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041 世界初。女流映画監督登場。 [草創期の映画]

041  メリエスが牽引した、映画の19世紀末         

      世紀末、混迷の映画世界-1 


   「ゴーモン社」「パテ・フレール社」「スター・フィルム社」

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●時代背景/19世紀末 パリ、シャトレ広場



20世紀まであと5年という1895年12月28日に誕生した映画(フォト・アニメ)は、わずか1~2年のうちに、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」 とそれに続くトーマス・エディスンの「ヴァイタスコープ」を中心に(中心にと言うのは、亜流も出回ったから)、あっという間に世界中に広がりました。映画は誰もまだ体験したことの無かった驚きを伴って19世紀末を彩りました。それはまた、映画がたどるべき道を模索する混迷と葛藤の始まりでもありました。


今回はパリを中心に、2,000年に至るまでの関係者の動向を追ってみることにしましょう。


●フランスでは、リュミエール兄弟、メリエス、パテ、ゴーモン


「シネマトグラフ」と「ヴァイタスコープ」の登場は、直ちに世界中で映画市場と言う全く新しいマーケットを急速に形成しつつありました。1896年。フランスではリュミエール社をトップに、2番手にトリック映画という独自の展開を編み出したジョルジュ・メリエスが付き、3番手はシャルルとエミールのパテ・フレール(パテ兄弟)社。レオン・ゴーモンのゴーモン社は少し遅れて映画製作を開始しました。遅れた理由は新しい撮影機を開発していたためで、そのカメラは「クロノ・ゴーモン」という名で1897年春に誕生します。

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●アリス・ギイ
                          ●レオン・ゴーモン

 そのカメラを回してゴーモン社で初めて映画を撮影したのは、秘書のアリス・ギイでした。ゴーモンが会社の近くを借りて用意させたガラス屋根つきのにわか仕立てのスタジオで、絵描きが背景を書き、衣装は彼女自身が買い集め、出演者は彼女の友だちでした。出来上がったフィルムはさながら学芸会のようでしたが、こうしてゴーモン社の第一作は完成しました。

 アリス・ギイは間もなくゴーモン社の映画製作責任者(プロデューサー)に就任。自ら脚本を書き、演出に当たるようになります。彼女が本当に手腕を発揮するようになるのは20世紀に入ってからですが、彼女は名実ともにゴーモン社の基盤を築いた一人でした。彼女の活躍もあって、ゴーモン社は1898年にロンドンに支社を設置するまでに成長します。

 このように映画は、映画製作と機材の製造販売の2本立て事業に本腰を入れるデペロパーのような役割を担った人たちの手で世界の隅から隅まで広がって行ったのですが、その市場を先導していたリュミエール社は、地元フランスはもちろんのこと、1896年にはすでにニューヨークにも支社を開設していました。

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●もうすっかりおなじみのリュミエール兄弟。



●チャリティ・バザールの大惨事とメリエスの健闘。


ところが1897年の5月。大変な事件が発生しました。シャンゼリゼ大通りの近くに開設される恒例の「チャリティ・バザール」での出来事です。この慈善イベントは、「パリの名士年鑑に載っている人たちに会えたかったらそこに行け」、と言われるほど、パリでもっとも優雅なイベントとして知られていました。貴族や名士の娘など上流階級の着飾った貴婦人たちが自分たちの古着を売り、その売上金を施設に寄付するのです。会場には簡素なつくりの売店、屋台、レストランといっしょに、一番の目玉として人寄せの映画館が作られていました。

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●当時の光学的な見世物小屋(この事件とは関係ありません)



 短期の催しですから、映画館といっても外光を遮られる程度の板張りの粗雑な小屋造りです。映画の上映には簡便な光源としてエーテルランプを使っていたのですが、映写技師が操作を誤ったためにフィルムに引火。当時のフィルムはニトロセルロースですから、爆発的に燃え上がったフィルムから火災が発生し、わずか23分で映画館全体が火の海になってしまったのです。
 出口は一方しかなく、逃げ惑う人たちは次々と煙に巻かれました。火災は瞬く間にバザール会場全体に広がり、あれよあれよという間に死者117人という大惨事になってしまいました。

 翌日の「プチ・ジュルナル」紙は、この事件をトップの全頁を使ってセンセーショナルに報道。公爵夫人はじめ貴族階級の婦人たちまでもその犠牲となったということで、人々は恐怖におびえ、映画は危険なものというイメージがあっという間にフランス中に広まってしまいました。

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●バザール
の大惨事を伝える「プチ・ジュルナル」紙。

 この事件は、どこを覗いても同じようなフィルムしかやっていない映画に対する人々の飽き飽きムードを加速させることになりました。「シネマトグラフ」誕生から1年半ほどで、本場のフランスでは早くも〈フォト・アニメ〉と呼ぶ映画に危機感が漂い始めたのです。


その遠のき始めた足取りを止め、人々を呼び戻したもの。それが次から次へと発表されるメリエスの奇想天外な作品群でした。メリエスのフィルムに対する人々の熱狂は特別でした。

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●ジョルジュ・メリエス           ●ジュアンヌ・ダルシー

 こうした期待と声援を背景に、18977月、メリエスはスター・フィルム社を設立しました。この年だけで製作された作品数は、短いとはいえ80本近くにもおよびました。
 この時点で代表的な作品は「呪われた宿」「催眠術師」「悪魔の魔術」「いくつもの頭を持つ男」「分身の魔術」など、お得意の幻想的な作品が多いのですが、いずれも1巻約1分という作品です。ただ、作品の評価は長さや製作本数ではありません。それだけのアイディアが考えられたというところが他社の追随を許さないところだと思います。



●資金をめぐる皮肉な巡り合わせ。


さて、バザールでの惨事が一段落した頃、メリエスの元にルイ・グリヴォラスと名乗る一人の紳士が訪れました。彼は機械工場を経営している資産家で、奇術アカデミー会員でもありました。以前からメリエスの映画を見て感動し、資金提供を申し出たのです。ところがタイミングが悪かった。メリエスは、その直前に似たような話を持ち込まれて詐欺に遭い、25千フランを失ったばかりだったのです。
 メリエスはすべて自分の力でこれまでやってきたのに、人の力を当てにして失敗したことをとても後悔していました。そこでグリヴォラスの話は無かったものと考え、彼の申し出を丁重に断りました。

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●ルイ・グリ
ヴォラス                ●シャルル・パテ

 グリヴォラスは「それは残念なことですね」と仕方なく引き下がりましたが、次に有望と感じていたシャルル・パテにその話を持ち込みました。
 グリヴォラスは電気工学の技術者でした。1875年に興した会社が時代の花形である電気器具の製造・販売で成功し、銀行、財団の支援を受け、資本金100万フランで経営していました。彼自身マジックを趣味とし、メリエスに傾倒していたのですが、断られたため、次に事業として映画を展開しそうなパテ兄弟に図ってみたのでしょう。

 シャルルとエミールのパテ兄弟は、前年に兄弟たち身内の出資でパテ・フレール社を興したばかりでした。ところがここに10万フランというグリヴォラスの資金援助の話が転がり込んできたのです。パテ兄弟にとっては渡りに船。そこで兄弟は映画事業に本腰を入れる決心が整いました。189712月のことです。


 



 パテ兄弟の目には事業としての映画の将来性がうっすらと見えてきていました。それに対してメリエスはあくまでも芸術家でした。会社を大きくする事業よりも、映画づくりそのものに打ち込んだのです。そこがある意味で人生の分かれ目のようなところがあるのですが、メリエスにとっては例えその結果がシャルル・パテと対照的になろうとも、彼の人生に悔いは無かったのではないでしょうか。
 ですが、それはまだ20年以上も先の話。メリエスのスター・フィルム社は1900年までの5年間、作品数でパテ社の2倍ものフィルムを作り出すほどの活況を呈し、20世紀を迎えてからのメリエスは、(マジックを使わずに)もっともっと大きな花を咲かせて見せるのです。 
                                            つづく

●今回も大好きなジョルジュ・メリエスの2作品をどうぞ。

■「現代の魔術師」1898 40秒
現代の…とは、あくまでも映画によるトリックを手にした1898年の…という意味。メリエス自身と看板女優ジュアンヌのデュエットで演じられていますが、その呼吸は、さすが恋人同士ならではですね。止め写し&差し替えの最高傑作!

 
■「ゴム頭の男」1902 80秒
メリエス短編の傑作中の傑作。こうした発想が浮かぶのは、ゴムのように柔軟な頭を持つメリエスならでは、ですね。その仕掛けを下に示します。
二重撮影による一人二役と、遠近法を利用したトリックです。


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デル株式会社









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