030 いよいよ大詰め。映画誕生前夜のうごめき。 [技術の功労者]
030 去る者は追わず。
キネトスコープパーラー -2
●デトロイトのキネトスコープパーラー 1894
この経営者はのちにイギリス映画界の大御所となる。
1894(M27)年後半、ラフとギャモンが経営する「キネトスコープパーラー」がアメリカ東部に登場すると、それはたちまち全土に広がりました。同時に話題は海を越えたヨーロッパに伝わり、パリにも代理店が置かれることになりました。ロンドンでも「キネトスコープ」の注文が相次ぎました。「キネトスコープ」が新しい娯楽として爆発的に歓迎されればされるほど、ソフトととしてのフィルムの需要が追い付かなくなってきました。
●一人ずつ見せるのか、大勢に一度に見せるのか。
「キネトスコープ」はアメリカでの特許があるにもかかわらず、その人気にあやかろうとする熱心な興行師の中には、見よう見まねでキネトスコープに似せた機械を作って、興行やパーラーの開業を目論む人たちも出てきました。機械自体が売り物でしたから、1台購入して分解してみれば一目瞭然だったわけです。
特にパリ、ロンドンでは、キネトスコープの特許が米国に限定されていることを知ると、いろいろな人たちがキネトスコープそっくりの機械を自作して、「キネトスコープパーラー」を始めるような始末でした。
ただ、フィルムは簡単には作れません。そこで厚かましくもエディスン社にフィルムの提供を申し出た興行師もおりました。さすがにエディスンはそれを断りました。
偽キネトスコープを作った人たちの中には、1回に一人の覗き見式ではなく、一度に大勢が楽しめる上映式の方が効率がいいのではないかと考える人たちもいて、偽キネトスコープを上映式に改良しようとする人まで出てきたのです。
●キネトスコープの内部(仕組み)
●詭弁のようにも思えるが…
いずれにしても、大西洋を挟んだ両側で「キネトスコープ」が一挙に広まったのですが、それは同時に、単調な動きが繰り返されるだけのフィルムの内容に人々が飽きてしまう傾向に拍車をかけることになりました。
先行きの危機感を覚えたラフとギャモンは、エディスンに、一人ずつ交代で覗いていたのでは回転率という点からも効率が悪いと訴え、フィルムの内容を充実させ、早急に上映式「キネトスコープ」を作るように提案しました。それに対するエディスンの返事は意外なものでした。
「我々はキネトスコープの販売で、すでに満足すべき利益を上げているではないですか。上映式を売り出してみたまえ。全米で10台も売れようものなら、1回だけの上映で観客はいっぺんに見終わってしまう。一人ずつ覗いて見るからいつまでも行列が出来るんです。あなた方の言う上映式は、折角毎日金の卵を産み続けるニワトリを殺してしまうことになるんですよ」
エディスンはあくまでも、さながらオペラグラスを覗いてステージを楽しむ、そんな様子をイメージしていたようなのです。これを伝え聞いたディクスンは、自分が進めてきた上映式「キネトスコープ」の研究続行が、ここウェスト・オレンジの研究所では絶望的であることを感じ取りました。
●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン
●エディスンの切り札は功を奏さなかった。
自信を持ってそこまで言うエディスンには、実はとっておきの切り札があったのです。それは今で言うトーキー映画、つまり音声付き、それもステレオで聴ける〈動く写真〉の構想でした。
エディスンのスタジオ「ブラック・マリア」では、ウィリアム・ディクスンによるそのためのテストフィルムも作られ、エディスンはその成功に賭けていました。「キネトスコープ」の脇から2本のイヤフォンケーブルが出ていて、客はそれを左右の耳にはめて立体音響を聞くのです。電動式蓄音機「フォノグラフ」と覗き見式動画機「キネトスコープ」を合体させたこの新式マシンは、エディスにより「キネトフォン」と名づけられました。
●ブラック・マリア
●ブラック・マリアの内部 右に立ツ人物の左がキネトスコープカメラ
左のフォノグラフ(蓄音機)で録音の実験をしている。録音は同期していない。
●イヤホンで音も聞ける「キネトフォン」
●ディクスンによる「キネトフォン」のテスト撮影 16秒
ヴァイオリンを弾いているのがディクスン。実際は音を同調させた。
例によってエディスンは、マスコミの前で新方式の「キネトフォン」をPRし、新聞は大きく書き立てました。けれども、画面と音声の同期を図る仕組みは考案されていなかったため、実際には動きと音声は次第にずれ始め、音量も小さすぎました。もともと騒音に囲まれているパーラーの中ですから、音声が小さいのは致命的です。ということでキネトスコープパーラーでの興行は呼び物にはならず、音楽好きのお客にはかえって不評を買うことになったようでした。
●反乱の兆し
とはいえ、「キネトスコープパーラー」の人気は今でもうなぎのぼりです。しかし、上昇気流はそのあとが怖い。幾たびか辛酸をなめてきたエディスンですから、そういう時ほど危機感を抱いて次の手を打つことが必要であることは心得ていました。
そこで初めてエディスンは、キネトスコープの販売代理人であるラフとギャモンの要請を飲むことにしました。直ちにエディスンはラフとギャモンの「キネトスコープ社」に技師を派遣して、上映式キネトスコープの開発に当たらせることにしました。
「さあ、ようやく出番が回ってきたぞ!」、そう思ったのは、初めから上映式キネトスコープの開発を進めてきたウィリアム・ディクスンでした。
けれどもなぜか「キネトスコープ社」に派遣された技師は彼ではありませんでした。自分でしか成し得ないと自負していたディクスンにとっては青天の霹靂。エディスンが彼に与えた屈辱と絶望感は、いかばかりだったでしょう。
結局、派遣された技師は、上映式キネトスコープを実現できずに終わるのですが、これを契機にディクスンの心は決まりました。彼の協力を求めている人たちが他にいたのです。
ウッドヴィル・レイサムと、グレイとオトウェイと名乗る兄弟の親子トリオ。彼らは、ラフとギャモンによるニューヨークの「キネトスコープパーラー」1号店がオープンした時に訪れてインスピレーションを受け、エディスンにも受け入れられて、同じナッソー通りに「キネトスコープパーラー」を開いたばかりの父子です。
●1894年にすでに存在していたスポーツ専門チャンネル。
ウッドヴィル・レイサムは南部の名門の出で、南北戦争当時は少佐でしたが、戦後は物理と化学の教授を務め、1894年に退職したばかりでした。
同一地域で先に開業しているラフとギャモンとの競合を避けること、という条件付きということもあって、彼らは他のパーラーとの明確な差別化戦略を打ち出しました。
当事アメリカで人気を博していたのはボクシングでした。そこで、ボクシング専門のパーラーと銘打って1894(M27)年8月にオープンしたところ、長蛇の列。警官が出動して整理するほどの人気を呼びました。現在で言うスポーツ専門チャンネルのようなものが登場したのです。
実はこのレイサム兄弟も、覗き見式キネトスコープには不満を抱いていました。
●キネトスコープのボクシング
エディスンはレイサム父子を厚遇し、彼らから相談を受けたウェスト・オレンジのスタジオ「ブラック・マリア」を貸しました。彼らはそこに特設リンクを組んで人気絶頂のボクサーを呼び集めました。つまりそこで、やらせによるボクシング試合の情景が撮影されたのです。
カメラはリンク全体をフレームに収めた固定ショットで、試合の流れをそのまま写し続けているだけでしたが、6ラウンドをそれぞれ1分。計6本のフィルムに記録されました。
公式試合ではないため、全体の試合の流れは観客が喜ぶように運び、クライマックスは6巻目の最後に訪れるように計算されていました。(動画の萌芽期にすでに構成が考えられ、演技指導が行われていたと見ることが出来ます。構成はシナリオの前提であり、演技指導は監督と呼ぶ役職の誕生につながります)
これを1ラウンド25セントで「キネトスコープパーラー」に掛けました。つまり、最終の6ラウンドまで6分間すべてを覗き見るためには1ドル50セントが必要でした。けれどもこれが大当たりをとったのでした。
●ディクスンの決別
覗き見でこれだけ反響が大きいのだから、いっぺんで大勢の観客に見せられる映写方式なら絶対に成功する。そう確信したウッドヴィル・レイサムはエディスンに提言しますが、エディスンは首を縦に振りません。
彼は息子たちに、すでに上映式の動画装置を手がけた経験を持つウィリアム・ディクスンを、エディスンの研究所から引き抜くことを示唆しました。
ディクスンは間もなくレイサム兄弟と技術面で隠密裏に連絡を取り合うようになり、上映式キネトスコープの開発に力を貸すことになります。そして1895(M28)年4月、兄弟との研究に見通しがつくと、ディクスンはついに意を決して、8年間勤め上げたエディスン研究所を後にします。
●ウッドヴィル・レイサム
レイサム父子の「キネトスコープパーラー」は絶好調でした。その隆盛を横目で見ながら、米国内に散らばった他のパーラーの人気は、次第に頭打ちになってきました。パリの代理店からは、新作を早く、という矢の催促です。
観客が落ち込む前に手を打たなければ・・・。エディスンの周囲でも、一日も早く大勢の観客の前で上映できる映写機を完成しなければ、と考える人たちもおりましたが、エディスンは動きません。ウェスト・オレンジには日一日とあせりが高まっていました。
エディスンにしてみれば、ディクスンに裏切られた感じでした。8年間も技術に関しては自分のパートナーとして優遇したはずなのに、後ろ足で砂を掛けるようにして出て行ってしまった。・・・。「困ったことになった。こんな時こそディクスンが居てくれたら・・・」などと、エディスンは決して弱音を吐くような人ではありませんでした。
●映画誕生前夜。ヨーロッパにおけるその他の動向。
折も折、イギリスでは光学機械製造業者のロバート・ウィリアムポールが、エディスンの「キネトスコープ」を元に、同類の装置を製作していました。実は彼は、1894年の暮れに開店したロンドンの「キネトスコープパーラー」から頼まれたのでした。
●ロバート・ウィリアム・ポール
そのパーラーの持ち主は、エディスン社から元締めを任されたラフとギャモンから、イギリスにおけるパーラーの代理店を認められており、イギリス全土に「キネトスコープパーラー」を広げたいと思ったのでした。ところが何しろ「キネトスコープ」の値段が高すぎる。そのため、ロバート・ポールに類似の覗き見式動画自販機づくりを頼んだのでした。
エディスン側からの特許権侵害訴訟を恐れていったん断ったポールでしたが、「キネトスコープ」の特許は米国に限定されているから大丈夫、と言われて、取りかかったのでした。
この後、ロバート・ポールは独自の撮影機、映写機を開発し、映画の製作にも乗り出し、後に「イギリス映画の父」と呼ばれることになります。
●シャルル・パテ
「キネトスコープ」の登場に心を動かされたフランス人の一人に、シャルル・パテがおります。パテは1894年秋から、結婚間もない妻と二人で有り金をはたいたお金でエディスンの「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)を買い、それを元手にパリの盛り場や縁日などを巡回する興業を行っていました。
1895年が開けて間もない頃、やはり「キネトスコープ」を購入したいと相談に来た友人との間で、フィルムに話題が及びました。パテが「エディスンのフィルムはこれしかないんですよ。同じ場所ではすぐに飽きられてしまいます。だから場所を変えてやるしかないのですよ」 というと、その友人は「それじゃ,あなたがフィルムを作ったらどうですか」 。
それをきっかけにパテはその後、弟といっしょに映画製作の道に入り、やがてフランス屈指の映画会社「パテ・フレール」を創立することになります。
●レオン・ゴーモン
●ジャック・ドゥメニ ●エチエンヌ・マレー
●フィルム式クロノフォトグラフ
●アリス・ギイ
同じ年、学生時代に写真を学んだレオン・ゴーモンは、31歳でパリ、サン・ロック通りにある勤め先の写真会社を自費で買い取り、「ゴーモン社」を設立したところでした。
顧問にはエッフェル塔の設計者ギュスターヴ・エッフェルを迎え、前述のエチエンヌ・マレーが開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」をその共同開発者ジャック・ドゥメニといっしょに販売しながら、発声映画の研究・製作に取り掛かることが目的でした。映画製作を目的とした最初の企業と言えるでしょう。
その前年、ゴーモンが前の写真会社の副社長を務めていた時に、うら若い一人の女性の訪問…今でいう就活…を受けました。彼女は面接したゴーモンに、歳は20歳、名はアリス・ギィと名乗りました。彼女は後に「ゴーモン社」で、世界初の女性映画監督として活躍し、名を残します。
●リュミエール兄弟
そして、同じくフランスではリュミエール兄弟が、動画装置の最後の難関となっていたフィルム送りの円滑な仕組み(レンズの後ろで1コマ1コマを一瞬の間止める間欠送り機構)について、すばらしいアイディアを思いついたところでした。
★次回はジョルジュ・メリエスについて簡単に押さえておきましょう。