SSブログ

049 100年以上経って、何が進歩したか [1900年、パリ万国博]

049 100年以上経って、何が進歩したか。
 1900年、パリ万国博覧会―4   まとめと日本の万博所感

P1050942-2.JPG  P1050939-2.JPG
●EXPO70 

 前回からのつづきです。

20世紀の博覧会は、総じて映像博なのですが…
  私の記憶にある万国博覧会(万博)。それは1970(S45) 年に大阪千里丘陵で開催された「EXPO70
/日本万国博」と、1985(S60) 年の「科学万博-つくば85」です。この二つの万博は経済成長の絶頂期ということもあって、主要各国のパビリオンや日本企業のパビリオンは超大型の映像展示に多額の経費を投じ、それは絢爛豪華なものでした。

EXPO70.JPG
●1970年「EXPO'70」日本万国博

つくば85 マルチ映像.JPG
85 つくば博 マルチ映像.JPGつくば85 ホログラフィ.JPG
●1985年「科学万博つくば85」上2枚は大型マルチ映像
 下はホログラフィによる立体映像展示

 メインは当時の最先端映像技術を反映して、前者はマルチスクリーン、後者は大型映像のオンパレード。見世物としてのスペクタクルを、それはそれは華やかに盛り上げていました。
 それはまさしく、100年以上前に考えられた気宇壮大なアイディアに当時の技術が及ばなかった無念さを晴らして上げるかのように、今日の進んだ技術力で完璧に作り上げて見せた世界でした。今、私たちの生活を支えている高度な技術のほとんどは、19世紀が考え出し、20世紀が作り上げたのだと確信せずにはおられません。

 けれどもその後日本経済は成長を止め、わずか1990(H2) 年に大阪鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会(花博)」の開催を見たばかり。それとても、目だった新技術が無いところを、たまたま「宇宙船地球号」と唱える世界的な自然回帰・環境保護の時代に救われて、金を掛けない庭園博で済ませてしまったものでした。
  博覧会とは本来、技術の進歩を誇示し人類の躍進を約束するものでした。その意義が希薄になってしまったのです。 

89横浜博 宇宙シミュレーション NEC.JPG   
               89横浜博 IMAX.JPG
●1989年「横浜博覧会」(地方博)におけるアイマックス上映と双方向シミュレーションシアター

 
それ以後も「安定成長」と呼ぶ欺瞞の元に減速経済は更に進行し、博覧会はもっぱら地域おこしを標榜する小規模な地方博の時代へと推移。その地方博すらも消滅して今日に至っている訳ですが、目玉にしたい新しい展示手法と言ってもせいぜい大型4Kシアターくらい。博覧会そのものの魅力が大きく退化したという感じを免れません。
  そしてその内容も、100年以上前のアイディアをただ単に今日の先端技術でなぞったに過ぎないのではないかとさえ思えてくる状況。映像という側面ひとつをとってさえ、それほど「1900年パリ万国博」は、情熱と冒険心と実験性にあふれた熱狂的なものだったのです。

05愛・地球博 2005inchレーザードリームシアター.JPG
05 800inch 3D HDシアター.JPG
●2005年 名古屋「愛・地球博」
 上/2005インチ「レーザードリームシアター」
 下/CGによる立体映像シアター


  翻って現在の国内情勢を考えたとき、バブル崩壊後今日に至るまで、超長期の減速経済下で、国も自治体も企業さえも疲弊して意気消沈のまま。この状態では国民の間に厭世感が蔓延してしまいそうです。唯一の救いがオリンピック/パラリンピックですが、これでいいのか日本。技術立国の誇りはいずこに。みんなが一丸となって経済発展に打ち込んできたあの心意気よ、もう一度……。

 4回にわたって100年以上前の意気軒昂だった国際イベント「1900年パリ万国博」を展望しながら、自国を振り返って感じたのはこのことです。日本も決して負けてはいなかった。アイディアと技術力で躍進してきたあの頃の自信の復活と士気高揚を願う理由はそこにあるのです。


 ●パリ万国博覧会の明と暗
  余談ですが、映画発明の先駆者として評価され、社会的にも成功したエティエンヌ・マレーと対照的なのは、1888M21)年に「テアトル・オプティーク」で大好評を博したエミール・レイノウです。

 エティエンヌ・マレー.png  1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●映画撮影・映写機のプロトタイプといわれる「フィルム式クロノフォトグラフ」
 を発明したエティエンヌ・マレー

エミール・レイノー.jpgレイノウのテアトル・オプティーク1893.jpg
●エミール・レイノウと「テアトル・オプティーク(光の劇場)」

 彼が一手でその興行を請け負っていたグレヴァン博物館では、次第にリュミエール社の世界ニュースやゴーモン社の実写フィルムなどを採り入れるようになりました。そのため、7年間に亘って延べ50万人以上も動員した「テアトル・オプティーク(光の劇場)」でしたが、時代の流れには抗し切れず、パリ万国博が始まる直前の1900(M33)年3月に、遂に興行を外されてしまったのです。

 彼の悲劇は、出し物について、例の繰り返しのエンドレス方式ではなく、当時はだれも考えなかったストーリー性を重視したことにありました。そのために彼は「テアトル・オプティーク」という独自の方式を開発した訳ですが、実は映画の発展にとってそこが一番大事なところだったのですが、時代はそのことにまだ追いついていませんでした。彼は時代を先取りしすぎたのかもしれません。
 撮影機、映写機といったハード面が先行し、フィルムの規格がエジソン社(のウィリアム・ディクスン)が考えた35ミリ幅の映画フィルムがデファクト・スタンダードとなると、その方式がたちまち広まってしまい、それ以外の上映方式をいつまで維持できるかは時間の問題だったのです。

 落胆したレイノウは、自分の発明の一切を消滅させようとしました。「テアトル・オプティーク」の装置を打ち砕き、7本の作品のうちの5本を、闇にまぎれてセーヌ川に沈めてしまったのです。レオン・ゴーモンが工芸学校に寄贈したいから「テアトル・オプティーク」の装置一切を売ってほしいとレイノウを訪れたのは、その数日後のことでした。


●パリ万博の閉幕を待っていたかのように
 いろいろな話題を残して「1900年パリ万国博」は閉会しました。「映画」というニュー・メディアを生み出したフランス。中でもパリはそのメッカとしてたくさんの事業家を輩出して世界をリードするようになりましたが、新世紀、1900年代初頭を飾る中心人物は、やはりあのジョルジュ・メリエスでした。

 万博記録映画の製作も一段落を迎えたジョルジュ・メリエスは、すぐさま兼ねてから頭の中にしまっていた次のアイディアに取り掛かりました。その結果、またまた奇想天外な作品を作り上げて、世界をあっと言わせるのです。 

  ところで、この第5回パリ万博の翌1901年の暮れ。シカゴ近郊のトリップ・アベニューという静かなベッドタウンで、女の子といってもいいくらいにかわいい男の子が誕生しました。彼はこの家に4男として生まれましたが、8年ぶりにできた子ということもあって、母親はフリルの付いたかわいい洋服を着せて愛情いっぱいに育てました。
 この子の名は、一家が懇意にしていた聖パウロ会のウォルター牧師の名をもらって、ウォルター・イライアス・ディズニーと名付けられました。
                                          つづく

P1050418.JPG●ジョルジュ・メリエス

★お待ちどうさま。ようやく「月世界旅行」にたどり着きました。次回をどうぞ。

 

デル株式会社エプソンダイレクト株式会社





nice!(39)  コメント(196)  トラックバック(1) 
共通テーマ:映画