィスが俳優としてニューヨーク・デビューを果たしたのは31歳の頃でした。同じ俳優のリンダ・ア-ヴィドスンと知り合い、結婚。でも芝居ではなかなか二人の生活費は稼げません。ところが映画は世の中の人気を得て、今や芝居をしのぎそうな勢いです。そこで彼は手持ちの戯曲の売込みを思い立ち、どうせなら、と業界トップのエディスン社に当たってみました。1907年の春のことです。
●エドウィン・ポーターと彼の代表作
●「あるアメリカ消防夫の生活」1902 ●「大列車強盗」1903
グリフィスに会ったのは、あの「大列車強盗」の監督で名高いエドウィン・S・ポーターでした。ポーターは、ルックスもよく役者もやっているというグリフィスを一目見て、これは俳優として使えると直感しました。当時ポーターは週単位でニッケルオデオンに配給するための短編映画の製作に追われ、いつもと違う新鮮な役者の登用の必要性を感じていたのです。
●まずはエジソン社で、映画俳優としてスタート
ポーターはグリフィスの持ち込んだ戯曲…それは「トスカ」の翻案でしたが…に一応の敬意は払いながらも、自分で構想していたアクション映画にグリフィスを起用することにしました。芝居の戯曲として書かれたものをそのまま映画のシナリオとしては使えないことをポーターは知っていたからかも知れません。根本的な違い。それは演劇は限られた舞台空間でしか展開できませんが、映画にはその制約が全く無いことです。当時の映画人はやっとその違いに気づき始めた頃なのです。
エドウィン・ポーター監督の新作は「鷲の巣から救われて」。
岩山の平地にある開拓者の家。外で遊ぶ幼い息子を残して母親が家の中に入ったその瞬間、大鷲が息子を文字通り鷲づかみにしてさらって行きます。鷲の巣を探し当てた父親・つまりグリフィスが仲間の協力でロープを伝って崖を降り、息子を助け上げようとしたところ、襲い来る大鷲。壮絶な格闘。ようやく大鷲を倒してグリフィスは息子と共にロープで引き上げられていきます。めでたしめでたし。
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
●2点とも「鷲ノ巣から救われて」1907 役者として出演しているグリフィス
物語は他愛なく、映画とは言えセットもまだまだ芝居の舞台の域を出ていません。大鷲と息子を吊り上げて背景の絵を巻き取ることで鷲の飛行を表現していますが、1900年パリ万国博における巨大パノラマの視覚効果が応用されていることが分かります。
いずれにしてもポーターのこの作品は「大列車強盗」をしのぐ出来ではなく、グリフィスの映画デビュー作品として知られているようです。それにしても舞台装置家ロバート・マーフィの手による大鷲とその操演にこそ注目すべきでしょう。
●鷲は左のパノラマの応用で、背景画を左に移動させることで飛行感を出している
(この発展形がスクリーンプロセス。止まっている車の背景スクリーンに、走る車から撮影した風景を投影して実際に走っているように見せるテクニックは現在も使われている)
●どっちの水が甘いか
「鷲の巣から救われて」(1908)は興行的にはなかなか評判が良かったので、グリフィスは映画も面白そうだという気がしてきました。ポーターの映画づくりの手法は、自分が考えていた演劇の演出家の仕事と基本的には同じものだったからです。戯曲を書いたりした経験を持つ自分なら映画監督も悪くない。食うために探し当てた映画の世界で自分の力が試せるなら、一丁やってみようか。…けれども入社早々で映画1本に出演しただけのグリフィスを、すぐに映画監督にしてくれる人はおりません。
●時代背景 T型フォードが街にあふれている 1908 ●ウィリアム・ディクスン
そこでグリフィスはリンダといっしょに、エディスン社の最強のライバル、あのウィリアム・ディクスンが在籍するバイオグラフ社を訪れたのでした。ショービジネスの世界における当時の求職活動というのは、ボードヴィルの役者もマジシャンもサーカスのジャグラーも空中ブランコも、大抵、家族か夫婦か恋人同士かでコンビを組んで会社訪問をし、面接を受けてその場で採用・不採用が言い渡されるというようなやり方が普通でした。
案ずるより生むが安し。バイオグラフ社では、グリフィスの持ち込んだシナリオと二人の役者としての素養を読み取って、夫婦込みで俳優として契約してくれたのでした。
エディスン社を辞してバイオグラフ社に移籍したデビッド・グリフィス。そこから水を得た魚のように、彼の本領が発揮されていくことになります。
つづく
064 9人だけれど「独り占め」・映画特許会社 [映画をめぐる確執]
064 9人だけれど「独り占め」
映画特許戦争-②
●ニューヨーク郊外、ウェストオレンジのエディスン研究所 1900年頃
前回からの続きです。
●1社独占はおよしなさい。
1907年.映画の「配給」をある程度抑えることに成功したエディスン社の次の策略。それは「製作」の独占でした。
エディスン社の相次ぐ提訴で競合する映画会社は沈黙させられ、今や映画市場はエディスン社と宿敵バイオグラフ社の2社による寡占状態になっていたのですが、エディスン社ではなんとかそのバイオグラフ社も排斥し、市場からの撤退に追い込みたいと考えていました。
バイオグラフ社・・・12年前の1895年にエディスンと袂を分かったウィリアム・ディクソンが取締役として在籍する最強のライバル会社です。
●ウィリアム・ディクスン
こうして1908年は、映画史にとって大きな転機を迎えることになりました。
製作の基盤は生フィルムです。フィルムを押さえることは映画産業の要を握ること。エディスン社の策士、法律顧問のウィリアム・ギルモアは、映画製作会社のカルテルの形成をめざし、1900年代初めにアメリカの90パーセントのフィルム需要をまかなう独占企業に成長していたイーストマン・コダック社のジョージ・イーストマンを囲い込むことを画策しました。
●ウィリアム・ギルモア
彼の耳には同社が、1897年5月に発生したチャリティ・バザールの大惨事以来研究を続けている不燃性フィルムの完成(1909年秋)が目前であるというニュースが伝わっていました。ギルモアの考えは、そのフィルムを含めて、映画に関するすべての権利をエディスン社1社で独占することでした。
●ジョージ・イーストマン
話を受けたイーストマンはエディスンに会い、「製作、プリント、配給、興行まで、映画のすべてを独占することは、あなたにとって決してプラスとはならないでしょう。私たちにとって重要なことは、なによりも良い映画を作ることではないですか。私が考えているのは、世界をリードしているアメリカとフランスのメジャー映画会社によるカルテル(同一業種の連合)です」と伝えました。
イーストマンはフランスの会社を2社仲間に入れることを考えていました。1社は敬愛して止まないジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社。その加盟をぜひエディスンに認めさせたい。
物語映画の祖とされるメリエスは、この頃、旧態依然の作品で人気に陰りを見せ始めていたとはいえ、1905年には「千一夜物語」(440m)と「リップ・ヴァン・ウィンクルの伝説」(405m)。1907年には「海底20万マイル」(265m)という30シーンもある大作を発表。舞台劇風芸術路線の作風を曲げないで、巧妙なトリックを使った映画製作はまだまだ健在でした。
●ジョルジュ・メリエス ●シャルル・パテ
もう1社はパテ・フレール社。同社はそれまでイーストマン・コダック社の最大の得意先でしたが、1906年には同社に対抗してフィルム生産工場を開設。1日の生産量は12,000メートルにもおよび、イーストマン・コダック社をしのいでいました。そのためエディスン社でもパテ・フレール社なしでのカルテルは考えられないはずです。
イーストマンにしてみれば、自社のフィルムはヨーロッパでもどんどん使って欲しい。その意味でエディスン社の連合に供給を限定するメリットは薄いのですが、エディスン社と話をまとめるためには妥協も必要でした。
なお、映画発明の栄誉を担うリュミエール社は、1897年3月にマッキンリー大統領の保護政策でアメリカから追い払われるように撤退を余儀なくされた後は、映画製作への情熱は消滅したかのようでした。
同社は1902年に映画関係機材の特許をすべてパテ・フレール社に売り、元々の写真材料の生産と映画専門館の事業へと方向転換を図っていましたから、イーストマンの考えの対象にはならなかったようでした。
●トーマス・エディスン
●それじゃ、グループで独占しようじゃないか
ところがエディスン社では早速、カルテルよりも強力な独占力を持つトラスト(同一業種の合同)の形成に向けて動き出しました。そこには法律家フランク・ダイヤーの考えが反映していたと見ていいでしょう。
建前は、フィルムの無断コピーを禁止することによって品質の確保を図ること。次に、同業間における無駄な競合を排除するため、というものでした。
中味は、エディスンの持つ映画特許のすべてについて共同利用を許可する代わりに、製作される作品のすべてから特許料を徴収すること。また、加盟会社以外の映画を扱う配給業者には加盟会社の映画を配給しない、というものでした。
更に加盟会社にとって魅力だったのは、イーストマン・コダック社は加盟会社にだけ生フィルムを供給するということでした。フィルムの供給を断たれれば、映画は作れません。「仲間になれば面倒を見てやる。従わなければ映画は作らせない」という、これはエディスン社によるあからさまな映画産業の独占宣言でした。
●持つべきものは「切り札」
このトラスト編成に対してバイオグラフ社が黙っているはずはありません。それはエディスン社に対して徹底抗戦できる切り札を持っていたからです。
バイオグラフ社はそれを元に、大銀行でこのあとタイタニック号(1912)の実質的なオーナーとなる金融界の総帥モルガングループを後ろ盾に、加盟18社を結集した対抗トラストを結成します。
対するエディスン社は、スタンダードオイルで石油業界を独占するロックフェラーグループの支持を得ていました。こうして財界を巻き込んで一触即発の危機にまで至ったのですが、そこで効果を発揮したのがバイオグラフ社の切り札です。
●映画特許会社(MPPC)の設立
バイオグラフ社の切り札・・・それは、トーマス・エディスンの発明とされるものに含まれていて、実はウッドヴィル・レイサムの発明であるレイサム・ループ(フィルム送りのたるみ)と、トーマス・アーマットとチャールズ・ジェンキンスが発明したフィルムの間欠送り機構。この二つの特許をバイオグラフ社は彼らから譲り受けていたのでした。
バイオグラフ社は、エディスン社の特許に自社のこの特許を加えて、利益を分配することをエディスン社に申し入れました。
●ウッドヴィル・レイサムとレイサム・ループ
●上左/トーマス・マット 上右/チャールズ・ジェンキンス
●下/アーマットがエジソンのところに持ち込んだ映写機「ファンタスコープ」
こういう問題への対処はすべてフランク・ダイヤーの役割です。エディスン社としては到底受け入れられる条件ではありません。当然話し合いは物別れ。
するとバイオグラフ社は、いちかばちかの大勝負に打って出ました。「我々は現実味の無い無駄な話し合いをこれ以上続けたいとは思わない。あくまでもエディスン社主導で映画市場を支配しようというのなら、わが社は直ちに自社の所有する映写機の特許を世界中に開放するだろう」。
そんなことをされたらエディスン社の特許は意味がなくなってしまいます。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。バイオグラフ社のこのハッタリには、さすがのダイヤーも折れるしかありませんでした。
●エジソン研究所 1908年頃
こうして1908年12月18日。ニューヨーク郊外ウェスト・オレンジのエディスン研究所に、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社(社長はスチュアート・ブラックトン)、ルービン社、シーリグ社、エッサネー社、カーレム社、それにフランスのパテ・フレール社、ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社の9つのメジャーが揃い、映画特許会社(MPPC Motion Picture Patent Company)が発足しました。
これはメジャー各社が、エディスンを映写機の発明者として承認することでもありました。そして合衆国内では、この9社以外では映画を製作したり配給したりすることが出来なくなったのです。
そしてこの年の暮れ、MPPCは各社の傘下にあるフィルムレンタル業者(配給社)と興業者を集めてMPPCの結成を告知しました。その席でエディスン社の取締役であり顧問弁護士のフランク・ダイヤーは声高らかに宣言しました。
「今後アメリカでは、承認された製作者、承認された撮影機、承認された映写機によるものだけが上映されます。これらの映画は、承認された興業者が、承認されたフィルム賃貸業者を経て、承認された映画館で上映されることになります。すべての映画館は毎週2ドル。すべての賃貸業者は年間5000ドル。すべての製作者はフィルム1フィートにつき0.5セントの許可料をトラストに支払うことにご賛同ください」
つまり、これにより、認可されていない競争相手や脆弱な賃貸業者を排除して映画市場の健全化を促し、いざという時には力になって上げよう、と言うわけです。
●ロバト・ポール ●レオン・ゴーモン
この話が伝わると、ヨーロッパの国々の映画製作者から、いろいろ懸念の声が漏れてきました。MMPCのメンバーとなったジョルジュ・メリエスの元には、イギリスの友人ロバート・ポールから、アメリカ映画を求めているヨーロッパの市場はどうなるのかとの疑念が寄せられました。また、レオン・ゴーモンとイタリアのチネス社からは、自分たちも仲間に入れてもらえるようにエディスンに掛け合ってほしいと懇願されました。
1900年以降、イタリア映画界の振興は目覚ましく、チネス社の他にはイタラ社、アンプロージオ社による「ローマの征服」「カラブリアの地震」といったスペクタクルな歴史劇路線の力作を生み出し始めていたのです。
ともあれ、エディスン社の長かった特許10年戦争の幕は、一応降りました。この組織の内容は実際にはカルテルでしたが、周囲からは怖れを込めて「エディスン・トラスト」と呼ばれたものでした。
エディスン社による1社独占をエディスンに提言し、それを実現できなかったウィリアム・ギルモアがエディスン社を去ったのは、それから間もなくのことでした。
●1908.12.19 MPPC設立の祝宴でかつてのライバルたちと集うエディスン(前列左)
●1908.12.18 MPPC設立に集まった9社の関係者 中央はトーマス・エディスン
●老兵は消え去るのみ
10年にわたる特許戦争終結の功労者はフランク・ダイヤーであることについて、エディスン社内部で異論を唱える人はおりませんでした。エディスンの右腕だったウィリアム・ギルモアはあくまでも参謀の立場でした。トラスト設立に対して具体的な実績はありません。二人とも敏腕とはいえ、エディスンにとって統率者は二人も要らない。ギルモアが早々にエディスン社を去った裏には、彼自身にそういう判断が働いたのかもしれません。
そして、ギルモアの後釜としてウェスト・オレンジのエジソン研究所総支配人およびエディスン社副会長の座に座ったのはフランク・ダイヤーでした。
このあとエディスン・トラストは、特許を盾に、違反会社に対してますます容赦の無い制裁を加えていきます。当時のことですから、違反会社の中には姑息な手段を弄したり、悪辣な手を使う配給業者もあったようです。が、いずれにしても彼らに対する法律上の実働部隊・執達吏の行使は、フランク・ダイヤーの兄、リチャード・ダイヤーが経営する法律事務所「ダイヤー&ダイヤー社」の仕事でした。
また同時期、MMPCが映画の社会的、教育的使命を表向きに謳った倫理規定を敷衍するための「映画検閲国家委員会」も発足しました。こうして、アメリカ全土における映画の検閲制度が発足します。
ところで、こうした特許戦争のさなかの1907年春。働き口を探してニューヨークにやってきたしがない俳優カップルがありました。二人は巡り巡ってバイオグラフ社の門をたたきます。その彼こそ、後の世に「映画の父」と称されるデビッド・ウォーク・グリフィス、その人でした。
つづく