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050 20世紀初の「月世界旅行」。 [黎明期の映画]

050 映画がはじめて「シーン」を備えた。

ジョルジュ・メリエス「月世界旅行」

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 パリのロベール・ウーダン劇場とモントルイユの撮影スタジオを拠点に、数々のアイディアにあふれた短編映画を製作・上映していたジョルジュ・メリエスですが、彼が1902年に発表した映画はそれまでになく長いものでした。それはストーリーを持った映画だったからです。

●ムービーカメラを持てば、振り回したくなる

1900年パリ万国博」でジョルジュ・メリエスは、パビリオン展開こそしませんでしたが、彼のスター・フィルム社のカメラマンたちは16本もの万博ニュース映画を撮影しました。その中には会場の動く歩道やセーヌ川を移動する船の上からのいわゆる移動撮影によるパノラマの他、イエナ橋やトロカデロでは360度のパノラマ撮影を行うなど、それまでに無かった斬新な撮影を行っています。

こうした撮り方は当時としては型破りでした。が、実はこうした技法こそ映画特有の表現テクニックである訳ですが、当時のメリエスはそれに気づきません。それはたまたま、カメラを船に搭載したから風景の移動が撮影されたに過ぎず、意図的にカメラを移動させて得られる画面効果を考えたものではなかったからでした。ちょうど初めてビデオカメラを持った人たちが無意識にカメラを左右にパンしてみたり、ズームを操作してみるのに似ています。
 誕生して5年以上経ったにもかかわらず、映画撮影はいまだにカメラを三脚に固定したまま、150フィート約1分の長さのフィルムが終わるまで、ひとつの情景を撮り続ける撮影手法が続けられていたのです。

●物語映画が認識させた、シーンの概念

さて、メリエスの映画は、1901年にはヴェノスアイレスのカジノなどでも上映されていたといいますから、南米にまでも彼の名声が知れ渡っていたことが伺えますが、そうしたネームバリューを背景に彼が考えたのは、映画で物語を演じてみよう、ということでした。もちろん主役は彼自身です。

メリエスは本来舞台のマジシャンですから、この構想は彼がマジックの舞台に映画を採り入れた時から抱いていたものだったと思います。それまでにも彼の作品はわずか1分の長さでもストーリーを持つものだったのですが、それらはすべて小手調べのようなものだったのかも知れません。

本格的な物語映画の素材として彼が選んだのは、何と、今で言うSF(サイエンス・フィクション)。1865年に発表されたジュール・ヴェルヌの「地球から月へ」と、この年1895年に発表されたばかりのHG・ウェルズの「月世界最初の人間たち」にヒントを得たものでした。
  現実には実現不可能な科学技術の夢物語を映画で実現して上げようという構想は、いかにもトリックで世界の観客をアッと言わせてきたメリエスらしい構想です。タイトルもセンセーショナルな「月世界旅行」と決めました。

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●ジュール・ベルヌ「地球から月へ」の挿絵 1865

長い物語はたいていの場合、ひとつの場面では完結しません。登場人物の動きはいろいろな場所におよび、朝・昼・夜の時間の流れが必要になるかもしれません。これらを表現するとなれば、これまでの1シーン1カットの撮影で済ませられる訳は無く、状況の変化、時間の経過に応じて場面を転換する必要が出てきます。当時はシーンという概念はまだありませんが、必要に応じて初めてその認識が生まれたのです。


●旧態依然。舞台をそのまま映画に

メリエスはこの物語のためにたくさんの舞台装置を設計しました。1ぱいのセットだけで済んでいたこれまでの作り方とは大違いです。モントルイユのスター・フィルム社は上を下への大騒ぎでした。

主なセットだけでも、科学者会議の議場、ロケット打上げ場、月面、地下洞窟、月人の宮殿など。特に月面では、到達した科学者たちが望む月の出ならぬ<地球の出>の様子は、パノラマのように立体的な奥行きを持たせた書割を操作するなどの凝りようです。

一方、疲れて眠る科学者たちの頭上に現れる女神たちや降りしきる雪など、得意の合成トリックもふんだんに使われています。

 こうして280m16分もの長編映画「月世界旅行」が出来上がりました。当時の映画は長くて60mの時代ですから、かなりの長編です。「公開当時は不評だったが急激に人気が出てきた」というメリエスの回想は、サクセスストーリーによくあるエピソードです。


この映画を見てみると、シーンの数は確かに増えましたが、相変わらず1シーン1カット。カメラをすえたままのフィックス撮影で舞台の様子をそのまま撮影、というやり方はまったく変わっていません。すべてがフル・ショット(全景)。
  けれどもこの作品で注目したいことは、カットの長さに違いが出てきたことです。例えばファーストシーンが他のカットに比べて2倍以上あります。反対に短いカットもあります。ということは、1カットは必要な長さだけ、ということが自然に行われているということです。これはそれまでの「
1シーン11分」の撮り方から脱却したことを意味します。

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●一番長いカット(左)と短いカット(右)

 人物の動きが左右だけの平面的な移動というのは相変わらずの舞台劇風。月面から地底に下りるところだけ、手前から奥への人の移動がありますが、これも舞台劇の範囲内です。

 また、カメラは一人の観客として、常に舞台全体を捉えていなければならないという認識があるため、カメラが俳優の動きに連れて移動したり、俳優の動作や表情などを大きく映して見せることなど、考えも及ばなかったのでした。つまりここではトリックは別として、映画特有の表現法はまだ生まれていないことが分かります。

 それにしても、シーンが連なってひとつの物語を紡ぐという認識は、映画製作上、大きな発見だったのです。


●「月世界旅行」はどんな構成か

物語の前提はしっかりとしたコンストラクション(構成)です。メリエスはストーリーの流れと役者の動きや撮影のアイディアをしっかりと紙に書き留めて、カメラマンや役者に配りました。また「月世界旅行」では初めて、今で言う構成台本のようなシナリオが用意されました。もちろん監督、主役はジョルジュ・メリエスです。スター・フィルム社は何から何までジョルジュ・メリエスでもっているのです。

 ストーリーとは全体の流れを一言で伝えられるもので、制作に携わるスタッフみんなが共通のイメージを持つために必要な物語の柱をいいます。
 「月世界旅行」のストーリーは、さしずめ「科学者たちが月世界旅行の計画を立て、最新のロケットで月に到達したところ、先住の月人に捕らえられるが、彼らを退散させて一行は無事帰還する」といったところでしょうか。
 このストーリーを元に、シーンが分けられ、背景がデザインされ、登場人物の演技が決められ、カメラが回る・・・
ということになります。


●オール手彩色の完全版「月世界旅行」、発見される

  なお「月世界旅行」は、2012年9月にスペインで、当時メリエスのスター・フィルム社の彩色アトリエで女工さんによって手彩色された完全版のフィルムが発見され、大きな話題を呼びました。傷だらけのフィルムは現代のデジタル技術によって、これも昔のままの一コマずつ気の遠くなるような手作業によって修復され、完全に当時のままによみがえりました。
  下にYOUtubeの完全版復元フィルムを添付させていただきました。なお、音声は付いておりませんが、公開当時はピアノなどによる即興の音楽演奏が付いたり、画面の解説者が説明を付けたりして上映されたものと思われます。

◎天文学者の会議 月世界探検チームが結成される。
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◎砲弾型宇宙船の建造
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◎煙を上げる工場の遠景 画面では表現されないが、
   中では大砲が鋳造されている。

◎出発 探検チームが砲弾型宇宙船に乗り込む。

宇宙船が大砲に装てんされる。

大勢に見送られて発射。
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◎宇宙空間 月が接近し、月の顔面に宇宙船が命中。
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◎月面 砲弾型宇宙船が到着し、降り立つ一行。月から見た「地球の出」
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シーケンス-04.jpg

◎月面 眠りにつく一行。夢に現れる故郷の妻子の顔が月の女神たちに変る。
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◎月面 吹雪の月面を行く一行。奥の穴から地底へ。

◎地底 巨大きのこの洞窟で月人の兵隊の襲撃に遭う一行。
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◎月の宮殿の内部
    
縛られて王の元に連れてこられる一行。
    
隊長が月の王に飛び掛り、倒して逃げ出す一行。追う兵隊。
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◎月面 兵隊に追われる一行。
  
砲弾型宇宙船を見つけて乗り込む。隊長一人外に。
      追いつく月の兵隊
  
隊長が宇宙船を地上に向けると、宇宙船は落下。
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◎海上 落下してきた宇宙船、海底に沈む。


◎港に帰還する宇宙船
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◎帰朝 祝賀会と凱旋行進。勲章の授与。記念像の除幕式。

 お祭り騒ぎ、捕虜として連れ帰った月人が見世物にさらされている。
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※最後の「帰朝シーン」「お祭り騒ぎ」は冗漫になりすぎると考えられたか、カットされているバージョンもあります。

P1050418.JPG●ジョルジュ・メリエス




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051 型にはまるな。枠からはみ出せ。 [黎明期の映画]

051 風景狙いに枠(フレーム)は邪魔。
   イギリス ブライトン派

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●19世紀末~20世紀初頭 ニューヨーク

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●撮影機を移動させようとしているムービーカメラマン 1900年前後
 カメラが軽量になったせいか、三脚がかなり軽便になっている。



 1895年12月28日の
映画誕生から1901年に至る5年ほどの間、映画は、アメリカではエディスン社の「ブラック・マリア」のスタジオから、フランスではジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社のスタジオから、その多くが生み出されていました。
 
カメラを固定し、セットの端から端までを額縁の中の絵画のように撮影していた時代はスタジオ撮影だけで済んでいたのですが、物語を作ろうという意識が芽生えると、先進的な人たちはその額縁が邪魔であることに気づきました。

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●左/エジソン社のスタジオ「ブラック・マリア」1894
 右/メリエスのスター・フィルム社のスタジオ 1897

 

●寄れなくば 寄らせて撮ろう 大写し

 イギリスでは1899年に、後に「イギリス映画の父」と称されるロバート・ウィリアム・ポールが、ニュー・サウスゲートにスタジオを作って喜劇などの製作を始めていました。
そのいい意味でのライバルが、〈動く写真〉の開発に貢献したウィリアム・フリーズ・グリーンです。
 彼は英仏海峡に面した有名な海水浴場のある保養地ブライトンで映画の技術者を養成していたのですが、そこから輩出された人たちが、のちにブライトン派と呼ばれる流れを生み出します。その中にジェームズ・ウィリアムスンという薬剤師がおりました。

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●ロバート・ポールのスタジオ 1899

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●ロバート・ポール             ●フリーズ・グリーン                          ●ジェームズ・ウィリアムスン                 

 ウィリアムスンの趣味は写真でしたが、1895年にリュミエール兄弟によって〈動く写真〉が確立すると、彼の関心は当然ことのように映画に移り、早速手にした映写機を撮影機に作り代えて、自分で映画を撮るようになりました。

 
最初は彼の映画もリュミエール兄弟やメリエスのフィルムの真似から始まりました。ウィリアムスンは、彼らが撮った舞台劇よりも、実写の方に興味を抱きました。彼にはセットを作って映画を作るほどのお金はありません。必然的にカメラを外に持ち出すことになりました。

 持ち出すといっても木箱製で重い三脚付きのカメラは、現在のコンパクトなビデオカメラのように自在に移動させることはできません。彼が1898
年に撮った「ビッグ・スワロー(大飲み)」は、何とカメラが人物に寄って行く代わりに、人物がカメラに向かって近寄ってくるという演出を考えたのです。実景の中で奥から手前に。この動きは舞台やセットでは出せない斬新な視覚効果をもたらしました。

 ●「ビッグ・スワロー(大飲み)」1898

 いきなり正面からムービーカメラを向けられた紳士。「失礼な。何のまねだ」とか言っているのでしょうか。大声で文句を言いながらカメラに向かって来ると、その口元が画面いっぱいになり、カメラマンをカメラ・三脚ともども丸呑みにしてしまうというブラックユーモアです。
 アップもアップ、ビッグ・クロースアップBCUと呼ばれる極端な大写し。こんな大口は誰も見たことがなかったので、みんなびっくり、口をあんぐり。

 初期のクロースアップについては、1900年の作品で「おばあさんの虫眼鏡」という作品がありました。これはまず、虫眼鏡を覗くおばあさんを下から見上げた感じのクロース・アップから始まります。その後はおばあさんの見た目で、虫眼鏡で覗いたように丸くマスキングされた画面に、彼女の身の回りにあるはさみとかペットのネコなどが大写しされるというものでした。

  この作品は、早くも翌年、同じタイトルで似たような内容で、直ちにパテ・フレール社によって剽窃されました。また1902年にはアメリカのバイオグラフ社が「おじいさんの虫眼鏡」のタイトルで製作しました。こういったやり口は20世紀に入っても相変わらず続いていたのです。

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●「おばあさんの虫眼鏡」1900 のクロース・アップ

 とにかく、「映画は舞台を丸ごと撮影するもの」という考えにこだわらず、カメラを自由に実景の中に置き、見せたいものを大きく見せる手法をまず考え付いたのはイギリスの映画作家たちだったようです。
 文学でもなく演劇でもない映画特有の表現法、語り口を見出していく過程では、こんなことが大きな発見だったのです。


●セミ・ドキュメンタリーにセットは不要

 ウィリアムスンはこの年、もう1本の映画を撮っています。19世紀初頭は広範囲な植民地支配により、大英帝国が意気軒昂だった時代です。1898年に清朝政府の元で起きた義和団の乱のニュース映画を見た彼は、事件の様子が良く分かる再現フィルムを作ろうと思い立ちました。今で言うセミ・ドキュメンタリーです。

 自分の別荘を英国牧師の教会に見立て、メインキャストは家族を総動員して、1900年の末か1901年のはじめに「中国における伝道会襲撃」という5分の作品を仕上げました。
 蜂起した義和団が教会に侵入。暴徒から家族を守ろうとする勇敢な宣教師。奮戦空しく家族は暴徒の銃撃に倒れ伏す。そこに到着したイギリス海軍の兵士が義和団を銃撃し、暴徒は退却する、といった流れです。

 ●「中国における伝道会襲撃」1901 無音

 この映画は4つのシーンで構成されているという説がありますが、ここに添付した映像は1場面1カットの撮影手法です。ただこの場合はそれがかえって作為を感じさせず、実際に起こった事件の生々しさを伝えることに役立っています。

 この映画がメリエスの映画と決定的に違うところは画面のパースペクティブ(奥行き、遠近感)です。実景でしか描けない画面の手前から奥までの情景の深さ。それにより、例えばこの動画の後半、画面下手(向かって左)から続々と登場するイギリス軍兵士のように、登場人物の動きがいかに躍動的に描かれているかが分かるでしょう。ここにおいて映画は明らかに、メリエスが固持した舞台空間枠の呪縛から開放され、同じフレームの中に映画独自の広大なひろがりを見出したのでした。


●続かなかったユニオン・フラッグの心意気

 1900年にはまた、ロバート・ポールが「軍隊生活―または兵士はいかにして作られるか」という映画を作りました。これはイギリス軍における兵士の日常生活をアピールするために製作されたPR映画といえるものなのですが、当然ながら軍隊生活の描写はとてもリアルでした。
 このように、写実性、記録性に重きを置き、社会性を尊重したのがブライトン派の特徴といわれています。こうした映画の作り方は、イギリス映画がフランス映画やアメリカ映画とはひと味違う道を歩むことになる方向性を示唆したものでした。

 とはいえ、当時はメリエスのスター・フィルム社が世界を制覇し、パテ・フレール社、ゴーモン社が肉迫。アメリカではエディスン社が作品づくりにめきめきと力をつけてきていました。一方で台頭してきたライバルはイタリア映画です。これらの会社から作り出される映画のほとんどが娯楽作品でした。また、ドイツやスゥエーデンといった国々は社会性を反映させた作品を作り始めるなど、世界中で映画は事業として動き出していました。

 ブライトン派を中心とした真面目一辺倒のイギリス映画は、こうした世界動向の渦中にあって、観客の興味は徐々にアクの強い海外の娯楽作品に向けられるようになりました。
 ブライトン派によって、折角映画ならではの表現手法が見え始めたのに、娯楽性の希薄なイギリス映画は次第に衰微し、息を吹き返すのは第一次世界大戦をはさんだ後の約30年後。トーキー映画が登場するまでイギリス映画はあまり目立たない存在での推移を余儀なくされるのです。


※クロース・アップ
 
 一般にクローズアップと言われますが、クローズ(動詞/閉じる)ではなく、クロースもしくはクロウス(形容詞/近い)が正しい言い方です。
ビッグ・クロースアップ(BCU))は、例えば目の部分だけとかの極端な大写しをいいます。

セミ・ドキュメンタリー
 ドキュメンタリー手法を用いて現実の出来事をより効果的に脚色して作られた小説、演劇、映画など。ここでは映画。


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052 人の妻子か、自分の妻子か。 [黎明期の映画]

052 少し映画らしくなってきた「あるアメリカ消防夫の生活」
初歩的なモンタージュの試行
「あるアメリカ消防夫の生活」-1


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●時代背景 ライト兄弟、「フライヤーⅠ号」による初飛行の成功で、空の時代を拓く 1902
                 このような歴史的偉業の記録に、映画はすぐにその特性を発揮し出した。 

 (無音21秒)

 リュミエール兄弟による映画発明以降、欧米の映画関係各社は映写機と撮影機の機能向上を図る一方で、映画そのものの製作と配給に事業をシフトし始めていました。
 
20世紀のはじめ。映画といえばフランスのジョルジュ・メリエスでした。イギリスではブライトン派(前回記事)による社会派とも言うべきドキュメンタリータッチの映画づくりが探求されていましたが、今回はアメリカの様子を見てみることにしましょう。 

●エディスン社は版権、著作権対策もひと足早かった
  20世紀初頭におけるアメリカの映画業界では、エディスン社を筆頭に、エディスン社から移籍したウィリアム・ディクスンが経営に参画しているバイオグラフ社(正式名称はアメリカン・ミュートスコープ・アンド・バイオグラフ・カンパニー)、そして新興のバイタグラフ社の3社が作品づくりにしのぎを削っていました。 

  
エディスン社はハード面においては「特許」。ソフト面においては初めからコンテンツとしてのフィルムの「上映権」を重要視していました。ちなみにアメリカで映画の著作権に関する法律ができたのは1912年なのですが、写真の著作権は認められていました。

  そこでエディスン社では映画フィルムそのものが写真なのだという理屈で、1894年以降、自社製作の映画フィルムをそのまま紙焼き(密着)したもの……つまり内容が同一の紙のフィルムを提出して著作権登録を行うようにしていました。考えたものですね。

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●著作権登録のために作られたペーパー・フィルムをもとに、昔の映画の再現が可能となっている。
 ありな書房「魔術師と映画」より


 でも、このアイディアは100年後の私たちに恩恵をもたらしてくれました。セルロイドのフィルムならとっくに劣化や焼失で消滅したはずですが、紙フィルムはそのまま残ったのです。現在私たちは、米国国会図書館に保存されているその紙フィルムを1コマずつ映画フィルムで複写して復元された「ペーパー・プリント」によって、当時の貴重な映画を見ることができるのです。

   それはともかく、エディスン社でも、売れるオリジナル作品をたくさん市場に供給するために優秀なフィルム制作者を掻き集め、ヒット作を狙って製作に力を注ぐようになりました。映画はそれまでの機械技術からコンテンツ重視の時代へと転換したのです。
 そんなエディスン社の動きの中でめきめきと頭角を現してきたのが、今や映画製作・演出部長に昇進したエドウィン・スタントン・ポーターでした。 

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・S・ポーター

●全6分の内容を採録すると……
 ポーターは1902年の末に「あるアメリカ消防夫の生活」という作品を作りました。この映画は1901年にジェームズ・ウィリアムスンが作った「火事だ!」というフィルムにインスパイアされたものですが、実際の消防夫が火災現場に急行するドキュメンタリーフィルムとスタジオで撮影した火災シーンを合体させ、更に劇的な迫力を生むように構成された意欲作です。

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●ジェームズ・ウィリアムスン「火事だ!」 1902

 この作品は、消防署と火災現場という二つの場所で同時に起こっている出来事をどのように見せたらいいかという必要性から考えられた場面構成が、当時としてはきわめて画期的でした。つまり、映画言語として重要なごく初歩的なモンタージュが効果的に行われていることで知られている作品なのですが、YOU-Tubeの中にありましたので、ここに添付させていただくことにしました。

 最近の映画史の書籍などでは、単に「アメリカ消防夫の生活」と記載されるようになりました。が、そのタイトルだと一般的な消防夫の生活になってしまいます。この作品の原題はLife of an American Fireman。「一消防夫」ですから、特定の消防夫ということになります。
 従ってこのフィルムは、単に一般の消防夫の日常を描いたドキュメンタリーではなく、特定の消防夫を主人公とした劇映画として構想されたものではないでしょうか。

 ・・・であればこのフィルムでは、火災に遭うのは彼の最愛の妻子であり、その二人を救出するヒーローは彼でなくてはなりません。今ならご都合主義と笑われるでしょうが、当時の観客は純情です。そうあって初めてドラマしての危機感が劇的に拡がり、無事救出の感動が増すはずです。ポーターの製作意図はそこにあった、と私は思っているのですが・・・





 
以下は以前見られたYouTubeの動画をもとに私が採録シナリオ(構成台本)の形で書き出したものですが、画面は9シーン。撮影に当たっては、ポーターによっておそらくこのようなシナリオが書かれていたものと思われます。

1..消防署・宿直室 全景
    1.JPG

   当直の消防夫が椅子に掛け、留守を守る妻と娘を思い描いている。
  画面右上の円の中にその様子が合成で示されている。
  (別の場所との同時進行表示)
    円内/娘をベッドに寝かせてキスをする妻。
  空想イメージが消えると、消防夫、帽子をかぶって出て行く。

2.火災報知器のアップ
    シーケンスaa.jpg

   腕がフレーム・インし、ふたを開けレバーを引き下げると、
  ふたを閉める(火災発生の通報が行われた)。
FO

.  消防署・詰め所(ベッドルーム) 全景
  2.JPG
  
当直者が寝ている。
  警報が聞こえ、ベッドから一斉に跳ね起きる。
  大急ぎでズボンを履き、床の中央に開けられた穴からポールを伝
  って階下に降りる消防夫たち。


4.消防署前・正面
  3.JPG
  消防馬車が並んでいる。
  そこへポールから次々と降り立つ消防夫たち。
  待機していた消防馬車に飛び乗ると、走り出す馬車
3F.O

5.別の消防署前・全景
  4.JPG
  ただちに出発していく馬車2台。
  あとを追うように梯子馬車が画面直前を右に横切る。
F.O 

6.大通り
  シーケンスaaa.jpg   
 
    全速力で現場へ急行する消防馬車。画面右奥から左手前へ、
  その数なんと
9F.O

7.大通りから火災現場へ(外)
  5.JPG  
  やってくる消防馬車。
  
3台目の消防馬車の移動に合わせて、カメラ左にパンすると…
 6.JPG
  総動員でホースを用意している先着の消防夫たち。
F.O

8.火災現場(室内)
  7.JPG

  煙に包まれている女性。
  いったん窓辺に寄るが、そのままベッドに倒れ伏す。
  
   やがて一人の消防夫がドアを破って入ると、カーテンをむしりとり、
   ハンマーでガラス窓を打ち破る。
   消防夫は倒れている女性を抱き抱えると、窓の外のはしごに消える。
   
すぐに別の消防夫が窓から入り、ベッドの子供を抱き上げて運び出
   す。
   
次に上がってきた二人の消防夫が、ホースで火災を鎮火する。
                                       
F.O
.
火災現場(外)   
   1
階正面入り口から消防夫が飛び込んでいく。
   8.JPG
   2階の窓から救いを求めている女性の姿。   
   外の消防夫たちがはしごを掛けるが、女性の姿は室内に消える。
  10.JPG
   と、程なく窓辺に女性を担いだ先ほどの消防夫があらわれ、
   はしごを降りてくる。  
   地上に降ろされた女性は、「まだ二階に娘が居るのです」と訴える。
   先ほどの消防夫は再びはしごに取り付くと、少女を胸に抱えて降りて
   くる。
  12.JPG
  シーケンスdd.jpg  
   救出された少女は、駆け寄った女性(母)の胸にしっかりと抱かれる。F.O

●ポーターのねらいは成功したか
  この映画は冒頭で述べたように、異なる場所で起きている状況を同時に見せるカット・バック手法の先駆として語られる有名な作品です。

   ところが、上記の採録を呼んだだけでお分かりのように、火災現場に掛けつける消防馬車の緊迫感はともかく、火災現場の女性の救出劇がそれほどスリリングに描かれているとは思えません。

  それは上記の8シーンと9シーンに見られるように、一番の見せ場であるクライマックスの救出シーンが、例の1シーン1カットで撮られてしまっているからです。
 このシーンに、前回紹介したジェームズ・ウィリアムスンのクロース・アップがインサートされていたらどんなに効果的だったでしょうか。この作品で折角火災報知機のクロース・アップを使いながら、とても残念です。

 また、女性が救助を求める様子や親子救出の状況も未整理で、緊迫感を欠いています。
 こうした点から、折角映画的な「2箇所同時進行描写」に着目して知恵を絞りながら、必ずしも成功したとはいえなかったポーターの苦悩をうかがい知ることができるのです。
 

 
それでは、この映画のどこに、どのような問題があるのでしょうか。
                                        この項・つづく                                                                  


★F.O フェード・アウト
   画面が次第に暗くなる。暗転、溶暗。その反対がF.I  フェードイン、溶明。
★インサート
   一連の画面の流れの中に別のカットを挿入すること。
   普通は流れに関連するものをアップで入れたりするが、例えば記憶喪失者の記憶が次第によみがえるという場合、過去の映像をフラッシュで瞬間的に挿入したりする。


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053 「アメリカ消防夫の生活」をダメ出しする。 [黎明期の映画]

053 映画には、文章とちがう言葉が必要だ。


「あるアメリカ消防夫の生活」-2


映画で語るための手法の模索

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●突然ですが、上はウォルト・ディズニーの初期の短編「ミッキーの消防夫」1930 消防車の出動シーン
 下/スチームエンジンを搭載した蒸気車。1876
 「あるアメリカ消防夫の生活」を見ると、まだこの種の車が活躍していたらしい。
 消防車の場合は蒸気圧を利用して放水するものと思われる。
 


前回、YOU-Tube の動画によって、1902年末に製作されたエドウィン・ポーターのセミ・ドキュメンタリー映画「あるアメリカ消防夫の生活」をご覧いただき、作品についての感想を少し述べておきましたが、映画が独自の表現手法(映画言語)を見出していく初期の作品として、この映画について少し細かく述べてみようと思います。


くどいようですが、比較対照のためにYOU-Tubeの動画を再掲載しておきます。




●参考のために再度掲載します。


●小説と映画では、物語の紡ぎ方が違う


 この映画が作られたのは、物語性を帯びた映画がまだまだ未熟な段階であったことで、当然ながら作劇上の問題が目に付きます。まず、この作品に主人公は居るのかという、そんな初歩的なことから考えなければなりません。

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●ファースト・シーン
 円内に写った壁紙とベッドに注目


ドキュメンタリーで通すなら主人公は不要とも思われますが、最初の消防夫の画面には、上手(画面に向かって右手)の円の中にベッドルームの母と子が描かれます。こういった見せ方はドキュメンタリーには無い手法ですから、観客は円の中の場面と消防夫との関係に意味を見出そうとします。多くの観客はそれを消防夫の妻子と見るでしょう。そこからこの映画はドラマなのだと言う認識が生まれます。とすれば、この消防夫がこの映画の主人公かも知れないと、思うでしょう。


でもこの映画ではそれは最後まではっきりしませんし、最後になってさえはっきりしません。このようにこの映画は、最初の主人公と思われる人物がどこへ行ったか分からないまま、ドラマが進行していくのです。


●主人公をどう描き分けるか


 さて、物語が進み、消防隊が火災現場に駆けつけたあと、親子の救出シーンになると、煙に巻かれている部屋の壁紙の模様やベッドの形が、どうやら初めのカットで空想された部屋…つまり、その消防士の自宅のようなのです。

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●救助を求める女性も、救出する消防夫も、顔が映っていないために誰か不明。



とすれば、彼は自宅の火災、妻子の危機という悲劇に見舞われているということになります。その割には、最初に通報を受けた宿直室の彼は、立ち上がって何か一声叫んだあと数歩歩くだけでそれほど急を要している様子はありませんでした。


では彼が主人公だと思ったのはまちがいだったのでしょうか。それは、映画の画面のどこにも主人公の驚きや親子救助の活躍が描かれていないからなのですが、そんなはずはありません。


いや、実は描かれているのです。まず火災現場に急行する消防馬車に乗っているはずです。火災現場では人一倍消火活動に精を出し、親子の救出を果たしたのは彼かもしれません。いや、主人公が彼なら、二人を救出する役は当然彼の役回りです。

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●上/フル・ショット(全景)だけでは誰が活躍しているのか不明。
 下/女性と少女を救出する消防夫は背中しか写っていないから、誰かは不明。


その大事な彼の活躍がどこにも見当たらないのはなぜか。それは火災現場で活躍する同じ格好をした消防夫たちの中に埋没してしまっているために、観客は主人公を特定できないのです。それはこの映画の消防士のようにヘルメットをかぶっていたり、制服姿の場合は特に要注意で、それが不明確では映画で物語を紡ぐ上では致命的です。書物による物語なら特定の人物を中心に据えて描いていくわけですが、この作品はその方法をまだ見つけていないということが分かります。
 この映画は見終わったあとで、「火災現場で親子を救出したのは、どうやら夫の消防夫だったといいたいようだ。それでなければ物語のケリが付かないものね」と観客が自分で納得して帰るという結末です。


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●ラスト・シーン/娘の無事を喜ぶ女性の脇に立っている消防夫が誰かは不明。


●実験に臨んだポーターの苦悩


主人公が消防士で、たまたま自宅で火事が起き、駆けつけて家族を救う、というのはあまりにも出来すぎたご都合主義の三流ドラマです。この映画から別の物語を考えてみましたが、他に思い浮かびません。だとすれば彼は任務上当然のことをしたまでで、妻子が無事でよかったという喜びはあるにしても、観客を感動させるほどのドラマにはなりえません。


そのあたり、サイレントで台詞のない映画ですから分かりやすさを第一に考え、どこか知らない家の火災より妻子の災難という設定の方が観客が感情移入しやすいという計算だったのでしょう。こういう話なら、観客はコミックで読んだりヴォードビルで観たりして、似たような物語を知っているから、サイレントでも十分伝わったかもしれません。それにしても、ロング・ショット(全景・遠景)だけで撮られた救出シーンを見て、どれだけの観客が、危機に遭遇している親子を救ったのが夫だったということを理解できたでしょうか。


つまりこの映画は、物語や人物を描くという前に、とにかくスリリングなものを作ってみたいという作者の願望から生まれたものだと考えます。「スリリング」…これこそ映画の醍醐味となる部分ですが、この映画を企画したポーターはそこに気付いていたということこそが重要なのです。その実験をポーターはこの映画で試みたのだと思います。


そしてこの映画を作りながらポーターは、映画には小説のような文章表現がまったく当てはまらないことを知ったはずです。それは、映画には映画ならではの独自の語り口、表現法が必要なのだという認識への大きな転換になったと思います。


●ポーターがほんとうに表現したかったこと


ポーターがもし現在の編集技法を知っていたら、肝心の火災現場における救出シーン


はもっと緊迫感を帯びたものになったことでしょう。そのために欠かせない技法がクロース・アップやカットを細かく割る編集上のテクニックなのだということが、現在の私たちには分かります。

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●こういったクロース・アップがもっと活用されていたら・・・


例えば、消防馬車の出動場面に緊迫した主人公のアップを入れれば、妻子の救出に向かおうとしている彼の義務感を超えた決意のようなものが伝わると思います。


また、消火・救出活動を行っている状況が、彼のアップぐるみの細かいカット割りで編集されていたら、親子救出ではそれこそ拍手喝采。ラストは消防士ぐるみで3人が抱き合えば、涙ウルウルものだったでしょう。


●新しい映画技法が二つ


作品としての質はともかく、この映画には2つの新しい映像表現が使われています。ひとつは例の回想場面。ピクチャー・イン・ピクチャー(P in P)と呼ばれる手法ですが、これは別の場所で進行している出来事との同時進行として使われました。この手法はその後、空想画面の表現にも応用されるようになります。画面の中にもう一つの画面が現れると、観客は「これは彼が空想しているんだ」「彼女は今、昔を回想しているのね」というようにすぐに理解できるようになりました。これが映像で語ることば、つまり「映画言語」と呼ばれるものです。


もうひとつはフェードです。ポーターは「次の場面との間には時間の経過があるのですよ」という意味を持たせてフェード・アウト(溶暗、F.O)で処理しました。この映画ではほとんどのカットがご丁寧にフェード・アウトで処理されています。


この手法はまもなく、芝居の一幕と同じ意味合いで、フェード・イン(溶明、F.I)で始まりフェード・アウト(溶暗)で終わる一場面(シーン)を示す「映画言語」として定着していきます。


このように、人間関係の見せ方やドラマチックな盛り上げ方は現在の編集テクニックから見れば稚拙なところもある訳ですが、100年以上も昔、1920年代にプドフキンやエイゼンシュテインによるモンタージュ理論が唱えられる前に、これだけの認識と編集技術が生まれていたことに驚ろかされるのです。


●これは困った!
 
この記事を書き終わったあとで、重要なことに気付きました。
 最初の回想に描かれている部屋と、火災現場の部屋のベッドの配置や壁紙の柄が似ていたので、同じ部屋の出来事だと思っていたのですが、よくみると、回想の部屋には無い額が後半のシーンでは飾ってあり、サイドテーブルの上にあったスタントが無くなっています。また、カーテンの色もちがいます。すると別の部屋の状況と言うことになります。その場合には上記の私の話は成り立たなくなります。でも、女性がかけていた揺り椅子はあるのです。困りました。ポーターの想定は、愛する妻子の危機を決死の活躍で救助するヒーローの物語ではなかったのでしょうか。それとも、あるいはそこまで正確に考慮せずに、別の日にでも撮影したのでしょうか。(そうでありますように)
 これは間違い探しではありませんので、記事はこのままにしておこうと思います



★次回はエドウィン・ポーターがこの翌年に作ったおなじみの作品「大列車強盗」をご覧いただきます。




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054 映画らしくなってきた「大列車強盗」① [黎明期の映画]

054 娯楽映画からスタートしたアメリカ映画。

エドウィン・S・ポーター「大列車強盗」-1


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●正面から撃たれて無事だなんて、映画ってなんてスリリングなんだ!

1902年に「あるアメリカ消防夫の生活」を発表したエディスン社の映画製作部長エドウィン・スタントン・ポーターは、翌1903年に発表した「大列車強盗」でその人気を不動のものにしました。この映画は、映画史上初の西部劇として映画ファンに記憶されています。

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・S・ポーター

●劇的要素も、ダイナミックにスケール・アップ 

 アメリカ人なら誰もが大好きな西部劇。19世紀後半のサーカスやヴォードヴィルでは欠かせない演目でした。
 また10セントで買える「ダイム・ノヴェル」や「ウェスタン・ノヴェル(西部小説)」に登場する数々のキャラクター・・・凶悪犯ビリー・ザ・キッドと彼を捕えた保安官パット・ギャレットも、西部きってのガンファイター"ワイルド"ビル・ヒコックと男装の麗人カラミティ(災難)・ジェーンも、ワイアット・アープもジェシー・ジェームズも"バット"マスターソンも、「ワイルド・ウェスト・ショー」の"バッファロー"ビル・コディの活躍も、20世紀初頭のアメリカでは10年か20年前の、ついこの間のこと。まだまだ記憶に鮮やかな出来事でした。

ビリー・ザ・キッド.JPG パット・ギャレット.JPG IMGP8292.JPG
●左から ビリー・ザ・キッド、パット・ギャレット、カラミティ・ジェーン


 もっと言えば、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドで知られた最後の強盗団「ワイルド・バンチ」はまだ現役だったし、エディスン社の西部劇映画で1914年にデビューして一躍売れっ子スターとなる俳優ウィリアム・S・ハートは、保安官ワイアット・アープと友だちだったという時代なのです。(ちなみに、ビリー・ザ・キッドを追跡して射殺したパット・ギャレットが暗殺されたのは1908年でした)

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●後に、初の西部劇スターと呼ばれるウィリアム・S・ハート

いわば昨日のことのような西部劇の世界を、当時のニューメディアである映画で撮ってみようと考えたポーターは、前年の「あるアメリカ消防夫の生活」の経験を生かして、更にスリル満点の劇映画を作り上げました。

ただこの作品は、「あるアメリカ消防夫の生活」と比べて表現手法はそれほど進んではいません。どちらも室内はスタジオのセットで。他は野外ロケ。撮影の仕方も基本的に1シーン1カット撮影です。ただ、この映画の方が、野外ロケがスケールアップしていることで、より映画的な迫力を持つ作品になっています。

このフィルムも映画史上有名な作品ですから、YOU-Tube の動画を添付させていただきました。

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●これまで通りの約束を守って、相変わらず1シーン1カットで

 以下に14シーンを列記してみますが、長くなるのでファースト・シーンだけ詳細に採録してみましょう。

1.給水塔脇の通信室(全景)
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執務している当直の係員(通信士)。
ピストルを持った二人の悪漢が押し入り、通信士を縛り上げて出ていく。

最小限に表記するとこれだけですが、この1カットの中には以下の動きが含まれています。


・執務している当直の係員

・下手のドアが開き、二人の悪漢が入って来てホールド・アップ。

 拳銃を向けられたまま、係員、壁の紐を引く。(機関車入構OKのサインか)

 窓の外に機関車入構。係員は手続きの書類を作成。

 「おかしな真似するんじゃねえぞ」と書類を確かめたあと、物陰に身を隠す悪漢二人。
・下手の窓から機関士の腕が出て、係員から書類を受け取って消える。

・強盗、拳銃で通信士を殴り倒すと、壁のロープを取って床に倒れた通信士を縛り上げ、猿ぐつわをかませて出て行く。

 これだけのアクションを1カットで見せているため、話の流れは分かっても、どんな人相の強盗なのか、係員が書いた書類はどういうものなのか、といったディテールは分かりません。  
 この映画の14カットすべてに言えることですが、1カットと言っても実は1シーン(場面)であり、その内容はこのように豊富なのです。現在の編集なら、上記の・印のようにカットが分けられることでしょう。

以下、シーン順に概略を列記します。

2.給水塔・脇(全景)
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機関車が止まり、給水塔の陰に隠れていた一味4人、機関車に乗り込む。



3.郵便車両(全景)
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悪漢二人、係員を射殺し、現金袋を担いで去る。

4.走る機関車の後部
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悪漢二人、助手と格闘。助手は敵わず地上に放られる。(止め写し)

やがて列車は止まり、強盗にせかされて機関士が機関車を降りる。

5.線路
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機関車から降りた機関士、客車との間の連結器を外して機関車へ戻る。

悪漢二人続いて乗り込み、機関車だけ動き出す。

6.停車している列車の脇(全景)
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列車脇に並べられた乗客から次々と金品を奪う悪漢たち。(このカットが長い)

乗客の一人が逃亡を図り、悪漢に撃たれて線路上に倒れ伏す。

7.線路
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離れて停まっている機関車に収奪物の袋を担いだ悪漢の仲間が追いつき、乗り込むと、走り出す機関車。

8.線路(かなり進んだ場所という設定)
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機関車が停まり、現金袋をしょった悪漢一味、下手の沢へ駆け下りる。(カメラ左にパン)


9.小川のほとり(全景)
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手前に小川。悪漢一味、正面から降りてくると、小川伝いに下手に移動。

つながれている馬に飛び乗り、逃走。

10. 給水所脇の通信室(全景)
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気が付いた通信士。口を使って事件を知らせる信号を打つが、再び倒れる。
下手ドアより少女登場。通信士のロープを解き、水を掛けると
気が付いて起き上がる通信士。

11.保安官の溜まり場(ホール全景)
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ダンスに興じる保安官たち。
(観客サービスのためかずいぶん長い。ここでウェスタンを1曲聞かせたか?)

そこに急を知らせるホールの通信士
ダンスをやめて出動する保安官たち。

12.林の中の道(全景)
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銃撃しながら追撃する馬上の保安官たち。
途中、悪漢のしんがりに追いつき、倒しながら更に前進。

13.別の林の中(全景)
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現金袋を開けて分け前の算段をしている悪漢たちの向こうに姿を現す保安官たち。

猛烈な銃撃戦始まる。次々と倒れる悪漢たち。

現金を回収する保安官たち。

14.悪漢の首領?(上半身)…おまけのサービスカット
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なんと、真正面から観客に向けて銃弾を発射する。


 最後の
カットはストーリーとは関係の無いもので、フィルムを配給するカタログには、映画館で上映の際、「映画の頭につけても終わりにつけてもどうぞご自由に」とあったそうです。
 初めてこのカットを見た観客はびっくり仰天。ところが実際には無害であることが分かると、ピストルで撃たれるスリルを味わいたくて、リピーターとして何度も映画館へ押しかけたということです。
 このあたり、どんな危険なことでも安全が保障されて疑似体験できる映画の特性を良く物語っているエピソードだと思いませんか。

 ただ、私には、このカットはそれだけではないものが感じられました。私たちは日頃映画を観る時は安全無害を前提として、どんな危険な状況が起きても椅子に座って楽しんでいます。それは「観客」という立場にあるからです。「観客」とは「客体」であり、「主体」ではありません。
 だから安全なのですが、ところがこの画面の悪漢は、こともあろうにスクリーンの向こうからその「客体」に向かって発砲したのです。ポーターはおそらく茶目っ気を出して思いつきでやったことだと思うのですが、それがどういう意味を持つことなのか。それについてお話しするのは、このブログの最終回あたりになると思います。

YOU-Tube の動画をご覧になった方は、ダンスを踊る婦人の黄色いスカートや、金庫の爆破と銃撃戦の炎が赤く着色されたパート・カラーであったことが楽しかったのではないでしょうか。
 手作業による着色は手がかかるため特別の場所での上映に限られ、他のプリントはモノクロのまま上映されたようです。

なお、この音楽はあとで付けたものですが、当時欧米ではピアノかオルガンを主体に、バイオリン、ドラム、場合によってはタンバリンを添えるなどの即興演奏付きで上映されたものと思われます。
 また、下図のように効果音(Sound Efects / 略してSE)を付けて上映することもありました。

Sound Efect.png
 

★次回は「大列車強盗」の映画表現上の進化について見てみたいと思います。












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055 「大列車強盗」をダメ出しする。 [黎明期の映画]

055 映画は映画館で、という時代の到来


   「大列車強盗」-2

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●時代背景 上/自動車時代到来「第7回パリ自動車ショー」1904.12
      
下/日露戦争 日本に向かうロシアのバルチック艦隊 1905.5


この記事は前回からの続きで、前回掲載の「採録シーン」の写真と関連します。その箇所には、同じ「シーン番号」を付けてありますので、対比してご覧ください。
  


●せっかくクロース・アップを撮っていながら… 


 1902年に「あるアメリカ消防夫の生活」を撮ったエディスン社のエドウィン・ポーター。彼はその際、「別の場所で同時に起きていることを、一つしかない画面でどう伝えればいいか」という表現上のテーマに迫ってみました。けれどもそれは成功したとはいえませんでした。

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●エドウィン・S・ポーター



1903年のこの「大列車強盗」は、ポーターの人気を見込んだエディスン社の商業的観点から企画されたものかもしれませんが、強盗と保安官たちの追いつ追われつの状況がクライマックスですから、ポーターにとっては「別の場所との同時進行」への再挑戦となりました。


 ところで、この映画の場合も主人公らしき人物は登場しません。悪漢のボスとチーフ保安官くらいはクロース・アップで対比したいところですが、ポーターはまだその使い方に気付いていないようです。

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 前回YOU-Tubeでこの映画をご覧になった方は、ラストが悪漢のクロース・アップで終わったことをご記憶と思います。ただ、それは映画のストーリーとは関係なく、あくまでも観客だましのサービスカットでしかありませんでした。せっかくあのようなクロース・アップ(正確にはバスト・ショット/胸から上の画面サイズ)を撮っておきながら、もう一歩踏み込めなかったものかと惜しまれます。



●ここでもいくつかのトライアルが


 クロース・アップの使い方はともかく、この映画では次のテクニックが試みられています。ポーターが開発したというものではありませんが、これらの技術が映画の表現を広げたことは確かです。


◎マット合成     シーン①③


 画面の一部に黒布や黒紙を張って未露光部分をつくり、あとでその部分に別の風景などを焼き込みます。ジョルジュ・メリエスの特撮ではふんだんに使われました。


この映画の①では通信室の窓越しに機関車が入構するところ。③では郵便車の外を走り去る風景が焼きこまれています。

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①右の窓の外、列車の入構は合成     ③右の外の景色は合成
  


◎止め写し      シーン④


 機関車の上での悪漢と機関助手との格闘。機関助手を倒したところでカメラが止められ、助手が人形とすげ替えられて、機関車から放り投げられます。電柱の高さと森の形が変わるのでそれと分かります。

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④左/人形にすげ替える直前のコマ  右/人形にすげ替えた直後のコマ
 コマは連続しているが、右の電柱と左の森が異なっている



◎アクションつなぎ(カッティング・イン・アクション) シーン④~⑤


 これは前のカットの動作を引き継いで次のカットを始めるという、かなり高度な編集テクニックです。この映画では大雑把ながらそれが使われていることは驚きです。


 ④の終わりで機関手が機関車から下りはじめ、⑤のはじめで、まず悪漢が降りたあと機関手が降りてくる、というところです。

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④の最後のコマ           ⑤の最初から少し進んだところのコマ


◎パノラミング(パン) シーン⑧⑨


 この映画ではぎごちないながらも、機関車から降りた悪漢たちが沢を降りていくところと、川沿いに下手に移動するところで、彼らの動きに合わせてカメラが追うフォーロー・パンが行われています。ぎごちないのは、当時の三脚は固定画面(フィックス・ショット)が前提で、パンをするように設計されていないからだと分かります。

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⑧カメラ、左へパン           ⑨カメラ、左へパン
  



●この映画でフェードは使われたか


次にこの映画は、前作「アメリカ消防夫」よりもテンポアップしていることにお気付きのことと思います。それは前作ではほぼカットの変わり目ごとに使われていたフェード・アウトF.O/溶暗)がまったく行われていない。つまり「カットつなぎ」で進行しているからだと分かります。


ところが画面の変わり目を詳細に検証すると必ずしもそうではなさそうなのです。最初のシーン①で悪漢二人が通信員を縛って逃げるところ、それからダンスパーティの場面⑪の最後が少し暗くなります。つまりこの作品も「アメリカ消防夫」同様、そこでフェード・アウトが行われていた形跡があると見ました。

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●この二つのカットの最後がF.Oらしい


これは、あとで誰かがフェード・アウト部分をカットしてテンポアップを図ったものではないでしょうか。あとで気づいたポーター自身がそうしたか、後世になって誰かが手を加えたものか分かりませんが、映画的にはいちいちフェードを使わないで、カットを畳み込むようにつないでいく「カットつなぎ」の方が、どれほど緊迫感を盛り上げられるかという好例だと思います。



●再び、同時進行描写は成功したか


ところでこの作品でも、ポーターが目指した同時進行描写は成功したとは言えません。


それよりも彼が重視したのは、ラストのおどかしクロース・アップに見られるように、アメリカ的商業主義を優先させた観客サービスだったような気がします。


YOU-Tubeの動画を見ると、列車脇に並ばせた乗客から金品を奪う強盗一味⑥と、保安官たちのダンスシーン⑪がいたずらに長いと感じます。

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●上の2つのシーンは、全体の中で不釣合いに長い


当時この2つのシーンでは、前後の緊張感を和らげるために、ピアノ、ヴァイオリン、ハーモニカ、タンバリンなどによる観客なじみの派手なウェスタン音楽が生演奏されたのではないでしょうか。特にダンスシーンでは、観客が画面に合わせて手拍子することまで計算して、あの長い時間が配分されていたのではないでしょうか。


 そうでなければ、通信係が身を挺してとっくに緊急電報を打っているのに、それが届くのは延々と続いたダンスパーティの後半、ということはありえません。


同時進行描写を表現するには、まずダンス場面⑪の前半を見せておいて、次に口で緊急電信を打つ通信係⑩を挿入。そのあとにダンス場面⑪後半の、電報が届いたことを知らせる通信係、とつなげばこと足りる訳で、あれだけの長さのダンスを見せる必要はないわけです。こういうサービス精神が、いかにもアメリカ的だと思いませんか。


同時進行描写はのちにカット・バックと呼ばれる手法ですが、映画の後半、逃げる悪漢一味と追う保安官のカットを数回交互につなぐことで、もっと緊迫感を盛り上げることができたのでした。

11-2.JPG●知らずに踊っているところへ
10.JPG●必死の打電
11-3.JPG●さあ、ダンスはおしまい。出動だ!


●「映画は映画館で」という時代がやってきた


エドウィン・ポーターが作り上げた映画史上初の西部劇と称される「大列車強盗」は、ニューヨークの蝋人形館を皮切りに全米に公開されると、たちまち人気を呼び、瞬く間にアメリカ中に話題が広がりました。


この年あたりから、それまで興行師がフィルムそのものを購入して興行していたかたちから、レンタルという形がとられるようになりました。
 今までよりも安く映画を上映できるようになったこと。「大列車強盗」のような面白い作品の登場。その相乗効果で、それまで場末の空地利用の活動写真小屋やペニー・アーケードと呼ばれる安上りの遊び場のアトラクション。せいぜいミュージック・ホールやボードヴィル劇場の添え物といった存在だった映画は、それだけで1本立ち興行ができるほどの動員力をもつようになりました。フランスのリュミエール兄弟がいち早く考え始めていた映画の専門館・・・映画館が成立する条件がようやく整ったのです。

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              ●ペンシルヴェ二ア州に誕生した初めての映画館「ニッケル・オデオン」 1905

 1905
年の末になると、ペンシルヴェニア州に世界初の映画館が誕生します。この映画館は5セントコイン1個で楽しめることを売り物にして「ニッケル・オデオン」(オデオンとはギリシャ語で殿堂の意)の名でアピールを図りました。
 ネーミングは堂々たるものですが、観客の多くは場末の住民や海外移民などの低所得者階層でした。とはいえ、彼らはワンコインで見られる身近な映画館の座席を満たし、その興隆を加速させていく原動力となります。そして「ニッケル・オデオン」の名称は、アメリカの映画館の代名詞として定着します。

                                                つづく


★参考までに
 映画を撮影することを「シュート」と言います。1回のシュートで撮影されたフィルムを「ショット」といい、「ショット」から編集で使用する部分を切り出したものが「カット」です。











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056 ヒーローわんちゃん、ローヴァー! [黎明期の映画]

056 撮影所ラッシュで映画産業本格化

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●「ローヴァーに救われて」1905 ご主人に急を知らせるローヴァー 動画あり


  20世紀の声を聞くと同時に、欧米中心だった映画は一気に世界に広まっていきます。頭角を現してきたのはデンマーク、イタリア、ロシア、ドイツ、インドなどです。フランス、アメリカ、イギリスなど映画先進国では撮影所ラッシュが続きます。撮影や映写機材が進化して長尺のフィルムが使えるようになると、編集技術も発達し、映画の内容も俄然面白くなってきました。観客人口も増え映画館も建ち始めました。こうした循環の変化とニュー・メディアとしての魅力づくりとの相乗効果により、映画がいよいよ新しい産業として動き始めたのです。


●フランス……パテ・フレール社、独走態勢で世界初の映画帝国を確立

 エディスン社の蓄音機販売から巧妙な営業力で成り上がったシャルル・パテは、映画が単なる場末の見世物ではなく、事業として本格的な投資に値するものであることを見抜くと、積極的に資金を投入しました。

1901年からのパテ・フレール(パテ兄弟)社は、ヴァンサンヌに建てた最新設備の撮影所を拠点に、撮影機と映写機の製造・販売、フィルムの製作・販売・レンタル、直系映画館チェーンでの興行という映画の総合商社ともいうべき事業を立ち上げました。

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●1906年 パテ社撮影所              ●シャルル・パテ  

1905年初めにおけるパテ・フレール社のフィルム製造量は1日12,000メートル。映画制作本数は、大先輩のリュミエール社が年間4~500本、最盛期にあるジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社が350本と

いう数字に比べて500本にもおよび、完全に両巨頭をしのぐまでに成長したのです。
 本数を聞くとびっくりしますが、制作されるフィルムは相変わらず短いもので、喜劇、トリック映画、キリスト受難劇、恋愛劇、ニュース再現フィルムなどでした。また喜劇や社会劇のジャンルではフェルディナン・ゼッカという人物が活躍していました。

 フェルディナン・ゼッカは元は芸人で、トーマス・エディスン発明の蝋管蓄音機のナレーターとして詩の朗読などをやっていたのですが、映画が盛んになってくると役者に転身。1900年、パテ・フレール社に雇われると役者の演出にも力を発揮して、翌年には早くも監督に昇進。1902年にジョルジュ・メリエス「月世界旅行」が発表され人気を呼ぶと、たちまちパテ版の「月世界旅行」を作り上げてしまいます。以後はメリエスの向こうを張って、数々のトリック映画やコミカルな喜劇を作り出します。  


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●1907年 パテ社現像工場 木枠にフィルムを巻きつけ、現像液槽に浸して現像 


 その後もパテ・フレール社の独走態勢は留まることを知らず、1906年にはアメリカのイーストマン・コダック社に対抗してフィルムの生産工場を自社に建設。 1907年には関連会社10社を傘下に収めたパテ・トラストともいうべき独占形態を作り上げました。今日の映画製作会社の原型のようなものです。
 また、1908年からは史上初の週刊ニュース映画の製作を始め、フェルディナン・ゼッカを総責任者として運営に当たらせ、ニュース映画専門館「パテ・ジュルナル」をオープンします。

一方、パテ・フレール社のライバルであるゴーモン社も急速成長を遂げていました。

1905年に建てた撮影スタジオはパテ・フレール社の撮影所をしのぐ規模でした。そこでは数年前エディスンが発明したばかりの蓄電池が、早速人工照明用に採用されていました。またここでは、4輪運搬車に搭載した50アンペアのアーク灯と水銀灯を3040基ほど備えていましたが、雨の日は光量不足で撮影所内での撮影は休みになりました。なお、ゴーモン社のこのスタジオは1915年まで世界最大規模でした。

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●1906年 ゴーモン社撮影所

 この撮影所の製作責任者に、レオン・ゴーモンはこれまで記録からドラマまで幅広い分野で実績を持つ女流監督アリス・ギイを抜擢しました。アリス・ギイは当初、ゴーモン社が開発した撮影機や映画音声装置「クロノフォン」などを販売するためのPR映画やバレエ映画、コメディなどを作っていましたが、1900年以降は劇映画に転じ、次第に長編を撮るようになりました。

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●レオン・ゴーモン        ●世界初の女流監督 アリス・ギイ
 
 1905年には「ラ・エスメラルダ」を。また1906年には完成したばかりのスタジオに豪壮なセットを組み、上映時間33分、300人ものエキストラを動員した「キリストの生涯」といった長編映画を意欲的に製作しています。そのスケールは後にご覧いただくことになるイタリア映画の歴史劇大作に勝るとも劣らない迫力を備えていると思います。なお、アリス・ギイのゴーモン社での活躍は1909年までで、その後は夫ともにアメリカに渡り、1910年からはあとで述べることになるハリウッド草創期の銀幕を飾る映画づくりを開始します。

●イギリス……編集の意識も飛躍的に進んだ

 ここで、1905年、イギリスで発表されたセシル・ヘプウォース作、「ローヴァーに救われて」をご覧頂きましょう。後の有名なテレビ映画「名犬リンティンティン」の原型とも言われる、名犬を主人公にした作品。ワンちゃん大好きというみなさんは絶対に見逃せない作品ですよ。

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 愛する幼子が誘拐され、悲嘆にくれている父親。そこへ愛犬ローヴァーが何かを伝えに来ます。彼の娘を見つけたことを教えようとしているのでは。ローヴァーに導かれて家を出る父親。ボートで川を渡り、とある街区へ。ローヴァーの案内で誘拐犯の家を突き止めると、屋根裏部屋には娘を誘拐した酔いどれ老女が。相手が相手ですからアクションの見せ場はありませんが、父親は無事に娘を取り戻して一家全員喜びにくれるのでありました。
 


 ヘプウォース本人が物語を考え、監督と主役を演じ、奥さんと幼い娘、そして飼い犬のローヴァーが出演しています。家族総出で作った映画が映画史に残るのですから、いい時代でした。それにしても、悪役の酔いどれ女は誰が演じたのでしょう。
 短い作品ながらこの映画が映画史で語られるのは、それまでに見られなかった飛躍的な映画表現がなされているからです。それはカットが変わってもローヴァーの動きが上手につながるように編集された滑らかな方向性の表現と、緊迫感を盛り上げるみごとなカットつなぎです。

この映画では場面ごとに必要な時間だけがカメラで切り取られ、自宅室内、街頭、川辺、老女の室内、自宅、と次から次へと場面が変わっていくことでスリルを盛り上げています。不要な時間が省略されているために映像の展開に弾みがついているのです。この映画の3年前に世界的に話題を呼んだエドウィン・ポーターの「大列車強盗」ですら乗り越えられなかった、「1場面1カット」の枷を見事に超越して、カットの長短の変化が画面のリズムを生む、ということがこの作品では実証されています。

 
大事なのはカットの長さ。それを計算したカットつなぎが映画で語ることの基本。この映画言語のもっともベーシックな技法が認識されたことにより、映画はどんどん映画ならではの言葉を話すようになり、映画ならではの表現力を備えていくようになるのです。


●アメリカ……エディスン社がリード

世界  さて、もう一方の雄、アメリカでも撮影所ラッシュという有様が続きます。
 
19021903年当時、映画館と呼ばれる形式の建物は全米でわずか40館程度でしたが、あの「大列車強盗」の大成功により、映画人口は加速度的に増加することが予想されました。それまでのペニー・アーケードは一様に「ニッケル・オデオン」への移行の様相を示してきました。そのために「ニッケル・オデオン」へ客を呼べる作品作りを先行させなければなりません。

1906年、エディスン社はブロンクスに10万ドルという巨費を掛けて撮影所を建設。「ニッケル・オデオン」向けの1巻ものの小品ですが、月67本の製作体制を組みました。

7  edison 7.jpg●トーマス・エディスン  
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●1906年 エジソン社撮影所
  
 この年、ウィリアム・ディクスンが所属しているバイオグラフ社も撮影所を建設。同社ではまだ「ニッケル・オデオン」よりミュートスコープ用フィルムの売り上げが大きかったのですが、すぐに逆転することが読めたので、撮影所の必要性を感じたのでした。


ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン

ヴァイタグラフ社1906年に撮影所を開設しました。製作にはエディスン社のエドウィン・ポーターの下で働いていた、スチュアート・ブラックトン、アルバート・スミスといった優秀な人材が流れてきました。彼らは提携先の「ニッケル・オデオン」が週4本上映を組めるよう、月6作の制作を実現していました。作品の内容は喜劇やトリック、短編ドラマなどの娯楽作品ですが、3社の中で最もグレードが高いと評判でした。

 ヴァイタグラフ社はこの年にはヨーロッパ支社を開設するほど業績も快調で、1907年頃には自然発生的に撮影所の周りに機械関係、建具関係、ペンキ屋、園芸屋、印刷屋などが立ち並び、撮影所城下町を形成するようになりました。

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・ポーター(エディスン社)


●タマゴが先か、ニワトリが先か

 映画が誕生したばかりの頃、発明者のリュミエール兄弟もエディスンでさえも未来のかたちを予測できなかった。その映画を産業にまで高めたものは何だったのでしょう。そのために最初に動いたのは業界か。それとも大衆からの要請で業界が動き始めたのか。「卵が先か、ニワトリが先か」。でもそれはどちらでもいい。社会的な支持さえ得られれば、その動きは相乗効果を生み、どちらもいい方向へ転がり始めていく。映画の発展は物事がうまく回転する場合の好例ではないでしょうか。 

つづく



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057 3本立てだよ、いらはい、いらはい! [黎明期の映画]

057 ヨーロピアン・コメディは花ざかり
    分かってきた画面サイズの使い分け

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●生き物のようなカボチャの動きががおかしい「かぼちゃ競走」エミール・コール 1907


さあて、今回の映画紹介は、堂々の3本立てだよ。


なんとなんと、フランスの追っかけ喜劇とデンマークの芸術作品。


そんじょそこらの映画館で見られるものとは訳が違う。


全部観ても10分そこそこ。決して損はさせないよ。



●「空間」と「時間」という二つの呪縛を開放した第二世代


映画は生まれて早々、それを手にする人に「空間」と「時間」という二つの呪文を掛けました。最初の映画カメラマンはカメラを三脚に固定したまま、同じ場面(空間)を1巻のフィルムがなくなるまでほぼ1分間(時間)、連続してカメラのクランクを回し続けるものと思い込んでいました。19世紀末に映画を発明したリュミエール兄弟やたくさんのトリックを開発したジョルジュ・メリエスでさえ、その呪文のとりこでした。こうした人々を映画第一世代とすれば、20世紀早々、その呪文を解いた人たちを第二世代ということができるでしょう。本当の映画は、実はそこから始まるのです。



●ディレクター・システムが定着 
 世界の映画市場に君臨するまでに成長したパテ・フレール社は、役者から監督に昇進したアイディアマンのフェルディナン・ゼッカを中心に、アンドレ・デード、マックス・ランデールといった喜劇役者を起用。

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●苦み走ったいい男 マックス・ランデール(マックス・ランデ)


一方、レオン・ゴーモンの元、僅差でパテ社を追うゴーモン社の中心人物は、ヴィクトラン・ジャッセ(1907年にエクレール社に移籍)、ルイ・フィヤード、ジャック・フェデール、エミール・コールといった監督や作家たち。


こうした人たちによってライバル2社が競い合い、面白くて楽しいヨーロピアン・コメディとも言うべき映画がたくさん生まれました。


つまりそれまでの映画は、カメラマン、ライトマンは別として、ジョルジュ・メリエスのように一人の人間が企画し、ストーリーを考え、セットやコスチュームをデザインし、自分で主役を演じていたものでしたが、それが撮影スタジオの建設と平行して、監督、撮影、セット、照明、衣装、というように専門化、分業化して来た訳です。


特に売れる映画を作るために起用されたのは、パントマイムの役者や喜劇役者、それにサーカスからはアクロバットのうまい役者が抜擢されました。ある意味で命を張ったこれらのコメディには、演技力の他に人並みはずれた身軽さが要求されたからです。



●パテ社とゴーモン社のコメディ合戦


それではここで、1906年、パテ・フレール社製作の「ピアノ運び」と、1907年、ゴーモン社、エミール・コール監督の「カボチャ競争」という、ショートフィルムをご覧頂きます。


「ピアノ運び」は、二人の男がなぜビアノを運ぶことになったのか、とか、どこまで運ぶのか、などということは一切関係なく、ピアノという重い道具を苦労して運ぶそのプロセスだけを面白おかしく描いています。

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 ●「ピアノ運び」1906


「カボチャ競争」も同様に、なぜカボチャが転がるのかは問題ではなく、転がるカボチャに右往左往する街の人たちのアクションを滑稽に描いています。ここに、いわゆる音声を未だ持たないサイレント映画の特徴を見ることができます。つまり、説明的なものを極力排して、アクションだけで分かるように構成されているのです。いわゆる「理屈抜きに面白い」。それが無声映画の醍醐味といえるのではないでしょうか。

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●「カボチャ競争」1907


●シリトリのようにつなげば、一連の動きに見える
 それではこの2作を少し細かく見てみましょう。それぞれのカットは俳優の演技を元に必要な情景(空間)が必要な長さ(時間)だけ切り取られ、前のカットの最後の動きは、見事にあとのカットの最初に受け継がれています。

 つまりちょうどシリトリ遊びのようにカットがつながれていくことによって、観客はカットが変わっても俳優の動きを継続したものとして受容します。これらの作品は現在の目で見ても、話の流れやアクションの流れにまったく違和感を覚えないほど巧妙です。実に見事なアクションつなぎです。ドラマづくりに欠かせないこの高度な編集テクニックが、モンタージュ理論など生まれていないこの時期にすでに実際に行われていたのは驚きです。

 考えてみれば、彼らは理論を元に映画を作っていたのではないのです。どうすれば分かりやすくて面白い映画が作れるか。そのための工夫や発見や実験が撮影や編集テクニックとして蓄積されて行った……つまりモンタージュ理論は、のちの識者が後付で整理したものに他ならないのです。これらの作品から、映画づくりに情熱を燃やす当時の人たちの意気込みが伝わってきませんか。



●初期デンマーク映画は、おおまじめ


フランスとはまったく異なる路線で台頭してきたのはデンマークです。北欧ではバイキングの血がなせる業か、映画はもともと覗き見から発展したこともあって、この国では映画の最初はきわどい娯楽だったようです。けれどもその中から、ここに掲げるオルガー・マドセンのようなまじめな作家が登場します。彼が1906年に製作した「スカイシップ」。これは宇宙船がとある惑星を訪れるという100年以上も前の映画です。

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(以下、活弁口調で)


宇宙の果てに生命はありやなしや……古今の謎を解かんがために勇躍地球を出発した最新鋭宇宙船艦「エクセシア」号。果てしなき宇宙空間でのあらゆる艱難をかいくぐり、首尾よくとある惑星に着陸してみますると、な、な、なんと、そこには空気もあり重力もあるではないか。これではまるで地球そのもの。こりゃーありがたい。

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  更なる感動はこれまた人間そっくりな異星人大挙してのお出迎え。襲撃を覚悟の一行には意外や意外の状況でありましたが、王が自ら案内してくれた大円鏡の前で合点がいく。これは過去を映し出すタイムマシンであります。そしてそこに映し出されたものは明らかに、太古から続くおぞましい人類の戦争の歴史でありました。

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  「われらは平和を求めて大昔にこの惑星に移住してきた旧人類である。人類みな兄弟。これからは旧人類と新人類、手を携えて平和を築こうではないか」
 
王の一言を皮切りに始まる歓迎レセプション&大パーティ。新しい恋も芽生えたような芽生えないような……。まずはめでたしめでたし。1巻の終わりでございます。

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 ●「スカイシップ」1906


●画面サイズの認識が生まれた
 
ここに切り出した「スカイシップ」のスチル写真。そう言えばありましたね、昔、映画館の外に名場面の写真展示が。それを見て面白そうだということでチケットを買ったものですが。どうでしょう、この画面サイズのバリエーション。


画面サイズというのはカメラの位置から得られる対象の大きさとそれを包む「空間」の広さです。同じ場所に三脚で固定したままのカメラではひとつの画面サイズしか得られませんが、カメラを近づけたり遠ざけたりすることによってロング(遠景)にもなればアップ(近景)もにもなる。カメラが軽便になった20世紀のはじめにそれが認識されたのですが、それが上手に撮り分けられていると思いませんか。


  そしてこの映画でも1カットの長さは長短とりどりです。これらの作品にはもう、同一サイズ1分1カットで見せていた初期の名残りはありません。映画はもっと自由な「空間」と「時間」を持つようになったのです。


★次回はアニメーションの誕生について



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058 もうひとつのトリック、アニメーション。 [黎明期の映画]

058 アニメーション映画の誕生


    スチュアート・ブラックトンとエミール・コール

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●エミール・コールのアニメシリーズ「ファントーシュ」1908 
 


 1907年3月。パテ・フレール社の健闘で映画帝国を築いたフランスの業界に、一大センセーションが巻き起こりました。


ご存知の通りフランス映画は、ジョルジュ・メリエスのトリックから始まりました。1909年までその分野ではまだ世界中で彼の右に出る者はいませんでした。また、コメディにおいても、パテ・フレール社 、ゴーモン社に代表されるフランスの短編は他国の追随を許しませんでした。
 そこにもたらされた1本のフィルム。それはフランス映画がもっとも得意とするトリックを使ったコメディでしたが、彼らが大騒ぎするほど空前絶後の映画だったのです。その1本のフィルムとは……。



●品物がどうして一人で動くのか


 その作品は、西部劇や警官の追いかけなど、アクションを得意としていたアメリカのヴァイタグラフ社からもたらされたものでした。「これがヴァイタグラフ社の作品?」とフランス映画界が首をかしげるほど、それ自体が意外性を持つものでした。同時に、フランスのお家芸として育っているトリックとコメディの領域が侵されるのではないかという恐れを抱かせました。

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●ヴァイタグラフ社商標


「お化けホテル」(幽霊ホテル)と題されたその映画は143メートル。8分弱程度の長さで、あるホテルに泊まった宿泊客の悪夢の一夜を描きます。一言で言うとホテルが生きているのです。アメリカには昔から、家が人を襲うという物語があるのですが、この映画はホテルの一室にあるものが、あたかも意志を持つもののように動き回るのです。


テーブルの上にはひとりでに食器が配置され、ナイフとスプーンが用意されます。すると今度は瞬く間にディッシュにソーセージとパンが並びます。かと思うとワインや紅茶ポットまで。ナイフはひとりでにソーセージを切り、紅茶やミルクもひとりでにポットに注がれます。それは序の口。びっくりした宿泊客は食事も取らずに寝室に入ると、ベッドが振動し始め、仕舞には部屋全体がぐるぐる回りだしてしまうのです。生きた心地をなくしてベッドにしがみつく宿泊客を見せて、映画は終わります。


(この情景は記憶ですから適当ですが、こんなニュアンスの映画です。録画テープがあったのですが見当たらず、ご覧いただけなくて残念です。転居の際処分したベータマックステープに録画したものと思われます)

 家具が動き回り、ベッドが向きを変えるといった趣向は、演劇の舞台で針金やロープを使って行われていましたが、彼らがびっくりしたのはナイフやフォークといった小道具がどうしてひとでに動き回るのかということでした。シャルル・パテとライバルのレオン・ゴーモンはそれぞれ、自社の演出家やカメラマンにその秘密を探るようにと緊急指令を発しました。それはそうでしょう。観客がこれまでに見たことも無いまったく新しいジャンルの映画が生まれ、ヨーロッパだけで150もの映画館で上映されたのですから。

  ところで「お化けホテル」の動画、このブログをアップするギリギリの時点で、アメリカのサイトで見つかりました。 ところがテーブルのシーンだけ1分ちょっと。上記の私の記憶とは大きく異なりますが、このシーンのあとに人物やベッドも出てくるのかもしれません。それはともかく、ま、とりあえず、ご覧ください。




●「お化けホテル(幽霊ホテル)」1907


   どうしても物足りないので、なおも探して見つけました。下の動画が私が記憶していた作品のようです。製作年度が1908年。後付けのクレジットでは製作者としてパテの名がありますから「お化けホテル」とは違います。タイトルも「お化けハウス」です。完全に私の勘違いです。私が記憶していたものは「お化けホテル」を元にして、お話を発展させたものでしょう。
 それにしても二番目のカットの左上の雲の中を、ほうきに乗った魔女が昇って行くなど、二番手だけあって細かく演出されていて、とても良くできています。抱腹絶倒、とにかくおかしい。ご覧ください。決して損はさせません。







●かたちが変わると真理を見失うのは映画の場合も同じ


 彼らは、なぜ人の手によらないで器物がひとりでに動き回るのか、それを見極めるために手に入れた「お化けホテル」のフィルムを何回も何回も上映し、時には1コマずつ送ってルーぺで確かめながら、隠された針金を見つけ出そうとしました。けれどもそれは無駄でした。


 現在の私たちは、この映画が一種のアニメーションであることを知っています。そして、絵によるアニメーションは、1888年にフランスのエミール・レイノウが「テアトル・オプティーク(光の劇場)」と称する出し物で最初に演じられたことは以前のブログに書きました。
 パテ・フレール社やゴーモン社の製作者たちはもちろんレイノウの「テアトル・オプティーク」を知っているのですが、この「お化けホテル」が、レイノウの絵を動かす原理を実物に応用して作られたものだということには気づかなかったのです。


●アニメ創始者エミール・レイノウによる「テアトル・オプティーク」の公演


●写真の時代を背景に、絵から写真へと発想を転換


 「お化けホテル」が製作されたのはパリ公開の1年前、1906年でした。みんなの度肝を抜いたこの映画の作者は、ジェームス・スチュアート・ブラックトン。彼は素描を得意とし、風刺画家として新聞で活躍していたのですが、ヴァイタグラフ社キネトスコープのためのフィルムを撮るようになりました。
 彼はおそらくレイノウが絵でやったことを写真でやってみようと思ったのでしょう。それは、写真がようやく一般的なものとなったことによって、初めて発想できたことでした。

スチュアート・ブラックトン.png●ジェームス・スチュアート・ブラックトン


スチュアート・ブラックトン「たばこの妖精」1909 遠近法を大胆に使った実写トリック

 彼はこの作品の前に、1枚ずつ撮影した写真を連続させて動かす「デッサン・アニメ」というものを作りました。これはいわばテスト作品で、「お化けホテル」はその延長線上の作品でした。

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●「愉快な百面相」1906 黒板に「書いては消し」して作り上げた1コマ撮りアニメーション


更に彼はこの年に「魔法の万年筆」という作品も発表しました。これは、1本の万年筆が勝手に立ち上がって動き出し、タバコをくわえた男の上半身を書き上げます。するとタバコからたなびいた煙がどんどん延びて行き、男性の対面に女性の姿を書き上げるというものでした。

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●スチュアート・ブラックトン「魔法の万年筆」1907
 本物の万年筆が一人で動いて人物を描いていく




●気が遠くなるような立体アニメ作法


 フランスの映画関係者のあせりは更に加熱しましたが、その秘密を探り出したのはゴーモン社の新人演出家エミール・コールでした。映画は1秒16コマの連続した写真によって動きをもたらすものだから、反対に1秒間の動きを16枚の写真に分けて撮影したものを連続映写すれば、本来動かない器物も動かすことができる、と思い当たったのです。

 当時はそのような撮影を思いつく人も無く、当然1コマ撮影(メモ・モーション)の出来る撮影機はありませんでした。そこでヴァイタグラフ社は、クランク1回転につき1コマだけ撮影できるコマ撮り専用カメラ(メモ・モーションカメラ)を開発したという訳です。
 例えばコーヒーカップをテーブル上で移動させる場合、そのスピードによりけりですが、1コマ撮影してはカップを数ミリ動かして次の1コマを撮影、という作業を数100回も繰り返すという、気の遠くなるような立体アニメーションの作法はこうして生まれたのでした。

エミール・コール.JPG●エミール・コール

 考えてみれば1コマ撮り(メモ・モーション)による動画は、1864年にデュコス・デュ・オーロンが、植物の成長で実験。その過程をカメラを固定して1コマずつ撮影することで時間を短縮した動く記録を試みたものですが、それをニューヨークのホテルの建設現場で実践してみせたのが、今はバイオグラフ社の製作部長に収まっているウィリアム・ディクスンだったのでした。

ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン


●ウォルト・ディズニーをとりこにした1コマ撮りの世界


その後エミール・コールも、以前雑誌のカリカチュア画家だった経験を生かして、ブラックトンのような立体アニメーションや、マンガと実写を合成したアニメーションも手がけるようになります。
 コールによって生み出された情景。それは粘土が次第に彫像に変わったり、花のつぼみが見る見るうちに開いたり、靴が自分で自分を磨いて出かけて行くなど、とてもユニークなものでした。


これらの手法が土台となって、1909年製作ウィンザー・マッケイによる世界初のフィルムアニメーション「恐竜ガーティ」が生まれます。また、1920年代に入るとウォルト・ディズニーや「ポパイ」「ベティ・ブープ」を生み出すフライシャー兄弟の登場につながっていきます。1901年12月5日生まれのディズニーは、物心ついた頃からエミール・コールのアニメを楽しんでいたのでした。


 そういえば、筆が動くとどんどん地図が書きあがり、その一部にカメラがぐんぐん近づくと物語が始まるという手法は、初期のディズニーのドキュメンタリー映画では通例として使われたテクニックであり、花のつぼみが見る見るうちに開いたり、といった表現も私たちの目を丸くさせたものでした。(例、自然の驚異シリーズ「砂漠は生きている」)


●「恐竜ガーテイ」ウィンザー?マッケイ 1909


●「砂漠は生きている」ウォルト・ディズニー 1953


★次回はカラー映画の進展について。















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