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039 映画は本来、トリッキー [草創期の映画]

039  映画は本来、トリッキー


       ノンフィクションとフィクション-2

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●ボワ大通りにおけるパリ・グランプリの様子 リュミエール撮影 1899(M32)


前回からの続きです。


映画創生期における最初の牽引者と目されるのは、技術的にはそれを発明したフランスのリュミエール兄弟。作品づくりではジョルジュ・メリエス。そして事業として発展させたのはアメリカのトーマス・エディスンといえると思いますが、リュミエール兄弟とエディスンの二人についてのあらましは前回お話しましたので、今回はジョルジュ・メリエスです。

IMGP7901-2.JPG●ジョルジュ・メリエス 


●自分には自分に似合う撮影機を。


ジョルジュ・メリエスはリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開に招待されて、初めて目にする「動く写真」に感動し、これこそ自分の所有するロベール・ウーダン劇場のステージをはるかに魅力的なものにする仕掛けだと考えました。そこで、1895(M28)年12月28日のあの晩、上映が終わるとすぐに兄のアントワーヌ・リュミエールに「この機械をぜひ1万フランで譲ってほしい」と頼みました。



  ところがアントワーヌは「これで私は興行を続けたいと思いますし、中身は秘密ですから売れないのですよ」とやんわり。「古い付き合いじゃないですか」と食い下がっても、「売ってもらえなかったことを感謝すべきかもしれませんよ。しばらくは珍しがられるかも知れませんが、すぐ飽きられてしまうでしょうからね」と断られてしまったのでした。

IMGP7913.JPG●リュミエール兄弟  
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                  ●サン・マルタン大通りのリュミエール映画館 1896年頃

  実際、他では2万、5万という声もかかったのに、リュミエール兄弟は「シネマトグラフ」を売ることはありませんでした。間もなくメリエスのライバルになるシャルル・パテもレオン・ゴーモンも断られた一人でした。
  リュミエール兄弟にしてみれば、一人にだけ売ってあげたとしてもいずれはみんなに分かることだから、これは売らないことが公平、と考えたのでしょう。

  それなら仕方がない。駄目なら自分で用意するまでさ。メリエスはイギリスで〈動く写真〉を作り始めた、光学機械の研究家ロバート・ポールに頼むことにしました。もちろんロンドンへは看板女優で彼の愛人でもあるジュアンヌ・ダルシー嬢がいっしょです。

ロバート・ポール.JPG●ロンドンの光学機器商・映画製作者 ロバート・ポール


ロバート・ポールはすでに述べたように、1894(M27)年末からロンドンで、エジソン系列の「キネトスコープパーラー」を開いていたのですが、覗き見式「キネトスコープ」のフィルムを上映するために、自分で「バイオスコープ(キネトスコープ・ポール)」と名づけた映写機を開発したことでエディスン側からフィルムの供給を止められていました。



   ポールはへこたれずに、かえって自分でフィルムを制作することを考え、その結果、ドキュメンタリー映画の先駆となるのですが、彼は「バイオスコープ」を改良した新式の「アニマトグラフ」をわずか1,000フランでメリエスに譲ってくれた上、エディスン社のフィルムと自分が作ったフィルムも分けてくれました。
 それらの機材とフィルムは、早速ロベール・ウーダン劇場のステージを飾りました。1896(M29)年4月6日。この日はジョルジュ・メリエスにとって、まさに至福の日となりました。



 メリエスも自分で映画を撮るつもりでしたから、技術者を雇うとその映写機の機構を生かして撮影機を作り上げてしまいます。メリエスが使い勝手のいいように作り上げられたこのカメラは「キネトグラフ・メリエス」と名づけられました。これでメリエスにも、思うままに映画を作り、それをステージで活用する手段が整った訳です。  



●何ごとも、はじめは模倣から


この年、メリエスは早速仲間や友だちを集めて1本のフィルムを撮影しました。それはテーブルを囲んでのトランプ遊びの情景でした。そうです。リュミエール兄弟のフィルムにありましたね、「エカルテ遊び(かるた遊び)」。メリエスは全くの真似ではまずいと考え、ビールではなくワインに変えましたが、状況は全く同じ。この他、庭師の水撒きやホームに到着する列車も撮影しました。みんなリュミエール兄弟が撮ったものです。まあ、はじめは小手調べといったところでしょう。



  さて、小手調べのネタが尽きるとメリエスは、カメラマンと35キロの「キネトグラフ」を携えて勇躍パリの街に繰り出しました。オペラ座広場、フランス座広場、イタリアン大通り、ブーローニュの森、コンコルド広場、サン・ラザール駅、バスチーユ広場など、毎日のようにパリの名所が次から次へと撮影されていきました。

  7月恒例の別荘での休日もほとんど撮影に費やされました。周辺の海岸や埠頭で、船の航行や荷降ろしなどの情景が撮影され、ル・アーブルではリュミエールのフィルムにもあるようなゴンドラのへさきからの移動撮影も試みられました。

1896 ヘンリー・フォード.JPG●フォード1号車に乗るヘンリー・フォード 1896

  また「自動車の出発」というフィルムでは、登場したばかりのガソリン自動車が撮影されました。それまで自転車と馬車と電車だけだった街頭風景に、初めて自動車が登場したのです。メリエスのこのフィルムが、映画に自動車が登場した最初のフィルムかもしれません。その自動車のスタイルも、上の写真のようなものでした。これらの映画はロベール・ウーダン劇場の出し物の幕間に上映され、好評を博しました。
  (ちなみにT型フォードは1908年登場ですから、一般に古いサイレント映画でおなじみの屋根つきの自動車が写っていれば、それは1908年以降に撮影されたものと言うことができます)。

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●ジョルジュ・メリエス所有のロベール・ウーダン劇場とポスター


●トリックに向かったジョルジュ・メリエス


先人の模倣からはじめ、身の周りを撮りまくったメリエスは、そこでようやく本当にやりたかったことに着手しました。マジシャンでロベール・ウーダン劇場の支配人兼演出家兼美術監督兼主演俳優でもあるメリエスにとっての映画が本当に目指すところは、実写ではなく「芸術」でした。
  その中にはリュミエール兄弟やエディスンもやっていた、演劇形式による事件の再現フィルムもありました。けれどもメリエスのねらいはなんと言ってもファンタジーの世界を芸術的に創り上げることでした。彼はフィクションの中でももっとも先鋭的なトリックの分野を目指したのです。


彼の頭の中では、いろいろな構想が渦巻いていました。アイディアはすごくても、ステージでは技術的に困難で見送ってきたイリュージョンが山ほどありました。映画という光学的な新しい表現媒体を手にした今、それを実現できるかも知れないのです。


こうなるとフィルムはいくらあっても足りません。幸い撮影用のフィルムは、ロンドンのロバート・ポールがニューヨークのイーストマン・コダック社から箱ごと購入したものをそっくり回してくれました。こうして1896年の末、メリエスの最初のトリック映画が生まれました。

●初歩的なトリックは3つの国で、偶然の一致


「ロベール・ウーダン劇場における婦人の雲隠れ」と呼ばれるその映画は、ある有名な魔術師の出し物をそのまま頂いて映画にしたものでした。照明というものが無い時代ですから、モントルイユにあるメリエスの家の庭に室内のセットを…と言っても書割ですが・・・を組んで、室内の情景が例によって1シーン1カットで撮影されました。魔術師役はいつもの通りメリエス自身。婦人役はジュアンヌ嬢です。

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●ロベール・ウーダン劇場の看板女優 ジュアンヌ・ダルシー


●メリエスの最初のトリック映画「ロベール・ウーダン劇場における夫人の雲隠れ」1896


背景には布に書いた居間の絵を広げ、花柄ドレスのジュアンヌ嬢が椅子に掛けています。魔術師登場。何やら怪しげな呪文を唱えて手にした布を彼女に掛け、さっと取り払うと、彼女の姿は跡形もありません。そこでもう一度布を掛けて振り払うと、何と、彼女の姿はおぞましい骸骨に変わっているではありませんか。更にもう一度呪文を唱えて布を振り払うと、どうでしょう。そこには何事も無かったかのように艶然とほほ笑んでいるジュアンヌ嬢の姿が……というトリックです。

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これは前回、エディスン社で作られた「スコットランド女王メアリの処刑」(前回の動画参照)と同じ止め写しと置き換えの手法です。アメリカではこの技術の発見の経緯は分かりませんが、メリエスはこのトリックの発見について次のように語っています。



  「オペラ通りを撮影していたらフィルムが引っかかり、直すのに1分ほどかかりました。その後そのまま撮影を続けたのですが、現像してみたら、バスチーユ行きのバスがカラスに、歩いている男が女に変わっていたんです」


カメラは三脚に据えたまま。カメラ操作を止めている間に、情景が変わってしまった訳ですね。


面白いことに日本の映画監督マキノ雅弘氏の回顧録「映画渡世・天の巻」にも同じようなエピソードが載っています。お父さんのマキノ省三氏が忍術映画を考えたきっかけです。


「フィルムチェンジをしている隙に、役者が一人小用のためにその場を離れたのを知らなかった。フィルムチェンジが終わって撮り続けたものを後でつないで見たら、役者が一人消えていた。そこから人物がパッと消えることを考えた」



    これらはすべて止め写しの応用です。映画が誕生して間もない時期に、遠く離れたアメリカ、フランス、そして日本で同じようなことが考えられていたことからみても、人の考えることはみな同じ、映画言語は世界共通、の感があるのです。  
                                         
つづく


★次回もジョルジュ・メリエスの話を続けます。


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