SSブログ

029 これぞ、エディスンの「動画自販機」。 [技術の功労者]

029 さあてお立会い、動画の自販機だよ。


    キネトスコープパーラー - 1 

P11106343.JPG
●「キネトスコープパーラー」 エディスンの名と胸像が飾ってある 1894(M27)

  戦後世代は米国寄りの教育で、「映画の発明者はアメリカのエディスン」と教えられました。けれども今は「フランスのリュミエール兄弟」が定説です。そのちがいはどこにあるのでしょうか。
  19
世紀末、欧米の〈動く写真〉の開発者たちがこぞって映写式装置の開発にしのぎを削っていた頃、エディスンはいち早く覗き見式動画装置「キネトスコープ」★1を完成させました。キネトスコープはたちまち大衆の耳目を集め、一躍話題の中心になりますが……

●発明王エディスンの誤算
 
「キネトスコープ」の機械そのものを売るという思い切った勝負に出たトーマス・エディスン。彼のキネトスコープ用フィルムを撮影するためのスタジオ「ブラック・マリア」★2はフル稼働で、<覗き見>に向きそうな素材を考え出しては撮影を続けていました。
 このフィルムはキネトスコープの本体を売るために欠かせないコンテンツでしたが、決しておまけではありません。エディスンはフィルムの権利もしっかり考えていました。

1893 ブラック・マリア.JPGP1110630.JPG
●「ブラック・マリア」                      ●「キネトスコープ」  

 キネトスコープの特許は米国内に限って申請しました。認可は1891(M24)年に下りましたが、なぜヨーロッパを含めなかったのか。それは、〈動く写真〉の開発はヨーロッパの方が先行していることをエディスンは知っていたからでした。
 つまり、キネトスコープは機構的にフランス、イギリスに遅れをとっているため、特許の可能性が薄い。その代わりアメリカ本土では、〈動く写真〉でトップを走っていたオーギュスタン・ル・プランスが失踪★3した後では、エディスンに先行する研究は存在しなかったからでした。

 このように、エディスンが映写式装置ではなく覗き見式を進めたこと。そしてキネトスコープの特許を米国内だけに留めてしまったこと。これがのちのちエディスンが苦境に立たされる分かれ道になるのですが、いかに過去に白熱電球を発明し「稲妻を手なづけた男」と賞賛され、アルバート・アインシュタインに「人類史上もっとも偉大な発明家」とまで言わしめたエディスンでも、神ならぬ身の知るよしもありません。
 
それはそれとして、さて、本命のキネトスコープ自体をどう売るか、です。

edison.jpg 1888.6.JPG
●トーマス・エディスン ●小型発電型フォノグラフとエディスン1888

●プロモーション開始はニューヨークから
  
エディスンは特許をとった翌1892(M25)年に「キネトスコープ社」を設立しましたが、その経営には、鉱山所有者で、カリフォルニアでは金満家のチャールズ・ラフと義弟のフランク・ギャモンが当たることになりました。
  エディスンは「キネトスコープ社」(ラフ&ギャモン商会という説もあり)にキネトスコープとフィルムの製造独占権を与えました。

  ラフとギャモンは、翌年に控えたシカゴ万国博覧会をキネトスコープデビューの好機と考えました。彼らは、更に改良がくわえられた「小型発電型フォノグラフ」(蓄音機)といっしょに、キネトスコープ10台を揃えた大々的なブース展開プランを立てていました。ところがエディスン側では製造が間に合わず、お流れになってしまいました。
  そこで彼らは、ニューヨークでキネトスコープのアンテナショップを開くことを考えました。これが当たれば全米に広げることが出来るかもしれません。

  こうして1894(M27)年4月、「キネトスコープパーラー」1号店がニューヨークのブロードウェイに登場しました。外観の装飾は当時の流行であるゴテゴテの中国風で、火を吹く竜をあしらった物々しさ。入口正面にはエディスンの胸像が飾られ、誰でも知っているあの大発明家による新機軸であることを誇示しています。
   フロアの中央には「キネトグラフ」が数台並べられています。今で言うネットカフェのような、いかにも時代の先端を標榜する人種が喜びそうな、小洒落た雰囲気のフロア構成です。

kinetotheatre.jpg
●「キネトスコープパーラー」1894

●大当たりした「キネトスコープパーラー」
  パーラーオープンのニュースを知って、早速珍しがり屋の客が列を作りました。キネトスコープは言うなればピープ・ショーの自動販売機です。覗き窓の脇にコイン投入口があり、料金は当時としては高額な25セント。大変な開発費がかかったことを考えれば、うなずける料金設定です。

  コインを入れるとスイッチが入ってモーターが回りライトがつき、動く写真が始まります。並べられたキネトスコープには「ブラック・マリア」で撮影された、犬、ネコ、闘鶏、床屋の様子、ボクシング、ダンスなどのフィルムがそれぞれセットされ、13秒ほどの動画が3回繰り返されるとおしまいです。すると客は次のキネトスコープに移動して、また25セントを投入するのです。

P1050575-2.JPG
 
P1110628.JPG kinetoscope2small.jpeg
●電動式動画自販機「キネトスコープ」を覗き見る人
 下は{ブラック・マリア}で撮影された
動画フィルムの例 

IMGP7814.JPGIMGP7816.JPG

IMGP7820.JPGIMGP7817.JPG

キス.jpg


●ひんしゅくを買いながらも人気があった「キス」

  キネトスコープの客の大半は<覗き>を楽しむだけですが、写真が動くということ自体が驚きであった時代です。話題が話題を呼んで来客は引きもきらずの大好評。中には予想通り、ぜひリビングにおいて楽しみたい、というセレブ客も出てきました。エディスンの予想は当たりました。
  こうしてキネトスコープパーラーはセンセーショナルな新聞記事の見出しとともに、「アメリカにエディスンのキネトスコープ登場!」というイメージを印象付けることに成功しました。

●「キネトスコープパーラー」は英仏にも広まった。
  
けれども本命は、個人客よりも、たくさんの機械を購入して「キネトスコープパーラー」の名で興行をしてくれる商売人です。ラフとギャモンは、彼らに看板と機械と興行権を売ることを考えたのです。今日のフランチャイズ方式のはしりかも知れません。

  ニューヨークでのお披露目興行の成功に勢いを得たラフとギャモンは、この年の秋にはまず戦略拠点として、サンフランシスコ、アトランティックシティ、ワシントン、バルチモアに直営のキネトスコープパーラーを開設。興行を軌道に乗せる一方で、フランチャイジー(加盟者)探しにも本腰を入れたので、各地にキネトスコープパーラーが出現しました。

  
キネトスコープパーラーの評判はアメリカに留まりませんでした。成功を聞きつけたイギリスとフランスの興行主からも機械の注文が来るようになりました。「キネトスコープ」は1台250ドル、300ドルという高値で輸出されるようになり、関連してフィルムも続々とプリントされました。こうしてキネトスコープは、1年も経たないうちに、欧米を筆頭に世界各地に広まっていきました。
  つまりこの時期、覗き見式か上映式かを問わなければ、〈動く写真〉をいち早く事業化したのは、トーマス・エディスンしかおりませんでした。


●ディクスンは「上映式」の開発を続けたかった。
 
「キネトスコープ」の評判が高まれば高まるほど心中穏やかでないのは、これまで実際に「キネトスコープ」を開発してきたウィリアム・ディクスンでした。

ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン

 彼は最初にエディスンに見せた、上映もできる「キネトグラフ」★4が、エディスンによって半ば無視された形で覗き見式に変更させられたことが納得できませんでした。
  
「欧米がリードする〈動く写真〉の開発の流れが例外なく上映方式に向かっているのに、どうして自分の上映方式を認めずに逆行するのか。これでは大西洋の向こうに後れをとり、取り返しのつかないことになってしまう」。

  強いあせりと同時に、自分が苦労して完成させた「キネトスコープ」が、すっかりエディスンの名前に変わっていることにも、少なからず不満を感じていました。このディクスンの苛立ちが、このあと新しい展開を見せることになります。 


                                      つづく

関連記事
★1 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★2 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★3 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2015-03-27
★4 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-12



ANAの旅行サイト【ANA SKY WEB TOUR】