066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…グリフィス② [表現の功労者]
066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…
デビッド・ウォーク・グリフィス―②
● 「アメリカの恋人」と呼ばれたメアリー・ピックフォード
1905年には全米でわずか数100軒だった「ニッケル・オデオン」(映画館)は、1908年には10,000軒を突破。
映画産業急成長のさなかの1907年、エディスン社で俳優としてデビューしたD・W・グリフィスが本当に映画づくりの面白さを知ったのは、エディスン社のライバルであるバイオグラフ社に移ってからでした。
●俳優をやめて、監督業に
バイオグラフ社に入ったデビッド・グリフィスと妻のリンダ・ア-ヴィドスン。その最初の仕事は、場末のペニー・アーケードなどで需要が続いている同社の売り物、覗き見式「ミュートスコープ」向けパラパラ動画への出演でした。一方グリフィスは短編映画のアイディアやシナリオも書き続け、採用されるとギャラに加えられるようになりました。
●コインを入れて覗き見るパラパラ動画「ミュートスコープ」
こうして夫婦で10本ほどのパラパラ動画に出演した頃、妻のリンダが活劇映画の主役に抜擢されました。「ニッケル・オデオン」で上映されるのです。グリフィスは脇役として出演したのですが、完成試写で自分の演技を見たグリフィスは失望。二度とカメラの前に立ちたくないと思いました。それがかえって、俳優よりも監督への志向を強めたのでした。
●D・W・グリフィス
その夢が実現したのは1908年6月のことでした。上層部につながりを持つ撮影技師ビリー・ピッツァ―が推薦してくれたのです。今では「国民の創生」「イントレランス」という超大作の監督として知られるグリフィスですが、最初からスケールの大きい作品を作っていたわけではありません。「ドリーの冒険」。それがグリフィスの監督デビュー作でした。240メートル。10分ほどの短編です。
少女ドリーがさらわれて、馬車に引かせた荷車の樽の中に閉じ込められてしまいます。疾走する馬車の揺れで樽のひもは緩み、ドリーを閉じ込めたまま樽は路上に。疾走する馬車。転がる樽。そしてとうとう樽は河に落ち、波にもまれて流されていきます。流れは次第に急流となり、あわや、というときに釣り人に発見され、無事にドリーは助け出される、というお話です。
●名優との出会いが創作意欲を拡大
「ドリーの冒険」は大ヒット。グリフィスはバイオグラフ社の監督として、映画特許会社(MPPC)の決まりに添って毎週300メートルの作品1本と150~200メートルの作品1本を作り続けることになりました。その一方で、俳優の採用やスカウトも任されるようになりました。急カーブで発展途上の映画界は、ライターや監督に限らず、常に新しい俳優を必要としていたのです。
実際にグリフィスは「ドリーの冒険」で、アーサー・ジョンスンという青年をスカウトしました。また、ヴァイタグラフ社から引き抜かれ、衣装やシナリオにも堪能な女優、フローレンス・ローレンスを自分のシリーズ作品に起用しました。そして、ビリー・ビッツァ―とはその後コンビを組むようになります。
●フローレンス・ローレンス ●ビリー・ピッツァ―
また翌年グリフィスは、エディスン社から移籍したばかりのマック・セネットに勧められて、彼の主演による「カーテンレール」という短編も作っています。
フランスのコメディアン、マックス・ランデを尊敬するセネットのプランによるもので、長いカーテンレールを馬車に横に積み込んだために起きるドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)ですが、あたかもフランスの喜劇映画を見るような味わいがあります。
けれどもはじめは誰でも先駆者の模倣から始まるもの。細かく見ると群集劇としての演出やカット変わりの編集の仕方などに、すでにグリフィスの才覚が現れている作品と見ることができます。
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●時代背景 1908年、T型フォード生産開始
馬車に代わってドタバタコメディに自動車がバンバン登場するようになります。
このように彼がすぐに監督の仕事をこなせたのは、戯曲やシナリオの修行を積んできたからこそ、といえるでしょう。まるでアメリカン・ドリームを絵に描いたような絶好調な滑り出し。いや、反対にこのようなサクセスストーリーからアメリカン・ドリームという言葉が生まれたのかもしれませんね。
●俳優に厳しかったグリフィス
当時のD・W・グリフィスの幸運は、たくさんの名優に恵まれたことでした。1909年、16才のメアリー・ピックフォードを起用。5才からステージに立っていたメアリーはバイオグラフ社で70以上の作品に出演していましたが、グリフィスの元でスリラーや西部劇などに出演し、役柄の幅を広げて有名になり、「アメリカの恋人」と呼ばれるまでになりました。
●1910年頃のニッケル・オデオン 完全な映画館スタイルが確立している
グリフィスは立場を利用して女優たちと付き合うようなことは決してしませんでした。それは演技指導には役に立たないとして、むしろ厳しい姿勢を貫いたといわれています。(女優の奥さんが同じスタジオで仕事をしていたからかも知れない、なんて)
有名になったメアリーは21才でグリフィスの元を離れます。別れ際にグリフィスが彼女に言った言葉は「君を作ったのは私だということを忘れるな」。
そんなグリフィスにとっていちばんの収穫は、メアリーがスタジオに招待したリリアンとドロシーのギッシュ姉妹に出会ったことでした。彼はとりわけリリアン・ギッシュに関心を寄せました。
●リリアン(左)とドロシー(右)のギッシュ姉妹
●ドラマの盛り上げ方を編み出したグリフィスの手腕
1912年製作の「見えざる敵」では、拳銃の大胆なクロースアップが部屋に閉じ込められたギッシュ姉妹の恐怖を観客に共有させます。
家に電話をかけても通じない父親の心配。ようやく仲間に連絡が取れても、途中のアクシデントでなかなか車が到着できないもどかしさ。それが姉妹と車の仲間を交互につなぐ(カットバック or クロスカット)ことによって危機感を高めていきます。やがて姉妹の恐怖は極限に達し、健気にも意を決して拳銃を奪おうとする姉。が、銃口を向けられて卒倒してしまいます。
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この作品では、彼の師であるエドウィン・ポーターが作った「あるアメリカ消防夫の生活」のような、誰が何をやっているのかよく分からないといった撮り方やつなぎ方は全くみられません。
●エドウィン・ポーター「あるアメリカ消防夫の生活」(1902)では、
まだ全身像の描写から抜け出せなかった。
ポーターの映画では人物はすべて全身像だったからなのですが、グリフィスは正面から、脇から、引いたり寄ったりして自在にカメラポジションを移すと同時に、カメラアングルとフレームサイズを変えています。どのように撮り、どのようにつなげば自分が伝えたいことを表現出来るか。それは彼が短編製作の中で試行錯誤の末編み出した手法であり、それがとりもなおさず<映像で語る>ということの実践であったのです。
ここにはすでに、今日の私たちが観ているサスペンス映画と同じ手法によってドラマの興奮が高められているのです。
■「見えざる敵」のカットバック
左の室内と右の野外の情景が交互につながれて同時進行を表している
また人物の大きさが、全身からクロース・アップまで変化に富んでいる
① ②
③ ④
⑤ ⑥
⑦
これらの俳優たちが、そしてこれらの作品づくりの経験が、グリフィスの頭の中でおぼろげながら揺らいでいる新しい構想を次第に明確にしてくれることになります。けれどもそれは数年先のこと。今、彼が目の前の現実として注目しなければならなかったのは、1910年にジョバンニ・パストローネが発表した壮大な歴史劇「トロイ陥落」の大成功に代表されるイタリア映画の躍進ぶりでした。
●アメリカで本格映画会社と呼べるかたちの芽生え
ところで、1900年代早々から人気急上昇の「ニッケル・オデオン」ですが、その経営やショー・ビジネスなどを足掛かりにして、1910年前後からその後のアメリカ映画界を代表する傑物たちが台頭し始めていました。彼らの多くはユダヤ人で、東欧や中欧からの移民でした。
ポーランド移民の4兄弟ワーナー・ブラザーズは1903年にニューキャッスルにストア・ショーの「カスケード座」を開業後、1923年に「ワーナーブラザーズ・ピクチャーズ」を設立します。。
のちに「パラマウント映画」の創設者となるアドルフ・ズーカーはハンガリー生まれの毛皮商でしたが、エドウィン・ポーターの「大列車強盗」の人気を見て、映画の隆盛を予見。毛皮工場で働いていたオーストリア移民のマーカス・ロウといっしょに「ニッケル・オデオン」を始めます。マーカス・ロウはその後1910年に「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」の設立に参加します。
ハンガリー生まれの裁縫師ウィリアム・フォックスは1906年にブルックリンに「ペニー・アーケード」を開館したことを皮切りに、1909年にはニューヨークに本格的な映画館「シティ劇場」をオープンします。こうして地盤を整えたのち、1915年に「20世紀フォックス」を立ち上げます。
「ユニバーサル映画」の創始者、ドイツ生まれの洋服セールスマン、カール・レムリ(カール・レムレエ)は、1906年にショー・ハウスを開館しますが、次第に映画作りに舵を取り始めます。
また、「コロンビア映画」は一足遅れて1917年に、カール・レムリの秘書を経て業界のマナーを学んだ、軽演劇の役者上がりのハリー・コーンにより創設されます。
●カール・レムリ
彼らにはまだ映画を新しい産業として推進しようなどという高邁な考えはありませんでした。ましてや芸術などとは思いもよりませんでした。ただ、それまであいまいだった「製作」「配給」「上映」を個別の事業として明確に区別して利益を上げようとする、はっきりとした目的がありました。
アメリカの映画事業者たちは、映画は決して知的なものでも高尚なものでもなく、ただ自分たちのような移民が体験した苦境を忘れさせ、低所得者層の願望をひと時なりとも叶えて上げたいという心意気がありました。そのあたりが、娯楽重視のアメリカ映画を形作った根幹をなしているのかもしれません。
1908年には彼らも、トーマス・エディスンの肝入りで発足した映画特許会社(MPPC)に無理やり組み込まれた興業者の一人ということになります。従ってMPPCは、彼らの精力的な動きに対して最初からかなりの無理をはらんでいたためにやがては瓦解せざるを得ないことになるのですが、それはまだまだ先の話です。
つづく
★掲出の動画は本来サイレントですが、音楽・効果音は後世に公開当時を想定して擬似的に付けられたものです。