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027 人は〈時間のベルト〉を手に入れた。 [技術の功労者]

027 フィルムの幅は、なぜ35ミリ?
           ウィリアム・ディクスン / ジョージ・イーストマン

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●1889年「第4回パリ万国博覧会」のシンボル、エッフェル塔

 1887年、エディスンは、自分が発明した「フォノグラフ」(蓄音機)を動画用に転用した「光学蓄音機」の開発を、絶大の信頼を寄せている技師のディクスンに指示しました。それは翌年、一応の成果を収めたものの、紙製フィルムを使用する限界に突き当たり、技術的に行き詰っていました。
 その打開のきっかけを作ったのは、1889年、フランス革命100周年を記念する「第4回パリ万国博覧会」でした。それは白熱電球の発明で世界に揺るぎない名声を得たエディスンの、一大デモンストレーションの場でもありました。


●新素材は隘路を切り開く 
 1889年5月、トーマス・アルバ・エディスンは「第4回パリ万国博覧会」の会場に立っていました。歴史的な街区の美観を損なうという理由で反対も多かったというエッフェル塔が312メートルの威容を誇り、鋼鉄でアーチ形に組み立てられた巨大な空間を持つ機械館とともに〈鉄の時代〉の繁栄を圧倒的な華々しさで象徴していました。

 博覧会の様相は日暮れとともに一変しました。日本の参加も加え29ヵ国のパビリオンが立ち並ぶ広大な会場は、万博始まって以来の夜間開場。それはエディスンの白熱電球によって初めて実現したものでした。
 メインストリートやパビリオンはまぶしくきらめく電球で飾られ、エッフェル塔は電灯とアーク灯のコラボレーションで、フランス国旗をイメージしたトリコロールのライトアップ。広い庭園では連日、カラフルな照明に彩られた噴水ショーが開かれていました。それは、〈鉄の時代〉はまた〈電気の時代〉でもあることを誇示しているようでした。

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●「機械館」の様子

 この会場の一角に新しい技術を展示している建物があり、エディスンはある人物を訪ねることにしました。そこでエディスンは大きな啓示をうけることになります。その人物とはエチエンヌ・ジュール・マレーです。彼は完成させたばかりの「フィルム式クロノフォトグラフ」を展示して、上映の実演を見せていたのです。

 エディスンの訪問を快く迎えたマレーは、同じ展示館で出店しているオットマール・アンシュッツとエミール・レイノーを紹介します。アンシュッツは「エレクトロ・タキスコープ」で。レイノーは「テアトル・オブティーク」(光の劇場)の実演で好評を博していました(前
々回に記述)。けれどもエディスンは、マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」に最も関心をひかれたようでした。

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●オットマール・アンシュッツ ●エミール・レイノー

 全く新しい概念によるセルロイドのロールフィルムこそ、「光学蓄音機」の開発に行き詰まっているウィリアム・ディクスンの問題を解決するに違いない。それにしても〈動く写真〉の開発はこんなに進んでいる。なんと回り道をしたことか。
 エディスンは万博会場に9月いっぱい詰めていなくてはならなかったので、直接関係することはできません。はやる気持ちを抑えてエディスンは、早速ディクスンに「光学蓄音機」の研究をやめ、イーストマンのロールフィルムを使う方式に
方向転換するよう指示をあたえました。
                                             
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●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン  ●ジョージ・イーストマン

 このことは後の1894(M27)年の新聞で、「この転換は、マイブリッジやマレーの研究成果をヒントに発想したものです」とエディスン自身が明言しています。マイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」とマレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」がヒントだと言い換えてもいいでしょう。


●エディスンも〈動く写真〉の上映を考えていた?
 エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、それからわずか数ヶ月。パリ万博からエディスンが戻るまでに、早くも結果を用意していました。

 1889(M22)年10月6日。ニュージャージー、ウェストオレンジの研究室に足を踏み入れたエディスンはびっくり。なんと、スクリーンに映ったほぼ等身大のディクスンが、帽子を取って自分に挨拶する姿を見ることになります。「お帰りなさい、エディスンさん。このキネフォノグラフをきっと満足していただけると思います」。
 声はスクリーンの動作に合わせてディクスン本人が話したのですが、エディスンは思わずひざを打って言いました。「そうだよ、そうなんだよ。私の装置は人が等身大で現れ、演劇やオペラの動きと台詞はもちろん、ボクシングのパンチの音までいっしょに聞かせてやろうというものなんだよ」。

ディクスンの挨拶.JPG


●「ディクスンの挨拶」これは1891年撮影のもの

 それより先の6月のある日、エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、すぐにニューヨークはロチェスターのジョージ・イーストマンのオフィスを訪ねました。そこで彼は、「幅35ミリ、長さ50フィートのフィルムを4本ほしい」と頼んでいます。

 イーストマンの35ミリ幅、50フィートのロールフィルムを使ったディクスンの
「キネフォノグラフ」は、1秒に46コマというスピードで撮影され、上映時間は13秒ほどでした。フィルム送りのために突起のあるホイールが使われ、フィルムには穴が開けられていましたが、このパーフォレーションはフリーズ・グリーンを真似るまでもなく、1860年代に発明された自動電信機のテープに開けられた穴を思い出せばよかったのでした。(子供の頃、縁日で、テープの両サイドにピンクや水色を塗って売られていた、小さな穴の開いたテープがありました)


●「経費は最小、効果は最大」を考えたとき
 「キネフォノグラフ」はすぐに改良が加えられて1891(M24)年「キネトグラフ」となり、更に2年後の1893(M26)年、「キネトスコープ」として生まれ変わります。ここでも35ミリ幅のフィルムが使われましたが、ディクスンはこの数字をどこから割り出したのでしょうか。

 フィルムの幅は機械の構造を決定します。1コマの画面面積を大きく取ればきれいな画面になりますが、レンズもそれだけ大きくなり、機械も大型になります。ディクスン自身それまでの大型カメラの不便さを見ていますから、最小限度の1コマ面積をどれくらいにすればいいかと考えたに違いありません。また結果的に1コマの画面のアスペクト比(縦横比)を見ると3対4になっていて、黄金比が考慮されたようです。

 更にディクスンは、フィルム送りをスムースにするためのパーフォレーションの位置と形と大きさをいろいろ考えました。フィルムの片側だけ、コマとコマの間の真ん中など、いろいろ試した結果、フィルムの両サイドに、1コマに付き4つの穴を開ける仕様がいちばん安定するということを割り出しました。するとそれもフィルムの幅を決める際に考慮しなければなりません。

35ミリフィルム ディクスン.JPG P1050691.JPG       
●ディクスンの考えた35ミリ動画フィルム規格 画面のアスペクト比(横:縦)は4:3 
 この規格は世界標準規格として現在も変わらない。
 これを横にして2コマ分を1コマとして撮影するのがフィルム/スチルカメラの規格
 右は、ほぼ50フィートのフィルムロール。下のDVDと比較を。



●これは結果からの推量に過ぎませんが…
 イーストマン社が供給しているフィルムベース(生地幅)は42インチ(約106cm)でした。彼はこの生地から出来るだけ多くの本数を切り出したいと考えたはずです。

 
当時のフィルムの製造法はよく分かりませんが、製造設備はガラステーブルだったといいますから、おそらく溶かしたジェル状のセルロイド樹脂をその上で圧延したものと思われます。
 仕上がった
生地の天地左右は厚さにむらが出るため若干切り落とす必要があります。それを最小限にみて正味幅を105cm。この幅を元に、彼が必要とする1コマの画面の大きさと両脇のパーフォレーションを加えた必要最小限の幅が35ミリだったのではないでしょうか。

 そうするとフィルムの原反からは105cm÷35mm=30本の35ミリフィルムを切り出すことが出来る計算です。正味幅がもう少し狭い場合は28本だったかもしれません。
 また、ロールフィルムを利用するためにジョージ・イーストマンが考えたフィルムの幅が70ミリで、映画用はその半分の幅にしたという説もあります。
 いずれにしても、これがディクスンが考えた、明瞭な画質を保ちながら機構的な要求も兼ね備えた、必要最低限のフィルム幅だったのではないかと思うのです。この本数はコストパフォーマンスと言う面からも釣り合いのとれたものであったことはもちろんです。


●人はついに〈時間のベルト〉を手に入れた。
 
エディスン社のウィリアム・ディクスンが考案したフィルム規格が伝わると、〈動く写真〉の研究者たちがこぞって35ミリ幅のフィルムをイーストマンのところに指定して来るようになりました。その事実が何よりも、ディクスンのフィルム幅の妥当性を表明していると思うのです。(それにこだわらない研究者もおりましたが)

 そこでイーストマンの会社では、35ミリフィルムの量産体制に入るとともに、一般向けの小型カメラにも流用することを考えました。それは写真の楽しさを広めようと考えていたイーストマンにとっても好ましいことでした。
 こうして、35ミリロールフィルムというデファクト・スタンダードが生まれました。それがこれから到来する映画の時代を背景に、世界共通の国際規格として認められるまでにそう時間はかかりませんでした。

 私たちがつい最近まで楽しんで来た映画とスチル写真のフィルムは、材質と感光材は大きく改良されとはいえ、基本的には1889年にウィリアム・ディクスンが考えた仕様がそのまま使われて来たことはご承知の通りです。

 なお、35ミリフィルム発祥の真実についてはよく分かっていないようです。ただ、インチが単位の米国で、なぜセンチなのかという疑問はあります。
 
アメリカは1875年にメートル法を導入しましたが、それまでのヤード・ポンド法は現在も依然として使われていますから、この当時も両方の単位が使われていたのではないでしょうか。

 それはともかく、こうして人間は、時間を目に見える形で留めることのできる〈時間のベルト〉を手に入れました。絵に描き、影を動かし、写真に留め、今また人はその写真を動かそうとしています。この欲求はどこまで発展していくのでしょうか。


 次回は
「キネトスコープ」という動画メカをご紹介します。

キネトスコープ.jpg
●「キネトスコープ」1893   

                        次回に続く



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コメント 8

路渡カッパ

こんばんは。
35mmの標準規格の誕生は、意外と製造設備のガラステーブルが影響していたとは・・・!
それにしても当時の生産技術、光学技術の基準が今のデジタル時代にまで続いているってことは、揺るぎない原点がこのイーストマンのフィルムなんですね。
技術が発達し、16mm、8mmなんて規格も全てコダック発祥?
そう言えばデジタルカメラを最初に発表したのもコダックでしたね。
by 路渡カッパ (2015-04-13 22:39) 

駅員3

なるほど、色々試された・・・時間と費用が掛かったことでしょう。
それでもあくなき探求心が今の規格につながったんですね。

機会館の写真・・・チャップリンのモダンタイムスを連想してしまいました。
by 駅員3 (2015-04-14 08:08) 

sig

路渡カッパさん、こんにちは。
極論すればイーストマンがセルロイドのロールフィルムを作らなかったら、映画の誕生はなかったと言えると思います。
としても、人間の欲求としては動くものをそのまま残したいということはあり続けると思うので、デジタルの時代になって新しい手法で映画に似たものが必ず生み出されたと思います。
コダックは世界の写真界を席巻し、けん引していたんですけどね。事業というものは怖いですね。
by sig (2015-04-14 14:32) 

sig

駅員3さん、こんにちは。
当時のエディスンの電気会社の工場がデトロイト郊外、ディアボーンにあるヘンリー・フォード博物館隣りに移築してあるのですが、すばらしい煉瓦の建物ですよ。
「モダンタイムス」はフォードが1913年に導入したベルトコンベアシステムを皮肉ったものですから、このちょっと後ですが、時代の雰囲気はぴったりですね。
by sig (2015-04-14 14:44) 

まこ

パリの万博会場は
パリに憧れる者の好きなアイテムが
丸ごと、ぎゅっと詰まっているようですね♬
グランパレが好きです(⌒▽⌒)
by まこ (2015-04-14 16:34) 

sig

まこさん、こんにちは。
パリに行ったことが無いので、空想して書くしかありません。でも、どうせ1889年にはまだ生まれていませんからね。笑
今回のパリ万博ではエッフェル塔は建ちましたが、グランパレは次の1900年の万博なんです。いずれそのことも詳しく書くつもりです。コメントありがとうございます。
by sig (2015-04-14 17:52) 

さる1号

35mmがこうしてできたのですねぇ
全く知らなかったです @@)
by さる1号 (2015-04-14 22:36) 

sig

さる1号さん、こんにちは。
でももう、フィルムの幅なんてどうでもいい時代になりましたね。これからはメディアのタイプとか素子の数字で語られるのかな。
by sig (2015-04-15 16:12) 

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