067 たどり着いたは、西の果て ハリウッド [ハリウッドシステム]
067 第二次映画特許戦争とハリウッドの創生
●「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード
1908年暮れにエディスン社を軸に映画特許会社を構成したMPPC(Motion Picture Patent Company)は、想定していたメリットを生み出すには至りませんでした。彼らの悪辣な妨害を嫌った映画人が、東のニューヨークを避けて西海岸で映画を作り始めたのです。その拠点が新天地ハリウッドでした。
●第二次映画戦争始まる
映画の人気の急激な高まりは、全米映画市場の独占をめざす「エディスン・トラスト」、つまりMPPCの製作だけでは供給を満たすことができなくなってきました。
彼らはフィルムの長さの単位が1本300メートル(1000ft)であるところから、手回しで15分程度の短編に制限していたのですが、それでは1回1時間半から2時間におよぶ興行で何本ものフィルムを上映しなければならず、アイディアが続きません。
また、監督たちの中には、もっと長い作品を作りたいという欲求が湧き上がっていました。それ以前に、観客がそれを欲するようになっていました。
●ニッケル・オデオン 1906
こうした市場背景の中で、意欲的な製作者や監督たちはMPPCの傘下で作品を製作する限界を感じるようになりました。MPPCに加盟していない映画会社はここぞとばかりに結束し、彼らだけのトラスト「ゼネラル・フィルム・カンパニー(GFC)」を結成して張り合いました。
ところが1912年頃の状況を見ると、MPPCとGFCの二つのトラストを合わせても、ニッケル・オデオンの半数以上しかフィルムの需要を満たすことができず、他社の入り込む余地が残されていたのです。そこを押さえたのが、自らをインデペンデントと称する独立系映画会社で、その筆頭がカール・レムリ(カール・レムレエ)率いる「インデペンデント・モーションピクチャー・カンパニー(IMP)」でした。
●カール・レムリ ●D・W・グリフィス
一方、MPPCとGFCに所属していた映画人の中にも、トラストの枠から外れたいという人たちがインデペンデントの旗印を掲げました。MPPCの一員、バイオグラフ社の看板監督にのし上がっていたD・W・グリフィスもそう考えている一人でした。
●独立系映画人は、西部へ移動
インデペンデントによる映画づくりは、当然MPPCやGFCの領域を侵すことになります。MPPCは特許という法律を盾に、撮影現場や編集スタジオに手下を差し向けて映画づくりを妨害しました。
インデペンデント側では世論に訴えると同時に、1900年に成立していたシャーマン・トラスト禁止法を持ち出して法廷闘争を展開しました。第二次映画戦争とも言うべき映画トラストとインデペンデントとの法廷闘争が始まりました。
●ニッケル・オデオン「レックス・シアター」の盛況 1912
その終結まで、1914年から1918年までの第一次世界大戦を挟んでまた10年近くもかかるのですが、その間インデペンデントの映画人は、MPPCの実力行使の魔手をかいくぐり、あたかも自分たちが製作している幌馬車隊の西部劇のように、ニューヨークから大陸横断鉄道で西の果てへと逃れていきました。そして彼らが落ち着いたところ、そこが「ヒイラギの林」を意味するハリウッドでした。
●ハリウッドに足りないものはない
この場所に目を付けて最初に撮影所を作ったのは、実はMPPCの一員シーリグ社でしたが、グリフィスの所属するバイオグラフ社も、1910年には撮影隊を派遣して映画づくりを始めました。また独立系カール・レムリの「IMP」も、対抗意識をあらわにして、1912年にハリウッドに拠点を構えました。
●上/1905年のハリウッド 下/バイオグラフ社の撮影所 1910
当時のハリウッドは、家屋がまばらに点在するだけの僻地でした。けれども大都会ロサンゼルスに近い上、海、峡谷、砂漠といった自然のロケーションにも優れ、その上ほとんど雨が降らない好天続き。それこそ映画づくりの格好の舞台だったのです。
またインデペンデントの映画会社にとっては、いざMPPCの魔手が延びても、隣のメキシコに逃げ込めば安全というメリットもありました。
アメリカではこうして、それまで東海岸で興隆してきた映画製作が次第に西海岸に移行。トラストと独立系が競合しながら映画製作を始めたことで、映画の都ハリウッドの繁栄がスタートしたようです。
ただ、製作以外の配給部門、宣伝部門、財政部門などはそれまで通り東海岸で継続されたため、映画産業は東海岸と西海岸とで別の役割を担うようになります。
●メガホンで演技を指示するグリフィス(右)
グリフィスはハリウッドに移る前に、ニューヨークの古いホテルに設けられたバイオグラフ社の撮影所で、「淋しい別荘」「ニューヨークの帽子」「インディアン女の恋」など、前回に述べたフローレンス・ローレンス、メアリー・ピックフォード、リリアンとドロシーのギッシュ姉妹、メエ・マーシュらを起用した短篇をたくさん撮っています。
●メアリー・ピックフォード主演のサスペンス映画「淋しい別荘」1909
中でも1911年から12年に製作された「戦い」「虐殺」「ケンタッキー丘の抗争」「ビッグアレイの銃士たち」「エルダー・ブッシュ・ガルチの戦い」といった作品はすべて戦争や争いがテーマであり、これらの作品づくりの経験が、彼の後のインデペンデント大作「国民の創生」(1915)、「イントレランス」(1916)に結びついていると見ることができます。この大作2作については後に述べますが、あれだけ大規模な作品ですから、その構想はすでにこの頃から練られていたのではないでしょうか。
●メエ・マーシュ
●メエ・マーシュの主演作「虐殺」1911
がけ下の戦闘シーンは、のちの「国民の創生」(下)の戦争シーンにそっくり
●「国民の創生」1915
つづく
●「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード
1908年暮れにエディスン社を軸に映画特許会社を構成したMPPC(Motion Picture Patent Company)は、想定していたメリットを生み出すには至りませんでした。彼らの悪辣な妨害を嫌った映画人が、東のニューヨークを避けて西海岸で映画を作り始めたのです。その拠点が新天地ハリウッドでした。
●第二次映画戦争始まる
映画の人気の急激な高まりは、全米映画市場の独占をめざす「エディスン・トラスト」、つまりMPPCの製作だけでは供給を満たすことができなくなってきました。
彼らはフィルムの長さの単位が1本300メートル(1000ft)であるところから、手回しで15分程度の短編に制限していたのですが、それでは1回1時間半から2時間におよぶ興行で何本ものフィルムを上映しなければならず、アイディアが続きません。
また、監督たちの中には、もっと長い作品を作りたいという欲求が湧き上がっていました。それ以前に、観客がそれを欲するようになっていました。
●ニッケル・オデオン 1906
こうした市場背景の中で、意欲的な製作者や監督たちはMPPCの傘下で作品を製作する限界を感じるようになりました。MPPCに加盟していない映画会社はここぞとばかりに結束し、彼らだけのトラスト「ゼネラル・フィルム・カンパニー(GFC)」を結成して張り合いました。
ところが1912年頃の状況を見ると、MPPCとGFCの二つのトラストを合わせても、ニッケル・オデオンの半数以上しかフィルムの需要を満たすことができず、他社の入り込む余地が残されていたのです。そこを押さえたのが、自らをインデペンデントと称する独立系映画会社で、その筆頭がカール・レムリ(カール・レムレエ)率いる「インデペンデント・モーションピクチャー・カンパニー(IMP)」でした。
●カール・レムリ ●D・W・グリフィス
一方、MPPCとGFCに所属していた映画人の中にも、トラストの枠から外れたいという人たちがインデペンデントの旗印を掲げました。MPPCの一員、バイオグラフ社の看板監督にのし上がっていたD・W・グリフィスもそう考えている一人でした。
●独立系映画人は、西部へ移動
インデペンデントによる映画づくりは、当然MPPCやGFCの領域を侵すことになります。MPPCは特許という法律を盾に、撮影現場や編集スタジオに手下を差し向けて映画づくりを妨害しました。
インデペンデント側では世論に訴えると同時に、1900年に成立していたシャーマン・トラスト禁止法を持ち出して法廷闘争を展開しました。第二次映画戦争とも言うべき映画トラストとインデペンデントとの法廷闘争が始まりました。
●ニッケル・オデオン「レックス・シアター」の盛況 1912
その終結まで、1914年から1918年までの第一次世界大戦を挟んでまた10年近くもかかるのですが、その間インデペンデントの映画人は、MPPCの実力行使の魔手をかいくぐり、あたかも自分たちが製作している幌馬車隊の西部劇のように、ニューヨークから大陸横断鉄道で西の果てへと逃れていきました。そして彼らが落ち着いたところ、そこが「ヒイラギの林」を意味するハリウッドでした。
●ハリウッドに足りないものはない
この場所に目を付けて最初に撮影所を作ったのは、実はMPPCの一員シーリグ社でしたが、グリフィスの所属するバイオグラフ社も、1910年には撮影隊を派遣して映画づくりを始めました。また独立系カール・レムリの「IMP」も、対抗意識をあらわにして、1912年にハリウッドに拠点を構えました。
●上/1905年のハリウッド 下/バイオグラフ社の撮影所 1910
当時のハリウッドは、家屋がまばらに点在するだけの僻地でした。けれども大都会ロサンゼルスに近い上、海、峡谷、砂漠といった自然のロケーションにも優れ、その上ほとんど雨が降らない好天続き。それこそ映画づくりの格好の舞台だったのです。
またインデペンデントの映画会社にとっては、いざMPPCの魔手が延びても、隣のメキシコに逃げ込めば安全というメリットもありました。
アメリカではこうして、それまで東海岸で興隆してきた映画製作が次第に西海岸に移行。トラストと独立系が競合しながら映画製作を始めたことで、映画の都ハリウッドの繁栄がスタートしたようです。
ただ、製作以外の配給部門、宣伝部門、財政部門などはそれまで通り東海岸で継続されたため、映画産業は東海岸と西海岸とで別の役割を担うようになります。
●メガホンで演技を指示するグリフィス(右)
グリフィスはハリウッドに移る前に、ニューヨークの古いホテルに設けられたバイオグラフ社の撮影所で、「淋しい別荘」「ニューヨークの帽子」「インディアン女の恋」など、前回に述べたフローレンス・ローレンス、メアリー・ピックフォード、リリアンとドロシーのギッシュ姉妹、メエ・マーシュらを起用した短篇をたくさん撮っています。
●メアリー・ピックフォード主演のサスペンス映画「淋しい別荘」1909
中でも1911年から12年に製作された「戦い」「虐殺」「ケンタッキー丘の抗争」「ビッグアレイの銃士たち」「エルダー・ブッシュ・ガルチの戦い」といった作品はすべて戦争や争いがテーマであり、これらの作品づくりの経験が、彼の後のインデペンデント大作「国民の創生」(1915)、「イントレランス」(1916)に結びついていると見ることができます。この大作2作については後に述べますが、あれだけ大規模な作品ですから、その構想はすでにこの頃から練られていたのではないでしょうか。
●メエ・マーシュ
●メエ・マーシュの主演作「虐殺」1911
がけ下の戦闘シーンは、のちの「国民の創生」(下)の戦争シーンにそっくり
●「国民の創生」1915
つづく
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