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056 ヒーローわんちゃん、ローヴァー! [黎明期の映画]

056 撮影所ラッシュで映画産業本格化

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●「ローヴァーに救われて」1905 ご主人に急を知らせるローヴァー 動画あり


  20世紀の声を聞くと同時に、欧米中心だった映画は一気に世界に広まっていきます。頭角を現してきたのはデンマーク、イタリア、ロシア、ドイツ、インドなどです。フランス、アメリカ、イギリスなど映画先進国では撮影所ラッシュが続きます。撮影や映写機材が進化して長尺のフィルムが使えるようになると、編集技術も発達し、映画の内容も俄然面白くなってきました。観客人口も増え映画館も建ち始めました。こうした循環の変化とニュー・メディアとしての魅力づくりとの相乗効果により、映画がいよいよ新しい産業として動き始めたのです。


●フランス……パテ・フレール社、独走態勢で世界初の映画帝国を確立

 エディスン社の蓄音機販売から巧妙な営業力で成り上がったシャルル・パテは、映画が単なる場末の見世物ではなく、事業として本格的な投資に値するものであることを見抜くと、積極的に資金を投入しました。

1901年からのパテ・フレール(パテ兄弟)社は、ヴァンサンヌに建てた最新設備の撮影所を拠点に、撮影機と映写機の製造・販売、フィルムの製作・販売・レンタル、直系映画館チェーンでの興行という映画の総合商社ともいうべき事業を立ち上げました。

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●1906年 パテ社撮影所              ●シャルル・パテ  

1905年初めにおけるパテ・フレール社のフィルム製造量は1日12,000メートル。映画制作本数は、大先輩のリュミエール社が年間4~500本、最盛期にあるジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社が350本と

いう数字に比べて500本にもおよび、完全に両巨頭をしのぐまでに成長したのです。
 本数を聞くとびっくりしますが、制作されるフィルムは相変わらず短いもので、喜劇、トリック映画、キリスト受難劇、恋愛劇、ニュース再現フィルムなどでした。また喜劇や社会劇のジャンルではフェルディナン・ゼッカという人物が活躍していました。

 フェルディナン・ゼッカは元は芸人で、トーマス・エディスン発明の蝋管蓄音機のナレーターとして詩の朗読などをやっていたのですが、映画が盛んになってくると役者に転身。1900年、パテ・フレール社に雇われると役者の演出にも力を発揮して、翌年には早くも監督に昇進。1902年にジョルジュ・メリエス「月世界旅行」が発表され人気を呼ぶと、たちまちパテ版の「月世界旅行」を作り上げてしまいます。以後はメリエスの向こうを張って、数々のトリック映画やコミカルな喜劇を作り出します。  


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●1907年 パテ社現像工場 木枠にフィルムを巻きつけ、現像液槽に浸して現像 


 その後もパテ・フレール社の独走態勢は留まることを知らず、1906年にはアメリカのイーストマン・コダック社に対抗してフィルムの生産工場を自社に建設。 1907年には関連会社10社を傘下に収めたパテ・トラストともいうべき独占形態を作り上げました。今日の映画製作会社の原型のようなものです。
 また、1908年からは史上初の週刊ニュース映画の製作を始め、フェルディナン・ゼッカを総責任者として運営に当たらせ、ニュース映画専門館「パテ・ジュルナル」をオープンします。

一方、パテ・フレール社のライバルであるゴーモン社も急速成長を遂げていました。

1905年に建てた撮影スタジオはパテ・フレール社の撮影所をしのぐ規模でした。そこでは数年前エディスンが発明したばかりの蓄電池が、早速人工照明用に採用されていました。またここでは、4輪運搬車に搭載した50アンペアのアーク灯と水銀灯を3040基ほど備えていましたが、雨の日は光量不足で撮影所内での撮影は休みになりました。なお、ゴーモン社のこのスタジオは1915年まで世界最大規模でした。

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●1906年 ゴーモン社撮影所

 この撮影所の製作責任者に、レオン・ゴーモンはこれまで記録からドラマまで幅広い分野で実績を持つ女流監督アリス・ギイを抜擢しました。アリス・ギイは当初、ゴーモン社が開発した撮影機や映画音声装置「クロノフォン」などを販売するためのPR映画やバレエ映画、コメディなどを作っていましたが、1900年以降は劇映画に転じ、次第に長編を撮るようになりました。

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●レオン・ゴーモン        ●世界初の女流監督 アリス・ギイ
 
 1905年には「ラ・エスメラルダ」を。また1906年には完成したばかりのスタジオに豪壮なセットを組み、上映時間33分、300人ものエキストラを動員した「キリストの生涯」といった長編映画を意欲的に製作しています。そのスケールは後にご覧いただくことになるイタリア映画の歴史劇大作に勝るとも劣らない迫力を備えていると思います。なお、アリス・ギイのゴーモン社での活躍は1909年までで、その後は夫ともにアメリカに渡り、1910年からはあとで述べることになるハリウッド草創期の銀幕を飾る映画づくりを開始します。

●イギリス……編集の意識も飛躍的に進んだ

 ここで、1905年、イギリスで発表されたセシル・ヘプウォース作、「ローヴァーに救われて」をご覧頂きましょう。後の有名なテレビ映画「名犬リンティンティン」の原型とも言われる、名犬を主人公にした作品。ワンちゃん大好きというみなさんは絶対に見逃せない作品ですよ。

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 愛する幼子が誘拐され、悲嘆にくれている父親。そこへ愛犬ローヴァーが何かを伝えに来ます。彼の娘を見つけたことを教えようとしているのでは。ローヴァーに導かれて家を出る父親。ボートで川を渡り、とある街区へ。ローヴァーの案内で誘拐犯の家を突き止めると、屋根裏部屋には娘を誘拐した酔いどれ老女が。相手が相手ですからアクションの見せ場はありませんが、父親は無事に娘を取り戻して一家全員喜びにくれるのでありました。
 


 ヘプウォース本人が物語を考え、監督と主役を演じ、奥さんと幼い娘、そして飼い犬のローヴァーが出演しています。家族総出で作った映画が映画史に残るのですから、いい時代でした。それにしても、悪役の酔いどれ女は誰が演じたのでしょう。
 短い作品ながらこの映画が映画史で語られるのは、それまでに見られなかった飛躍的な映画表現がなされているからです。それはカットが変わってもローヴァーの動きが上手につながるように編集された滑らかな方向性の表現と、緊迫感を盛り上げるみごとなカットつなぎです。

この映画では場面ごとに必要な時間だけがカメラで切り取られ、自宅室内、街頭、川辺、老女の室内、自宅、と次から次へと場面が変わっていくことでスリルを盛り上げています。不要な時間が省略されているために映像の展開に弾みがついているのです。この映画の3年前に世界的に話題を呼んだエドウィン・ポーターの「大列車強盗」ですら乗り越えられなかった、「1場面1カット」の枷を見事に超越して、カットの長短の変化が画面のリズムを生む、ということがこの作品では実証されています。

 
大事なのはカットの長さ。それを計算したカットつなぎが映画で語ることの基本。この映画言語のもっともベーシックな技法が認識されたことにより、映画はどんどん映画ならではの言葉を話すようになり、映画ならではの表現力を備えていくようになるのです。


●アメリカ……エディスン社がリード

世界  さて、もう一方の雄、アメリカでも撮影所ラッシュという有様が続きます。
 
19021903年当時、映画館と呼ばれる形式の建物は全米でわずか40館程度でしたが、あの「大列車強盗」の大成功により、映画人口は加速度的に増加することが予想されました。それまでのペニー・アーケードは一様に「ニッケル・オデオン」への移行の様相を示してきました。そのために「ニッケル・オデオン」へ客を呼べる作品作りを先行させなければなりません。

1906年、エディスン社はブロンクスに10万ドルという巨費を掛けて撮影所を建設。「ニッケル・オデオン」向けの1巻ものの小品ですが、月67本の製作体制を組みました。

7  edison 7.jpg●トーマス・エディスン  
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●1906年 エジソン社撮影所
  
 この年、ウィリアム・ディクスンが所属しているバイオグラフ社も撮影所を建設。同社ではまだ「ニッケル・オデオン」よりミュートスコープ用フィルムの売り上げが大きかったのですが、すぐに逆転することが読めたので、撮影所の必要性を感じたのでした。


ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン

ヴァイタグラフ社1906年に撮影所を開設しました。製作にはエディスン社のエドウィン・ポーターの下で働いていた、スチュアート・ブラックトン、アルバート・スミスといった優秀な人材が流れてきました。彼らは提携先の「ニッケル・オデオン」が週4本上映を組めるよう、月6作の制作を実現していました。作品の内容は喜劇やトリック、短編ドラマなどの娯楽作品ですが、3社の中で最もグレードが高いと評判でした。

 ヴァイタグラフ社はこの年にはヨーロッパ支社を開設するほど業績も快調で、1907年頃には自然発生的に撮影所の周りに機械関係、建具関係、ペンキ屋、園芸屋、印刷屋などが立ち並び、撮影所城下町を形成するようになりました。

エドウィン・S・ポーター.jpg●エドウィン・ポーター(エディスン社)


●タマゴが先か、ニワトリが先か

 映画が誕生したばかりの頃、発明者のリュミエール兄弟もエディスンでさえも未来のかたちを予測できなかった。その映画を産業にまで高めたものは何だったのでしょう。そのために最初に動いたのは業界か。それとも大衆からの要請で業界が動き始めたのか。「卵が先か、ニワトリが先か」。でもそれはどちらでもいい。社会的な支持さえ得られれば、その動きは相乗効果を生み、どちらもいい方向へ転がり始めていく。映画の発展は物事がうまく回転する場合の好例ではないでしょうか。 

つづく



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コメント 4

さる1号

家族総出で出演、ほのぼのした感じがいいですねぇ
家族相手ならワンコも息があいますね^^
by さる1号 (2015-06-10 07:38) 

路渡カッパ

こんにちは。
女流映画監督がこんな早い時期に誕生してたのは、さすがですね。
名犬ものと言えばラッシーもいましたね、同じくコリー犬でした♪
ワンちゃんの演技もいいですね、船に乗るように促してから自分は泳いで案内するところなんか感心しましたよ。(d'∀')
by 路渡カッパ (2015-06-10 12:24) 

sig

さる1号さん、こんばんは。
家族そろっての息の合った作品ですが、この作品がどのようないきさつで作られたのか、その動機を知りたいと思いました。おそらくヘブウォースに「自分ならもっと面白いものを作れる」という狙いがあったのだと思いますが、まとまって支えあっているいい家族ですよね。

by sig (2015-06-10 19:26) 

sig

路渡カッパさん。こんばんは。
何でも新しい仕事が生まれたら、すぐに飛びついた方が勝ちですね。前例がない分、すべて自分で切り開かなければならないわけですが、それもまた楽しからずやですよね。
ラッシーは1957年からで、リンティンは1年あとからなんですね。でも、その頃いなかにはTV電波が届いていなかったので、観てはいませんが。笑
それにしても本当にこのワンちゃんは、素晴らしい演技を見せてくれていますね。

by sig (2015-06-10 19:44) 

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