072 イタリア史劇の最高峰「カビリア」 [大作時代到来]
072 スペクタクル映画の古典「カビリア」
●「カビリア」でソフォニスバを演じる妖艶な女優、イタリア・マンチーニ
1914年、歴史映画の力作大作を生み出していたイタリア映画に、止めをさすような快作が生まれました。「カビリア」です。この映画こそ、今日私たちが観ている長編映画につながるスケールと表現技術を備えたものでした。
けれども……
●面白さ満載、これこそ映画
イタラ社の製作者でもあるジョバンニ・パストローネは、明らかに「カビリア」を芸術性の高い作品に仕上げようと考えていました。また興行的には、好評を博した前年公開の「ポンペイ最後の日」の続編であるかのように、火山の噴火から始めることにしました。
時は紀元前3世紀。地中海の支配を巡ってローマとカルタゴが戦っていたポエニ戦争を背景に展開する、気宇壮大な物語です。
シチリア島の貴族の幼女カビリアは、エトナ火山の噴火のドサクサに、乳母といっしょにフェニキアの海賊にさらわれてカルタゴへ。そこで邪教モロクの大司祭に買われてあわや邪神のいけにえに。そこをカルタゴの貴族フルビオと怪力マチステに助けられ、王女ソフォニスバの宮殿にかくまわれます。
何年か経って、ローマの大艦隊がカルタゴと同盟関係にあるシラクサを攻撃。ソフォニスバの許婚でヌミビアの王マッシニッサは遠征し、手柄を上げて凱旋するのですが、ソフォニスバとの婚姻を願うアフリカ人スキピオの謀略によって殺されてしまいます。それを知ったソフォニスバは悲しみのあまり自害。フルビオとマチステ、カビリアに魔手は迫る。三人の運命やいかに。
●ハンニバルのアルプス越え
●邪神モロクの大神殿でいけにえとして捧げられようとしているカビリア
●カビリアを救い出す怪力マチステとフルビオ
このように「カビリア」は、エトナ火山の噴火に始まり、伝説に名高い象の大群を引き連れたハンニバルのアルプス越え、邪教モロク神殿のいけにえ儀式、シラクサ攻撃ではアルキメデスが発明した太陽光大反射鏡によって炎上するローマ軍の大艦隊、というようにスケールの大きな見所がいっぱいという未曾有の大作でした。
それは、小説でもなく演劇でもない、また1巻もの15分の短編映画では絶対に味わうことのできない、長編映画ならではの面白さ楽しさを十二分に体験させてくれるものでした。
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●「カビリア」より抜粋
1.雪の山岳地でロケーションされたハンニバルのアルプス越えのりアル描写
2.巨大セット、モロク神殿におけるカビリアの救出劇
3.マッシニッサの宮殿における移動撮影の例
●長編が必要とした字幕。字幕が必要としたシナリオ
このように「カビリア」は、シチリアとカルタゴ、それにローマでの展開が加わるという舞台設定です。また登場人物も善悪入り混じり、複雑な陰謀も設定されているという入り組んだ物語です。そのためにところどころに説明を入れる必要が生じました。そこで考えられたのが「字幕」です。
●「カビリア」の字幕の一例 英語とイタリア語で書かれている
これは説明用のサブ・タイトル。台詞字幕はスポークン・タイトルと呼ばれた
字幕とは現在のように画面下に表示するスーパーとは違います。文字通り文字そのもので一画面を費やすもので、それを動画の間に挿入する方式が考えられました。つまり、俳優が口を動かしている途中で字幕に変わり、俳優の台詞が文字で示されます。観客がその文字を読み終えた頃、画面は先ほどの俳優が話し終わるところから続いていく、という手法です。観客は初めは奇異に思ったでしょうが、俳優が話す言葉はこのように字幕で示されるのだということが一般的になると、誰も違和感を覚えなくなったのです。
このように長編映画では、物語の説明や登場人物の台詞を字幕として表示するための台本、いわゆるシナリオという形が自然発生的に生まれてきたのでした。(字幕は無声映画特有の手法です。1927年、世界初とされる「ジャズ・シンガー」以後映画がトーキーに変わると不要になり、使われなくなります)
●はじめからカメラを回す撮り方の元祖は
パストローネはこの映画で20,000メートルのフィルムを撮影に費やし、そのうちの4,500メートルを使って4時間近い映画に仕上げました。
それまでの映画撮影では、D・W・グリフィスもリハーサルを何回か繰り返したあと本番だけカメラを回すという撮り方でしたが、「カビリア」以後は、何テイクか撮影を繰り返した中からOKショットを選んで編集するというパストローネの手法が定着していきます。
●舞台装置と照明技法の飛躍的進化
また「カビリア」では、舞台装置と照明技法が飛躍的な進化を遂げています。背景に絵を用いる手法は野外ロケが一般的になるに連れて実景に代わるのですが、セット撮影の背景ではまだ、建物外観や扉、壁などの凹凸を「だまし絵」で立体的に見せる手法が使われていました。
パストローネは徹底的にだまし絵を排除。建物は実際に実物大のセットを建て、飾り模様は石膏で凹凸をつけました。その代表的なものは宮殿と邪教の神殿です。また邪神のような立体感を強調した巨大な彫像や宮殿を飾る巨像も作りました。床には大理石の模様を描いた絵の上にガラス板が敷かれ、光の反射で本物の大理石に見えるように工夫されました。
●後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたといわれるモロクの大神殿
「カビリア」の随所に独創的な造形美を見ることができる
●マッシニッサの宮殿
だまし絵や書割ではない背景。本物の彫像。
ここでは建物の立体感を強調するために、蛇行による移動撮影が行われている。
(動画の最後参照)
●ガラスを敷いたミラーによる、大理石の床の効果
セットが巨大ですから照明も大規模になります。それまでの手法は役に立たず、大光量の人工照明を使った新しい照明技法が研究されました。大長編映画、巨大セットは、すべてにおいて前代未聞の技術を必要としたのです。
●上の3人のシルエットが手前に移動するに連れてライトが当たり、
壁面の象の彫刻と3人の表情が浮かび上がるという巧妙な照明テクニック
●これほど際立った光の演出は前代未聞
●炎上するローマ軍の大艦隊
このようにして誕生した「カビリア」は、母国イタリアはもとより、長編を渇望する世界の観客に大歓声で迎えられたのでした。
●隆盛直後。イタリア映画界が見舞われた悲劇
ところで、ここで大変な問題が持ち上がりました。この年1914年6月28日の白昼。ボスニアの首都サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻が、セルビア人解放を掲げた秘密結社「黒い手」のテロ学生によって暗殺されてしまうのです。
それを機にオーストリアとハンガリーはセルビアに宣戦布告。この戦はあっという間にドイツ、ロシア、フランスを巻き込み、ヨーロッパの戦争から世界戦争へと広がってしまいます。第一次世界大戦です。アドリア海を挟んだイタリアも対岸の火事では済みません。
大戦は4年も続きます。折角隆盛を見たイタリア映画の全盛期はそれまでで、イタリア映画界はこの大戦のためにすっかり沈滞してしまうのです。
けれども「カビリア」は、その造形美が後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたばかりでなく、大作をもくろむアメリカのD・W・グリフィス監督に大きな啓示を与えたと思われるのです。
つづく
★添付の動画は本来は無声映画です。
音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。
★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。
071 クライマックスは天変地異で決まり。 [大作時代到来]
071 クライマックスは、天変地異で決まり。
イタリア史劇とD・W・グリフィス-②
●「ベッスリアの女王」の主役に大抜擢のブランチ・スイート
イタリア映画界が矢継ぎ早に打ち出す歴史大作路線の成功を耳にしながら、バイオグラフ社の監督D・W・グリフィスも{機は熟した}とばかりにいよいよ長編づくりに乗り出します。ここにイタリア対アメリカの長編映画戦争の火蓋が切って落とされたのです。
●グリフィスもスペクタクルは得意だった
1913年7月、D・W・グリフィスは、コンビを組んでいるカメラマンのビリー・ビッツァーと長篇の歴史物にとりかかりました。「ベッスリアの女王(アッシリアの遠征)」4巻60分。
新進女優ブランチ・スイートを起用したこの映画は、ベッスリア(アッシリア)を攻め落とそうとするホロフェルメスを愛してしまった女王の悲劇と城の攻防戦という大スペクタクルです。このテーマの設定自体、イタリア映画に対する挑戦と見ていいのではないでしょうか。
この作品でグリフィスは、スケールの大きさだけではなく、ベッスリアの女王の人間的な苦悩までをも描ききろうとしています。
●イタリア映画の向こうを張ったアラビアンテイスト。 でも、どこかイタリア史劇に似た感じ
●城壁の攻防戦では1,000人以上のエキストラが参加
●戦車の走りや馬に飛び乗るスタントは、いかにも西部劇風
●酔わせてひとおもいに…でも、私にはできない。敵を愛してしまった女王の苦悩
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戦車を引く数十頭の馬と1,000人以上のエキストラを使った城の包囲戦では、大勢のスタントマンが大活躍。西部劇も作っていたグリフィスの経験が、イタリア映画に勝るとも劣らないスケールで見事に発揮されています。
映画づくりもこれだけのスケールになると、映画製作の本筋の他に、大規模なセットや道具づくり、出演者とエキストラの衣装や武具、火薬などの準備が必要です。また人と馬の移動には輸送部隊を編成しなければなりません。更に、宿舎や食事の手配、事故や緊急の場合に備えての警備や救護まで必要としたはずです。
総合芸術である映画は、このようにあらゆる分野にわたって需要や雇用を生み出し、産業としての基盤を確立していく訳ですが、一方で長編映画は自然発生的に映画づくりの体系化を促しました。
●「撮影」は「編集」を考慮して行うこと
15分程度の短編なら、簡単なアイディアの覚書があれば作れないことはありません。実際に映画が誕生して数年間はそのようにして作られていたものでした。
けれども1時間以上の物語を作るとなるとしっかりとしたプランが必要です。プランとは「何を、どのようにして、いつまでに、いくらで」・・・つまり予算枠内で予定通りの作品を期限までに仕上げるためのものですが、映画そのものをまとめ上げるプランも必要です。
はじめはあらすじ(梗概)を書いた簡単な「脚本」があれば間に合っていました。中篇以上になると、それをどのように撮影していくかをカメラマンに指示する必要が生じました。その撮影プランを「撮影台本」の形でまとめたのは、トーマス・H・インスでした。
●トーマス・H・インス
撮影台本とは脚本を元にカット割を考え、1カットごとの撮影要領を明記したものです。彼はカール・レムリのユニバーサル映画社の前身IMP社で働いていたのですが、編集の才覚に長けていました。そのため最初から<編集を前提とした撮影>を指示することができたのです。この認識があって初めて、画面サイズの異なる次のカットにまたがる俳優のアクションをスムースにつなげることができる訳です(アクションつなぎ)。
ハリウッドでは早くから、シナリオを元に画面展開を絵に書いたコンテ(コンテ二ュイティ)と呼ぶものが撮影現場で使われていますが、インスの撮影台本にはすでにコンテが用いられていたのではないかと思われます。
●デビッド・W・グリフィス監督
一方、グリフィスは、舞台と映画における演出の根本的な違いを考える中で、インスと同じことに気づいたようです。舞台の演出は主に俳優の演技に対するもの。映画ではそれ以上に画面上の見せ方が大事だと思い当たり、ひとつの場面(シーン)をいくつかの画面(カット)で構成することを考えました。
つまり、一つの情景をロング、ミディアム、アップという異なるサイズのカットを効果的に組み合わせて時間の流れを作るようにしたのです。(ちなみに、撮影することをシュート。撮影されたものをショット。ショットから編集段階で必要部分を切りだしたものをカットと呼びます)
●イタリアで、またまた話題作公開
ところがバイオグラフ社はグリフィスの長編製作を好みませんでした。「長編は観客が飽きるから、やらない」という映画特許会社(MPPC)側の金科玉条に触れて、折角のグリフィスの長編「ベッスリアの女王」はお蔵入りになってしまったのです。グリフィスが落胆したことは言うまでもありません。
折も折、イタリアではまた長編歴史劇の話題作が誕生しました。1913年、パスクァーリ社による「ポンペイ最後の日」は、マリオ・カゼリー二が監督した作品でした。
これも時代はローマ時代。暴君によるキリスト教徒弾圧に対する天罰で、ベスヴィオ火山が火を噴きます。ポンペイは火山灰に埋もれて消滅してしまう訳ですが、映画では1908年に噴火したエトナ火山のニュースフィルムが効果的に使われ、大噴火のクライマックスを盛り上げています。
この映画の成功で、スペクタクルを盛り上げる状況として、大地震、大洪水、大津波、大竜巻、大なだれ、山火事など、天変地異がよく使われるようになりました。
●イタリア映画お得意のモブ(群集)シーン エキストラ1000人以上
●神の怒りか、ベスヴィオ火山の大噴火が始まる
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●こりなかったバイオグラフ社
ところで「ベッスリアの女王」のお蔵入り。この出来事はグリフィスにバイオグラフ社を離れるきっかけを与えました。彼はイタリア映画の大作に対抗できる長編大作の構想を暖めながら、この年の末にバイオグラフ社を去ることになります。バイオグラフ社は、わずか2年後に新境地を拓くことになる将来のドル箱監督を、自ら手放してしまったのです。
その後1914年に、バイオグラフ社はようやく「ベッスリアの女王」を公開しました。けれども、フランスでは怪盗ものの「ジゴマ」「ファントマ」シリーズが大流行し、自社でも大当たりをとっていた連続活劇の上映手法に倣い、全4巻を1巻ずつ週変わりで4回の連続物として配給するという愚行を、まだ繰り返しているのです。
つづく
★次回はイタリア史劇の最高峰とされる「カビリア」について。
★添付の動画は本来は無声映画です。
音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。
070 けた外れだったイタリア映画のパワー [大作時代到来]
070 けた外れだったイタリア映画のパワー
イタリア史劇とD・W・グリフィス-①
●1910年代半ばから本格的映画館が登場。ニッケル・オデオンの影が次第に薄れる。
1910年代のイタリア映画界は、文芸路線を呈するフランスの流れを受けていました。ただしそれは、スタジオの中だけで収まるようなスケールではありませんでした。
●叙事詩と歴史劇なら題材に不足は無い
アメリカが短編映画にこだわっているうちに、イタリア映画は史劇大作で世界の映画界を席巻するようになりました。
叙事詩や神話、歴史的エピソードなど、古典的素材に事欠かない上に、アルプスの山岳地帯から地中海の海原にまでおよぶ南北に長い国土、古代の歴史遺産など、その風土はそのまま映画の舞台になりました。そこで生まれたものは、他国の追随を許さない壮大な歴史劇でした。
イタリアで突出して話題作を送りだしていたのは、イタラ社、チネス社、アンプロージオ社でした。それぞれ、ジュゼッペ・デ・リグオロ、ジョバンニ・パストローネ、エンリコ・グァッツォーニ、ルイジ・マッジらの看板監督を擁して大作力作に取り組んでいました。
イタリアといえば世界のだれで知っているべスヴィオ火山。アルトゥーロ・アンプロージォオ監督がまず1908年に手掛けたのは「ポンペイ最後の日」でした。この作品は20分足らずの短編でしたが、誰もが興味を抱いてきた大噴火の様子と、ポンペイの滅亡する姿が目の前に生々しく再現されるのを見て、観客は大興奮。これが評判を呼び、長編大作への取り組みの口火が切られました。
●「ポンペイ」2014
「ポンペイ最後の日」はその後、1913年にマリオ・カゼリー二監督によりリメイクされ、イタリア・スペクタクル史劇の定番となります(次回に記述)。
最近ではそのものズバリの「ポンペイ」(2014)がまだ記憶に新しいことでしょう。もちろん呼び物はCGによる大噴火の描写でした。
このようなスペクタクルはイタリア史劇に限らず、ビッグスケールの作品ほど、その時代の最先端技術で作りなおしてみたくなるものなのでしょう。
●ホメーロスの叙事詩をベースにしたオデュッセウスの大航海冒険譚「オデュッセイア」1911
●特撮いっぱいの「オデュッセイア」1911 全巻ご覧になれます。いい時代になりました。
話題を呼んだ長編映画は「マクベス」(1909)、「ファウスト」(1910)、「ブルータス」(1910)、「イリアッド」(1910)、「オデュッセイア」(1911)といった叙事詩や古典的な物語でしたが、熱狂的な支持を得た作品はギリシャ・ローマ時代の神話や歴史をテーマにしたものでした。
イタリアの人たちにとっての時代劇は、自国の歴史を知るだけでなく、壮大なアクションとして楽しめたからです。
●100年も前に、あの映画の元祖があった
イタリア映画界で長編の先鞭を切ったのは、1910年にイタラ社でジョバンニ・パストローネが監督した「トロイの陥落」でした。ギリシャ神話であの有名な木馬が出てくるトロイ戦争の物語です。ウォルフガング・ペーターゼン監督、ブラッド・ピット主演「トロイ」(2004)の元祖が、すでに100年前に作られているのです。
元祖「トロイの陥落」は、600メートル、30分。この映画では、城壁や宮殿などの壮大なセットが組まれ、ギリシャの歴史に詳しい二人の画家が考証に当たった他、美術品や衣装はミラノ・スカラ座の道具方が協力したということです。
●「トロイの陥落」1910
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●「トロイ」2004
グァッツォーニを師とするマリオ・カゼリーニは、1910年に「エル・シド」を発表していますが、私たちが知る1961年製作、アンソニー・マン監督の「エル・シド」では、チャールトン・ヘストンと妖艶なソフィア・ローレンが主演しました。
クライマックスは大挙して押し寄せるムーア人との戦闘シーン。海沿いの城と海岸線はモンサンミッシェルで撮影したものではないかと思っているのですが…。(ご存知の方、教えてください)
●「エル・シド」1961 上下とも
また1912年には、グァッツォーニがチネス社で「クオ・ヴァディス」を監督しました。ローマの闘技場でキリスト教徒たちがライオンの餌食にされる衝撃のシーン。私たち昭和世代は1952年にマービン・ルロイ監督、ロバート・テイラー、デボラ・カー主演の同名映画で観ています。
●「クオ・ヴァディス」1952
グァッツォーニの監督作品では、この他に1913年に撮った「スパルタカス」がありますが、私たちが同名リメイクを、スタンリー・キューブリック監督、カーク・ダグラス、ジーン・シモンズ主演で観たのは1960年のことでした。
●「スパルタカス」1913
●「スパルタカス」1960
グァッツォーニはこの年「アントニーとクレオパトラ」も撮っていますが、私たちは1971年に同名映画を、主演のチャールトン・ヘストン自身の監督でヒルデガード・ネールとの共演で観ています。
アメリカの話でついでに言えば、出エジプト記のハイライト、紅海が二つに割れる場面で有名なモーゼの「十戒」は、1922年にセシル・B・デミル監督が作りましたが、カラー時代に入ってからデミル自身の手で1956年に、ユル・ブリナー、チャールトン・ヘストン主演でリメイクされました。
●セシル・B・デミル
また1959年、壮絶な四頭立ての戦車競争が展開するウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演で観た「ベン・ハー」は、1925年にイタリアのフレッド・二ブロ監督によってすでに作られていました。
映画史に興味をもって資料をあさっているうちに、こういった大作がサイレント映画の時代に早くも作られていたことを知って、本当に驚いたものです。
●昭和世代がカラー、ワイドスクリーン、ステレオ音響で観たリメイク大作
●アメリカにも押し寄せたイタリア歴史劇の大波
1912年の「クオ・ヴァディス」は、紀元1世紀、ローマ帝国の暴君ネロによるキリスト教徒への圧制を描いたもので、2時間もの長編でした。
この映画が封切られたのは、ゴーモン社がパリに作った世界最大の映画館「ゴーモン・パラス」でした。音楽はこの映画のために作曲され、オーケストラと150人のコーラス隊によって上映されたということですから、観客はそれまでに体験したことのない感動の渦に飲み込まれたことは想像に難くありません。
●「クオ・ヴァディス」1912
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こういったイタリア映画における大作づくりは、必然的に撮影手法、編集技法に磨きを掛けることになります。ハラハラドキドキの桁外れのクライマックスが用意されている歴史劇は、長編を望む世界の人たちに迎えられました。
これらの映画がアメリカにも輸入され好評を博すようになると、長時間をゆったりと楽しめるように、きらびやかに飾り立てた大規模な映画館が米国の各地に誕生し始めました。
映画はプアな人たちの暇つぶしの娯楽ではなく、芸術の香りを備えた高尚な楽しみに変わりつつありました。
●イタリア映画はタイムマシンの元祖
ところで初期のイタリア映画は、これまでに見てきたように、他の国々がほぼ「現在」という時代背景のもとで作品づくりをしていたのに対し、「大過去」の歴史劇を特徴とした点が大きく異なりました。数千年、数百年という過去の町並みや家々が再現され、撮影の現場にはその時代の小道具が用意され、出演者やエキストラたちはその時代の髪形と服装で集まりました。まるで時間や空気までもその時代に遡った雰囲気を醸し出していました。
彼らは観客が体験する前にいち早く過去の時代に同化し、過去の事件を現在の自分の身に起こった現実の状況として反応しました。それはもはや演技とは言えず、実際にその時代に生きている感覚を味わったに違いありません。
もはや映画は、スクリーンに等身大の姿を写すだけではなく、もう一人の自分の〈分身〉が、時間と空間の隔たりを越えた別次元の世界に極めてリアルに存在するという不思議な体験。それは観客にしても同じこと。人々は理由は分からないながらも、簡単に時空間の壁を超越できる映画というメディアの持つ底知れない魅力を知らされたのでした。
●デビッド・W・グリフィス
バイオグラフ社の監督デビッド・W・グリフィスは「クオ・ヴァディス」の成功を聞くにつけ、居ても立っても居られませんでした。長編を志向していたグリフィスに、ようやくそれを製作する環境が整ってきたのです。彼の頭の中には、イタリア映画に負けない時空間超越の大型作品構想が膨れ上がっていたのです。
つづく
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069 息抜きに観るんだから、長いものは☓。 [ハリウッドシステム]
069 大衆が求めるものは、長さか、質か?
映画特許会社(MPPC)の思い上がり
●第一次世界大戦前の最高の悲劇女優とされるアスタ・ニールセン(デンマーク)
イタリア映画界のお話に入る前に、1910年前後、エディスン・トラストと呼ばれた映画特許会社に加盟の、アメリカとフランスの映画会社で行われていたことなどを少々。
●長編映画に目を向けなかった映画特許会社の誤算
アメリカの映画特許会社(MPPC、別名エディスン・トラスト)に所属する映画会社は、<長すぎる映画は息抜きになるどころか、かえって観客に苦痛を与え、目を悪くさせるから歓迎されない>という確信のもとに、300メートルのフィルムが開発された時から、一つの作品は300メートルのフィルム1巻で収めることが前提になっていました。
●MPPCの総帥トーマス・A・エディスン
「映画は娯楽なのだから、観客の気持ちを開放するものでなければならない。1200mもの長さで1時間もかかるようなものは長すぎて頭も使うから、とても息抜きにならない。まして途中からみたりしたら、訳が分からないままで終わってしまう。
それに観客層も考えなければならない。いろいろな観客に楽しんでもらうためにも映画は変化に富むべきである。その意味でも長い映画は言語道断。ニュース、スラップスティック(コメディ)、ロマンス、連続活劇というように短い作品でプログラムを組んでこそ、観客は喜んで何回も来てくれるのだ」
という訳です。
無声映画で手回しですから、300メートル1巻は約15分です(12分とする資料もあり。早めに回せばそれもまた真なり)。MPPC傘下の「ニッケル・オデオン」では、このような1巻物を何本も組み合わせて2時間ほどの上映プログラムを構成していたのですが、観客は逆に、本数よりももっと見応えのある長い映画を求めるようになっていたのです。
すでにデンマークでは1本30~45分。ドイツでは30分が当たり前の長さになっていたこともあって、ヴァイタグラフ社も別扱いで「運命の男ナポレオン」(1909)や「モーゼ一代記」(1910)などの長尺ものを作りましたが、それも30分と70分程度のものでした。
こうしたエディスン・トラストの誤った認識は観客の要求に逆行し、自分の首を絞めていくことになります。
●デビッド・W・グリフィス
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●南北戦争の中での家族愛を描いた「戦い」(1911)の戦闘シーン 1分35秒
バイオグラフ社の監督D・W・グリフィスも、長くて2巻もの(30分)しか撮らせてもらえないことに欲求不満を抱きながら、「戦い」(1911)、「ケンタッキー丘の抗争」(1912)といったスケールの大きな作品を作っていました。1カットごとの画面構成も、編集のやり方も、はじめの頃と比べて格段に研究されています。
フランスではゴーモン社も間もなく、スター・フィルム社のジョルジュ・メリエスの仲介でMPPCに加盟したのですが、パテ・フレール社もゴーモン社もMPPCの規則を守って、長編を作ろうとはしませんでした。
パテ・フレール社はイタリアやデンマークの映画界を配給面で押さえる一方、イーストマン・コダック社の向こうを張ってフィルム製造に精を出していました。
ゴーモン社も自社製作は40分程度まで。それ以上の長編は話題性の高い作品を輸入して配給するというやり方に転換していました。つまり両社とも映画製作よりも配給と興行に舵を切ったのです。そしてその輸入先がイタリア映画でした。
●レオン・ゴーモン ●シャルル・パテ
けれどもレオン・ゴーモンは、トーキー映画に先鞭を付けようと、研究を重ねていました。動く写真の次に求められるのは「音声」であることは業界の一致した見解であり、その先鞭をつけることができれば、MPPC内でも発言力が増すでしょう。
その一方でゴーモンは、巨大映画館の建設を急いでいました。「ゴーモン・パラス」は1,000人もの観客を収容できる世界最大の映画館として、1910年、パリ(現在のクリシ―広場)に登場(最盛期の観客席6,000人)。それは「ニッケル・オデオン」など比較にならない豪華な劇場で、パリジャンたちの度肝を抜きました。
ゴーモンはその劇場で、音と映像をシンクロさせる「クロノフォン」システムを披露してみせました。ニッケル・オデオンに対して、フランスの方が一足先に映画館時代に突入したのです。
こうして映画トラスト以外のインデペンデント(独立系映画会社)による長編映画づくりと本格的な映画館の時代が幕を開けたのでした。
●2枚のレコードを連続再生できた、 ゴーモン社「クロノフォン」
●ジョルジュ・メリエスの衰退
ストーリー映画、トリック映画の祖とされるジョルジュ・メリエスは、映画づくりがすでに個人ではなく組織的に分業で製作するものに変わっていることを知りながら、芸術家として個人で作り続けることを止めませんでした。
●ジョルジュ・メリエスと「さなぎと黄金の蝶」(1900)
彼の作品は観客に飽きられていました。彼はマジシャンとしての特異なキャリアを生かして、あの独創的なトリック映画デビューした1896年から10年間に、短編とはいえ500本もの作品を作り続けてきました。それが1909年以降、ほとんどストップした状態で、ニューヨークに開設してあったメリエスの会社はヴァイタグラフ社に買収され、彼のロベール・ウーダン劇場は抵当に入っている有様でした。
メリエスは1900年から1912年まで、欧米の映画製作者・撮影者組合の会長を務めましたが、これは映画振興に貢献した名誉職のようなものでした。
ライバルとはいえシャルル・パテは、同じ映画特許会社(MPPC)に所属しているよしみでジョルジュ・メリエスに救いの手を差し伸べる意味もあって、パテ・フレール社と共同で作品を作ることを申し入れました。
「ねえメリエスさん。今、イギリスのスコットとノルウェーのアムンゼンが、どちらが先に南極点に到達するかと探検ごっこをしていますが、あの大ヒットした『月世界旅行』を南極に置き換えたら、どんな映画になるでしょうね。あ、お金ならご心配なく、どうぞお好きなだけ」
メリエスは、好きな映画をまた思う存分作れることがうれしくて、パテの話を喜んで受けることにしました。そして1911年から翌年にかけて、ベストを尽くして「極地征服」他4作品を作り上げました。
「極地征服」は650メートル、約35分ほどの中篇で、スター・フィルム社の撮影スタジオいっぱいに、頭と両腕が動く精巧な機械仕掛けの雪男が作られました。もちろん、ストーリーもデザインも設計も彼自身で、主役のキャプテンもメリエス自身が演じています。
雪男の顔は2メートルもの高さがあり、目と耳が動き、氷山の間から大きくせりあがって探検家たちを食べてしまうのですが、その操作には二人の裏方が当たっていました。
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●ジョルジュ・メリエス「極地征服」1912 2分35秒
メリエスは自分のパターンを崩さなかったが、同時期のグリフィスは、すでに上の「戦い」のような映画を作っていた。
「極地征服」の完成試写を見たパテは、衰えるどころかアイディアの枯れないメリエスのすごい仕掛けに驚きました。けれどもそれ以外の何物でもないことを確信できただけでした。
「メリエスさん、あなたもお聞き及びでしょう。最近バイオグラフ社のマック・セネットが、貧しい身なりをした一見紳士風の男がずっこけたりするフィルムを撮って、人気が出始めてきたことを。どうですか、その向こうを張って喜劇など作られてみては?」
●マック・セネット ●チャールズ・チャップリン
メリエスは2年ほど前にその紳士を、パリのアルハンブラ劇場で見たことがありました。メリエスはそこで、あるステージのリハーサルを行っていたのですが、その青年はイギリスのパントマイム劇団の一員で、パリに巡業に来ていたのでした。
その時の彼は立派な服装の紳士で、通りすがりの女の子をからかう酔っぱらいのギャグで受けていたのですが、メリエスのパントマイムの笑いとは違う種類のものでした。
シャルル・パテはそれとなくメリエスにも喜劇路線への変更を勧めたのですが、それはメリエスにとっては自分の存在を否定されること。このパテ・フレール社との共同製作のあと、ジョルジュ・メリエスは映画製作から離れることになります。
それから3年後、落胆のメリエスに、映画史上一大エポックとなる「国民の創生」の製作を開始するに当たって、「私はメリエスにすべてを負っている」と賛辞を送って励ましたのは、D・W・グリフィスでした。
つづく
★添付の動画は本来は無声映画です。
音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。