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068 ハリウッドに、きらめく星たち [ハリウッドシステム]

068 ハリウッドに、きらめく星たち
        スターシステムの発祥

ルース・ローランド.JPG●ルース・ローランド

 1910年代。映画は安上がりな娯楽として、製作面・興行面ともに世界的に大きく発展します。特にアメリカでは映画人口の急増に伴い映画会社は張り切って作品を製作し、「ニッケル・オデオン」(5セント映画館)も充実。銀幕を彩る庶民の憧れ、ムービー・スターが誕生しました。


●フルショット(全身)からの開放
 この当時、映画の出演者はすべて無名でした。映画が話題に上り、何々社の何とかという映画に出ていたあの子、でははなはだ具合が悪い、そういう状況がでてきました。そこで映画会社は、会社の名を付けて「バイオグラフガール」「バイタグラフガール」「パワーズ・ガール(パール・ホワイト)」などとして宣伝しました。あのメアリー・ピックフォードも、はじめは「リトル・メアリー」でした。

 こういった呼び方がアメリカで起こったことは興味があります。ヨーロッパ、特にフランスではシャルル・パテが指示したように、画面には必ず俳優の全身が入っていなければならない、という観念が強くあったのです。
 その理由として、初期の映画の目的はスクリーンに・・・スクリーンとは名ばかりの白布でしたが・・・それは上下左右がおよそ2メールで、生きて動く人の〈分身〉を、あたかもそこにその人物が存在するかのように、等身大で映し出すということが大事なアピールポイントの一つだったのです。
 
それを破ったのがアメリカの映画人でした。

IMGP8705.JPGフルショット

 アメリカ映画では表現の必要性から、全身(フルショット)だけでなく、次第に膝から上(ニーショット)、腰から上(バストショット)、肩から上の顔の表情(クロース・アップ)というように、段階的にカメラを寄せて撮ることが考えられるようになるのですが、フランスの映画人はそんなアメリカ映画を見て「みんな足が切れてるじゃん」と嘲ったものだそうです。

  IMGP8701.JPG
     ニーショット(ミディアムショット)   
      IMGP8702.JPG
                 ↑バストショット
IMGP8668.JPG  IMGP8703.JPG
●D・W・グリフィス   クロースアップ
              ※写真は平凡社「21世紀の歴史 大衆文化」より

 実はこういった撮影法こそ映画独自の表現につながる訳ですが、このように撮り分ける手法を意識的に採り始めたのがD・W・グリフィスだったのです。
 彼の映画に見るように、それまで全身しか映していなかったスクリーンに俳優のクロース・アップが登場すれば、観客はその俳優に注目するようになります。「なんとかガール」ではなく、その名前が知りたくなるのは当然のことです。つまり、このクロース・アップこそスター誕生のキーワードだったのです。


●スター誕生、それは仕組まれたものだった
 1908年の暮れに映画特許会社(MPPC Motion Picture Patent Company
)の結成をみたばかりのメジャーでは、特定の俳優の名が売れるとギャラが高くなるとして喜ばなかったのですが、その逆手を取って俳優の名前で映画を売り出そうとした人物が、独立系映画会社「インデペンデント・モーションピクチャー・カンパニー(IMP)」のカール・レムリです。

カール・レムリ Carl Laemmle.jpg●ユニヴァーサル映画創始者 カール・レムリ

 彼は「ニッケル・オデオン」のチェーン経営から映画の将来性を見抜き、1909年にニューヨークに「IMP」を創設。映画製作に取り組んでいましたから、宣伝のやり方は熟知していました。
 1910年.彼は「バイオグラフガール」の名で一番人気だったフローレンス・ローレンスと、密かに2本の出演契約を結ぶことに成功しました。
 けれども、彼女を「IMPガール」として売り出すには「バイオグラフガール」のイメージが強すぎました。それなら彼女を名前のまま売り出そう。そう考えた彼は一計を案じました。

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      ●フローレンス・ローレンス

 数日後、あの有名な「バイオグラフガール」が電車にひかれて死亡した、と新聞に追悼記事が載りました。もちろん写真といっしょにです。スクリーンで彼女を知っている人たちは悲しみました。
 ところが3週間ほどして彼女がセントルイスで生きていたという記事がフローレンス・ローレンスの名前で掲載され、彼女自身がグランドオペラハウスに登場すると報道されました。人々が熱狂して迎えたことは言うまでもありません。
  カール・レムリの思惑は見事に当たり、バイオグラフガールだった彼女はその時からフローレンス・ローレンスという名で呼ばれるようになったのでした。これが現在につながるスター・システムの発端です。

 以後、各社はただちに呼応し、メアリー・ピックフォードも、リリアン・ギッシュ
メイ・マーシュも、もちろん男優も、みんな名前で呼ばれるようになり、スター・システムという形が発足しました。映画がギャグや物語の面白さより、主演俳優の人気に左右されるようになったのです。

ウィリアム・ハート.JPG 
●西部劇シリーズで人気が高かったウィリアム・S・ハート

セダ ・ バラ.JPG ニタ・ナルディ.JPG 
●バンプ女優(バンパイア…悪女)として売り出した
 セダ・バラ(左)とニタ・ナルディ(右)

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●セックスアピールが売り物。「イット・ガール」と呼ばれたクララ・ボウ

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●メーベル・ノーマンド                      ●ポーリン・フレデリック 

  カール・レムリは「IMP」を核に同業社を併合。「ユニバーサル」の名のもとに1915年からハリウッドの北で本格的に映画製作を開始します。彼はそこに「ユニバーサル・シティ」と呼ぶ映画づくり専門の街を作り上げました。現在もハリウッドのメジャーであり続ける「ユニバーサル」映画はこうして誕生したのでした。

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●1910年頃のハリウッド


●映画づくりには企業風土とお国柄が反映
 
1912年から1915年にかけて、アメリカではエディスン社がエジソン・トラスト(MPPC)のリーダーとして、名実ともに権勢を誇っていました。
  10万ドルをかけて同年設立されたブロンクス・パーク撮影所のグラスステージの広さは800平方メートルもあり、水中シーンの撮影用に13万ガロンの水を貯えたプールもありました。また、野外ロケとスタジオでの作品づくりを並行して進められるように、常時6~7チームの俳優グループを抱えていました。お得意は西部劇映画で、あの
「大列車強盗」の大ヒット以来、東部の閑散とした郊外で西部劇を作っていました。東部製の西部劇というわけです。

 シーリグ社は1907年暮れから、すでにロサンゼルスで映画づくりを始めていました。アパートの屋上に撮影所を作り、地元の芸人集団を集めてメロドラマを作っていました。
 また1909年には破産した動物園から猛獣を買い取り、シオドア・ルーズベルト元大統領の「アフリカでの大猛獣狩り」を再現。これが大当たりしてからはライオンを筆頭に100頭以上もの動物を抱える動物園を経営。猛獣映画を看板にするようになりました。

ブロンコビリーアンダースン.png Tom Mix 22.JPG 
●「ブロンコ・ビリ
ー」 マックス・アンダースン      ●トム・ミックス
 
 また、「大列車強盗」で撃たれ役を演じたマックス・アンダースンは、エッサネイ社の社長として自分のニックネームをそのままタイトルにした短編シリーズ「ブロンコ・ビリー」を、週替わりの「連続活劇」の形で毎週1
本ずつコンスタントに送り出していました。彼が製作・脚本・監督・主演を務めた短編シリーズは7年間、400本に及ぶほどの快進撃でした。

 その向こうを張って西部の活劇で人気を得ていたのはトム・ミックスでした。彼はそのたくましくて明るい風貌からまずフランスで人気を得て、アメリカ人といえばトム・ミックスという好感度で、彼の作品はアメリカでも大当たりしました。 

 もちろん女性客も意識したコメディ、メロドラマなども作られていましたが、
無声映画の時代ですから言葉に頼ることはできません。必然的に俳優の動作が主体です。スラップスティック(ドタバタ喜劇)を筆頭に、馬、オートバイ、自動車、汽車など動きのあるものを利用した追いかけアクションやずっこけ警官ものなどが人気でした。

 トラストの一員であるフランスのパテ・フレール社やジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社は自国で製作した作品をアメリカに持ち込みました。
 要するにエディスン・トラストの構成員同士が、それぞれ競い合いながら、ニッケケル・オデオンの隆盛を盛り立てていたのでした。


パール・ホワイト.JPG パール white.jpg
●パテ社の連続活劇「ポーリンの冒険」(1914~)で
 女性初のアクションスターとなったパール・ホワイト


 総じて娯楽を前面に打ち出したアメリカ映画とは対照的に、ヨーロッパの映画は探偵やサスペンスものなど知的な味わいのある作品をはじめ、歴史や文学を素材としたもの、恋愛ものなど、芸術的色彩の濃いものが多かったようです。中でもドイツ映画では絵画に共通する表現主義的な作品が実験的に作られ始めていました。

 振興著しかったデンマーク映画はドイツの掌中にあり、帝政時代にあったロシアは経済的にフランスとつながりを持っていましたので、映画もフランスの影響を受けていました。またイギリスは謹厳実直な国民性から、リアリティのある社会派ドラマを得意としていました。
    
 こうした世界の動きの中で特筆大書すべき異色な展開を見せていたのがイタリア映画界でした。当時まだバイオグラフ社の監督だったD・W・グリフィスの目は、そこに向けられていたのでした。 
                                            つづく


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