060 音楽、効果はライブとは、ぜいたくな! [技術と表現の進歩]
120年前、映画の音声は?
●1905年頃の映画館ニッケル・オデオン。右上に5セントとある。
●まずは解説者の説明付き。次に生演奏と効果音がプラス
もちろん「シネマトグラフ」は現在のようなトーキー映画ではなくサイレント(無声映画)ですから、映画そのものは音声を備えてはいませんでした。けれども、ただ映写技師がカタカタと映写機のハンドルを回しただけなのでしょうか。
そうではなく、すでにピアノ伴奏が付いていたということです(映写機のハンドルの回転音がうるさいのをカバーするためだったとも言われている)。
また、主催者でもあるリュミエール兄弟の友人がスクリーンの脇に立って、「これはリュミエール社、写真工場の出口であります。ただいまは退け時。社員が続々と退社してまいります」。「ここはリュミエール家ゆかりのラ・シオタ駅であります。列車が到着いたします。みなさん危険ですからスクリーンから離れてください」というように画面の説明がついたということです。
●リュミエール兄弟による「工場の出口」と「列車の到着」1895
映画はその後見世物として盛り場の小屋掛け興業を経て、すぐにカフェコンセール(ショーを楽しめるカフェ)、ヴォードヴィル、バーレスクなどの幕間の出し物となりました。そういった環境ですから、ごく自然に画面に合わせた軽快なピアノ伴奏が即興で付くようになりました。
また1905年頃から登場し始めたニッケル・オデオン(5セントニッケル硬貨1個で観られる映画館)では、解説者がスクリーン脇で画面を説明することもありました。ただし、日本の活弁(後述)とは異なり、あくまでも説明するだけ。
また、喜劇やアクションなど、フィルムの内容によってはドラムやバイオリンが加わったりしているうちに、必要に応じてスクリーンの後ろで、鍋やポットを転がしたりして、ぶつかる音、倒れる音などの効果音も加えられるようになりました。
●即興によるピアノ伴奏付きサイレント映画の上映 1900年代はじめ
●1905年頃、ニッケル・オデオンにおける小規模編成の楽団演奏
●スクリーン裏では初代音効(音響効果)さんが大活躍
後年のアメリカ西部劇などでは、大作になるとスクリーンの裏で馬のひずめの音を立てたり、銃撃戦の効果を出すために空砲を撃ったり、インディアン(これは差別用語で、現在はネイティブ・アメリカン)を雇って喚声を上げさせたりして臨場感を盛り上げました。これはさしづめ、今でいう音効さんによるSE(サウンド・エフェクト)のはしりといえるでしょう。
スクリーンは白布1枚なので、裏から画面を見ながらアクションに合わせてぴったりの効果音が付けられた訳です。つまり演劇と似たようなことがスクリーンの裏でライブで演じられていたのでした。映画には色彩同様、生まれた時からすぐに音声が求められていたことが分かります。
●映写技師だって立派な表現者
1907年頃から映画は、急速な人気の高まりに応えるために次第に長尺になります。映画館は劇場の設計を踏襲し、スクリーンステージの前にオーケストラボックスを設定。数人編成による楽団の伴奏で上映されるようになります。
1908年、パテ・フレール社が支援していた芸術映画製作会社「フィルム・ダール」の意欲作、長編歴史劇「ギーズ公の暗殺」は、カミーユ・サン・サーンスがそのために作曲し、オーケストラ演奏付きで公開されました。
●大規模映画館ではオーケストラボックスの中でオーケストラが演奏された。
音感に優れた映写技師は、映写機のハンドルを一定速度で回す単なる熟練技術者を超越し、芸術的表現者となりました。彼はあたかも演奏を指揮するコンダクターのように、音楽に合わせて緊急の場面は心持ち早めに、のんびりした場面は多少緩やかに、緩急自在に映写機のハンドルを回したということです。まさに手回しならではの芸術的表現が可能だった訳です。アナログで無ければ不可能な技ですね。ある意味でいい時代だったと言えるのではないでしょうか。
●「字幕」の出現で外国の映画解説者は失職。日本では…
1910年代に入ると映画の長編化が進みます。物語が複雑になるにつれて、場面の状況説明の他に登場人物の台詞が必要になってきました。それまでミュージックホールの呼び込みをやっていたような解説者に、登場人物の台詞まで演じ分けるような器用なことはできません。そこで登場したのがカット・イン・タイトル(字幕)と呼ぶ手法でした。
カットイン・タイトルには状況を説明するキャプション・タイトルと人物の台詞を示すスポークン・タイトルがありました。この2種の字幕が画面の途中に挿入されるようになったのです。
カット・イン・タイトルの出現は、欧米の映画解説者を次々と失職に追いやりました。映画の音声は音楽と効果音だけになりましたが、その質は向上し、大作映画はオーケストラ編成が当たり前となりました。
●「ジャズ・シンガー」1927 のカット・イン・タイトルの例。
人物の台詞は一つの場面の中に割り込むかたちで挿入された。
その不都合に気づき、1929年頃から画面に文字を焼きこむスーパーとなる。
字幕が付いてかえって意気盛んになったのは日本の解説者でした。日本には江戸期からの伝統的な語りの流れを汲む、落語、講談、浪曲といった他国には例の無い「話芸」というジャンルがあります。彼らは物語を語ると同時に、人物の声色を使って老若男女を一人で演じ分けていました。そういった達人たちが映画の世界に参入してきたのです。
その頃の日本では、映画つまりモーションピクチャーを文字通り「活動写真」と呼んでいましたので、彼らは活動弁士と呼ばれました。
弁士は単なる映画解説者ではなく、スクリーンの登場人物になりきって、スクリーンに合わせてヒーロー、ヒロイン、その他すべての人物の台詞を演じ分けたのです。これを「活弁」と呼びましたが、ひょっとするとスクリーンの主人公を見るよりも「だれそれの活弁を聞きに行く」という映画ファンも多かったのだそうです。
無声映画のステージでは、弁士は独立した演者であり、同じ映画でも「活弁」を演じる弁士によって客の入りが違ったということです。
●1930年頃、人気絶頂の坂東妻三郎の映画を語る活動弁士(壇上の左)
坂妻(バンツマ)は、田村正和さんのお父さんですよ。
●1927年、トーキー映画出現で「弁士」も失職
生演奏や解説者、弁士といったライブではなく、機械的に映画に音声をつける方法。それは映画が開発されるとすぐに、トーマス・エディスンは自分が発明した蓄音機と映写機を結び付けて「音の出る映画」を実現しようと考えました。けれども錫箔や蝋管に音溝を刻む方式では再生音が小さすぎて実用になりませんでした。
発声映画・トーキーの試みはその後、エディスン社の蓄音機を販売して財を成したパテ兄弟によるパテ・フレール社に受け継がれ、1899年にはフェルディナン・ゼッカによって音声付きの映画が作られました。
けれども肝心の画面と音声の同期という点が解決されていなかったのは、1906年末にゴーモン社が発表した「クロノメガフォン」も、1912年にエディスン社が公開した「マザーグース物語」という短編ミュージカル映画も同じでした。
ところが、1887年にエミール・ベルリナーがエディスンの特許の向こうを張って開発した「グラモフォン」と称する円盤録音方式と、1915年に発明された真空管を使った電磁式音声増幅装置を合体させて、1927年、蓄音機連動による初のトーキー映画が誕生します。「ヴァイタフォン」と呼ばれるこの方式を開発したのは、エディスンのライバル、ベル電話会社系のウェスタン・エレクトリック社でした。
●1920年代の蓄音機連動トーキー映写機 右はレコードを乗せるターンテーブル。
「ジャズ・シンガー」では約9分の音声がトーキーとして再生された。
他の場面はサイレント映画と同じ。
この方式でも画面と音声の完全同調は完璧ではなく、世界初のトーキー映画とされる「ジャズ・シンガー」は、主演のアル・ジョルスンが歌う部分などたった8箇所ほどが音声付きで、その部分だけ映写機の脇にセットされた蓄音機を同調させるパート・トーキーでした。
いずれにしてもライバル会社の開発競争がトーキーの進化を促進したということは、映画にとって幸せなことでした。
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●映画史上初のトーキー映画とされる「ジャズ・シンガー」1927 2分10秒
「ジャズ・シンガー」は映画が始めて音声を持ったという話題が客を呼び、当時経営不振に陥っていたワーナー・ブラザース社の危機を救ったといわれています。これをきっかけに映画は一気にトーキー時代に突入していきます。
また、日本独特の「活弁」であり「弁士」でしたが、やがて彼らも映画の舞台から去らなければならない時期がやってくるのです。
…が、現在このブログは1906~7年頃に到達したところですから、それはずっと先の話になります。