059 2倍払えば、カラーだよ! [技術と表現の進歩]
059 2倍払えば、カラーだよ!
100年前、映画の色彩は?
●時代背景 1900年代、ニューヨークに摩天楼林立
このブログではこれまでに、1895年の映画誕生後、およそ10年ほどの経過を展望してきました。撮影機・映写機はガタつかない鮮明な画像を送るようになり、長尺のフィルムも生まれました。技術の進化は映画づくりを変えていきます。反対に、映画づくりからの要求で技術は更に進化していきます。このブログも中盤を過ぎたところで、技術と表現の変化についてまとめてみようと思います。
まずは「カラー」について。本格的なカラー映画の登場は1930年代ですから、ブログで展開しているこの時点から20年以上先まで、話が飛躍します。
●「カラー映画は料金2倍」という商売も
映画の技術的進化は、一般的に言えばまずサイレント映画に音声が付き、次にカラー映画へと発展しました。ところがそれはあくまでも実用化の順であり、実際は音声と色彩の研究は映画誕生の直後から並行して進められていたのでした。
とはいえ、このブログの現段階ではまだ映画はサイレント。写真技術による本格的なカラー映画など先の先の話になりますが、これまでの記事で音声付きカラー映画実現に向けての努力の片鱗はあちこちに見受けられたと思います。
●初期の手彩色映画
例えば、1895年、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」を以て映画の発明とされる直前に、トーマス・アーマットがラフ&ギャモン商会を経てトーマス・エディスンの元に持ち込んだ「ファンタスコープ」。そこで試写された踊り子アナベルのダンスフィルムには、1コマ1コマ手彩色が施してありました。それは共同開発者チャールズ・ジェンキンスの夫人の手によるものでした。
●エジソンの映画発明の元となった「ファンタスコープ」
●左/トーマス・アーマット 右/チャールズ・ジェンキンス
手彩色によるカラー化はひとつの産業となり、彩色女工さんとも言うべき新しい職業を生みました。1897年、ジョルジュ・メリエスの世界初の撮影所には、大規模な「彩色アトリエ」が付属していました。
人件費がかかるこれらの映画は当然映画の製作費を押し上げましたから、製作会社では自信作にしか施しませんでした。そして「今度の作品はカラーだよ」とPRすれば、普通以上に観客動員が可能だったのです。
●ジョルジュ・メリエス「スター・フィルム社」の彩色アトリエ
●手彩色カラーとモノクロ、どっちがお好き?
メリエスのスター・フィルム社でもやっていましたが、1903年に大好評を博したエディスン社の「大列車強盗」には、モノクロバージョンと彩色バージョンの2種のフィルムが用意されていました。
当時はフィルムレンタル方式が始まったばかりで、欧米にでき始めた小規模な映画専門館ではフィルムそのものを購入して上映しているところもまだ多かったようですが、エディスン社ではいずれの場合もカラーはモノクロの2倍の料金で配給。映画館によっては彩色とモノクロバージョンを両方用意し、カラーを見たい観客は2倍の入場料を払うというシステムになっていました。
●手彩色カラーとモノクロ、どっちがお好き? ただしカラーは料金2倍だよ。
●染色ならカラー化は簡単。でも、それなりに
映画がメジャーな娯楽になるにつれて観客も増えました。見世物小屋からニッケル・オデオンと呼ばれるいわゆる映画館へと上映環境が変わるにつれ、配給されるフィルムの本数が増え、次第に手工業形式の手彩色は間に合わなくなってきました。そこで考えられた方法は、フィルムそのものを染める染色法でした。
それはシーン※単位で行われました。例えば朝のシーン(場面)は薄いブルー、昼はイェロー、夜は濃いブルー。砂漠のシーンはブラウン、雨は薄いブルー、火災は赤。という具合です。
また長編が作られるようになると、主人公の感情、たとえば恐怖はブルー、激情は赤、といった具合に色で染め分けて表現されるようになりました。染色法ではひとつのシーンが丸ごと同じカラーで色づけされるのです。
●手彩色は大変だから、
いっそ、十把一絡げで、場面ごとに色分けして、染めてしまえ!
作業としては、まず現像後のモノクロフィルムをシーンごとに切り離し、同じ色彩単位で染めたものを、映画の流れに従ってつなぎ直す、という手間が掛けられたものです。当時はカラーフィルムは無い訳ですから、いろいろに染色したシーンがつながれた完成フィルムをそのままデュープ(複製)することはできません。
配給するフィルムは、プリント1本ずつにこの作業が必要だった訳です。主人公の感情まで色彩で表現、という手法はフロイトあたりの学説を応用した画期的なものだったのかもしれませんが、画面全体が同じ色合いではカラーには見えず、それなりの効果しか得られませんでした。
ただ、このあとのブログでご覧いただくことになりますが、1913年頃の映画では、染色されたフィルムに別の色彩を重ねる手法…例えば茶色で表現した昼の場面の中に火災の炎が赤く着色されている…というような手の込んだ色彩表現も見受けられるようになってきます。「少しでも実景に近づくように。できるだけ臨場感を」・・・。映画人のカラー化実現に向けた情熱が伝わってくる思いです。
●まず試されたのは印刷方式
20世紀初頭、カラー化の研究がいちばん進んでいたのはゴーモン社でした。同社は1902年に型紙によるステンシル印刷を応用したフィルム彩色法を開発しました。道路上に描かれた矢印や輸出用木箱に押された印字を思い出していただくと分かりやすいのですが、図形や文字を切り抜いた型紙に染料やインクをのせてローラーで捺染する技法です。それをあの小さい映画フィルムの1コマ1コマに対して行うというのですから、すごいことです。
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●パテ・フレール社のステンシルカラーによるキリスト受難劇 1907 無音
これはひとつのシーン単位で色数だけ型紙が必要です。背景や人物の服装を1コマごとに鋭利なナイフで切り抜いた型紙をつくり、インクを刷り込んで仕上げるわけです。ゴーモン社では、ステンシル印刷法を発展させたものが1906年に開発され、「キネマカラー」の名称で1908年以降に使われましたが、印刷によるカラー化の表現には限度があり、十分な成果を上げることはできませんでした。
このような経緯から、カラー映画は写真技術によるカラーフィルムの開発を待つことになりました。
●写真技術の進展で、光学的なカラーフィルムへ
今日のような写真方式によるカラー発色技術は1920年代に発達。1926年、アメリカのテクニカラー社はマゼンタとグリーンによる二原色カラー映画を開発します。この技術は早速ハリウッドの長編アクション映画に採用され、好評を博しました。
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●二原色カラー映画 ダグラスの「海賊」1926
ハリウッド全盛期の活劇俳優ダグラス・フェアバンクスの大活躍。
その成功を確認すると、テクニカラー社は究極のカラー映画技術を開発すべく三原色によるカラー化の研究を進め、ついに写真技術と印刷方式を融合させたカラー映画を実現します。
カラー印刷では撮影された写真を、シアン・マゼンタ・イエローの三原色に分解して3枚のネガを作ります。その濃淡に添って三色のインクが順に盛られて印刷され、最後にブラック(墨版)がのせられてカラー印刷が仕上がるわけですが、その仕組みをフィルムに応用したのが「テクニカラー」です。
●テクニカラーカメラ
撮影時点で三原色に色分解するために、3本のネガフィルムを一度に撮影する機構。
ブログではまだまだ先の話ですが、カラーの話のついでにご紹介。
ただし「テクニカラー」は写真ですから印刷とは異なり、光の三原色である赤・青・緑の色分解となります。それを撮影と同時にカメラ内部で行うために、同時に3本のネガフィルムを撮影できる特殊なカメラが開発されました。撮影後3本のネガフィルムは、3色三層の感光ベースを持つフィルムに対応してそれぞれを発色させ、カラーのポジフィルムが完成しま。それは完璧なカラー映画の誕生でした。
「テクニカラー」の最初の作品、それは1932年、ウォルト・ディズニーによる短編「花と木」でした。ちなみに劇映画の最初のカラー作品は1935年の「虚栄の市」。おなじみの「風と共に去りぬ」は太平洋戦争直前の1939年の製作です。つまり、本格的なカラー映画は第二次世界大戦以前に確立していたのでした。
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●上記テクニカラーによる、世界初のカラー映画「花と木」1932 のラストシーン。
音声はオリジナルのトーキーサウンドです。
ちなみに、トーキーが誕生したのは1927年からとされています。
●テクニカラー初の劇映画「虚栄の市」1935
※次回は、100年前の音声について。
058 もうひとつのトリック、アニメーション。 [黎明期の映画]
058 アニメーション映画の誕生
スチュアート・ブラックトンとエミール・コール
●エミール・コールのアニメシリーズ「ファントーシュ」1908
1907年3月。パテ・フレール社の健闘で映画帝国を築いたフランスの業界に、一大センセーションが巻き起こりました。
ご存知の通りフランス映画は、ジョルジュ・メリエスのトリックから始まりました。1909年までその分野ではまだ世界中で彼の右に出る者はいませんでした。また、コメディにおいても、パテ・フレール社 、ゴーモン社に代表されるフランスの短編は他国の追随を許しませんでした。
そこにもたらされた1本のフィルム。それはフランス映画がもっとも得意とするトリックを使ったコメディでしたが、彼らが大騒ぎするほど空前絶後の映画だったのです。その1本のフィルムとは……。
●品物がどうして一人で動くのか
その作品は、西部劇や警官の追いかけなど、アクションを得意としていたアメリカのヴァイタグラフ社からもたらされたものでした。「これがヴァイタグラフ社の作品?」とフランス映画界が首をかしげるほど、それ自体が意外性を持つものでした。同時に、フランスのお家芸として育っているトリックとコメディの領域が侵されるのではないかという恐れを抱かせました。
●ヴァイタグラフ社商標
「お化けホテル」(幽霊ホテル)と題されたその映画は143メートル。8分弱程度の長さで、あるホテルに泊まった宿泊客の悪夢の一夜を描きます。一言で言うとホテルが生きているのです。アメリカには昔から、家が人を襲うという物語があるのですが、この映画はホテルの一室にあるものが、あたかも意志を持つもののように動き回るのです。
テーブルの上にはひとりでに食器が配置され、ナイフとスプーンが用意されます。すると今度は瞬く間にディッシュにソーセージとパンが並びます。かと思うとワインや紅茶ポットまで。ナイフはひとりでにソーセージを切り、紅茶やミルクもひとりでにポットに注がれます。それは序の口。びっくりした宿泊客は食事も取らずに寝室に入ると、ベッドが振動し始め、仕舞には部屋全体がぐるぐる回りだしてしまうのです。生きた心地をなくしてベッドにしがみつく宿泊客を見せて、映画は終わります。
(この情景は記憶ですから適当ですが、こんなニュアンスの映画です。録画テープがあったのですが見当たらず、ご覧いただけなくて残念です。転居の際処分したベータマックステープに録画したものと思われます)
家具が動き回り、ベッドが向きを変えるといった趣向は、演劇の舞台で針金やロープを使って行われていましたが、彼らがびっくりしたのはナイフやフォークといった小道具がどうしてひとでに動き回るのかということでした。シャルル・パテとライバルのレオン・ゴーモンはそれぞれ、自社の演出家やカメラマンにその秘密を探るようにと緊急指令を発しました。それはそうでしょう。観客がこれまでに見たことも無いまったく新しいジャンルの映画が生まれ、ヨーロッパだけで150もの映画館で上映されたのですから。
ところで「お化けホテル」の動画、このブログをアップするギリギリの時点で、アメリカのサイトで見つかりました。 ところがテーブルのシーンだけ1分ちょっと。上記の私の記憶とは大きく異なりますが、このシーンのあとに人物やベッドも出てくるのかもしれません。それはともかく、ま、とりあえず、ご覧ください。
●「お化けホテル(幽霊ホテル)」1907
どうしても物足りないので、なおも探して見つけました。下の動画が私が記憶していた作品のようです。製作年度が1908年。後付けのクレジットでは製作者としてパテの名がありますから「お化けホテル」とは違います。タイトルも「お化けハウス」です。完全に私の勘違いです。私が記憶していたものは「お化けホテル」を元にして、お話を発展させたものでしょう。
それにしても二番目のカットの左上の雲の中を、ほうきに乗った魔女が昇って行くなど、二番手だけあって細かく演出されていて、とても良くできています。抱腹絶倒、とにかくおかしい。ご覧ください。決して損はさせません。
●かたちが変わると真理を見失うのは映画の場合も同じ
彼らは、なぜ人の手によらないで器物がひとりでに動き回るのか、それを見極めるために手に入れた「お化けホテル」のフィルムを何回も何回も上映し、時には1コマずつ送ってルーぺで確かめながら、隠された針金を見つけ出そうとしました。けれどもそれは無駄でした。
現在の私たちは、この映画が一種のアニメーションであることを知っています。そして、絵によるアニメーションは、1888年にフランスのエミール・レイノウが「テアトル・オプティーク(光の劇場)」と称する出し物で最初に演じられたことは以前のブログに書きました。
パテ・フレール社やゴーモン社の製作者たちはもちろんレイノウの「テアトル・オプティーク」を知っているのですが、この「お化けホテル」が、レイノウの絵を動かす原理を実物に応用して作られたものだということには気づかなかったのです。
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●アニメ創始者エミール・レイノウによる「テアトル・オプティーク」の公演
●写真の時代を背景に、絵から写真へと発想を転換
「お化けホテル」が製作されたのはパリ公開の1年前、1906年でした。みんなの度肝を抜いたこの映画の作者は、ジェームス・スチュアート・ブラックトン。彼は素描を得意とし、風刺画家として新聞で活躍していたのですが、ヴァイタグラフ社でキネトスコープのためのフィルムを撮るようになりました。
彼はおそらくレイノウが絵でやったことを写真でやってみようと思ったのでしょう。それは、写真がようやく一般的なものとなったことによって、初めて発想できたことでした。
●ジェームス・スチュアート・ブラックトン
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●スチュアート・ブラックトン「たばこの妖精」1909 遠近法を大胆に使った実写トリック
彼はこの作品の前に、1枚ずつ撮影した写真を連続させて動かす「デッサン・アニメ」というものを作りました。これはいわばテスト作品で、「お化けホテル」はその延長線上の作品でした。
●「愉快な百面相」1906 黒板に「書いては消し」して作り上げた1コマ撮りアニメーション
更に彼はこの年に「魔法の万年筆」という作品も発表しました。これは、1本の万年筆が勝手に立ち上がって動き出し、タバコをくわえた男の上半身を書き上げます。するとタバコからたなびいた煙がどんどん延びて行き、男性の対面に女性の姿を書き上げるというものでした。
●スチュアート・ブラックトン「魔法の万年筆」1907
本物の万年筆が一人で動いて人物を描いていく
●気が遠くなるような立体アニメ作法
フランスの映画関係者のあせりは更に加熱しましたが、その秘密を探り出したのはゴーモン社の新人演出家エミール・コールでした。映画は1秒16コマの連続した写真によって動きをもたらすものだから、反対に1秒間の動きを16枚の写真に分けて撮影したものを連続映写すれば、本来動かない器物も動かすことができる、と思い当たったのです。
当時はそのような撮影を思いつく人も無く、当然1コマ撮影(メモ・モーション)の出来る撮影機はありませんでした。そこでヴァイタグラフ社は、クランク1回転につき1コマだけ撮影できるコマ撮り専用カメラ(メモ・モーションカメラ)を開発したという訳です。
例えばコーヒーカップをテーブル上で移動させる場合、そのスピードによりけりですが、1コマ撮影してはカップを数ミリ動かして次の1コマを撮影、という作業を数100回も繰り返すという、気の遠くなるような立体アニメーションの作法はこうして生まれたのでした。
●エミール・コール
考えてみれば1コマ撮り(メモ・モーション)による動画は、1864年にデュコス・デュ・オーロンが、植物の成長で実験。その過程をカメラを固定して1コマずつ撮影することで時間を短縮した動く記録を試みたものですが、それをニューヨークのホテルの建設現場で実践してみせたのが、今はバイオグラフ社の製作部長に収まっているウィリアム・ディクスンだったのでした。
●ウィリアム・ディクスン
●ウォルト・ディズニーをとりこにした1コマ撮りの世界
その後エミール・コールも、以前雑誌のカリカチュア画家だった経験を生かして、ブラックトンのような立体アニメーションや、マンガと実写を合成したアニメーションも手がけるようになります。
コールによって生み出された情景。それは粘土が次第に彫像に変わったり、花のつぼみが見る見るうちに開いたり、靴が自分で自分を磨いて出かけて行くなど、とてもユニークなものでした。
これらの手法が土台となって、1909年製作ウィンザー・マッケイによる世界初のフィルムアニメーション「恐竜ガーティ」が生まれます。また、1920年代に入るとウォルト・ディズニーや「ポパイ」「ベティ・ブープ」を生み出すフライシャー兄弟の登場につながっていきます。1901年12月5日生まれのディズニーは、物心ついた頃からエミール・コールのアニメを楽しんでいたのでした。
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●「恐竜ガーテイ」ウィンザー?マッケイ 1909
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●「砂漠は生きている」ウォルト・ディズニー 1953
★次回はカラー映画の進展について。
057 3本立てだよ、いらはい、いらはい! [黎明期の映画]
057 ヨーロピアン・コメディは花ざかり
分かってきた画面サイズの使い分け
●生き物のようなカボチャの動きががおかしい「かぼちゃ競走」エミール・コール 1907
さあて、今回の映画紹介は、堂々の3本立てだよ。
なんとなんと、フランスの追っかけ喜劇とデンマークの芸術作品。
そんじょそこらの映画館で見られるものとは訳が違う。
全部観ても10分そこそこ。決して損はさせないよ。
●「空間」と「時間」という二つの呪縛を開放した第二世代
映画は生まれて早々、それを手にする人に「空間」と「時間」という二つの呪文を掛けました。最初の映画カメラマンはカメラを三脚に固定したまま、同じ場面(空間)を1巻のフィルムがなくなるまでほぼ1分間(時間)、連続してカメラのクランクを回し続けるものと思い込んでいました。19世紀末に映画を発明したリュミエール兄弟やたくさんのトリックを開発したジョルジュ・メリエスでさえ、その呪文のとりこでした。こうした人々を映画第一世代とすれば、20世紀早々、その呪文を解いた人たちを第二世代ということができるでしょう。本当の映画は、実はそこから始まるのです。
●ディレクター・システムが定着
世界の映画市場に君臨するまでに成長したパテ・フレール社は、役者から監督に昇進したアイディアマンのフェルディナン・ゼッカを中心に、アンドレ・デード、マックス・ランデールといった喜劇役者を起用。
●苦み走ったいい男 マックス・ランデール(マックス・ランデ)
一方、レオン・ゴーモンの元、僅差でパテ社を追うゴーモン社の中心人物は、ヴィクトラン・ジャッセ(1907年にエクレール社に移籍)、ルイ・フィヤード、ジャック・フェデール、エミール・コールといった監督や作家たち。
こうした人たちによってライバル2社が競い合い、面白くて楽しいヨーロピアン・コメディとも言うべき映画がたくさん生まれました。
つまりそれまでの映画は、カメラマン、ライトマンは別として、ジョルジュ・メリエスのように一人の人間が企画し、ストーリーを考え、セットやコスチュームをデザインし、自分で主役を演じていたものでしたが、それが撮影スタジオの建設と平行して、監督、撮影、セット、照明、衣装、というように専門化、分業化して来た訳です。
特に売れる映画を作るために起用されたのは、パントマイムの役者や喜劇役者、それにサーカスからはアクロバットのうまい役者が抜擢されました。ある意味で命を張ったこれらのコメディには、演技力の他に人並みはずれた身軽さが要求されたからです。
●パテ社とゴーモン社のコメディ合戦
それではここで、1906年、パテ・フレール社製作の「ピアノ運び」と、1907年、ゴーモン社、エミール・コール監督の「カボチャ競争」という、ショートフィルムをご覧頂きます。
「ピアノ運び」は、二人の男がなぜビアノを運ぶことになったのか、とか、どこまで運ぶのか、などということは一切関係なく、ピアノという重い道具を苦労して運ぶそのプロセスだけを面白おかしく描いています。
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「カボチャ競争」も同様に、なぜカボチャが転がるのかは問題ではなく、転がるカボチャに右往左往する街の人たちのアクションを滑稽に描いています。ここに、いわゆる音声を未だ持たないサイレント映画の特徴を見ることができます。つまり、説明的なものを極力排して、アクションだけで分かるように構成されているのです。いわゆる「理屈抜きに面白い」。それが無声映画の醍醐味といえるのではないでしょうか。
●「カボチャ競争」1907
●シリトリのようにつなげば、一連の動きに見える
それではこの2作を少し細かく見てみましょう。それぞれのカットは俳優の演技を元に必要な情景(空間)が必要な長さ(時間)だけ切り取られ、前のカットの最後の動きは、見事にあとのカットの最初に受け継がれています。
つまりちょうどシリトリ遊びのようにカットがつながれていくことによって、観客はカットが変わっても俳優の動きを継続したものとして受容します。これらの作品は現在の目で見ても、話の流れやアクションの流れにまったく違和感を覚えないほど巧妙です。実に見事なアクションつなぎです。ドラマづくりに欠かせないこの高度な編集テクニックが、モンタージュ理論など生まれていないこの時期にすでに実際に行われていたのは驚きです。
考えてみれば、彼らは理論を元に映画を作っていたのではないのです。どうすれば分かりやすくて面白い映画が作れるか。そのための工夫や発見や実験が撮影や編集テクニックとして蓄積されて行った……つまりモンタージュ理論は、のちの識者が後付で整理したものに他ならないのです。これらの作品から、映画づくりに情熱を燃やす当時の人たちの意気込みが伝わってきませんか。
●初期デンマーク映画は、おおまじめ
フランスとはまったく異なる路線で台頭してきたのはデンマークです。北欧ではバイキングの血がなせる業か、映画はもともと覗き見から発展したこともあって、この国では映画の最初はきわどい娯楽だったようです。けれどもその中から、ここに掲げるオルガー・マドセンのようなまじめな作家が登場します。彼が1906年に製作した「スカイシップ」。これは宇宙船がとある惑星を訪れるという100年以上も前の映画です。
(以下、活弁口調で)
宇宙の果てに生命はありやなしや……古今の謎を解かんがために勇躍地球を出発した最新鋭宇宙船艦「エクセシア」号。果てしなき宇宙空間でのあらゆる艱難をかいくぐり、首尾よくとある惑星に着陸してみますると、な、な、なんと、そこには空気もあり重力もあるではないか。これではまるで地球そのもの。こりゃーありがたい。
更なる感動はこれまた人間そっくりな異星人大挙してのお出迎え。襲撃を覚悟の一行には意外や意外の状況でありましたが、王が自ら案内してくれた大円鏡の前で合点がいく。これは過去を映し出すタイムマシンであります。そしてそこに映し出されたものは明らかに、太古から続くおぞましい人類の戦争の歴史でありました。
「われらは平和を求めて大昔にこの惑星に移住してきた旧人類である。人類みな兄弟。これからは旧人類と新人類、手を携えて平和を築こうではないか」
王の一言を皮切りに始まる歓迎レセプション&大パーティ。新しい恋も芽生えたような芽生えないような……。まずはめでたしめでたし。1巻の終わりでございます。
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●画面サイズの認識が生まれた
ここに切り出した「スカイシップ」のスチル写真。そう言えばありましたね、昔、映画館の外に名場面の写真展示が。それを見て面白そうだということでチケットを買ったものですが。どうでしょう、この画面サイズのバリエーション。
画面サイズというのはカメラの位置から得られる対象の大きさとそれを包む「空間」の広さです。同じ場所に三脚で固定したままのカメラではひとつの画面サイズしか得られませんが、カメラを近づけたり遠ざけたりすることによってロング(遠景)にもなればアップ(近景)もにもなる。カメラが軽便になった20世紀のはじめにそれが認識されたのですが、それが上手に撮り分けられていると思いませんか。
そしてこの映画でも1カットの長さは長短とりどりです。これらの作品にはもう、同一サイズ1分1カットで見せていた初期の名残りはありません。映画はもっと自由な「空間」と「時間」を持つようになったのです。
★次回はアニメーションの誕生について
056 ヒーローわんちゃん、ローヴァー! [黎明期の映画]
056 撮影所ラッシュで映画産業本格化
●「ローヴァーに救われて」1905 ご主人に急を知らせるローヴァー 動画あり
20世紀の声を聞くと同時に、欧米中心だった映画は一気に世界に広まっていきます。頭角を現してきたのはデンマーク、イタリア、ロシア、ドイツ、インドなどです。フランス、アメリカ、イギリスなど映画先進国では撮影所ラッシュが続きます。撮影や映写機材が進化して長尺のフィルムが使えるようになると、編集技術も発達し、映画の内容も俄然面白くなってきました。観客人口も増え映画館も建ち始めました。こうした循環の変化とニュー・メディアとしての魅力づくりとの相乗効果により、映画がいよいよ新しい産業として動き始めたのです。
●フランス……パテ・フレール社、独走態勢で世界初の映画帝国を確立
エディスン社の蓄音機販売から巧妙な営業力で成り上がったシャルル・パテは、映画が単なる場末の見世物ではなく、事業として本格的な投資に値するものであることを見抜くと、積極的に資金を投入しました。1901年からのパテ・フレール(パテ兄弟)社は、ヴァンサンヌに建てた最新設備の撮影所を拠点に、撮影機と映写機の製造・販売、フィルムの製作・販売・レンタル、直系映画館チェーンでの興行という映画の総合商社ともいうべき事業を立ち上げました。
●1906年 パテ社撮影所 ●シャルル・パテ
1905年初めにおけるパテ・フレール社のフィルム製造量は1日12,000メートル。映画制作本数は、大先輩のリュミエール社が年間4~500本、最盛期にあるジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社が350本と
いう数字に比べて500本にもおよび、完全に両巨頭をしのぐまでに成長したのです。
本数を聞くとびっくりしますが、制作されるフィルムは相変わらず短いもので、喜劇、トリック映画、キリスト受難劇、恋愛劇、ニュース再現フィルムなどでした。また喜劇や社会劇のジャンルではフェルディナン・ゼッカという人物が活躍していました。
フェルディナン・ゼッカは元は芸人で、トーマス・エディスン発明の蝋管蓄音機のナレーターとして詩の朗読などをやっていたのですが、映画が盛んになってくると役者に転身。1900年、パテ・フレール社に雇われると役者の演出にも力を発揮して、翌年には早くも監督に昇進。1902年にジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」が発表され人気を呼ぶと、たちまちパテ版の「月世界旅行」を作り上げてしまいます。以後はメリエスの向こうを張って、数々のトリック映画やコミカルな喜劇を作り出します。
●1907年 パテ社現像工場 木枠にフィルムを巻きつけ、現像液槽に浸して現像
その後もパテ・フレール社の独走態勢は留まることを知らず、1906年にはアメリカのイーストマン・コダック社に対抗してフィルムの生産工場を自社に建設。 1907年には関連会社10社を傘下に収めたパテ・トラストともいうべき独占形態を作り上げました。今日の映画製作会社の原型のようなものです。
また、1908年からは史上初の週刊ニュース映画の製作を始め、フェルディナン・ゼッカを総責任者として運営に当たらせ、ニュース映画専門館「パテ・ジュルナル」をオープンします。
一方、パテ・フレール社のライバルであるゴーモン社も急速成長を遂げていました。
1905年に建てた撮影スタジオはパテ・フレール社の撮影所をしのぐ規模でした。そこでは数年前エディスンが発明したばかりの蓄電池が、早速人工照明用に採用されていました。またここでは、4輪運搬車に搭載した50アンペアのアーク灯と水銀灯を30~40基ほど備えていましたが、雨の日は光量不足で撮影所内での撮影は休みになりました。なお、ゴーモン社のこのスタジオは1915年まで世界最大規模でした。
●1906年 ゴーモン社撮影所
この撮影所の製作責任者に、レオン・ゴーモンはこれまで記録からドラマまで幅広い分野で実績を持つ女流監督アリス・ギイを抜擢しました。アリス・ギイは当初、ゴーモン社が開発した撮影機や映画音声装置「クロノフォン」などを販売するためのPR映画やバレエ映画、コメディなどを作っていましたが、1900年以降は劇映画に転じ、次第に長編を撮るようになりました。
●レオン・ゴーモン ●世界初の女流監督 アリス・ギイ
1905年には「ラ・エスメラルダ」を。また1906年には完成したばかりのスタジオに豪壮なセットを組み、上映時間33分、300人ものエキストラを動員した「キリストの生涯」といった長編映画を意欲的に製作しています。そのスケールは後にご覧いただくことになるイタリア映画の歴史劇大作に勝るとも劣らない迫力を備えていると思います。なお、アリス・ギイのゴーモン社での活躍は1909年までで、その後は夫ともにアメリカに渡り、1910年からはあとで述べることになるハリウッド草創期の銀幕を飾る映画づくりを開始します。
●イギリス……編集の意識も飛躍的に進んだ
ここで、1905年、イギリスで発表されたセシル・ヘプウォース作、「ローヴァーに救われて」をご覧頂きましょう。後の有名なテレビ映画「名犬リンティンティン」の原型とも言われる、名犬を主人公にした作品。ワンちゃん大好きというみなさんは絶対に見逃せない作品ですよ。
愛する幼子が誘拐され、悲嘆にくれている父親。そこへ愛犬ローヴァーが何かを伝えに来ます。彼の娘を見つけたことを教えようとしているのでは。ローヴァーに導かれて家を出る父親。ボートで川を渡り、とある街区へ。ローヴァーの案内で誘拐犯の家を突き止めると、屋根裏部屋には娘を誘拐した酔いどれ老女が。相手が相手ですからアクションの見せ場はありませんが、父親は無事に娘を取り戻して一家全員喜びにくれるのでありました。
ヘプウォース本人が物語を考え、監督と主役を演じ、奥さんと幼い娘、そして飼い犬のローヴァーが出演しています。家族総出で作った映画が映画史に残るのですから、いい時代でした。それにしても、悪役の酔いどれ女は誰が演じたのでしょう。
短い作品ながらこの映画が映画史で語られるのは、それまでに見られなかった飛躍的な映画表現がなされているからです。それはカットが変わってもローヴァーの動きが上手につながるように編集された滑らかな方向性の表現と、緊迫感を盛り上げるみごとなカットつなぎです。
この映画では場面ごとに必要な時間だけがカメラで切り取られ、自宅室内、街頭、川辺、老女の室内、自宅、と次から次へと場面が変わっていくことでスリルを盛り上げています。不要な時間が省略されているために映像の展開に弾みがついているのです。この映画の3年前に世界的に話題を呼んだエドウィン・ポーターの「大列車強盗」ですら乗り越えられなかった、「1場面1カット」の枷を見事に超越して、カットの長短の変化が画面のリズムを生む、ということがこの作品では実証されています。
大事なのはカットの長さ。それを計算したカットつなぎが映画で語ることの基本。この映画言語のもっともベーシックな技法が認識されたことにより、映画はどんどん映画ならではの言葉を話すようになり、映画ならではの表現力を備えていくようになるのです。
●アメリカ……エディスン社がリード
世界 さて、もう一方の雄、アメリカでも撮影所ラッシュという有様が続きます。
1902~1903年当時、映画館と呼ばれる形式の建物は全米でわずか40館程度でしたが、あの「大列車強盗」の大成功により、映画人口は加速度的に増加することが予想されました。それまでのペニー・アーケードは一様に「ニッケル・オデオン」への移行の様相を示してきました。そのために「ニッケル・オデオン」へ客を呼べる作品作りを先行させなければなりません。
1906年、エディスン社はブロンクスに10万ドルという巨費を掛けて撮影所を建設。「ニッケル・オデオン」向けの1巻ものの小品ですが、月6~7本の製作体制を組みました。
●トーマス・エディスン
●1906年 エジソン社撮影所
この年、ウィリアム・ディクスンが所属しているバイオグラフ社も撮影所を建設。同社ではまだ「ニッケル・オデオン」よりミュートスコープ用フィルムの売り上げが大きかったのですが、すぐに逆転することが読めたので、撮影所の必要性を感じたのでした。
●ウィリアム・ディクスン
ヴァイタグラフ社も1906年に撮影所を開設しました。製作にはエディスン社のエドウィン・ポーターの下で働いていた、スチュアート・ブラックトン、アルバート・スミスといった優秀な人材が流れてきました。彼らは提携先の「ニッケル・オデオン」が週4本上映を組めるよう、月6作の制作を実現していました。作品の内容は喜劇やトリック、短編ドラマなどの娯楽作品ですが、3社の中で最もグレードが高いと評判でした。
ヴァイタグラフ社はこの年にはヨーロッパ支社を開設するほど業績も快調で、1907年頃には自然発生的に撮影所の周りに機械関係、建具関係、ペンキ屋、園芸屋、印刷屋などが立ち並び、撮影所城下町を形成するようになりました。
●エドウィン・ポーター(エディスン社)
●タマゴが先か、ニワトリが先か
映画が誕生したばかりの頃、発明者のリュミエール兄弟もエディスンでさえも未来のかたちを予測できなかった。その映画を産業にまで高めたものは何だったのでしょう。そのために最初に動いたのは業界か。それとも大衆からの要請で業界が動き始めたのか。「卵が先か、ニワトリが先か」。でもそれはどちらでもいい。社会的な支持さえ得られれば、その動きは相乗効果を生み、どちらもいい方向へ転がり始めていく。映画の発展は物事がうまく回転する場合の好例ではないでしょうか。
つづく
055 「大列車強盗」をダメ出しする。 [黎明期の映画]
055 映画は映画館で、という時代の到来
「大列車強盗」-2
●時代背景 上/自動車時代到来「第7回パリ自動車ショー」1904.12
下/日露戦争 日本に向かうロシアのバルチック艦隊 1905.5
この記事は前回からの続きで、前回掲載の「採録シーン」の写真と関連します。その箇所には、同じ「シーン番号」を付けてありますので、対比してご覧ください。
●せっかくクロース・アップを撮っていながら…
1902年に「あるアメリカ消防夫の生活」を撮ったエディスン社のエドウィン・ポーター。彼はその際、「別の場所で同時に起きていることを、一つしかない画面でどう伝えればいいか」という表現上のテーマに迫ってみました。けれどもそれは成功したとはいえませんでした。
●エドウィン・S・ポーター
1903年のこの「大列車強盗」は、ポーターの人気を見込んだエディスン社の商業的観点から企画されたものかもしれませんが、強盗と保安官たちの追いつ追われつの状況がクライマックスですから、ポーターにとっては「別の場所との同時進行」への再挑戦となりました。
ところで、この映画の場合も主人公らしき人物は登場しません。悪漢のボスとチーフ保安官くらいはクロース・アップで対比したいところですが、ポーターはまだその使い方に気付いていないようです。
前回YOU-Tubeでこの映画をご覧になった方は、ラストが悪漢のクロース・アップで終わったことをご記憶と思います。ただ、それは映画のストーリーとは関係なく、あくまでも観客だましのサービスカットでしかありませんでした。せっかくあのようなクロース・アップ(正確にはバスト・ショット/胸から上の画面サイズ)を撮っておきながら、もう一歩踏み込めなかったものかと惜しまれます。
●ここでもいくつかのトライアルが
クロース・アップの使い方はともかく、この映画では次のテクニックが試みられています。ポーターが開発したというものではありませんが、これらの技術が映画の表現を広げたことは確かです。
◎マット合成 シーン①③
画面の一部に黒布や黒紙を張って未露光部分をつくり、あとでその部分に別の風景などを焼き込みます。ジョルジュ・メリエスの特撮ではふんだんに使われました。
この映画の①では通信室の窓越しに機関車が入構するところ。③では郵便車の外を走り去る風景が焼きこまれています。
①右の窓の外、列車の入構は合成 ③右の外の景色は合成
◎止め写し シーン④
機関車の上での悪漢と機関助手との格闘。機関助手を倒したところでカメラが止められ、助手が人形とすげ替えられて、機関車から放り投げられます。電柱の高さと森の形が変わるのでそれと分かります。
④左/人形にすげ替える直前のコマ 右/人形にすげ替えた直後のコマ
コマは連続しているが、右の電柱と左の森が異なっている
◎アクションつなぎ(カッティング・イン・アクション) シーン④~⑤
これは前のカットの動作を引き継いで次のカットを始めるという、かなり高度な編集テクニックです。この映画では大雑把ながらそれが使われていることは驚きです。
④の終わりで機関手が機関車から下りはじめ、⑤のはじめで、まず悪漢が降りたあと機関手が降りてくる、というところです。
④の最後のコマ ⑤の最初から少し進んだところのコマ
◎パノラミング(パン) シーン⑧⑨
この映画ではぎごちないながらも、機関車から降りた悪漢たちが沢を降りていくところと、川沿いに下手に移動するところで、彼らの動きに合わせてカメラが追うフォーロー・パンが行われています。ぎごちないのは、当時の三脚は固定画面(フィックス・ショット)が前提で、パンをするように設計されていないからだと分かります。
⑧カメラ、左へパン ⑨カメラ、左へパン
●この映画でフェードは使われたか
次にこの映画は、前作「アメリカ消防夫」よりもテンポアップしていることにお気付きのことと思います。それは前作ではほぼカットの変わり目ごとに使われていたフェード・アウト(F.O/溶暗)がまったく行われていない。つまり「カットつなぎ」で進行しているからだと分かります。
ところが画面の変わり目を詳細に検証すると必ずしもそうではなさそうなのです。最初のシーン①で悪漢二人が通信員を縛って逃げるところ、それからダンスパーティの場面⑪の最後が少し暗くなります。つまりこの作品も「アメリカ消防夫」同様、そこでフェード・アウトが行われていた形跡があると見ました。
●この二つのカットの最後がF.Oらしい
これは、あとで誰かがフェード・アウト部分をカットしてテンポアップを図ったものではないでしょうか。あとで気づいたポーター自身がそうしたか、後世になって誰かが手を加えたものか分かりませんが、映画的にはいちいちフェードを使わないで、カットを畳み込むようにつないでいく「カットつなぎ」の方が、どれほど緊迫感を盛り上げられるかという好例だと思います。
●再び、同時進行描写は成功したか
ところでこの作品でも、ポーターが目指した同時進行描写は成功したとは言えません。
それよりも彼が重視したのは、ラストのおどかしクロース・アップに見られるように、アメリカ的商業主義を優先させた観客サービスだったような気がします。
YOU-Tubeの動画を見ると、列車脇に並ばせた乗客から金品を奪う強盗一味⑥と、保安官たちのダンスシーン⑪がいたずらに長いと感じます。
●上の2つのシーンは、全体の中で不釣合いに長い
当時この2つのシーンでは、前後の緊張感を和らげるために、ピアノ、ヴァイオリン、ハーモニカ、タンバリンなどによる観客なじみの派手なウェスタン音楽が生演奏されたのではないでしょうか。特にダンスシーンでは、観客が画面に合わせて手拍子することまで計算して、あの長い時間が配分されていたのではないでしょうか。
そうでなければ、通信係が身を挺してとっくに緊急電報を打っているのに、それが届くのは延々と続いたダンスパーティの後半、ということはありえません。
同時進行描写を表現するには、まずダンス場面⑪の前半を見せておいて、次に口で緊急電信を打つ通信係⑩を挿入。そのあとにダンス場面⑪後半の、電報が届いたことを知らせる通信係、とつなげばこと足りる訳で、あれだけの長さのダンスを見せる必要はないわけです。こういうサービス精神が、いかにもアメリカ的だと思いませんか。
同時進行描写はのちにカット・バックと呼ばれる手法ですが、映画の後半、逃げる悪漢一味と追う保安官のカットを数回交互につなぐことで、もっと緊迫感を盛り上げることができたのでした。
●知らずに踊っているところへ…
●必死の打電
●さあ、ダンスはおしまい。出動だ!
●「映画は映画館で」という時代がやってきた
エドウィン・ポーターが作り上げた映画史上初の西部劇と称される「大列車強盗」は、ニューヨークの蝋人形館を皮切りに全米に公開されると、たちまち人気を呼び、瞬く間にアメリカ中に話題が広がりました。
この年あたりから、それまで興行師がフィルムそのものを購入して興行していたかたちから、レンタルという形がとられるようになりました。
今までよりも安く映画を上映できるようになったこと。「大列車強盗」のような面白い作品の登場。その相乗効果で、それまで場末の空地利用の活動写真小屋やペニー・アーケードと呼ばれる安上りの遊び場のアトラクション。せいぜいミュージック・ホールやボードヴィル劇場の添え物といった存在だった映画は、それだけで1本立ち興行ができるほどの動員力をもつようになりました。フランスのリュミエール兄弟がいち早く考え始めていた映画の専門館・・・映画館が成立する条件がようやく整ったのです。
●ペンシルヴェ二ア州に誕生した初めての映画館「ニッケル・オデオン」 1905
1905年の末になると、ペンシルヴェニア州に世界初の映画館が誕生します。この映画館は5セントコイン1個で楽しめることを売り物にして「ニッケル・オデオン」(オデオンとはギリシャ語で殿堂の意)の名でアピールを図りました。
ネーミングは堂々たるものですが、観客の多くは場末の住民や海外移民などの低所得者階層でした。とはいえ、彼らはワンコインで見られる身近な映画館の座席を満たし、その興隆を加速させていく原動力となります。そして「ニッケル・オデオン」の名称は、アメリカの映画館の代名詞として定着します。
つづく
★参考までに
映画を撮影することを「シュート」と言います。1回のシュートで撮影されたフィルムを「ショット」といい、「ショット」から編集で使用する部分を切り出したものが「カット」です。