046 100年以上前からあった超大型映像 [1900年、パリ万国博]
046 100年以上前からあった超大型映像
1900年パリ万国博覧会―1
●1900年パリ万国博覧会 機械館式典ホールイラスト
紀元1900(M33)年。19世紀の成果を総括し、20世紀の幕開けを祝うかのように華々しく開催されたパリ万国博覧会。それは、パリにおける5回目の国際博覧会で、それまでの(植民地政策による)著しい発見と驚異的な科学の進歩を讃え、近代化を一挙に進めたフランスの心意気を世界に示すものでした。
博覧会では展示のしかた、演出法が大きくものをいいます。1900年パリ万博はその新しい手法として、誕生5年目の「映画」が大活躍した最初の博覧会でした。すでに浸透していた映画は新しい活路を模索して、あの手この手のアイディアで来場者の度肝を抜きました。115年も前の博覧会ですが、そこには現代の私たちでさえびっくりするほどの桁外れのアイディアと技術が凝らされていたのです。(20世紀は1901年1月1日から、とされたのはこの時からのようです)
●エチエンヌ・マレーは「動く写真の権威」として評価されていた
セーヌ河畔。エッフェル塔を中心としたパリ万博は、4月に始まり11月まで200日間に亘って開催されました。
生かじりの美術史から見れば、この時期の建築、装飾はアール・ヌーボーかと思われるのですが、パリの女神像をトップに頂いた曲線美豊かなアーチ状の入場門を見ると、それはどう見てもネオの付きそうな装飾過剰なロココスタイル。
●パリの女神像がトップに立つ入場門 の壮麗さ
広場のしつらえや大噴水に至るまで、ブルジョア的なそのムードは、むしろ前回1889年の万博で建設されたエッフェル塔のたたずまいに良く似合っている感じ。そのエッフェル塔にはこの万博で初めて「エスカレーター」がお目見えし、会場のメイン道路では、椅子に座って移動できる「動く歩道」が人気を集めていました。
●1900年パリ万博で初お目見えのエスカレーター
●動く歩道
動く歩道は速度の異なる3層で、最高速の椅子席、立ち乗りの中速、低速の3段階のスピード。
きらびやかなグラン・パレとプチ・パレ、たくさんのパビリオン、大観覧車、レストランなどが立ち並ぶ中で、まず「百年回顧パビリオン」に目を留めると、そこでは1882(M21)年に写真銃で飛ぶ鳥を撮影した「動く写真」の権威、エティエンヌ・マレーによる「映像70年史」のテーマ講演を聞くことができました。
彼が1888年に開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」の仕組みが、リュミエール兄弟をはじめ動く写真の研究者にヒントを与えたということはよく知れ渡った事実で、映画撮影機・映写機の発展に大きく貢献したことが高く評価され、多くの科学者から尊敬を集めていたことが伺えます。
●エティエンヌ・マレーと後発に多大なヒントを与えた「フィルム式クロノフォトグラフ」 1888
パリ万国博の会場には、地元フランスのリュミエール社が映画のリーディングカンパニーとしての威信をかけて超大型映像を出展。ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は、この世界博を初めて動く写真として記録しようと張り切っていました。その記録フィルムはメリエスの新作として世界的な需要が予測されました。
シャルル・パテのパテ・フレール社、レオン・ゴーモンのゴーモン社も自社のPRスペースを確保して、映画の撮影機や映写機をあれこれ展示して実演して見せていました。更にはアメリカのエディスン社さえ大西洋を渡って自社の技術のデモンストレーションに加わりました。
このように第5回パリ万博は、当時の映画関係の最先端を行く企業が勢揃いして世紀のイベントを盛り上げた、初めての国際博となりました。
●100年以上も前の70ミリ映画
リュミエール兄弟が映画発明者としての威信をかけて挑んだのは、映画の可能性でした。「シネマトグラフ」はもう下降期に入っていましたから、兄弟は新しい映画の方向性を示そうと考えました。それは、今日の映画を先取りする大型映画でした。
兄弟の構想はスケールが違いました。なんと、エッフェル塔の足元のアーチに巨大なスクリーンを張って映画を上映しようと考えたのです。リュミエール社のパビリオンはその話題性を考えると、この万博の「テーマ館」的役割を与えられていたのかもしれません。さすがに風で揺れたり破れたりするアクシデントを考え、場所は「機械展示パビリオン」の中ということになりました。
●リュミエール兄弟(左)と「機械展示パビリオン」中央の72ミリ映画超大型スクリーン(右)
そこは高い丸天井を持つ大きな円形の建物でした。リュミエール兄弟は、観客が建物の内側のどの位置からでも映画を鑑賞できるように、天井中央から幅25メートル、高さ15メートルものスクリーンを下げました。(スクリーンの大きさにはいろいろな説有り)
スクリーンは裏側からも見やすいように、水に浸して透明感を出すことを考えました。上映は夜間で、昼はスクリーンを下の水槽に浸しておき、上映前に天井の巻き上げ機で巻き上げて設置しました。スクリーンの裏から上映するリア・スクリーン方式は、当時としては珍しい手法ではありません。
映写機は大会場用に新たに設計されました。大口径レンズを備え、強力なアーク灯を光源に、72ミリ幅のフィルムが使われました。映像は会期の始めに撮影された万博会場案内といった内容だったようですが、人々は画面の大きさと、それまでに見たことのない鮮明な映像に驚きの声を上げました。無料ということもあって、会場の床を補強しなければならないほどの人気で、会期中25,000人もの観客を集めたそうです。
現在最大の70ミリ映画と同じ大型映像が115年も前に発想され、存在していたということは驚嘆に値します。●72ミリ映画のフィルムの1コマ
● メリエスが一役買った360度シアター「シネオラマ」
リュミエール兄弟の代わりにエッフェル塔の下に陣取ったのは、フランス人、ラウール・グリモワン・サンソンの「シネオラマ」(別名シネコスモラマ)と呼ぶパビリオンでした。
サンソンも撮影機、映写機の開発者で、1897(M30)年にはパノラマ映像の特許を取得するのですが、パリ万博に向けてのパノラマ映画撮影は1896年5月に開始されました。つまり、4年がかりのビッグ・プロジェクトでした。
彼のアイディアは、当時はやりの気球による世界名所巡りというコンセプト。それまでには複数台の幻灯機で、スライドによる360度全円周上映には成功していたのですが、それを映画で見せることによって、実際に気球に乗った気分で世界旅行を疑似体験してもらおうという意欲的なパビリオンです。
撮影のために開発された装置は、360度の情景をいっぺんに撮影するために10台もの撮影機が放射状に並べられ、一つのクランクを操作するだけで10台のカメラが同時に回るような、チェーンによる同期の仕組みが考案されていました。ただし歯車による操作は重く、クランクを回すのは3人がかりでした。●ラウール・グリモワン・サンソン
●「シネオラマ」の撮影では3人の技師がいっしょにクランクを回して撮影
右は10台のカメラのうちの1台のカメラによって写された1コマ
サンソンが監督する撮影隊は500キロもある撮影装置と気球を積み込んだ列車でパリを出発。イギリス、ベルギー、スペイン、アフリカと3年以上の撮影旅行を敢行しました。
サンソンは撮影されたモノクロ映画フィルムをカラーで上映するためにジョルジュ・メリエスに協力を求めました。サンソンはメリエスが会長を務める奇術アカデミーの会員でもあったのです。
メリエスは快く協力を約束し、サンソンの元に着色女工を派遣したほか、彼の撮影所に隣接した着色アトリエの操業もフル稼働となりました。映画の上映時間は約6分。フィルムの長さは1本400メートル。全体はその10倍の4,000メートル。約80,000コマもの写真が1コマずつ流れ作業方式で、女工さんの手で着色されたのでした。
●ジョルジュ・メリエスとフィルムを着色するための「彩色アトリエ」
●夢の「鳥人間」を一足早く体験…全円周映画
「シネオラマ」パビリオンの内部は直径30メートル程度の円形で、周囲はすべてスクリーン。中央に分厚いセメントで囲まれた円柱状の映写室があり、10台の映写機がスクリーンに向けて放射状に据えられた映写窓が見えます。今風に言えば、前代未聞のマルチプロジェクションシステムが、今まさに稼働しようとしているのです。
映写室の上は気球のゴンドラを模した観客席で、気球旅行の雰囲気を煽るために頭上を大きな気球が覆っています。観客席から見渡せば、左右は360度の風景、天地は足元から空までを展望できる趣向です。まだ飛行機が生まれる前のこと。鳥のように空を飛んでみたいという願いが叶えられるのですから、うわさがうわさを呼ぶ超人気パビリオンでした。●「シネオラマ」内部
●「シネオラマ」気球は雰囲気づくりのための飾り。その下が観客席。
観客席の下が映写室で、10台の映写機が360度の映画を映写している。
場内が暗くなると、いよいよ奇想天外、驚天動地の気球旅行の始まりです。パリの街が次第に足元に遠のいていくことで、自分の乗ったゴンドラの上昇を感じるうちに、まもなくエッフェル塔よりも高い450メートルの高度からパリ市街を展望することになります。
気球は上昇と下降を繰り返しながら、ブリュッセル、ロンドン、バルセロナと空の旅が続きます。嵐の大海原を越えたイタリアでは謝肉祭の賑わいや大砲を打ち合う軍隊の軍事教練、ニースではカーニバル、スペインでは闘牛といった賑わいを眼下に見下ろしながらの爽快な遊覧飛行です。
音響についての当時の記述は見当たらないのですが、これだけの映像スケールですから、小規模ながらオーケストラ演奏が付いていたのではないかと推察します。
●技術的には時期尚早。現代技術ではじめて完成
ところがこの大仕掛けな出し物「シネオラマ」には設計上の問題があったようです。観客が興奮のるつぼにある時、映写室では大変な騒動が持ち上がっていました。10台の映写ユニットから発散されるアーク灯の熱を排出させる換気装置はフル回転でしたが、暖まったセメントの壁が保温効果を発揮して室内の温度は45度から60度にも上昇していたのです。
映写時の動力は電動モーターによるものと考えられますが、ついに一人の技師があまりの暑さに気を失って倒れました。その時親指が換気装置の回転翼で切断されるという事故になってしまったのです。今思えば、リハーサルなどはどうなっていたのかとか、会場の安全基準はどうだったのかなどと気になるのですが。
●映写室内部 10台の映写機のうちの3ユニットを描写
10台の映写機はチェーンで同期させていたことが分かる。
3本のタワーはアーク灯光源で、上部への配管で放熱。
それはともかく、警察の調べが入り、主催者側も黙認できません。関係者や観客の脳裏によみがえったのは3年前に起きた「チャリティ・バザール」。映写機の光源が火元で死者117名を出したあの大惨事でした。●パリ/チャリティ・バザールの大惨事 1897.5
当時のフィルムは可燃性です。高熱で発火したら爆発します。そんな危険な興行を続けさせることはできません。こうして大きな期待を担って公開された「シネオラマ」でしたが、たった3回(1回の説有り)の公演で閉鎖されてしまったのです。
その結果グリモワン・サンソンは、このビッグイベントの成功に賭けた投資家たちを巻き込んで破産してしまいます。しかし彼の映画に対する情熱は醒めず、その後は映画技術開発史の研究に向けられていきます。
彼の構想は並外れで、1914年に第一次世界大戦がはじまると、ガスマスクを発明して大金が転がり込んだり、1923年にはスクリーンに写さない文字通りの立体映画を構想したりしています。
今日の大型イベントに欠かせない大型映像は、こうした試行錯誤の蓄積の上に、最新科学技術を統合することにより、ようやく当時のアイディアを実現できたものと言えると思います。
★次回は「1900年パリ万博」第2回。またまた奇想天外な出し物が登場しますよ。
★ライト兄弟の飛行機「フライヤー1号」の初フライトは1903年です。