043 それはエディスン社の勝手でしょ。 [草創期の映画]
043 エディスン社の専横、始まる。
19世紀末、混迷の映画世界-3
●時代背景 19世紀末・ニューヨーク
前回からの続きです。
世界企業に成長したフランスのリュミエール社。それが、米国マッキンリー大統領による保護政策でアメリカからの撤退を余儀なくされました。目の上のたんこぶが取り除かれたエディスン社は、国内に台頭したライバル、アメリカン・ミュートスコープ社(AMC)との抗争に本腰を入れる状況が整いました。
●エディスン社とAMCとの関係について
両者の関係については前に書きましたが、簡単におさらいしておきましょう。
1895年10月、トーマス・エディスンと決別してエディスン社を退社したウィリアム・ディクスンが製作部長として迎えられたAMCでは、ディクスンがエディスンの特許に触れないように考えた同じ覗き見式の「ミュートスコープ」を市場に投入して、エディスン系「キネトスコープパーラー」に追い打ちをかけました。
機械の外観もスマートで、画面が大きく鮮明映像が楽しめるAMCの「ミュートスコープ」は、たちまちエディスン社の息のかかった「キネトスコープパーラー」の市場を席巻するほどの勢いを見せました。
●左、中/エディスン社系「キネトスコープパーラー」と「キネトスコープ」
右、AMCの「ミュートスコープ」
同時にAMCは「バイオスコープ」と呼ぶ撮影機と「バイオグラフ」と呼ぶ映写機を開発して、上映方式の先手を取りました。
エディスン社は覗き見式の「キネトスコープパーラー」が成り立たなくなったところに、タイミング良く、トーマス・アーマットが上映式「ファンタスコープ」をエジソン社直系の代理店「ラフ&ギャモン商会」に持ち込んだので、エディスン社では得たりとばかりに翌1896年4月、アーマットに改造させた「ヴァイタスコープ」を急きょ発表して、ようやく映写機開発競争に追いつくことができました。
そこに1897年末、リュミエール社の「シネマトグラフ」がアメリカから放逐されるという追い風が吹き、エディスン社も活気を取り戻しましたが、その前にはAMCが立ちはだかっている、というところまでです。
●トーマス・アーマットと彼の「ファンタスコープ」
●アーマットがエディスン社で「ファンタスコープ」を改造して完成させた「ヴァイタスコープ」
●リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」
●AMCでディクスンは、製作現場で大活躍
ところで、1896年の大統領選挙運動で活躍したのがAMCでした。AMCは大統領候補ウィリアム・マッキンリーの執務風景を撮影したフィルムの最後に、はためくアメリカ国旗をモンタージュした宣伝映画を制作しています。これは世界初の選挙PR映画といえるでしょう。
マッキンリーが大統領になると、AMCはその弟を顧問に迎え、政界とのパイプを強固にしました。
●AMC製作部長のウィリアム・ディクスン
一方、ライバルのリュミエール社がアメリカから撤退する以前から、ディクスンはAMCの監督として、改造を加えた「バイオスコープ」で自社作品を撮り始めました。さし当たってはマッキンリー大統領の国内歴訪の旅に随行した記録映画でしたが、1899年秋には南アフリカに赴き、ボーア戦争(南アフリカとイギリスの戦争)の戦場で望遠レンズを利用したパノラマ撮影も行っています。当時の大方の映画開発者の例にもれず、元は技術者でありながら監督もこなすセンスの持ち主だったようです。
このようにAMCはもっぱら真実の記録を目指していましたが、エディスン社は対照的に娯楽作品を目指していました。
●エディスン社「ブラックダイアモンド・エクスプレス」1897
●エディスン社のはかりごと
エディスン社としては、映画の開発でフランスのリュミエール社に立ち遅れたとはいえ、アメリカでは先発です。何が何でも後発のAMCにその座を譲るわけには行きません。映写機で後れをとったAMCを引き離すには、戦略しかありません。エディスン社にはそういう時のために、営業部長ウィリアム・ギルモアと法律家フランク・ダイヤーを筆頭とするやり手の顧問弁護士たちが抱えられているのです。
●エディスン社営業部長、ウィリアム・ギルモア
彼らがAMCの独走を指をくわえて見ているはずはありません。こういう場合を考えて手は打ってあったのです。それは、6年も前に申請してボツになってしまった撮影機の特許の申請内容に、AMCの「バイオスコープ」に対抗できる機構になるように修正項目を追加して、別の特許として申請しておいたのでした。6年も前のことを知る特許の審査員は少ないでしょう。これはそこを読んだエディスン社が仕掛けた起死回生策ともいうべき巧妙なトリックでした。
●急を告げるAMCとエディスン社の抗争
それは1897年3月に始まりました。特許庁は抵触審査を行うことを宣言しました。同じような特許が出願された場合、どちらに優先権があるかを審査するものです。
最初はAMCに有利に展開しました。写真を動かしそれを上映する技術はすでに何人もの発明家が不満足ながらも実現している上、発明が2年以上経っても行使されない場合は無効であることを理由に、特許庁はエディスン社の主張を取り下げました。
AMCは、それでエディスン社の特許申請は無効、と胸をなで下ろしたのですが、その考えは甘かった。その程度で引く位なら最初から仕掛けてはいないエディスン側でした。
不利と分かるとエディスン社は、特許局長に直談判を行いました。その動きを察知したAMCは、エディスン社が申請した特許を保留にするように特許局長に申し入れました。このあたりが私立探偵社の出番です。双方の間に激しいスパイ合戦が繰り広げられたことは想像に固くありません。
その結果、エディスン社の法律顧問フランク・ダイヤーがどのように話を進めたものか、AMCの申し入れは却下されてしまったのです。
●トーマス・エディスン
こうして1901年7月、「映画撮影機の発明者はトーマス・エディスンである」、ということが認められました(「映画」の発明ではなく「撮影機」の発明が認められたのですが、一般に映画の発明はエディスンと言われるゆえんです)。これでトーマス・エティスンは、映画という新しいジャンルにおいても「発明王エディスン」の誇り高き名を天下に認めさせることができるようになった訳です。エディスン社はそれを錦の御旗として(古い!)、早速、特許の権利の行使に入りました。
エディスン社は、当時、雨後の竹の子のように登場し始めた小規模な興行会社や機材販売会社に対して、撮影機の製造とフィルムのコピーを禁止するとともに、興行の場合は入場料に対する一定の歩合を収めるように通告しました。
その結果、翌年春までだけでも、亜流の撮影機を作って販売していた7社ほどがまず告訴されました。それをきっかけにこの件に関する訴訟は20世紀に入ってからも続けられていきます。
これは一見、特許権を持つ者として当然の権利行使に見えますが、その裏には、将来性が見えてきた映画という新しい産業を押さえるのは今、というエディスン社の強い意志が露骨に見え隠れしていることに関係者は気づいていました。エディスン、この年50歳。
●エドウィン・S・ポーター、エディスン社に入社。
エディスン社がこのような係争をはじめていた1897年(1899、1900の説もあり)、一人の若者がエディスン社を訪ねてきました。彼は「エドウィン・スタントン・ポーター、ペンシルベニア生まれの27歳です」と名乗りました。アメリカ海軍で電気技師として勤務したのち除隊。セールスマンをやっていたのですが、新しい映画の仕事に興味を持ったということでした。
当時は映画の作り方を教えてくれる先輩がいるわけではありません。当初は単に情景を撮ったり、ニュースのようなフィルムを撮影するカメラ助手から始まりました。
ポーターの興味は、本来動かない写真がなぜ動くのかという点でした。彼は撮影された35ミリフィルムを透かして見ました。同じような写真が連続しているだけです。ヴァイタスコープ(エディスン社の映写機)に掛けて、ハンドルを回してみました。すると見事に動きが生まれます。早く回したり、遅く回したり、逆に回したり、いろいろ試してみるのはごく自然な成り行きでした。
こうした作業や思考を重ねる中から、彼は後に述べることになる映画史に残る作品を生み出すことになります。その作品とは「アメリカ消防夫の生活」と「大列車強盗」の2作ですが、このブログではまだまだ先のお話です。
●「大列車強盗」エドウィン・ポーター 1903 この件については まだ先になります。
●AMC、バイオグラフ社に社名変更
ところで、AMCとエディスン社の関係は振り出しに戻り、ついに裁判に持ち込まれました。
エディスン社の論理は巧妙でした。裁判にはトーマス・エディスンも召還されました。AMCはそこで最後の切り札を出しました。エディスンが発明したという「ヴァイタスコープ」の母体は、トーマス・アーマットが考案したものではないかと迫ったのです。
エディスン社との係争の途中、1899年にAMCは、ディクスンが開発に参画した「バイオグラフ」の名を冠して「アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社」(以後、バイオグラフ社と表記)となりましたが、こうしてエディスン社を揺さぶっておいて、バイオグラフ社は、お互いの利益にならない敵対関係を収めようと、調停に持ち込みました。
銀行と投資家をバックにもつ同社は、この年の末に50万ドルでエディスン社の〈動く写真〉に関する権利をすべて買い取ることを申し出ました。エディスン社も理解を示し、ようやく和解が成立したかに見えました。
ところが、1900年末にバイオグラフ社が最初の30万ドルを支払う段階になって、皮肉なことに突如として経済危機が襲い、銀行が破産してしまったのです。そしてまた話はご破算となり、結局、1901年7月にエディスン社が裁判に勝利しました。バイオグラフ社は1897年に遡って賠償金を支払わなければならないことになったのでした。
このような経過を経て、欧米における映画事業は次第にエディスン社の思惑通り、その腕に抱え込まれていきます。エディスン社の専横ともいえるこの施策は、20世紀に入ると、映画の振興に比例するように更に拡大していきます。
●ニューヨーク郊外ウェスト・オレンジのエジソン研究所 1900
●ヴァイタグラフ社の登場
ところで1898年3月に、アメリカにまた一つ、新しい映画会社が誕生しました。
ジェームズ・スチュアート・ブラックトンとアルバート・スミスは、エディスンの初期の映写式「キネトスコープ」を購入しましたが、市場に出回っているフィルムよりも自分たちの方がもっと面白いフィルムを作れると考え、その映写機を撮影機に改良して「ヴァイタグラフ」と名づけました。
その後、同じくエディスン社の「ヴァイタスコープ」の営業権をもつ巡回興行師ウィリアム・ロック(ポップ・ロック)と出会い、楽しい映画を作ることで考えが一致。1898年の夏、「屋上の夜盗」という映画を撮りました。泥棒と警官による単純な追いつ追われつのドタバタ喜劇なのですが、滑稽なギャグが人気を呼んだことに自信を得た3人は、共同でヴァイタグラフ社を興します。
この会社はやがてスチュアート・ブラックトンによるアニメーションをはじめ、初期のアメリカ映画を代表する作品を生み出していくことになります。
アメリカにおいては、エディスン社、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社。フランスにおいては、リュミエール社、メリエスのスター・フィルム社、パテ社、ゴーモン社……
ここに、映画創生期における欧米の代表的な映画会社が揃いました。とはいえ、技術的には相変わらずモノクロ、サイレント。そして駆動は手回しの時代です。
つづく
◆20世紀の段階に入る前に、この辺りで日本の動向に触れておきたいと思います。
次回と次々回は「日本映画事始め」を予定しております。
国家間の保護政策もですが、特許権の抗争など今でも激しいのでしょうね。
二転三転しながらも結果的にはエディスンが発明王だった訳ですね。(*^^)v
by 路渡カッパ (2015-05-15 18:33)
トーマス・エディソン自身が主導して動いたのか、それとも知恵を授ける参謀がいたのでしょうか?
エディソンのイメージが一変しました(^^;;
by 駅員3 (2015-05-15 18:39)
路渡カッパさん、こんばんは。
これをまとめていて思ったのですが、政権とか政治家は傀儡であること。今も昔も、国を動かす人物をさらに陰で動かす人物(団体)が存在するということではないでしょうか。そしてその原動力は自分(たち)のためだけが得られる利益が目的であること。
エディスンは本当は「映画撮影機の発明者」(それも書いた通りのインチキですが)なのに、今も米国では「映画の発明者」として認識されていると思います。発明王エディスンは不滅なのです。
by sig (2015-05-15 20:29)
駅員3さん、こんばんは。
カッパさんへのコメントに書いたように、エディスンが直接指揮したのではないと思います。
巷間「エディスンの特許戦争」と呼ばれるものの直接の推進軸は、エディスンの思いを汲んで動くスタッフ(このブログでは「勝手連」と呼んできましたが・・・特許法令に詳しいお抱えの顧問弁護士たち)が知恵を巡らせて進めたと思います。
ただ、エディスンはそれを知らされずにいるわけはないので、結局は世間からはエディスンの横暴と見られても仕方のないところがあるのではないでしょうか。裏ではささやかれていたようですが、表だって批判されないところがエディスンの偉大さだったのではないでしょうか。多少の陰はあるかもしれないが全体的に見たらそんなことは問題ではない。偉大な人物とはそういうものではないでしょうか。
by sig (2015-05-15 20:46)
発明合戦とはビジネス戦争でもあるのですね。
by 響 (2015-05-15 21:05)
響さん、こんばんは。
全くその通りだと思います。発明は競合他社との差別化戦略に不可欠であるばかりでなく、特許の多寡は即業績につながると思います。だから大事な企業秘密でもありますね。企業スパイに狙われたりして、響秘密結社はその点、大丈夫ですか。最近あまりその社名を聞かなくなりましたが。笑
by sig (2015-05-15 21:42)