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072 イタリア史劇の最高峰「カビリア」 [大作時代到来]

072  スペクタクル映画の古典「カビリア」

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●「カビリア」でソフォニスバを演じる妖艶な女優、イタリア・マンチーニ

 1914年、歴史映画の力作大作を生み出していたイタリア映画に、止めをさすような快作が生まれました。「カビリア」です。この映画こそ、今日私たちが観ている長編映画につながるスケールと表現技術を備えたものでした。
  けれども……

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●面白さ満載、これこそ映画
  イタラ社の製作者でもあるジョバンニ・パストローネは、明らかに「カビリア」を芸術性の高い作品に仕上げようと考えていました。また興行的には、好評を博した前年公開の「ポンペイ最後の日」の続編であるかのように、火山の噴火から始めることにしました。

 時は紀元前3世紀。地中海の支配を巡ってローマとカルタゴが戦っていたポエニ戦争を背景に展開する、気宇壮大な物語です。
 
シチリア島の貴族の幼女カビリアは、エトナ火山の噴火のドサクサに、乳母といっしょにフェニキアの海賊にさらわれてカルタゴへ。そこで邪教モロクの大司祭に買われてあわや邪神のいけにえに。そこをカルタゴの貴族フルビオと怪力マチステに助けられ、王女ソフォニスバの宮殿にかくまわれます。 

 何年か経って、ローマの大艦隊がカルタゴと同盟関係にあるシラクサを攻撃。ソフォニスバの許婚でヌミビアの王マッシニッサは遠征し、手柄を上げて凱旋するのですが、ソフォニスバとの婚姻を願うアフリカ人スキピオの謀略によって殺されてしまいます。それを知ったソフォニスバは悲しみのあまり自害。フルビオとマチステ、カビリアに魔手は迫る。三人の運命やいかに。


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●ハンニバルのアルプス越え  
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   ●邪神モロクの大神殿でいけにえとして捧げられようとしているカビリア
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          ●カビリアを救い出す怪力マチステとフルビオ

 このように「カビリア」は、エトナ火山の噴火に始まり、伝説に名高い象の大群を引き連れたハンニバルのアルプス越え、邪教モロク神殿のいけにえ儀式、シラクサ攻撃ではアルキメデスが発明した太陽光大反射鏡によって炎上するローマ軍の大艦隊、というようにスケールの大きな見所がいっぱいという未曾有の大作でした。
 それは、小説でもなく演劇でもない、また1巻もの15
分の短編映画では絶対に味わうことのできない、長編映画ならではの面白さ楽しさを十二分に体験させてくれるものでした。


●「カビリア」より抜粋
 1.雪の山岳地でロケーションされたハンニバルのアルプス越えのりアル描写 
 2.巨大セット、モロク神殿におけるカビリアの救出劇
 3.マッシニッサの宮殿における移動撮影の例 



●長編が必要とした字幕。字幕が必要としたシナリオ
 このように「カビリア」は、シチリアとカルタゴ、それにローマでの展開が加わるという舞台設定です。また登場人物も善悪入り混じり、複雑な陰謀も設定されているという入り組んだ物語です。そのためにところどころに説明を入れる必要が生じました。そこで考えられたのが「字幕」です。

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●「カビリア」の字幕の一例 英語とイタリア語で書かれている
 これは説明用のサブ・タイトル。台詞字幕はスポークン・タイトルと呼ばれた



 字幕とは現在のように画面下に表示するスーパーとは違います。文字通り文字そのもので一画面を費やすもので、それを動画の間に挿入する方式が考えられました。つまり、俳優が口を動かしている途中で字幕に変わり、俳優の台詞が文字で示されます。観客がその文字を読み終えた頃、画面は先ほどの俳優が話し終わるところから続いていく、という手法です。観客は初めは奇異に思ったでしょうが、俳優が話す言葉はこのように字幕で示されるのだということが一般的になると、誰も違和感を覚えなくなったのです。

 
このように長編映画では、物語の説明や登場人物の台詞を字幕として表示するための台本、いわゆるシナリオという形が自然発生的に生まれてきたのでした。(字幕は無声映画特有の手法です。1927年、世界初とされる「ジャズ・シンガー」以後映画がトーキーに変わると不要になり、使われなくなります)

●はじめからカメラを回す撮り方の元祖は
 
パストローネはこの映画で20,000メートルのフィルムを撮影に費やし、そのうちの4,500メートルを使って4時間近い映画に仕上げました。
 
それまでの映画撮影では、
D・W・グリフィスもリハーサルを何回か繰り返したあと本番だけカメラを回すという撮り方でしたが、「カビリア」以後は、何テイクか撮影を繰り返した中からOKショットを選んで編集するというパストローネの手法が定着していきます。

●舞台装置と照明技法の飛躍的進化
 また「カビリア」では、舞台装置と照明技法が飛躍的な進化を遂げています。背景に絵を用いる手法は野外ロケが一般的になるに連れて実景に代わるのですが、セット撮影の背景ではまだ、建物外観や扉、壁などの凹凸を「だまし絵」で立体的に見せる手法が使われていました。 

 パストローネは徹底的にだまし絵を排除。建物は実際に実物大のセットを建て、飾り模様は石膏で凹凸をつけました。その代表的なものは宮殿と邪教の神殿です。また邪神のような立体感を強調した巨大な彫像や宮殿を飾る巨像も作りました。床には大理石の模様を描いた絵の上にガラス板が敷かれ、光の反射で本物の大理石に見えるように工夫されました。


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●後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたといわれるモロクの大神殿 
 「カビリア」の随所に独創的な造形美を見ることができる

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●マッシニッサの宮殿
 だまし絵や書割ではない背景。本物の彫像。
 ここでは建物の立体感を強調するために、蛇行による移動撮影が行われている。
 (動画の最後参照)


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●ガラスを敷いたミラーによる、大理石の床の効果

 セットが巨大ですから照明も大規模になります。それまでの手法は役に立たず、大光量の人工照明を使った新しい照明技法が研究されました。大長編映画、巨大セットは、すべてにおいて前代未聞の技術を必要としたのです。

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●上の3人のシルエットが手前に移動するに連れてライトが当たり、
 壁面の象の彫刻と3人の表情が浮かび上がるという巧妙な照明テクニック


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●これほど際立った光の演出は前代未聞
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●炎上するローマ軍の大艦隊

 このようにして誕生した「カビリア」は、母国イタリアはもとより、長編を渇望する世界の観客に大歓声で迎えられたのでした。


●隆盛直後。イタリア映画界が見舞われた悲劇
 ところで、ここで大変な問題が持ち上がりました。この年1914年6月28日の白昼。ボスニアの首都サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻が、セルビア人解放を掲げた秘密結社「黒い手」のテロ学生によって暗殺されてしまうのです。
 それを機にオーストリアとハンガリーはセルビアに宣戦布告。この戦はあっという間にドイツ、ロシア、フランスを巻き込み、ヨーロッパの戦争から世界戦争へと広がってしまいます。第一次世界大戦です。アドリア海を挟んだイタリアも対岸の火事では済みません。

 大戦は4年も続きます。折角隆盛を見たイタリア映画の全盛期はそれまでで、イタリア映画界はこの大戦のためにすっかり沈滞してしまうのです。
 けれども「カビリア」は、その造形美が後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたばかりでなく、大作をもくろむアメリカのD・W・グリフィス監督に大きな啓示を与えたと思われるのです。 
                                                            つづく

★添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。

★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。





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073 チャップリン登場とグリフィス「国民の創生」着手 [大作時代到来]

073 おまたせ。ようやくチャップリン
        D・W・グリフィス「国民の創生」-① 

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●13番目のDから新人女優が投身自殺したことからLANDの4文字が取り払われたという。

 アメリカ西海岸に映画の都ハリウッドが誕生した1910年代半ば。現在HOLLYWOODと描かれている大看板がHOLLYWOODLANDと表示されていたその頃。1914年7月にヨーロッパで勃発した戦火は世界の列強を巻き込み、一挙に世界大戦の様相を呈してきたのですが、幸いなことに、アメリカは最後まで参戦を控えていました。世界戦争は蚊帳の外。それがアメリカ映画を大きく躍進させることになります。
 
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●イギリス陸軍の志願兵募集ポスター           ●西部戦線へ向かう兵士 1914.7


●グリフィス、チャップリンと出会う
 
 1913年.トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC)の制約で長編を作らせてくれないバイオグラフ社に愛想を尽かして離れたD・W・グリフィス。イタリア映画の大作「カビリア」のうわさは、長編大作を目指していたグリフィスを促し、いよいよ彼はその実現に向けて動き出します。

  グリフィスは長編を作る準備としてミューチュアル社に入り、スタジオを設立しますが、そこに「新しい会社を作りたいのでぜひ加わってほしい」というエッサネー社からの誘いがありました。エッサネー社はライバルであるマック・セネットのキーストン社から、「キーストンコメディ」などで人気上昇中のチャールズ・チャップリンを引き抜いたばかりでした。

  スターシステムの確立により、俳優の名で映画を売り出そうと考えるようになってからのハリウッドは、各社とも観客に受けそうな個性的な俳優を、血眼でスカウトするようになっていたのです。

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●売り出した当時のチャールズ・チャップリン。
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●お金持ちの紳士の格好をした浮浪者というミスマッチが大衆の共感を呼んで、爆発的な人気者となる。右はデビュー作の「成功争い」1914

 
 チャップリンはイギリスのパントマイム劇団に所属してヨーロッパを巡回。ジョルジュ・メリエスが「極地征服」を発表した1912年頃は、パリのミュージックホール、アルハンブラ劇場でギャグ芸人として出演していました。翌年チャップリンはアメリカを巡業。あの独特なパントマイムによるこっけいなギャグはたちまち低所得者層や移民たちの心を捉え、爆発的な人気を呼びました。

  そのチャップリンを映画の世界に呼び入れたのが、元はバイオグラフ社の演出担当でキーストン社に在籍していたマック・セネットでした。チャップリンのデビュー作は、1913年に製作され、1914年に公開された「成功争い」です。

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●マック・セネット     ●トーマス・H・インス          ●D・W・グリフィス

  そのチャップリンとマック・セネットの二人を引き抜いたのがエッサネー社なのですが(ややこしい。でも当時のアメリカ映画界ではこのような転職は日常茶飯事)、この会社は映画特許会社(MPPC)の制約に縛られない、長編映画を作る会社を新しく興そうとしていたのです。

  こうして、マック・セネット、トーマス・H・インス、それにD・W・グリフィス三人の名声を統合したトライアングル社が、ロックフェラーのスタンダード石油から融資を受けて設立されます。 


●俳優は一流。キャラクターも多彩

 トライアングル社は3人の関係で有名な俳優たちも揃いました。
  喜劇畑のセネットの元には、美貌ながらズッコケ上手のメーベル・ノーマンド、曲がったひげがトレードマークのベン・ターピン、デブで売っていたロスコー・アーバックル


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●メーベル・ノーマンド  ●ベン・タービン   ●ロスコー・アーバックル

  インスの元には、当代一と謳われる性格俳優のフランク・キーナン、西部劇の立役者ウィリアム・S・ハート、アクション俳優ダグラス・フェアバンクス、日本から来たハリウッドスター早川雪州。

ウィリアム・ハート.JPG  ダグラス・フェアバンクス.JPG  早川雪州.JPG
●ウィリアム・S・ハート●ダグラス・フェアバンクス ●早川雪州

  グリフィスの元には、彼が手塩にかけて育てたリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ブランチ・スイートらが勢ぞろい。(そろそろ聞いたことのありそうな名前が出てきていませんか。
早川雪州は「戦場にかける橋」のあの捕虜収容所長です) 

  こうした強力なバックボーンと製作環境を得て、グリフィスはかねてから構想していた「国民の創生」に着手することができたのでした。
 

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●リリアン・ギッシュ   ●ブランチ・スイート    ●メイ・マーシュ

 ところで、グリフィスとチャップリンの関係ですが、グリフィスは大作文芸路線、チャップリンは小粒なスラップステックを得意としていましたから、グリフィスが分野の違うチャップリンを起用して映画を作ることは考えられなかったようです。
  ただ、良好な関係は続いていたと思われます。それは後に、グリフィスはチャップリンと組むことになるからです。
 

●「国民の創生」は南北戦争終結50周年記念作 
 「国民の創生」は南北戦争を背景にした物語です。南北戦争終結は
1865年ですから、1915年に公開されることになる「国民の創生」には南北戦争終結50周年という意味がありました。けれどもグリフィスは、大農園を経営し南軍で戦った父の姿をこの映画に託そうとしたのではないでしょうか。

 グリフィスは周到な準備の後、相棒のカメラマン、ビリー・ビッツァーと組んで念願の大作を撮り始めました。 

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●名カメラマン、ビリー・ビッツァー(左)とD・W・グリフィス
 
初期の電動式カメラは1910年に登場したが、ビッツァーはあえてパテ・フレール社の手回しカメラを使用している。

                               つづく






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074 望遠、ズームも工夫次第  「国民の創生」② [大作時代到来]

074 望遠、ズームも工夫次第
    D・W・グリフィス「国民の創生」-②

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●グリフィスの大作「国民の創生」(1915)の一場面 右はリリアン・ギッシュ


前回からの続きです。

●「国民の創生」はグリフィス念願の映画だった
 D・W・グリフィスの父はケンタッキー州で大農園を営み、南北戦争では南軍に属して戦ったことについては先に述べました
 
「国民の創生」のねらいの一つは、彼の父の時代を振り返り、アメリカ独立の意味を問うこと。もう一つは、彼自身が築いてきた映画表現技術の総仕上げをすることでした。
 それは必然的に大作となり、とりもなおさず、大作映画で世界を凌駕しているイタリア映画界にアメリカとして一矢報いることにもつながる、彼はそう読んだのではないでしょうか。

IMGP8654.JPG●DWグリフィス


●映画表現技法の基礎を確立
 
 実際に「国民の創生」(1915)はD・W・グリフィスの集大成として、誰にも認められている作品です。そこには、彼がバイオグラフ社時代に毎週10本近く製作していた短編映画で磨いた手法がはっきりと体系化され、高められていることが分かります。

 特にこの映画ではたくさんの場面が複雑な状況の元に展開します。この記事に添付した動画<リンカーン暗殺シーン>ひとつをとっても、1階部分では劇場全景、ステージで展開している演劇、観客席、1階から見た2階の貴賓室の4景があります。また2階部分では、階段からつながる廊下、廊下から貴賓室入口、というようにカットが変わります。それらが連続して時間が流れていくのです。その鮮やかな場面転換はもう、それまでの映画づくりの比ではありません。

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●劇場全景                ●1階 観客席の主人公たち   

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●1階 演劇の舞台            ●2階 廊下から貴賓室入り口

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●1階から見た2階の貴賓室 観客に挨拶するリンカーン大統領 

 「国民の創生」では、カットが変わっても、人物の<位置、動きの方向、視線>、つまり方向性が一致(マッチ)するようにそれぞれの画面を撮影することが大事であることが明確に認識されています。俳優の演技は、シーンの中で数カットに分けられても、アクションはつながって見えるように計算されて撮影され、編集されています。これはマッチ・カットと呼ばれましたが、この技法こそシーンに躍動感を与え、ドラマの流れを盛り上げる大発見でした。

 グリフィスはまたフラッシュ・バックという方法を編み出しています。これは、異なる場所や異なる時間で起きた状況を短い時間提示して、本筋の流れとの関連を示すものです。
 例えば劇場のシーンでは、舞台上の演劇が進行している時間に大統領が到着し、2階の貴賓室に入り、観客に挨拶します。その間に暗殺者ブースは2階観客席から大統領の貴賓室に忍び込み、暗殺を成功させます。これだけの複雑な動きが時間の流れに添って淀みなく編集されているのですが、その途中に暗殺者の姿が4回挿入されます。この手法がフラッシュ・バックです。


 更にグリフィスは、異なる場所での同時進行を示す並行描写法を確立。それはA・B両地点でのアクションを交互に切り返してつなぐ手法で、クロスカッティング(カットバック)と呼ばれました。この手法はかねてからグリフィスが得意としていたもので、彼の西部劇やサスペンス映画、そして「国民の創生」ではリンカーン暗殺やKKK団(クー・クラックス・クラン)による救出シーンのようなスペクタクルのクライマックスにおける編集テクニックとして生かされています。

●クロスカッティングの例
 小屋に閉じこもる一家の危機と、救いに駆けつけるKKK団が交互につながれ、
 危機感を盛り上げている。(次回、動画掲載予定)

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 これらの画面構成やカットのつなぎ方はそれまでにも無いわけではありませんが、画面効果を視覚的・心理的にイメージングし、一つ一つの画面を計算して演出したのがD・W・グリフィスだったというわけです。


●ズームレンズはおろか、望遠レンズもない時代に
 さて、ここで、おそらく他の映画史に書かれていないことに触れたいと思いますそれは擬似的な望遠効果ズーム効果です。
  望遠鏡はとっくの昔にありましたが、当時の撮影機(ムービーカメラ)には人間の視野にいちばん近いとされる標準レンズが
1本だけ。映画撮影用としては広角レンズも望遠レンズもまだ無かったのです。また、必要に応じて近寄ったり離れたりして撮ることはあっても、ズーミングなど思いも寄らないことです。ではどこがそうか。
 添付の<リンカーン暗殺>と<戦場>シーンの動画をご覧ください。

 この中で、画面の一部を遮蔽する手法が多用されています。これはフィルムの現像段階における光学的な処理ではなく、撮影時に施されたものと思われますが、平常な場面では見られず緊急の場面でのみ使われている手法です。
 つまりこの手法は観客に、画面のこの部分を注視して欲しい、という合図なのです。それは一種のクロース・アップと見ることができます。

●擬似望遠効果によるクロース・アップ
 左/実際の画面                   右/グリフィスの意図した画面  
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 シーケンス 07-2.jpgシーケンス 09.jpg シーケンス 09-2.jpg
●暗殺者を演じたのは、後に監督となるラオール・ウォルシュ

 それはまた、戦場のように遠く離れた広い場所で展開している戦闘シーンにおいて、紙を丸めて覗いたようなマスクによって表現されます。それが望遠レンズの効果でなくて何でしょうか。グリフィスは標準画面の中で望遠効果を見せようと工夫しているのです。

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●戦場のシーンにおける擬似望遠効果の例


 では、ズーム効果はどこか。
 <リンカーン暗殺>のシーンで、暗殺者ブースが2階客席(画面右上)から左隣りのリンカーンの貴賓室に移動する時に例の遮蔽が使われ、それが次第に開く、という表現です。
 最初に画面右上だけを見せているのは疑似的な望遠効果と見ることができます。
その遮蔽(マスク)が次第に開けて場内全体の様子へと移行させるテクニックは、いわば望遠から広角へと継続的に移行させる意味を持ちます。これをズーミングと言わずになんと言えばいいでしょう。
  何度もよく観ないと分からないほど効果は薄いのですが、擬似的であっても私はこれを今日的な意味でのズーム効果の表現であると見ています。



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●擬似ズーミングの例
 
画面の黒マスクがゆっくり開いて観客席全体が現れる。
 これはまさしく、アップからワイドへのズーム・アウト効果ではないか。

★動画で確かめてみましょう。



 現在のカメラではズームレンズ付きが当たり前ですが、被写体を次第に引き寄せたり遠ざけたりするズーミング効果は、もともと固定焦点レンズ付きのカメラを直進・後退させる移動撮影が原点なのですが、単なる移動撮影でも、前年「カビリア」(1914)でジョバンニ・パストローネがゆるい曲線を描く斜行移動を、「国民の創生」ではグリフィスが平行移動を初めて使って見せたのでした。 

  望遠効果とズーム効果の撮影技法は、もしかしたらグリフィスの考案ではなく、カメラマンのビリー・ビッツァーの発案かもしれません。としてもグリフィスが、望遠鏡で見た感じで撮って欲しい、暗殺者ブースがリンカーンの座る隣室への移動を目立たせてほしい、と指示したものではないでしょうか。


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●暗殺者(赤丸)が左のリンカーンの部屋に向かう時、望遠鏡で覘いたような丸いマスクが使われている。

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●戦場の全景 南軍と北軍の位置関係を明示

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●主役 バスト・ショット              ●戦場の擬似望遠効果

戦場04.jpg●正面上から後退しながらの見事な移動撮影

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●戦場での安否を気遣う家族のインサート・カット

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●壮絶な肉弾戦の中で北軍の将兵に水を与える南軍の大佐。
 戦端はしばし止み、北軍の将は南軍大佐の行いを称えるが、戦闘再開。


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●南軍大佐は戦争の無意味さを訴えて、銃口に軍旗を差し込んで倒れる。マスクによる望遠効果

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●北軍の将、射撃停止を指令。騎士道精神、未だ廃れず。



●現在の機材で、グリフィスに撮らせたい

 このように現在の目で「国民の創生」を観ると、ねらいが十分に生きていない撮り方やつなぎ方、冗漫な描写などもあります。が、それは撮影機材自体が未熟であること。またサイレント映画であるために観客が画面の状況を理解するのに時間がかかることを考慮すべきです。今日私たちが目にするアクション映画のように素早いズームや1秒単位のカットつなぎでは、当時の観客は理解できずに目を回してしまうでしょう。

 それはともかく、時のウィルソン大統領が「まるで電光で描かれた歴史を見るようだ」と絶賛したと伝えられる「国民の創生」には、映画撮影と編集技法の原点を伺い知ることができます。グリフィスが現在の機材で映画を撮ったら、どんな作品を見せてくれるだろうかと思うのです。 
                          つづく

★次回も「国民の創生」について話を続けます。

添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。

★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。



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075 立場が変われば、正義も変わる。「国民の創生」③ [大作時代到来]

075 正義の味方も困りもの
     D・W・グリフィス「国民の創生」-③

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●「国民の創生」1915 小屋の人々の救援に駆けつけるKKK団の問題シーン

前回からの続きです。

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●作品も観客動員も空前のスケール
 D・W・グリフィス「国民の創生」1915年2月完成。フィルムリールは12巻、上映時間190分。1,500カットにも及ぶ大作でした。主演はグリフィス映画で育てられ、今や名女優として名高いリリアン・ギッシュと秘蔵っ子メイ・マーシュです。なおこの映画には、後に俳優や映画監督として活躍することになるラウォール・ウォルシュ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョン・フォードなどが、助監督やエキストラとして出演しているということです。

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●D・W・グリフィス                      ●メイ・マーシュ

 イタリアの歴史劇をしのぐアメリカの大作を、とグリフィスが密かに意図して作り上げた「国民の創生」が完成すると、トライアングル社はこの作品を、トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC傘下にあるニッケル・オデオンとの差別化戦略として位置づけました。

 この大作は大作にふさわしい劇場規模で公開してこそ価値がある、ということで、当時最高の設備を誇るニューヨーク、ブロードウェイのリバティ劇場に交渉。25人のオーケストラと音響効果付き上映を条件に、演劇料金と同じ2ドルの料金を設定しました。音楽としてはワーグナーの「ワルキューレ」などが使われたということです。
 これが狙い通りの大当たり。5
セント映画館ニッケル・オデオンの4倍もの料金でありながら万雷の拍手で迎えられ、11ヶ月間続映という快挙を成し遂げたのでした。

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●ニッケル・オデオン以外で映画を最初に上映した劇場 
 ニューヨーク、マンハッタンの「
コースター&バイアルズミュージックホール」1890年代

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●おびえる子供の表情を、連続する3段階のカットで拡大して見せた場面。
 ズームよりもインパクトの強い効果を出すことに成功している。



 
このように「国民の創生」の成功はニッケル・オデオンに大打撃を与え、長編は作らない・上映しない、という映画特許会社(MPPC)の壊滅を促進させる導火線にもなるのですが、もっとも大事なことは、ここで初めて映画が単なる娯楽ではなく芸術として語られるようになったということなのです。 
 
 「国民の創生」は、総製作費
11万ドルという桁外れの巨費を投じ、売上は世界中で2,000万ドル以上と伝えられます。世界市場を相手に莫大な収益を狙い、巨額投資を行う大作主義。ブロックバスターと呼ばれるこの製作手法はこの時に生まれたと言われています。 


●思い付きだけで大作は作れない
 映画史の中にはグリフィスが、前年に発表されたイタリア映画の「カビリア」(1914)に触発されて「国民の創生」を作ったとするものがあります。けれども、これだけの大作が「カビリア」以後に企画され、完成に至るまでにわずか1年数ヶ月というのは短すぎると思われます。私は、グリフィスの心の中に、実父が戦争に参加した南北戦争というモチーフが常々存在していたのではないかと解釈しています。

IMGP8689.JPG●リリアン・ギッシュ

 これには、晩年のリリアン・ギッシュがテレビのインタビューに答えて語った裏づけがあります。グリフィス映画でいつも中心的な役を演じていたリリアン・ギッシュは1993年2月に99歳で亡くなりましたが、その6年前には「八月の鯨」という映画に出演したほど健在でした。
 「グリフィスがバイオグラフ社の決まりに背いて初めて4巻ものの映画を作ると、会社は彼をクビにしました。その時グリフィスの頭の中にはすでに『国民の創生』の構想がありました」
 と彼女ははっきりと述べています。4巻ものの映画とは
「ベッスリアの女王」(1913)に他なりません。つまりグリフィスは「国民の創生」に取り掛かる2年前から構想していたということなのです。


●「国民の創生」の問題点
 「国民の創生」の成功には、南北戦争終結からまだ50年という身近さ、それに、前年1914年に勃発した第一次世界大戦を背景としたアメリカの社会情勢があったと思われます。ウィルソン大統領のもと、アメリカは中立を宣言するのですが、国内では移民がらみの多民族国家の状況が進み、南北戦争の元になった奴隷に対する差別問題もくすぶったままでした。 
 
 「国民の創生」の原作は「クランズマン」といい、南北戦争直前からその後の連邦再建を背景に、南北に分けられた二つの家族の物語が展開するのですが、グリフィスは実際に南軍大佐として戦った父親の影響もあってか、この映画で多くのアメリカ人が抱いていたようにアフリカ系アメリカ人を一方的な視点で描き、当時台頭してきた白人優位を唱える秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を正義の味方のように見せてしまったのでした。そのあたりが人種的偏見に満ちたナショナリズムの高まりを背景に、大方のアメリカ人に歓迎されたものと見ることができます。

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●侵入を図る暴徒~必死の防戦~駆けつけるKKK…のみごとなカット・バック



 この問題があるため「国民の創生」の上映は昨今なかなか難しいこともあるようですが、純粋に映画技法の観点からこの作品を見る時、その表現法の完成度の高さに異論を唱える人は居ないと思うのです。
 KKKが勇壮に駆けつける<ラストミニッツ・レスキュー>と呼ばれたグリフィスお得意のカットバック・シーンも、このように描けば正義に見えてしまうという映像の怖さの一面を見せつけてくれるお手本になっているといえるかもしれません。



 それはともかく、「国民の創生」で大成功を収めたグリフィスは、直ちに次の大作「イントレランス」に取り掛かります。それは、グリフィスの究極の目的は「イントレランス」だったのでは、と思えるほどの意欲作でした。                                            つづく

■おまけ動画
 
D・W・グリフィスの元からは、その後監督や俳優として大成する人たちがたくさん輩出されました。中でも西部劇の巨匠とされるジョン・フォードは、彼の代表作「駅馬車」(1939)で、グリフィスへの賛辞を込めたオマージュ・シーンを撮っています。

  グリフィスは「国民の創生」で、小屋を襲われて万事窮した父親が、娘が苦痛を味わうことになるなら、いっそ自分の手で…と拳銃を振り上げたところにKKKのひづめのとどろきが聞こえてくるという場面を描きました。(上の動画参照)

ひとおもいに.JPG●「国民の創生」1915

 「駅馬車」でフォードはそれを、インディアン(ネイティブ・アメリカン)に襲われて窮した馬車の乗客のシーンで、グリフィスに対するオマージュ(献辞)として使っています。
 男性が、同乗の女性に安楽死をと拳銃の引き金を引こうとしたその時、銃声が轟き拳銃を落とす。すると遠くから騎兵隊のラッパが高らかに響いてくる、というぐあいです。

●ジョン・フォード監督「駅馬車」1939
 
 両作品は奇しくも、「国民の創生」が第一次世界大戦中。「駅馬車」は第二次世界大戦前夜ということで、どちらもアメリカのナショナリズムが高揚した時期に製作されていることにも興味があります。


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076 タイムマシン発進! 「イントレランス」① [大作時代到来]

076 タイムマシンの始祖、グリフィス。
      D・W・グリフィス「イントレランス」―①

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●グリフィスのタイムマシンが、観客を紀元前539年のバビロンにいざなう。

 1915年、第一次世界大戦のさなか。中立を保っていたアメリカでD・W・グリフィスが発表した長編大作「国民の創生」は大当たりをとりました。グリフィスはその莫大な利益と個人資産のほとんどを次の作品につぎ込み、翌1916年、前作を上回るスケールで「イントレランス」を完成させました。

P1060332.JPG   いんとれ.JPG


●「イントレランス」はタイムマシンの壮大な実験作
 D・W・グリフィスは前作「国民の創生」を製作する過程で、映画の特性とはまさしく時間と空間の飛躍にあることをはっきり意識したと思われます。「イントレランス」は「国民の創生」を超えようとして、考えられる限りの映画技法を駆使して作られた<時空超越・瞬間移動>の実験作だったように思われます。

グリフィ ス.jpgD・W・グリフィス

 映画ではひとつのカットはリアルタイムで進行しますが、次のカットとの間には時間が省略されます。この飛躍が実は1ヶ月間の世界一周旅行を1時間で見せる事を可能にします。また東京からパリでもロンドンでも世界中のあらゆる場所へ、カットをつなぐだけでどこへでも即座に移動できるばかりでなく、現代から未来へも過去へも瞬時に移動することができるのです。
 タイムトンネルやタイムマシンは決してSFの世界ではなく、100年以上も前に開発された映画こそが、実は時間と空間を自在に往来できるタイムマシンなのではないか。グリフィスの「イントレランス」は、それを実証しようとした実験映画のように見える作品なのです。

 彼は「イントレランス」で、古代から現代まで、時代の異なる4つの物語を合体させた映画…つまり4本分の映画を1本の映画にしてしまったのです。


●4つの物語を1本に。その作劇法とは

 「イントレランス」とは<不寛容、狭量>と訳されますが、分かりやすく言えば<人間の心の狭さ>ということ。この映画でグリフィスは、宗教、政治、法律などに見受けられる不条理は、他を許容できない偏見によるものとして、そのために翻弄される人々の姿を時代を超越して描こうとしています。

 「イントレランス」は、無実の罪で死刑を宣告される貧しい青年を描いた「現代・アメリカ編」。
 欧米人にはなじみ深い宗教上の争い、聖バーソロミューの虐殺を描いた「中世・ヨーロッパ編」。
 最後の審判の結果、十字架に掛けられるキリストの受難を描いた「紀元発祥・ユダヤ編」。
 ペルシャ王サイラス軍の攻略によるバビロンの崩壊を描いた「紀元前・バビロニア編」。この4つの時代で構成されています。

 つまりこの映画は、紀元前539から映画が作られた1910年代までのおよそ2,450年間という膨大な時空間が封じ込めらたタイムカプセルであり、観客は映画館というタイムトンネルの中で、現在から過去へ、過去から現在へとグリフィスの意志に翻弄されながら時空間を彷徨することになるのです。
  

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●現代・アメリカ編

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●中世・ヨーロッパ編

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●紀元発祥・ユダヤ編

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●紀元前・バビロニア編

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●4つの時代の4つの物語を結ぶ、ゆりかごを揺らす母親の姿

 ここで注目したいのは、グリフィス自身が書いたシナリオのドラマツルギーです。4つの物語は「不寛容」というキーワードを共通項としながら、いわゆるオムニバス方式で一話ずつ順に展開するのではなく、4つの時代と場所…つまり4つの時間と空間が交互に入り混じって進行する形式です。

 とはいうものの、4つの時空間は全く脈絡なくつながれている訳ではなく、例えば「紀元発祥編」のキリストに対する審判のシーンの次に、無実の青年に死刑の判決が下される「現代編」の審判のシーンが続くという具合に、関連する事柄でシリトリのように場面を転換する「擬似転換」がすでに発想されていることに注目したいものです。

現代1.JPG 古代2.jpg 

IMGP8843.JPG 現代5.JPG  

 実際に「イントレランス」を細かく見ていくと、まず4つの時代の4本の作品が編集された後に、4本を1本に統合するために、全体の流れのタイミングを見計らって異なる時代へと交互に切りつなぐ編集がなされていることが分かります。
 また4つの時代が切り替わるときには、4話をつなぐブリッジとして、詩人ウォルト・ホイットマンの「ゆりかごは永遠に過去と未来を結ぶ」というフレーズに基づく、ゆりかごを揺らす母の姿が挿入されます。

 こうして4本の大河は、さながら4楽章の交響楽のように河口めざして次第に速度を増してクライマックスを迎え、どの時代にも共通する普遍的な平和への願いとして収束するのです。
 
時は第一次世界大戦のさなか。グリフィスは愚かな人間が繰り返してきた不寛容を描くことによって、大戦に向かおうとするアメリカに、平和への覚醒を促そうとしたのではないでしょうか。 


●紀元前・バビロニア編より ベルシャザール王宮のシーン
 平和な城砦が異民族の侵攻によってたちまち戦乱の巷と化す



●世界の映画界で、前代未聞のスケール
 アメリカ映画史始まって以来の長編スペクタクル「イントレランス」でグリフィスが特に力を注いだのは、メソポタミアの栄華を誇るベルシャザール王宮のシーンでした。
 グリフィスのねらいは<歴史の再現>でした。それはとりもなおさず、時間と空間を超越できる映画の特性をもっとも顕著に示すことになるからです。グリフィスは古くは紀元前539年のバビロンの城塞都市の真っ只中に観客をいざなおうとしたのです。

  
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 当時はまだ未舗装の地方道サンセット・ブールバード(大通り)の脇に、高さ70メートルもの城壁のオープンセットが張り巡らされました。城壁の奥は人が豆粒程に見える空中庭園、そしてイタリア映画「カビリア」をしのぐ数頭の巨大な象の立像。城壁の幅は戦車が2両並んで通れる上に、兵士たちも往来できる余裕がありました。
 また城内の奥行きはなんと1,200メートルもあり、そこにはいろいろな民族や身分に扮した4,000人を超すエキストラがひしめいていました。

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●遠くからも望めたといわれる高さ70メートルの大城砦

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●監督するグリフィス(左)とカメラマン、ビリー・ビッツァー

 グリフィスはこの空前の作品を作るために監督と芸術顧問を4人従え、自らは総監督として当たりました。
 この壮大な景観を高所から俯瞰撮影するために、城壁に届きそうな高いやぐらが組まれました。グリフィスはまた、低所から高所への垂直移動撮影を行うために高さ
100フィートものエレベーター式カメラタワーを作るなど、空前絶後の手法が考えられました。もちろん世界初です。サンプル動画に見られる、スムースな上下移動撮影はこうして実現したのでした。

 撮影は名コンビのカメラマン、ビリー・ビッツァー。当時ムービーカメラは手回しから電動式に変わりつつありましたが、これだけのスケールの撮影に彼が使ったのは、120メートル(400フィート)フィルムを装填したパテ・フレール社製手回しカメラでした。 なお、このカメラは、同社が1910年にリュミエール社の特許を買い取って開発されたものです。


●はじめて映画が自然の演技を身に付けた

 「イントレランス」では俳優の演技が、無声映画特有の大げさに誇張された動きから自然の動きへと移行していることも見逃せません。
 前作の「国民の創生」にもそのきざしは見られましたが、この2作における演出法は、映画の演技がようやく演劇の演技法を離れ、自然で自由な<映画の演技法>へと移行したとみていいでしょう。


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D・W・グリフィス監督
 
 それにしてもこれだけの広大な場所で、グリフィスはどのように撮影の指示を出していたのでしょうか。写真では超大型メガフォンを構えたD・W・グリフィス監督が写っていますが、それだけでは到底遠方に届くはずはなく、ところどころに伝令を配置しなければ指示を徹底させることはできなかったと思われます。誕生して間もない電信も使われたでしょう。エキストラの移動や整理のために鉄道を敷いたとか、気球に乗って上空から指揮を行ったという記述も残っています。 つづく

※映画やテレビ、コンサートなどの会場で撮影や照明のために組む高いやぐらを業界用語で「イントレ」と呼んでいますが、その語源がこの「イントレランス」です。



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077 10年残った、夢の跡  「イントレランス」② [大作時代到来]

077 10年残った、夢の跡
    
D・W・グリフィス「イントレランス」②

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●コンスタンス・タルマッジ

前回からの続きです。

●豪華絢爛。本格的ピクチャー・パレス時代到来
 「イントレランス」D・W・グリフィスお抱えのリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、フレッド・ターナー、リリアン・ラングドン、コンスタンス・タルマッジ、そして2年後の1918年にターザン映画第1作「猿人ターザン」で売り出すことになるエルモ・リンカンなど、売れっ子俳優によるオールスターキャストで製作費は190万ドルという超豪華大作でした。
 
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●「イントレランス」 ドイツのポスター           

P1060371.JPG エルモ・リンカン.JPG
●ターザン映画第一作「猿人ターザン」1918 と主役のエルモ・リンカン
  
 製作に丸2年を擁し、撮影されたフィルムは10万メートル。グリフィスははじめ8時間の映画にする構想でしたが、さすがに会社や映画館側は反対。結局半分以下の3時間半に短縮されて、1916年9月、前作「国民の創生」を初公開したと同じニューヨーク/ブロードウェイの「リバティ劇場」で公開されました。

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IMGP8874.JPG1910年代半ばの映画館.jpg
●1915年以降1920年代 ピクチャー・パレスのイメージ

 残念ながら手元に「リバティ劇場」のデータがないのですが、大作映画時代を背景に出現した当時の映画館とは、どんなものだったのでしょうか。それはピクチャー・パレスの呼び名通り、豪華絢爛の映画宮殿。その先鞭をつけたのは、ミッチェル・マークでした。

 
1914年4月、ニューヨーク/ブロードウェイにオープンした「ストランド劇場」は、円形の2階建て、約3,000席。金ぴかのデコレーション、きらめくシャンデリアの下、ガイドに導かれふかふか絨毯を踏んで座席に座ると、ステージ手前に30人程のオーケストラボックスと巨大なワーリッツァー・オルガン。見上げると両袖には賓客の座るバルコニー席があります。入場料は25セントとニッケル・オデオンの5倍もしますが、そこは非日常の世界、まさに<夢の宮殿>の内部です。

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●映画館王「ロキシー」とワーリッツァー・オルガン

 ついでながら映画館の歴史上のヒーローは、“ロキシー”ことサミュエル・L・ロサフェルです。彼は1913年までに「アルハンブラ劇場」、「リージェント劇場」といった著名な劇場を建て直し、1914年から1920年にかけて上記「ストランド劇場」も含めて「リアルト」、「リヴォリ」、「キャピタル」といった大劇場を吸収し、ついには自分の名を冠した「ロキシー劇場」を造り、劇場王の名をほしいままにします。「ロキシー劇場」は大理石を使ったロココ調のデザイン、客席は6,200、オーケストラは110人編成というけた外れのものでした。

 このように大規模なピクチャー・パレスの建設は、イタリアの歴史劇の成功やグリフィスの大作によって加速されるのですが、このようにして映画は芸術性と娯楽性を適度に融合させて、
1920年代には全米で第4位の産業にのし上がるのです。
 1895年に誕生した「映画」。そのわずか20年後のこの姿を、誰が予想できたでしょうか。


●商業映画はやっぱり、内容よりも興行収入

 それはともかくD・W・グリフィスの偉大なる実験作「イントレランス」は、このような大劇場で公開されました。「古代・バビロ二ア編」ではオーケストラによるサンサーンス作曲のオペラ「サムソンとデリラ」の演奏が観客の心を揺さぶりました
前回の動画参照)。
 ところが興行的には前作の「国民の創生」を越えるどころか、大変な赤字を出してしまったのです。

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●D・W・グリフィス           ●「イントレランス」バビロンの一場面

 その理由として、元々8時間の内容を半分以下に切り詰めたために、すばやい場面転換に慣れていない観客が戸惑ってしまったこと。4つの物語が時代を越えて交錯するという構成が斬新過ぎて、観客が理解しにくい作品だったこと。キリスト受難のエピソード以外はアメリカ人になじみの薄い国の話であったこと。主な輸出先のヨーロッパは大戦中で映画どころではなかったこと。更に、戦争を<不寛容>のひとつとしたことが、第一次大戦に参戦直前の国民意識を逆なでしたこと。などが挙げられています。

 「イントレランス」の興行的敗北は、いかに芸術的色彩が濃くても、商業映画は作品内容よりも興行収入によって評価されるものであることを明白にしました。資本主義の国アメリカは、映画製作に対しても銀行や民間企業から投資の形で資金供給を受ける訳ですから、それ以上の利益を確保できなかったトライアングル社は致命的な打撃を受け、グリフィス自身も巨額の負債を負うことになりました。

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●「イントレランス」、バビロンの城砦の巨大なオープンセット

 こうして幻の栄華を誇ったバビロニア宮殿の大オープンセットは取り壊す費用もままならず、草むしたままサンセット・ブールバードの土ぼこりにまみれて10年以上も放置されることになるのです。


●エディスン・トラスト(
MPPC)の瓦解
 いずれにしても1910年から1920年にかけて、インディペンデント(独立経営映画会社)の1時間を越える長編映画が主力になると、全米に客席1,000を越える本格的な映画館が急激に増加しました。豪華に飾られたピクチャー・パレスの時代が到来したのです。
 反対に、エディスン・トラストと呼ばれる映画特許会社(MPPC)系列で製作される短編映画の上映館ニッケル・オデオンは目に見えて廃れていきました。

エジソン.jpeg●映画特許会社の総帥 トーマス・A・エディスン

 弱り目に祟り目のエディスン・トラストの衰退に追い討ちをかけたのが、第一次世界大戦を挟んで続いたシャーマン・トラスト禁止法に基づく反トラスト訴訟の結果でした。映画特許会社(MPPC)は1911年に反トラスト法違反の告発を受けていたのですが、1917年にエディスン・トラストは違法であるという判決が降りたのです。けれどもそのころまでにはすでにほとんどの加盟会社が手を引いて意味を成さなくなっていたのです。

 短編に限定して長編を作らせなかったエディスン・トラストは、そのカセを嫌った加盟会社が別会社で長編を作ることを促進させ、それがエディスン・トラストを追い詰めるという自己矛盾をはらんでいたのでした。

 こうして映画特許会社(
MPPC)は瓦解。最初は特許違反を訴える側で10年。後半は訴えられた側で7年。ここに17年にも及ぶエディスン社の特許戦争はようやく収束したのでした。最後まで残っていたのはバイタグラフ社1社でしたが、それも1912年に設立された「ワーナー・ブラザース」に吸収されてしまいます。 

つづく



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070 けた外れだったイタリア映画のパワー [大作時代到来]

070 けた外れだったイタリア映画のパワー
     イタリア史劇とD・W・グリフィス-①

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●1910年代半ばから本格的映画館が登場。ニッケル・オデオンの影が次第に薄れる。

  1910年代のイタリア映画界は、文芸路線を呈するフランスの流れを受けていました。ただしそれは、スタジオの中だけで収まるようなスケールではありませんでした。

●叙事詩と歴史劇なら題材に不足は無い
 アメリカが短編映画にこだわっているうちに、イタリア映画は史劇大作で世界の映画界を席巻するようになりました。
 叙事詩や神話、歴史的エピソードなど、古典的素材に事欠かない上に、アルプスの山岳地帯から地中海の海原にまでおよぶ南北に長い国土、古代の歴史遺産など、その風土はそのまま映画の舞台になりました。そこで生まれたものは、他国の追随を許さない壮大な歴史劇でした。  

 イタリアで突出して話題作を送りだしていたのは、イタラ社、チネス社、アンプロージオ社でした。それぞれ、ジュゼッペ・デ・リグオロ、ジョバンニ・パストローネ、エンリコ・グァッツォーニ、ルイジ・マッジらの看板監督を擁して大作力作に取り組んでいました。

 イタリアといえば世界のだれで知っているべスヴィオ火山。アルトゥーロ・アンプロージォオ監督がまず1908年に手掛けたのは「ポンペイ最後の日」でした。この作品は20分足らずの短編でしたが、誰もが興味を抱いてきた大噴火の様子と、ポンペイの滅亡する姿が目の前に生々しく再現されるのを見て、観客は大興奮。これが評判を呼び、長編大作への取り組みの口火が切られました。

pompeii.jpg「ポンペイ」2014

 「ポンペイ最後の日」はその後、1913年にマリオ・カゼリー二監督によりリメイクされ、イタリア・スペクタクル史劇の定番となります(次回に記述)。
 
最近ではそのものズバリの「ポンペイ」(2014)がまだ記憶に新しいことでしょう。もちろん呼び物はCGによる大噴火の描写でした。
 このようなスペクタクルはイタリア史劇に限らず、ビッグスケールの作品ほど、その時代の最先端技術で作りなおしてみたくなるものなのでしょう。

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●ホメーロスの叙事詩をベースにしたオデュッセウスの大航海冒険譚「オデュッセイア」1911


●特撮いっぱいの「オデュッセイア」1911 全巻ご覧になれます。いい時代になりました。


 話題を呼んだ長編映画は「マクベス」(1909)、「ファウスト」(1910)、「ブルータス」(1910)、「イリアッド」(1910)、「オデュッセイア」(1911)といった叙事詩や古典的な物語でしたが、熱狂的な支持を得た作品はギリシャ・ローマ時代の神話や歴史をテーマにしたものでした。
 イタリアの人たちにとっての時代劇は、自国の歴史を知るだけでなく、壮大なアクションとして楽しめたからです。


●100年も前に、あの映画の元祖があった
  イタリア映画界で長編の先鞭を切ったのは、
1910年にイタラ社でジョバンニ・パストローネが監督した「トロイの陥落」でした。ギリシャ神話であの有名な木馬が出てくるトロイ戦争の物語です。ウォルフガング・ペーターゼン監督、ブラッド・ピット主演「トロイ」(2004)の元祖が、すでに100年前に作られているのです。

 元祖「トロイの陥落」は、
600メートル、30分。この映画では、城壁や宮殿などの壮大なセットが組まれ、ギリシャの歴史に詳しい二人の画家が考証に当たった他、美術品や衣装はミラノ・スカラ座の道具方が協力したということです。

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トロイ4.JPG●「トロイの陥落」1910 



トロイ.JPG●「トロイ」2004

 グァッツォーニを師とするマリオ・カゼリーニは、1910年に「エル・シド」を発表していますが、私たちが知る1961年製作、アンソニー・マン監督の「エル・シド」では、チャールトン・ヘストンと妖艶なソフィア・ローレンが主演しました。
 クライマックスは大挙して押し寄せるムーア人との戦闘シーン。海沿いの城と海岸線はモンサンミッシェルで撮影したものではないかと思っているのですが…。(ご存知の方、教えてください)

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●「エル・シド」1961 上下とも
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また1912年には、グァッツォーニがチネス社で「クオ・ヴァディス」を監督しました。ローマの闘技場でキリスト教徒たちがライオンの餌食にされる衝撃のシーン。私たち昭和世代は1952年にマービン・ルロイ監督、ロバート・テイラー、デボラ・カー主演の同名映画で観ています。


クオ・ヴァデス.JPG●「クオ・ヴァディス」1952

 
グァッツォーニの監督作品では、この他に1913年に撮った「スパルタカス」がありますが、私たちが同名リメイクを、スタンリー・キューブリック監督、カーク・ダグラス、ジーン・シモンズ主演で観たのは1960年のことでした。

スパルタカス.JPG●「スパルタカス」1913
P1140055.JPG●「スパルタカス」1960

 
グァッツォーニはこの年「アントニーとクレオパトラ」も撮っていますが、私たちは1971年に同名映画を、主演のチャールトン・ヘストン自身の監督でヒルデガード・ネールとの共演で観ています。

 
アメリカの話でついでに言えば、出エジプト記のハイライト、紅海が二つに割れる場面で有名なモーゼの「十戒」は、1922年にセシル・B・デミル監督が作りましたが、カラー時代に入ってからデミル自身の手で1956年に、ユル・ブリナー、チャールトン・ヘストン主演でリメイクされました。

デミル.jpg●セシル・B・デミル

 
また1959年、壮絶な四頭立ての戦車競争が展開するウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演で観た「ベン・ハー」は、1925年にイタリアのフレッド・二ブロ監督によってすでに作られていました。
  映画史に興味をもって資料をあさっているうちに、こういった大作がサイレント映画の時代に早くも作られていたことを知って、本当に驚いたものです。

アントニーとクレオパトラ.jpeg十戒.jpegベン・ハー.jpeg
●昭和世代がカラー、ワイドスクリーン、ステレオ音響で観たリメイク大作


●アメリカにも押し寄せたイタリア歴史劇の大波
 1912年の「クオ・ヴァディス」は、紀元1世紀、ローマ帝国の暴君ネロによるキリスト教徒への圧制を描いたもので、2時間もの長編でした。
 この映画が封切られたのは、ゴーモン社がパリに作った世界最大の映画館「ゴーモン・パラス」でした。音楽はこの映画のために作曲され、オーケストラと150人のコーラス隊によって上映されたということですから、観客はそれまでに体験したことのない感動の渦に飲み込まれたことは想像に難くありません。


クオ・ヴァディス1.JPG クオ・ヴァディス2.JPGクオ・ヴァディス3.JPG    
●「クオ・ヴァディス」1912 


 
こういったイタリア映画における大作づくりは、必然的に撮影手法、編集技法に磨きを掛けることになります。ハラハラドキドキの桁外れのクライマックスが用意されている歴史劇は、長編を望む世界の人たちに迎えられました。
 これらの映画がアメリカにも輸入され好評を博すようになると、長時間をゆったりと楽しめるように、きらびやかに飾り立てた大規模な映画館が米国の各地に誕生し始めました。
 映画はプアな人たちの暇つぶしの娯楽ではなく、芸術の香りを備えた高尚な楽しみに変わりつつありました。


●イタリア映画はタイムマシンの元祖
 ところで初期のイタリア映画は、これまでに見てきたように、他の国々がほぼ「現在」という時代背景のもとで作品づくりをしていたのに対し、「大過去」の歴史劇を特徴とした点が大きく異なりました。数千年、数百年という過去の町並みや家々が再現され、撮影の現場にはその時代の小道具が用意され、出演者やエキストラたちはその時代の髪形と服装で集まりました。まるで時間や空気までもその時代に遡った雰囲気を醸し出していました。

 彼らは観客が体験する前にいち早く過去の時代に同化し、過去の事件を現在の自分の身に起こった現実の状況として反応しました。それはもはや演技とは言えず、実際にその時代に生きている感覚を味わったに違いありません。
 もはや映画は、スクリーンに等身大の姿を写すだけではなく、もう一人の自分の〈分身〉が、時間と空間の隔たりを越えた別次元の世界に極めてリアルに存在するという不思議な体験。それは観客にしても同じこと。人々は理由は分からないながらも、簡単に時空間の壁を超越できる映画というメディアの持つ底知れない魅力を知らされたのでした。

IMGP8668.JPG●デビッド・W・グリフィス

 バイオグラフ社の監督デビッド・W・グリフィスは「クオ・ヴァディス」の成功を聞くにつけ、居ても立っても居られませんでした。長編を志向していたグリフィスに、ようやくそれを製作する環境が整ってきたのです。彼の頭の中には、イタリア映画に負けない時空間超越の大型作品構想が膨れ上がっていたのです。     
                                 
つづく

★添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。












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071 クライマックスは天変地異で決まり。 [大作時代到来]

071 クライマックスは、天変地異で決まり。
        イタリア史劇とD・W・グリフィス-②

ブランチ・スィート「ベッスリアの女王」.JPG
●「ベッスリアの女王」の主役に大抜擢のブランチ・スイート

 
イタリア映画界が矢継ぎ早に打ち出す歴史大作路線の成功を耳にしながら、バイオグラフ社の監督D・W・グリフィスも{機は熟した}とばかりにいよいよ長編づくりに乗り出します。ここにイタリア対アメリカの長編映画戦争の火蓋が切って落とされたのです。


●グリフィスもスペクタクルは得意だった
 1913年7月、D・W・グリフィスは、コンビを組んでいるカメラマンのビリー・ビッツァーと長篇の歴史物にとりかかりました。
ベッスリアの女王(アッシリアの遠征)」4巻60分。

  新進女優ブランチ・スイートを起用したこの映画は、ベッスリア(アッシリア)を攻め落とそうとするホロフェルメスを愛してしまった女王の悲劇と城の攻防戦という大スペクタクルです。このテーマの設定自体、イタリア映画に対する挑戦と見ていいのではないでしょうか。

 この作品で
グリフィスは、スケールの大きさだけではなく、ベッスリアの女王の人間的な苦悩までをも描ききろうとしています。 

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●イタリア映画の向こうを張ったアラビアンテイスト。 でも、どこかイタリア史劇に似た感じ
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●城壁の攻防戦では1,000人以上のエキストラが参加
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●戦車の走りや馬に飛び乗るスタントは、いかにも西部劇風
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ベッスリア5.JPGベッスリア6.JPG
●酔わせてひとおもいに…でも、私にはできない。敵を愛してしまった女王の苦悩

 1分46秒
 
  戦車を引く数十頭の馬と1,000人以上のエキストラを使った城の包囲戦では、大勢のスタントマンが大活躍。西部劇も作っていたグリフィスの経験が、イタリア映画に勝るとも劣らないスケールで見事に発揮されています。

 
映画づくりもこれだけのスケールになると、映画製作の本筋の他に、大規模なセットや道具づくり、出演者とエキストラの衣装や武具、火薬などの準備が必要です。また人と馬の移動には輸送部隊を編成しなければなりません。更に、宿舎や食事の手配、事故や緊急の場合に備えての警備や救護まで必要としたはずです。
 総合芸術である映画は、このようにあらゆる分野にわたって需要や雇用を生み出し、産業としての基盤を確立していく訳ですが、一方で長編映画は自然発生的に映画づくりの体系化を促しました。


●「撮影」は「編集」を考慮して行うこと
 15分程度の短編なら、簡単なアイディアの覚書があれば作れないことはありません。実際に映画が誕生して数年間はそのようにして作られていたものでした。
 けれども1時間以上の物語を作るとなるとしっかりとしたプランが必要です。プランとは「何を、どのようにして、いつまでに、いくらで」・・・つまり予算枠内で予定通りの作品を期限までに仕上げるためのものですが、映画そのものをまとめ上げるプランも必要です。

 はじめはあらすじ(梗概)を書いた簡単な「脚本」があれば間に合っていました。中篇以上になると、それをどのように撮影していくかをカメラマンに指示する必要が生じました。その撮影プランを「撮影台本」の形でまとめたのは、トーマス・H・インスでした。

トーマス・H・インス.JPGトーマス・H・インス

  撮影台本とは脚本を元にカット割を考え、1カットごとの撮影要領を明記したものです。彼はカール・レムリのユニバーサル映画社の前身IMP社で働いていたのですが、編集の才覚に長けていました。そのため最初から<編集を前提とした撮影>を指示することができたのです。この認識があって初めて、画面サイズの異なる次のカットにまたがる俳優のアクションをスムースにつなげることができる訳です(アクションつなぎ)。

  ハリウッドでは早くから、シナリオを元に画面展開を絵に書いたコンテ(コンテ二ュイティ)と呼ぶものが撮影現場で使われていますが、インスの撮影台本にはすでにコンテが用いられていたのではないかと思われます。


IMGP8654.JPG●デビッド・W・グリフィス監督

 一方、グリフィスは、舞台と映画における演出の根本的な違いを考える中で、インスと同じことに気づいたようです。舞台の演出は主に俳優の演技に対するもの。映画ではそれ以上に画面上の見せ方が大事だと思い当たり、ひとつの場面(シーン)をいくつかの画面(カット)で構成することを考えました。

  つまり、一つの情景をロング、ミディアム、アップという異なるサイズのカットを効果的に組み合わせて時間の流れを作るようにしたのです。
(ちなみに、撮影することをシュート。撮影されたものをショット。ショットから編集段階で必要部分を切りだしたものをカットと呼びます)


●イタリアで、またまた話題作公開
 ところがバイオグラフ社はグリフィスの長編製作を好みませんでした。「長編は観客が飽きるから、やらない」という映画特許会社(MPPC)側の金科玉条に触れて、折角のグリフィスの長編「ベッスリアの女王」はお蔵入りになってしまったのです。グリフィスが落胆したことは言うまでもありません。

 折も折、イタリアではまた長編歴史劇の話題作が誕生しました。1913年、パスクァーリ社による「ポンペイ最後の日」は、マリオ・カゼリー二が監督した作品でした。

  これも時代はローマ時代。暴君によるキリスト教徒弾圧に対する天罰で、ベスヴィオ火山が火を噴きます。ポンペイは火山灰に埋もれて消滅してしまう訳ですが、映画では1908年に噴火したエトナ火山のニュースフィルムが効果的に使われ、大噴火のクライマックスを盛り上げています。

 この映画の成功で、スペクタクルを盛り上げる状況として、大地震、大洪水、大津波、大竜巻、大なだれ、山火事など、天変地異がよく使われるようになりました。


ポンペイ1.JPG
●イタリア映画お得意のモブ(群集)シーン エキストラ1000人以上
ポンペイ3.JPG ポンペイ4.JPGポンペイ2.JPG ポンペイ5.JPG
●神の怒りか、ベスヴィオ火山の大噴火が始まる
                   ポンペイ6.JPG
  2分53秒                                               


●こりなかったバイオグラフ社
 ところで「ベッスリアの女王」のお蔵入り。この出来事はグリフィスにバイオグラフ社を離れるきっかけを与えました。彼はイタリア映画の大作に対抗できる長編大作の構想を暖めながら、この年の末にバイオグラフ社を去ることになります。バイオグラフ社は、わずか2年後に新境地を拓くことになる将来のドル箱監督を、自ら手放してしまったのです。

 その後1914年に、バイオグラフ社はようやく「ベッスリアの女王」を公開しました。けれども、フランスでは怪盗ものの「ジゴマ」「ファントマ」シリーズが大流行し、自社でも大当たりをとっていた連続活劇の上映手法に倣い、全4巻を1巻ずつ週変わりで4回の連続物として配給するという愚行を、まだ繰り返しているのです。 
                              
つづく

★次回はイタリア史劇の最高峰とされる「カビリア」について。


★添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。













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