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042 元祖「シンデレラ」実写版。 [草創期の映画]

042「シンデレラ」実写版元祖はジョルジュ・メリエス。            


        19世紀末、混迷の映画世界-2 


   リュミエール社の転換とメリエスの進展

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●ジョルジュ・メリエスの「シンデレラ」1899 
 中央は「12時までよ」と指差す妖精  右がシンデレラ


前回からの続きです。



●リュミエール社とAMCの追い上げで窮まったエディスン社


 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」は、1896(M29年早々から始められた「シネマトグラフ世界紀行取材班」ともいうべき技術者の海外派遣が大きなPR効果をもたらし、その名は機材、フィルムともにたちまち世界に広がりました。リュミエール社は本国フランスはもちろん、この年の春にはニューヨーク、ブロードウェイにアメリカ支社を開設すると、全土の主要都市に事業の手を広げ、翌1897(M30)年には支社を拡張しなければならないほどの勢いがありました。

IMGP7913.JPG●リュミエール兄弟 


●登場したばかりの自動車のパレードを撮影したリュミエール社のフィルム2種 1896(M29)
 自動車は馬の代わりにエンジンが搭載されただけ。スピードも自転車並みということが分かる。
  最初のフィルムで゛は、画面中央に手回しで撮影しているカメラマンの姿も写っている。

  トーマス・エディスンが1896(M29)年4月にようやく市場に送り出した「ヴァイタスコープ」 は、リュミエール兄弟に遅れることわずか4ヶ月でしたが、すでに市場は先発の「シネマトグラフ」に抑えられていました。「ヴァイタスコープ」はデビュー当時はエジソンの名前によってそこそこ売れたものの、あとがまったく振るいませんでした。

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●トーマス・エディスン ●元エディスン社社員、現AMC所属 
            ウィリアム・ディクスン


 その上エディスン社は、ウィリアム・ディクスンが転籍した「アメリカン・ミュートスコープ・カンパニー(AMC)」からも、「ミュート・スコープ」と新鋭の映写機「バイオグラフ」によって、「キネトスコープ」の事業を断念せざるを得ないところまで追い上げられていました。

 この時点でエディスンン社は、「キネトスコープ」の役割は終わったと考え、専属代理店だったラフ&ギャモン商会をお役御免として切り捨てました。エディスン社が次の上映式「ヴァイタスコープ」を手にするお膳立てをしてくれた会社です。エディスン個人はその功績を考え、ラフ&ギャモン商会との決別を苦悩したことでしょう。ところがそういうシビアな処断は、大抵営業部長のウィリアム・ギルモアかお抱えの法律家フランク・ダイヤーによってなされるのでした。ところがここにまた、エディスンに救いの神が現れます。

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●ディクスンの退社後、
 エジソン社に営業部長として君臨するウィリアム・ギルモア

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●エディスン社がトーマス・アーマットに改造させた「上映式ヴァイタスコープ」


●リュミエール社、アメリカから撤退


1897(M30)3月。「アメリカはアメリカ人の手で」と自国の産業保護政策をアピールしていた共和党のウィリアム・マッキンリーが大統領に選ばれたのです。これは明らかにアメリカの競争相手をターゲットにした排他政策で、「遡及効果を持つ保護主義」によって外国製品には過去に遡って高い関税が課せられることになりました。 


当時はアメリカも家内工業から資本主義への転換期で、事業家は市場の独占を目指しました。が、その前に外国企業を締め出す必要がありました。フランスのリュミエール社はその矢面に立たされることになったのです。


リュミエール兄弟は初めから、「シネマトグラフ」にはエディスンの(実はウィリアム・ディクスンの)考案によるフィルム仕様(幅やパーフォレーション)を前提にしていることを否定していませんでしたが、案の定、エディスン社はリュミエール社に対して特許侵害の訴訟を起こしました。また、税関からは「遡及」による不法輸入罪をでっち上げられる始末。アメリカ支社の支配人はたまらず、7月末、ハドソン河から汽船でフランスへ逃亡を図るという事件にまで発展しました。

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●リュミエール兄弟の最初の「シネマトグラフ」


その年の末、リュミエール兄弟は不本意ながらアメリカから撤退することにしました。こうしてリュミエール社のアメリカでの活動は1年半ほど、ニューヨークではわずか4ヶ月ほどの短期間で幕を下ろすことになったのでした。リュミエール兄弟はそれまで展開していた「シネマトグラフ」技術者の海外派遣も止めざるを得なくなりました。こうして一時は世界産業にまで発展したリュミエール社でしたが、いちばん反応の良かったアメリカから追い払われてしまったのでした。


1898(M31)9月、リュミエール社は、それまで誰にも売らなかった方針を曲げて、「シネマトグラフ」の販売を決意しました。けれどもその頃には、前年に誕生したレオン・ゴーモンの映写機「クロノ・ゴーモン」の方が優れた機能を備えていました。映画制作は続けられましたが、年間400本だったレベルが50本程度にまで縮小されました。ただし、それまでに作られた1,000本にもおよぶリュミエール社の映画は、依然として世界中で高い人気を維持していたことは言うまでもありません。


●新機軸に向けて動き出したリュミエール兄弟


リュミエール兄弟は元々技術者でしたから、作品を作るよりも映写機や写真機の製造と写真技術に専念することに方向転換しました。この時代の映画は見世物でしたから、もっぱらヴォードヴィルやバーレスク、ミュージックホールなどの幕間に上映されていたのですが、リュミエール兄弟はそれまでに得た手ごたえから、映写機器や上映設備を考える中から映画専門の環境づくりに考えが及び、これは20世紀に入って世界で初めての「映画館」の誕生につながっていきます。

 また一方では、1900年に控えた世紀のビッグイベント「パリ万国博覧会」に向けて、映画の新たな可能性をアピールするため、大スクリーンでの上映や立体映画の開発に力を入れていくことになります。

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●19世紀末には映画館は存在せず、通常はヴォードヴィル劇場のようなところで上映されていた。


●メリエス、長編作に新境地


リュミエール兄弟が実写の特性をそのまま生かした記録やニュース性のあるものを制作していたのに対して、ジョルジュ・メリエスは自分が行ってきたマジックを映画のトリックという方法に置き換えながら、最初から物語性のある映画を作ってきました。


数々の短編で腕を磨いたメリエスが、スター・フィルム社として(当時としては)本格的な長編に臨んだのが、1899(M32)年の「ドレフュス事件」と「シンデレラ」でした。いわば「シンデレラ」実写版の元祖ともいうべき作品です。

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●もうおなじみの ジョルジュ・メリエス


ドレフュス事件は、なんとその前年に起こった現実の出来事です。軍の情報をドイツに売り渡したスパイの疑いで裁かれたフランス陸軍のアルフレッド・ドレフュス大尉が国家反逆罪に問われ、南米ギアナ(ガイアナ)の悪魔島に流刑されますが、弟の懸命の努力で無罪の証拠が挙げられ、クレマンソーやゾラの支持もあって軍の上層部にまで捜査が及んだ結果、陰謀であったことが判明して無罪となった、という事件です。



●「ドレフュス事件」1899 11分



 メリエスの「ドレフュス事件」は、それをあたかも実写記録のように見せた再現劇として構成されました。注目すべきは20メートルのフィルム12本を使い、11の場面で構成したことです。

 例によって1巻のフィルムを撮影機を据え置いたまま回し切る撮影技法は変わらず、1シーンごとにそのつど完結しますが、今日のように連続した1本の映画として上映すると11分ほどかかる11
シーンのドラマがここに現れたということです。有名な事件ですから、観客は場面を見ただけでそのなり行きは分かっています。この映画が本物のようなリアルさで大評判を呼んだことは想像に固くありません。
 このように、現実の事件をドラマチックに再構成してみせる手法は、のちにセミ・ドキュメンタリーと呼ばれるようになります。

 なお、ドレフュス事件が解決しないうちに、当時の大統領が暗殺されるという事件が発生します。軍を守るために裁判のやり直しを断固として拒否したことが原因だとされていますが、メリエスはその大統領の葬儀を撮影しています。この実写記録は今でいうニュース映画のさきがけともいうべきものでしょう。 

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●ドレフュス事件 1899 イリュストラシオン誌の写真 (メリエスの映画ではありません)



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●史上初のシンデレラ映画、ジョルジュ・メリエス監督「シンデレラ」1899 
 全20シーンの第6シーン 
  このあと、結婚式、婚礼の行列、花嫁花婿のバレエなど、盛りだくさんです。
 
 
116年前の人たちが観た 元祖・実写版「シンデレラ」。
 どうぞお楽しみください。



●「シンデレラ」1899 5分50秒  

 「シンデレラ」でメリエスは、「ドレフュス事件」の成功を更に発展させました。長さは「ドレフュス事件」の約半分。120メートルですが、メリエスは主な興行主へはカラーで配給することを考えていました。それは他社の追随を許さない彩色アトリエを擁するスター・フィルム社ならではの企画でした。

 原作に忠実にと描かれた絵コンテは20ものシーンになりました。登場するキャラクターはなんと35人。文字通り絢爛豪華なコスチュームプレイです。主要な役者はシャトレ劇場やフォーリー・ベルジェールからスカウト。シンデレラに魔法をかける妖精役はモンマルトルのキャバレーの踊り子でした。

 妖精の魔法によって、ネズミが御者に、カボチャが馬車に変わるところなど、まさにメリエスのために書かれたような物語。例によって止め写し、ディゾルヴ(多重露出)をふんだんに使ったトリッキーなアクションが、彼のロベール・ウーダン劇場に押しかけた観客を沸かせました。そしてその反響はフランスに留まらず、イギリスにまで及びました。


これらの大作映画になると登場人物の衣装を制作することも大仕事です。モントルイユの撮影所に隣接するコスチュームアトリエでは、10数人もの女工が、メリエス夫人の指示の元で衣装作りに励んでいました。

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●スター・フィルム社のコスチューム・アトリエ

 長編映画が成功するとメリエスは、従来の1巻20メートル(手回しで約1分)というフィルムの制約を破り、20世紀に入ると次第に100メートル以上の作品に主力を注ぐようになります。ようやく、1作1シーン1分、というチョー短編映画の時代が終わりを告げたのでした。 


                                                                                           つづく


★次回は、エディスン社と、同社と決別したウィリアム・ディクスン所属の「AMC」の抗争を中心に…

※フィルムの長さの表記で、メートルとフィートが混在していますが、参考資料を重んじ、換算せずにそのまま記述することにしています。それは当時、フィルムの長さはオーダーメードで作られることもあり、フィートとメートルの両方で作られた可能性があると思われるからです。

※なお、撮影には生フィルムを使うため、フィルムの最初と最後は感光することを前提に(リーダーと言いますが)長めに作られているはずです。けれども、表記の20mは実質的な長さと考えております。


★「ドレフュス事件」「シンデレラ」はYOUtube kaliyamashitaさんの動画を使わせていただきました。


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