076 タイムマシン発進! 「イントレランス」① [大作時代到来]
076 タイムマシンの始祖、グリフィス。
D・W・グリフィス「イントレランス」―①
●グリフィスのタイムマシンが、観客を紀元前539年のバビロンにいざなう。
1915年、第一次世界大戦のさなか。中立を保っていたアメリカでD・W・グリフィスが発表した長編大作「国民の創生」は大当たりをとりました。グリフィスはその莫大な利益と個人資産のほとんどを次の作品につぎ込み、翌1916年、前作を上回るスケールで「イントレランス」を完成させました。
●「イントレランス」はタイムマシンの壮大な実験作
D・W・グリフィスは前作「国民の創生」を製作する過程で、映画の特性とはまさしく時間と空間の飛躍にあることをはっきり意識したと思われます。「イントレランス」は「国民の創生」を超えようとして、考えられる限りの映画技法を駆使して作られた<時空超越・瞬間移動>の実験作だったように思われます。
●D・W・グリフィス
映画ではひとつのカットはリアルタイムで進行しますが、次のカットとの間には時間が省略されます。この飛躍が実は1ヶ月間の世界一周旅行を1時間で見せる事を可能にします。また東京からパリでもロンドンでも世界中のあらゆる場所へ、カットをつなぐだけでどこへでも即座に移動できるばかりでなく、現代から未来へも過去へも瞬時に移動することができるのです。
タイムトンネルやタイムマシンは決してSFの世界ではなく、100年以上も前に開発された映画こそが、実は時間と空間を自在に往来できるタイムマシンなのではないか。グリフィスの「イントレランス」は、それを実証しようとした実験映画のように見える作品なのです。
彼は「イントレランス」で、古代から現代まで、時代の異なる4つの物語を合体させた映画…つまり4本分の映画を1本の映画にしてしまったのです。
●4つの物語を1本に。その作劇法とは
「イントレランス」とは<不寛容、狭量>と訳されますが、分かりやすく言えば<人間の心の狭さ>ということ。この映画でグリフィスは、宗教、政治、法律などに見受けられる不条理は、他を許容できない偏見によるものとして、そのために翻弄される人々の姿を時代を超越して描こうとしています。
「イントレランス」は、無実の罪で死刑を宣告される貧しい青年を描いた「現代・アメリカ編」。
欧米人にはなじみ深い宗教上の争い、聖バーソロミューの虐殺を描いた「中世・ヨーロッパ編」。
最後の審判の結果、十字架に掛けられるキリストの受難を描いた「紀元発祥・ユダヤ編」。
ペルシャ王サイラス軍の攻略によるバビロンの崩壊を描いた「紀元前・バビロニア編」。この4つの時代で構成されています。
つまりこの映画は、紀元前539年から映画が作られた1910年代までのおよそ2,450年間という膨大な時空間が封じ込めらたタイムカプセルであり、観客は映画館というタイムトンネルの中で、現在から過去へ、過去から現在へとグリフィスの意志に翻弄されながら時空間を彷徨することになるのです。
●現代・アメリカ編
●中世・ヨーロッパ編
●紀元発祥・ユダヤ編
●紀元前・バビロニア編
●4つの時代の4つの物語を結ぶ、ゆりかごを揺らす母親の姿
ここで注目したいのは、グリフィス自身が書いたシナリオのドラマツルギーです。4つの物語は「不寛容」というキーワードを共通項としながら、いわゆるオムニバス方式で一話ずつ順に展開するのではなく、4つの時代と場所…つまり4つの時間と空間が交互に入り混じって進行する形式です。
とはいうものの、4つの時空間は全く脈絡なくつながれている訳ではなく、例えば「紀元発祥編」のキリストに対する審判のシーンの次に、無実の青年に死刑の判決が下される「現代編」の審判のシーンが続くという具合に、関連する事柄でシリトリのように場面を転換する「擬似転換」がすでに発想されていることに注目したいものです。
実際に「イントレランス」を細かく見ていくと、まず4つの時代の4本の作品が編集された後に、4本を1本に統合するために、全体の流れのタイミングを見計らって異なる時代へと交互に切りつなぐ編集がなされていることが分かります。
また4つの時代が切り替わるときには、4話をつなぐブリッジとして、詩人ウォルト・ホイットマンの「ゆりかごは永遠に過去と未来を結ぶ」というフレーズに基づく、ゆりかごを揺らす母の姿が挿入されます。
こうして4本の大河は、さながら4楽章の交響楽のように河口めざして次第に速度を増してクライマックスを迎え、どの時代にも共通する普遍的な平和への願いとして収束するのです。
時は第一次世界大戦のさなか。グリフィスは愚かな人間が繰り返してきた不寛容を描くことによって、大戦に向かおうとするアメリカに、平和への覚醒を促そうとしたのではないでしょうか。
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●紀元前・バビロニア編より ベルシャザール王宮のシーン
平和な城砦が異民族の侵攻によってたちまち戦乱の巷と化す
●世界の映画界で、前代未聞のスケール
アメリカ映画史始まって以来の長編スペクタクル「イントレランス」でグリフィスが特に力を注いだのは、メソポタミアの栄華を誇るベルシャザール王宮のシーンでした。
グリフィスのねらいは<歴史の再現>でした。それはとりもなおさず、時間と空間を超越できる映画の特性をもっとも顕著に示すことになるからです。グリフィスは古くは紀元前539年のバビロンの城塞都市の真っ只中に観客をいざなおうとしたのです。
当時はまだ未舗装の地方道サンセット・ブールバード(大通り)の脇に、高さ70メートルもの城壁のオープンセットが張り巡らされました。城壁の奥は人が豆粒程に見える空中庭園、そしてイタリア映画「カビリア」をしのぐ数頭の巨大な象の立像。城壁の幅は戦車が2両並んで通れる上に、兵士たちも往来できる余裕がありました。
また城内の奥行きはなんと1,200メートルもあり、そこにはいろいろな民族や身分に扮した4,000人を超すエキストラがひしめいていました。
●遠くからも望めたといわれる高さ70メートルの大城砦
●監督するグリフィス(左)とカメラマン、ビリー・ビッツァー
グリフィスはこの空前の作品を作るために監督と芸術顧問を4人従え、自らは総監督として当たりました。
この壮大な景観を高所から俯瞰撮影するために、城壁に届きそうな高いやぐら※が組まれました。グリフィスはまた、低所から高所への垂直移動撮影を行うために高さ100フィートものエレベーター式カメラタワーを作るなど、空前絶後の手法が考えられました。もちろん世界初です。サンプル動画に見られる、スムースな上下移動撮影はこうして実現したのでした。
撮影は名コンビのカメラマン、ビリー・ビッツァー。当時ムービーカメラは手回しから電動式に変わりつつありましたが、これだけのスケールの撮影に彼が使ったのは、120メートル(400フィート)フィルムを装填したパテ・フレール社製手回しカメラでした。 なお、このカメラは、同社が1910年にリュミエール社の特許を買い取って開発されたものです。
●はじめて映画が自然の演技を身に付けた
「イントレランス」では俳優の演技が、無声映画特有の大げさに誇張された動きから自然の動きへと移行していることも見逃せません。
前作の「国民の創生」にもそのきざしは見られましたが、この2作における演出法は、映画の演技がようやく演劇の演技法を離れ、自然で自由な<映画の演技法>へと移行したとみていいでしょう。
●D・W・グリフィス監督
それにしてもこれだけの広大な場所で、グリフィスはどのように撮影の指示を出していたのでしょうか。写真では超大型メガフォンを構えたD・W・グリフィス監督が写っていますが、それだけでは到底遠方に届くはずはなく、ところどころに伝令を配置しなければ指示を徹底させることはできなかったと思われます。誕生して間もない電信も使われたでしょう。エキストラの移動や整理のために鉄道を敷いたとか、気球に乗って上空から指揮を行ったという記述も残っています。 つづく
※映画やテレビ、コンサートなどの会場で撮影や照明のために組む高いやぐらを業界用語で「イントレ」と呼んでいますが、その語源がこの「イントレランス」です。
075 立場が変われば、正義も変わる。「国民の創生」③ [大作時代到来]
075 正義の味方も困りもの
D・W・グリフィス「国民の創生」-③
●「国民の創生」1915 小屋の人々の救援に駆けつけるKKK団の問題シーン
前回からの続きです。
●作品も観客動員も空前のスケール
D・W・グリフィスの「国民の創生」は1915年2月完成。フィルムリールは12巻、上映時間190分。1,500カットにも及ぶ大作でした。主演はグリフィス映画で育てられ、今や名女優として名高いリリアン・ギッシュと秘蔵っ子メイ・マーシュです。なおこの映画には、後に俳優や映画監督として活躍することになるラウォール・ウォルシュ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョン・フォードなどが、助監督やエキストラとして出演しているということです。
●D・W・グリフィス ●メイ・マーシュ
イタリアの歴史劇をしのぐアメリカの大作を、とグリフィスが密かに意図して作り上げた「国民の創生」が完成すると、トライアングル社はこの作品を、トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC)の傘下にあるニッケル・オデオンとの差別化戦略として位置づけました。
この大作は大作にふさわしい劇場規模で公開してこそ価値がある、ということで、当時最高の設備を誇るニューヨーク、ブロードウェイのリバティ劇場に交渉。25人のオーケストラと音響効果付き上映を条件に、演劇料金と同じ2ドルの料金を設定しました。音楽としてはワーグナーの「ワルキューレ」などが使われたということです。
これが狙い通りの大当たり。5セント映画館ニッケル・オデオンの4倍もの料金でありながら万雷の拍手で迎えられ、11ヶ月間続映という快挙を成し遂げたのでした。
●ニッケル・オデオン以外で映画を最初に上映した劇場
ニューヨーク、マンハッタンの「コースター&バイアルズミュージックホール」1890年代
●おびえる子供の表情を、連続する3段階のカットで拡大して見せた場面。
ズームよりもインパクトの強い効果を出すことに成功している。
このように「国民の創生」の成功はニッケル・オデオンに大打撃を与え、長編は作らない・上映しない、という映画特許会社(MPPC)の壊滅を促進させる導火線にもなるのですが、もっとも大事なことは、ここで初めて映画が単なる娯楽ではなく芸術として語られるようになったということなのです。
「国民の創生」は、総製作費11万ドルという桁外れの巨費を投じ、売上は世界中で2,000万ドル以上と伝えられます。世界市場を相手に莫大な収益を狙い、巨額投資を行う大作主義。ブロックバスターと呼ばれるこの製作手法はこの時に生まれたと言われています。
●思い付きだけで大作は作れない
映画史の中にはグリフィスが、前年に発表されたイタリア映画の「カビリア」(1914)に触発されて「国民の創生」を作ったとするものがあります。けれども、これだけの大作が「カビリア」以後に企画され、完成に至るまでにわずか1年数ヶ月というのは短すぎると思われます。私は、グリフィスの心の中に、実父が戦争に参加した南北戦争というモチーフが常々存在していたのではないかと解釈しています。
●リリアン・ギッシュ
これには、晩年のリリアン・ギッシュがテレビのインタビューに答えて語った裏づけがあります。グリフィス映画でいつも中心的な役を演じていたリリアン・ギッシュは1993年2月に99歳で亡くなりましたが、その6年前には「八月の鯨」という映画に出演したほど健在でした。
「グリフィスがバイオグラフ社の決まりに背いて初めて4巻ものの映画を作ると、会社は彼をクビにしました。その時グリフィスの頭の中にはすでに『国民の創生』の構想がありました」
と彼女ははっきりと述べています。4巻ものの映画とは「ベッスリアの女王」(1913)に他なりません。つまりグリフィスは「国民の創生」に取り掛かる2年前から構想していたということなのです。
●「国民の創生」の問題点
「国民の創生」の成功には、南北戦争終結からまだ50年という身近さ、それに、前年1914年に勃発した第一次世界大戦を背景としたアメリカの社会情勢があったと思われます。ウィルソン大統領のもと、アメリカは中立を宣言するのですが、国内では移民がらみの多民族国家の状況が進み、南北戦争の元になった奴隷に対する差別問題もくすぶったままでした。
「国民の創生」の原作は「クランズマン」といい、南北戦争直前からその後の連邦再建を背景に、南北に分けられた二つの家族の物語が展開するのですが、グリフィスは実際に南軍大佐として戦った父親の影響もあってか、この映画で多くのアメリカ人が抱いていたようにアフリカ系アメリカ人を一方的な視点で描き、当時台頭してきた白人優位を唱える秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を正義の味方のように見せてしまったのでした。そのあたりが人種的偏見に満ちたナショナリズムの高まりを背景に、大方のアメリカ人に歓迎されたものと見ることができます。
●侵入を図る暴徒~必死の防戦~駆けつけるKKK…のみごとなカット・バック
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この問題があるため「国民の創生」の上映は昨今なかなか難しいこともあるようですが、純粋に映画技法の観点からこの作品を見る時、その表現法の完成度の高さに異論を唱える人は居ないと思うのです。
KKKが勇壮に駆けつける<ラストミニッツ・レスキュー>と呼ばれたグリフィスお得意のカットバック・シーンも、このように描けば正義に見えてしまうという映像の怖さの一面を見せつけてくれるお手本になっているといえるかもしれません。
それはともかく、「国民の創生」で大成功を収めたグリフィスは、直ちに次の大作「イントレランス」に取り掛かります。それは、グリフィスの究極の目的は「イントレランス」だったのでは、と思えるほどの意欲作でした。 つづく
■おまけ動画
D・W・グリフィスの元からは、その後監督や俳優として大成する人たちがたくさん輩出されました。中でも西部劇の巨匠とされるジョン・フォードは、彼の代表作「駅馬車」(1939)で、グリフィスへの賛辞を込めたオマージュ・シーンを撮っています。
グリフィスは「国民の創生」で、小屋を襲われて万事窮した父親が、娘が苦痛を味わうことになるなら、いっそ自分の手で…と拳銃を振り上げたところにKKKのひづめのとどろきが聞こえてくるという場面を描きました。(上の動画参照)
●「国民の創生」1915
「駅馬車」でフォードはそれを、インディアン(ネイティブ・アメリカン)に襲われて窮した馬車の乗客のシーンで、グリフィスに対するオマージュ(献辞)として使っています。
男性が、同乗の女性に安楽死をと拳銃の引き金を引こうとしたその時、銃声が轟き拳銃を落とす。すると遠くから騎兵隊のラッパが高らかに響いてくる、というぐあいです。
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両作品は奇しくも、「国民の創生」が第一次世界大戦中。「駅馬車」は第二次世界大戦前夜ということで、どちらもアメリカのナショナリズムが高揚した時期に製作されていることにも興味があります。
074 望遠、ズームも工夫次第 「国民の創生」② [大作時代到来]
074 望遠、ズームも工夫次第
D・W・グリフィス「国民の創生」-②
●グリフィスの大作「国民の創生」(1915)の一場面 右はリリアン・ギッシュ
前回からの続きです。
●「国民の創生」はグリフィス念願の映画だった
D・W・グリフィスの父はケンタッキー州で大農園を営み、南北戦争では南軍に属して戦ったことについては先に述べました。
「国民の創生」のねらいの一つは、彼の父の時代を振り返り、アメリカ独立の意味を問うこと。もう一つは、彼自身が築いてきた映画表現技術の総仕上げをすることでした。
それは必然的に大作となり、とりもなおさず、大作映画で世界を凌駕しているイタリア映画界にアメリカとして一矢報いることにもつながる、彼はそう読んだのではないでしょうか。
●DWグリフィス
●映画表現技法の基礎を確立
実際に「国民の創生」(1915)はD・W・グリフィスの集大成として、誰にも認められている作品です。そこには、彼がバイオグラフ社時代に毎週10本近く製作していた短編映画で磨いた手法がはっきりと体系化され、高められていることが分かります。
特にこの映画ではたくさんの場面が複雑な状況の元に展開します。この記事に添付した動画<リンカーン暗殺シーン>ひとつをとっても、1階部分では劇場全景、ステージで展開している演劇、観客席、1階から見た2階の貴賓室の4景があります。また2階部分では、階段からつながる廊下、廊下から貴賓室入口、というようにカットが変わります。それらが連続して時間が流れていくのです。その鮮やかな場面転換はもう、それまでの映画づくりの比ではありません。
●劇場全景 ●1階 観客席の主人公たち
●1階 演劇の舞台 ●2階 廊下から貴賓室入り口
●1階から見た2階の貴賓室 観客に挨拶するリンカーン大統領
「国民の創生」では、カットが変わっても、人物の<位置、動きの方向、視線>、つまり方向性が一致(マッチ)するようにそれぞれの画面を撮影することが大事であることが明確に認識されています。俳優の演技は、シーンの中で数カットに分けられても、アクションはつながって見えるように計算されて撮影され、編集されています。これはマッチ・カットと呼ばれましたが、この技法こそシーンに躍動感を与え、ドラマの流れを盛り上げる大発見でした。
グリフィスはまたフラッシュ・バックという方法を編み出しています。これは、異なる場所や異なる時間で起きた状況を短い時間提示して、本筋の流れとの関連を示すものです。
例えば劇場のシーンでは、舞台上の演劇が進行している時間に大統領が到着し、2階の貴賓室に入り、観客に挨拶します。その間に暗殺者ブースは2階観客席から大統領の貴賓室に忍び込み、暗殺を成功させます。これだけの複雑な動きが時間の流れに添って淀みなく編集されているのですが、その途中に暗殺者の姿が4回挿入されます。この手法がフラッシュ・バックです。
更にグリフィスは、異なる場所での同時進行を示す並行描写法を確立。それはA・B両地点でのアクションを交互に切り返してつなぐ手法で、クロスカッティング(カットバック)と呼ばれました。この手法はかねてからグリフィスが得意としていたもので、彼の西部劇やサスペンス映画、そして「国民の創生」ではリンカーン暗殺やKKK団(クー・クラックス・クラン)による救出シーンのようなスペクタクルのクライマックスにおける編集テクニックとして生かされています。
●クロスカッティングの例
小屋に閉じこもる一家の危機と、救いに駆けつけるKKK団が交互につながれ、
危機感を盛り上げている。(次回、動画掲載予定)
これらの画面構成やカットのつなぎ方はそれまでにも無いわけではありませんが、画面効果を視覚的・心理的にイメージングし、一つ一つの画面を計算して演出したのがD・W・グリフィスだったというわけです。
●ズームレンズはおろか、望遠レンズもない時代に
さて、ここで、おそらく他の映画史に書かれていないことに触れたいと思います。それは擬似的な望遠効果とズーム効果です。
望遠鏡はとっくの昔にありましたが、当時の撮影機(ムービーカメラ)には人間の視野にいちばん近いとされる標準レンズが1本だけ。映画撮影用としては広角レンズも望遠レンズもまだ無かったのです。また、必要に応じて近寄ったり離れたりして撮ることはあっても、ズーミングなど思いも寄らないことです。ではどこがそうか。
添付の<リンカーン暗殺>と<戦場>シーンの動画をご覧ください。
この中で、画面の一部を遮蔽する手法が多用されています。これはフィルムの現像段階における光学的な処理ではなく、撮影時に施されたものと思われますが、平常な場面では見られず緊急の場面でのみ使われている手法です。
つまりこの手法は観客に、画面のこの部分を注視して欲しい、という合図なのです。それは一種のクロース・アップと見ることができます。
●擬似望遠効果によるクロース・アップ
左/実際の画面 右/グリフィスの意図した画面
●暗殺者を演じたのは、後に監督となるラオール・ウォルシュ
それはまた、戦場のように遠く離れた広い場所で展開している戦闘シーンにおいて、紙を丸めて覗いたようなマスクによって表現されます。それが望遠レンズの効果でなくて何でしょうか。グリフィスは標準画面の中で望遠効果を見せようと工夫しているのです。
●戦場のシーンにおける擬似望遠効果の例
では、ズーム効果はどこか。
<リンカーン暗殺>のシーンで、暗殺者ブースが2階客席(画面右上)から左隣りのリンカーンの貴賓室に移動する時に例の遮蔽が使われ、それが次第に開く、という表現です。
最初に画面右上だけを見せているのは疑似的な望遠効果と見ることができます。その遮蔽(マスク)が次第に開けて場内全体の様子へと移行させるテクニックは、いわば望遠から広角へと継続的に移行させる意味を持ちます。これをズーミングと言わずになんと言えばいいでしょう。
何度もよく観ないと分からないほど効果は薄いのですが、擬似的であっても私はこれを今日的な意味でのズーム効果の表現であると見ています。
●擬似ズーミングの例
画面の黒マスクがゆっくり開いて観客席全体が現れる。
これはまさしく、アップからワイドへのズーム・アウト効果ではないか。
★動画で確かめてみましょう。
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現在のカメラではズームレンズ付きが当たり前ですが、被写体を次第に引き寄せたり遠ざけたりするズーミング効果は、もともと固定焦点レンズ付きのカメラを直進・後退させる移動撮影が原点なのですが、単なる移動撮影でも、前年「カビリア」(1914)でジョバンニ・パストローネがゆるい曲線を描く斜行移動を、「国民の創生」ではグリフィスが平行移動を初めて使って見せたのでした。
望遠効果とズーム効果の撮影技法は、もしかしたらグリフィスの考案ではなく、カメラマンのビリー・ビッツァーの発案かもしれません。としてもグリフィスが、望遠鏡で見た感じで撮って欲しい、暗殺者ブースがリンカーンの座る隣室への移動を目立たせてほしい、と指示したものではないでしょうか。
●暗殺者(赤丸)が左のリンカーンの部屋に向かう時、望遠鏡で覘いたような丸いマスクが使われている。
●戦場の全景 南軍と北軍の位置関係を明示
●主役 バスト・ショット ●戦場の擬似望遠効果
●正面上から後退しながらの見事な移動撮影
●戦場での安否を気遣う家族のインサート・カット
●壮絶な肉弾戦の中で北軍の将兵に水を与える南軍の大佐。
戦端はしばし止み、北軍の将は南軍大佐の行いを称えるが、戦闘再開。
●南軍大佐は戦争の無意味さを訴えて、銃口に軍旗を差し込んで倒れる。マスクによる望遠効果
●北軍の将、射撃停止を指令。騎士道精神、未だ廃れず。
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●現在の機材で、グリフィスに撮らせたい
このように現在の目で「国民の創生」を観ると、ねらいが十分に生きていない撮り方やつなぎ方、冗漫な描写などもあります。が、それは撮影機材自体が未熟であること。またサイレント映画であるために観客が画面の状況を理解するのに時間がかかることを考慮すべきです。今日私たちが目にするアクション映画のように素早いズームや1秒単位のカットつなぎでは、当時の観客は理解できずに目を回してしまうでしょう。
それはともかく、時のウィルソン大統領が「まるで電光で描かれた歴史を見るようだ」と絶賛したと伝えられる「国民の創生」には、映画撮影と編集技法の原点を伺い知ることができます。グリフィスが現在の機材で映画を撮ったら、どんな作品を見せてくれるだろうかと思うのです。
つづく
★次回も「国民の創生」について話を続けます。
★添付の動画は本来は無声映画です。
音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。
★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。
073 チャップリン登場とグリフィス「国民の創生」着手 [大作時代到来]
073 おまたせ。ようやくチャップリン
D・W・グリフィス「国民の創生」-①
●13番目のDから新人女優が投身自殺したことからLANDの4文字が取り払われたという。
アメリカ西海岸に映画の都ハリウッドが誕生した1910年代半ば。現在HOLLYWOODと描かれている大看板がHOLLYWOODLANDと表示されていたその頃。1914年7月にヨーロッパで勃発した戦火は世界の列強を巻き込み、一挙に世界大戦の様相を呈してきたのですが、幸いなことに、アメリカは最後まで参戦を控えていました。世界戦争は蚊帳の外。それがアメリカ映画を大きく躍進させることになります。
●イギリス陸軍の志願兵募集ポスター ●西部戦線へ向かう兵士 1914.7
●グリフィス、チャップリンと出会う
1913年.トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC)の制約で長編を作らせてくれないバイオグラフ社に愛想を尽かして離れたD・W・グリフィス。イタリア映画の大作「カビリア」のうわさは、長編大作を目指していたグリフィスを促し、いよいよ彼はその実現に向けて動き出します。
グリフィスは長編を作る準備としてミューチュアル社に入り、スタジオを設立しますが、そこに「新しい会社を作りたいのでぜひ加わってほしい」というエッサネー社からの誘いがありました。エッサネー社はライバルであるマック・セネットのキーストン社から、「キーストンコメディ」などで人気上昇中のチャールズ・チャップリンを引き抜いたばかりでした。
スターシステムの確立により、俳優の名で映画を売り出そうと考えるようになってからのハリウッドは、各社とも観客に受けそうな個性的な俳優を、血眼でスカウトするようになっていたのです。
●売り出した当時のチャールズ・チャップリン。
●お金持ちの紳士の格好をした浮浪者というミスマッチが大衆の共感を呼んで、爆発的な人気者となる。右はデビュー作の「成功争い」1914
チャップリンはイギリスのパントマイム劇団に所属してヨーロッパを巡回。ジョルジュ・メリエスが「極地征服」を発表した1912年頃は、パリのミュージックホール、アルハンブラ劇場でギャグ芸人として出演していました。翌年チャップリンはアメリカを巡業。あの独特なパントマイムによるこっけいなギャグはたちまち低所得者層や移民たちの心を捉え、爆発的な人気を呼びました。
そのチャップリンを映画の世界に呼び入れたのが、元はバイオグラフ社の演出担当でキーストン社に在籍していたマック・セネットでした。チャップリンのデビュー作は、1913年に製作され、1914年に公開された「成功争い」です。
●マック・セネット ●トーマス・H・インス ●D・W・グリフィス
そのチャップリンとマック・セネットの二人を引き抜いたのがエッサネー社なのですが(ややこしい。でも当時のアメリカ映画界ではこのような転職は日常茶飯事)、この会社は映画特許会社(MPPC)の制約に縛られない、長編映画を作る会社を新しく興そうとしていたのです。
こうして、マック・セネット、トーマス・H・インス、それにD・W・グリフィス三人の名声を統合したトライアングル社が、ロックフェラーのスタンダード石油から融資を受けて設立されます。
●俳優は一流。キャラクターも多彩
トライアングル社は3人の関係で有名な俳優たちも揃いました。
喜劇畑のセネットの元には、美貌ながらズッコケ上手のメーベル・ノーマンド、曲がったひげがトレードマークのベン・ターピン、デブで売っていたロスコー・アーバックル。
●メーベル・ノーマンド ●ベン・タービン ●ロスコー・アーバックル
インスの元には、当代一と謳われる性格俳優のフランク・キーナン、西部劇の立役者ウィリアム・S・ハート、アクション俳優ダグラス・フェアバンクス、日本から来たハリウッドスター早川雪州。
●ウィリアム・S・ハート●ダグラス・フェアバンクス ●早川雪州
グリフィスの元には、彼が手塩にかけて育てたリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ブランチ・スイートらが勢ぞろい。(そろそろ聞いたことのありそうな名前が出てきていませんか。早川雪州は「戦場にかける橋」のあの捕虜収容所長です)
こうした強力なバックボーンと製作環境を得て、グリフィスはかねてから構想していた「国民の創生」に着手することができたのでした。
●リリアン・ギッシュ ●ブランチ・スイート ●メイ・マーシュ
ところで、グリフィスとチャップリンの関係ですが、グリフィスは大作文芸路線、チャップリンは小粒なスラップステックを得意としていましたから、グリフィスが分野の違うチャップリンを起用して映画を作ることは考えられなかったようです。
ただ、良好な関係は続いていたと思われます。それは後に、グリフィスはチャップリンと組むことになるからです。
●「国民の創生」は南北戦争終結50周年記念作
「国民の創生」は南北戦争を背景にした物語です。南北戦争終結は1865年ですから、1915年に公開されることになる「国民の創生」には南北戦争終結50周年という意味がありました。けれどもグリフィスは、大農園を経営し南軍で戦った父の姿をこの映画に託そうとしたのではないでしょうか。
グリフィスは周到な準備の後、相棒のカメラマン、ビリー・ビッツァーと組んで念願の大作を撮り始めました。
●名カメラマン、ビリー・ビッツァー(左)とD・W・グリフィス
初期の電動式カメラは1910年に登場したが、ビッツァーはあえてパテ・フレール社の手回しカメラを使用している。
つづく