040 メリエスのハンドメードのカラー映画 [草創期の映画]
040 ハンドメードのカラー映画
ノンフィクションとフィクション-3
ジョルジュ・メリエス
●ハンドペインティングによる色彩映画「さなぎと黄金の蝶」1900
前回に続いて、ジョルジュ・メリエスのお話です。
●クリエイティブは、まず真似ることから。
1896(M29)年後半に作られた50フィート(17m)1分弱の短編映画(当時はシネマと言う言葉が無く、フォト・アニメと呼ばれた)「ロベール・ウーダン劇場における婦人の雲隠れ」(前回に記事)。この作品はジョルジュ・メリエスの名をいっぺんに高めるほどの話題を呼びました。その陰にはマジシャンとしての自負がありました。彼はシャルル・パテに、「あなたの撮影機を買いたいのですが、フィルムが高すぎませんか。こう言っちゃ何ですが、いつも広場の情景や兵隊の行進だけじゃ飽きられてしまいますよ」と言われたことが気になっていたのでした。
●左/シャルル・パテ 後に映画会社「パテ・フレール」を興す
右/ロンドンの映画事業主 ロバート・ポール
シャルル・パテはすでに述べたように、1877年(M10)以降、エジソンが発明した蝋管蓄音機の亜流を安売りして地盤を築いた事業家です。次にエディスンが「キネトスコープ」 を発表すると、ロンドンのロバート・ポールに接触して亜流の「キネトスコープ」を作らせ、販売していました。また、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開にも参加し、メリエス同様「シネマトグラフ」を譲って欲しいとリュミエール兄弟に申し出て断られた一人でもありました。
その直後にメリエスが開発した優れもの映写機「キネトグラフ」にも関心を示し、そのフィルムとともに何とか自分の事業に加えたかったようなのですが、その話はしばらくそのままになっていました。
1896年にパテ・フレール社を興したばかりのパテは、まだ自身でフィルムの作り方が分からず、リュミエール社が作るフィルムをそのまま真似て作り始めていました。いわば剽窃ですが、何ごとも初めは真似ることから。
それはゴーモン社もメリエスも同じこと。リュミエール兄弟の「○○駅への列車の到着」や「○○の出口」といったフィルムが、所を変えてたくさん作り出されました。エディスン社すらこのあとメリエスのフィルムをそっくり真似て、アメリカで販売したりすることになるのです。当時はまだ著作権という考え方はなく、この時代のこの業界は "やった者勝ち" という様相だったのです。
●メリエスの最初の長編映画は、色彩映画だった
メリエス自身、パテに言われるまでもなく、オリジナリティのあるもっと長い作品に挑戦しようと考えていました。それも白黒ではなく、色彩映画でした。動かない写真がスクリーンの上で動いたとたんに、人は現実の情景と同じ色彩を映画に求めたからです。
当時はまだカラーフィルムが科学的に完成していませんから、人工着色です。着色映画は、すでにエディスン社の「アナベルのダンス」がありました(制作者はチャールズ・ジェンキンス)が、それは文字通りアナベルというダンサーが踊っているだけのフィルムでした。メリエスはその3倍以上の200フィート(60m)、約3分におよぶ物語映画を作ることにしたのです。映画で物語を見せるという初めての試みに、ジョルジュ・メリエスは挑戦したのです。
タイトルは「悪魔の館」。メリエスがステージでも演じていたお得意の悪魔の扮装から思いついたトリック映画です。王女のところに悪魔が現れるが、何とか退散させると次に現れたのはイケメン男。王女は安心して手を差し伸べると、男は悪魔の本性を現して王女をさらっていく、というような物語です。
この映画は、もちろん止め写しと置き換えのトリックがふんだんに使われましたし、新たに溶暗・溶明(フェード)、およびそれを重ねたオーバーラップ(二重露光)のテクニックが用いられました。これらはすべて撮影の段階で行う必要があるため、とても微妙なテクニックを要します。またトリックは現像上も細かい調整が必要であり、これはフィルム現像も自社で行っていたからこそできたハイテクニックでした。
●映画撮影スタジオとしては世界初
トリック撮影に欠かせないのは光量です。メリエスは「悪魔の館」を撮りながら、明暗を自在に調整できる撮影環境の必要性を感じました。エディスン社の「ブラック・マリア」のようなものではなく、もっと本格的な撮影スタジオです。メリエスはモントルイユにある別荘の庭にそれを建てることにしました。
●世界初、メリエスの映画撮影スタジオ 最初の光源は自然光 1897
世の中に無いものを作るのですから、設計から設備から何から何までをメリエスが考え、早速実行に移しました。 奥行き17メートル、幅7メートル。屋根と周囲には摺りガラスを張り、天井に張ったキャンバスは滑車を使った操作で開閉し、採光を調整できるようになっていました。人工照明の必要性も感じられて、アーク灯と水銀灯がそれぞれ15本ずつ設置されました。一方には板張りのステージ。バックヤードには楽屋や衣裳部屋も設けられました。
●メリエスの映画撮影スタジオ 外観 1897
こうして1897(M30)年3月、世界初と呼べる本格的撮影スタジオ(当時はスタジオと言う言葉はなく、アトリエまたはグラス・ステージと呼ばれた)は発足しました。照明はあっても太陽光にはかなわず、朝11時から午後3時までが撮影時間でした。ステージの上下にはその後トリック撮影を行うための吊り具や何層もの書割、上下のせりなど、演劇の舞台設備同様の装置が施されることになります。
●色彩映画のための大規模彩色スタジオ
メリエスは撮影スタジオ作りの一方で、もう一つの工場作りも進めていました。それは彩色アトリエです。女工さんを集め、養成しながら、出来上がったポジフィルムに1コマずつアニリン染料で色を塗っていくのです。一人が1色を担当し、多い時には20色以上使うこともあったそうです。写真を見るとそのスケールに圧倒されてしまいますね。
●さながらアニメスタジオのような、メリエスの「彩色アトリエ」1897
無声映画は1秒16コマ。3分では2,780コマ。色ごとに班が組まれて、自分の担当する色の部分だけを全コマ塗り終えたら、次の色の担当に渡すという作業が、拡大鏡を覗きながら行われていた訳です。
それをプリントの本数だけ塗る訳ですから、気の遠くなるような作業です。ただ、これは当時としては初めて生まれた最先端の仕事です。家内制手工業に慣れたその頃の女工さんにとっては、苦痛どころかむしろ目新しく、誇らしい仕事ではなかったでしょうか。ジョルジュ・メリエス初の色彩映画「悪魔の館」はこうして生まれたのでした。
(この流れ作業とも呼べる生産方式は、1908年、ヘンリー・フォードがT型フォードの生産で考え出したベルトコンベアシステムよりも早かったと見ることができると思います)
●映画で広がったメリエスの魔法の領域
メリエスが映画を撮り始めたのは1896(M29)年の春から。その1年間で彼が制作したフィルムは80本にも及びます。1本50フィートのフィルムで上映時間はほぼ1分という作品がほとんどで、内容は実写が多かったのですが、後半では歴史再現やトリックが増え、メリエスの特質がはっきりしてきます。この製作本数は、彼がいかに精力的に映画づくりに取り組んだかを物語っています。
そして重要なことは、監督や大道具小道具、衣装、照明・・・というように、必要に応じて自然発生的に進んだ役割分担が「分業」を形成してきたこと。それはこれまで、エディスンにもリュミエール兄弟にとっても、海のものとも山のものとも分からなかった映画が、産業の様相を見せ始めたということなのです。
●メリエス映画の真骨頂、マジック・ファンタジー
それではこの辺で、私の大好きなジョルジュ・メリエスの作品を3本ご覧いただきましょう。
製作年度は1900年から1909年に亘りますが、2本は彩色映画です。1本ずつその手法を解説していたらプログ1本分になってしまいそうなほど、メリエスの才覚とトリックの妙味がたっぷりと味わえる作品です。それぞれどのようなトリックが使われ、どのように撮影されたかを推測しなからご覧いただくと、興味も倍増するのではないでしょうか。
■「一人オーケストラ」1900
メリエス自身の一人七役。七重露光というとんでもない多重露光作品。1本のフィルムに7回撮影を繰り返したものですが、7人の演技のタイミングがこれほどぴったり合っているのは、まさに神業。どのようにして合わせたのでしょうね。
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■「さなぎと黄金の蝶」1900
メリエスとジュアンヌによるエキゾチックファンタジー。さなぎをチョウに変えた魔法使いが、奥方の怒りに触れてさなぎに変えられてしまう。お得意の止め写しと差し替えがふんだんに生かされたコメディです。
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■「悪魔の下宿人」1909
映画という魔法を手に入れたメリエス扮する悪魔の魔術師にとっては、部屋にあるものを片っ端から消滅させてしまうことなど朝飯前。それにしてもこのアイディアの豊かさには敬服。まずは驚嘆すべき連続トリックの妙味をご堪能ください。
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注/3本とも実際よりも短い長さであることをご了承ください。
次回もジョルジュ・メリエスの作品でお楽しみいただきます。
メリエスの「悪魔の下宿人」
このトリック、すごく面白いですね。
by cafelamama (2015-05-09 09:45)
一コマ一コマ色付けしていたとは・・・・@@;)
聞いただけで肩が凝りそうです^^;
by さる1号 (2015-05-09 10:27)
caferamamaさん、こんにちは。
「悪魔の下宿人」はYOUtubeでノーカットであると思います。よくもここまでできたもの、と圧倒されてしまいますね。
このアィディアはのちにディズニーの、確か「メリー・ポピンズ」で使われたと思います。確認していませんが録画してあります。
by sig (2015-05-09 15:46)
さる1号さん、こんにちは。
写真が動くのなら、色が付いていて当たり前・・・というのが一般の考えだと思いますから、そのニーズに対応する必要があったのでしょうね。
また、開発者自体が最初から、写真を動かすこと、立体で見せること、色が付いていること、声が出ることの4つをどのようにして作り上げるか、考えていたようです。ただ、時代の技術がそこに至らなかっただけで、映画には最初から現代の映画の形が想定されていたようです。私たちはそれが全部そろった時代に生まれてきたわけで、実にラッキーなことだと思います。
by sig (2015-05-09 15:51)
caferamamaさん、こんにちは。
「悪魔の下宿人」はYOUtubeでノーカットであります。よくもここまでできたもの、と圧倒されてしまいますね。
http://silentfilm.seesaa.net/article/202617834.html
このアィディアはのちにディズニーの、確か「メリー・ポピンズ」で使われたと思います。確認していませんが録画してあります。
by sig (2015-05-09 16:03)
sigさん こんばんは
昔の写真は参考になります。このような時代があったことを思い出させてくれました。
by SORI (2015-05-09 18:55)
前レスでは動画のヒントをありがとうございました♪
>多重露光作品
多重録音はトライしたことがありますが、動画はさすがに編集できず…。
が、編集できたとしても、やっぱりアイデアがないとダメですね^^;
今日、スマステで動画の特集が組まれていて、まさにアイデア満載で楽しめました。「悪魔の下宿人」を見て、ああ原点はやっぱりこういうことなんだな…なんて思いました^^
by うさ (2015-05-10 01:40)
SORIさん、こんにちは。
いつの時代も先人たちの労苦の積み重ねが、次の世代に潤いを与えてくれるのですね。ありがたやありがたや。
by sig (2015-05-10 09:27)
うささん、こんにちは。
今はデジタルで何でも後処理でできてしまいますが、この時代は合成の仕上がりを頭の中でイメージして、撮影時点で何回もフィルムを巻きなおして重ね撮影を行うわけですから、それこそマジックのようなもので、どのようにしてやったものか、とにかくすごいことですね。私も昔、8ミリ映画で二重露光の真似事をやりましたが、それですら合成のタイミングを合わせるのが難しかったです。最近の動画ソフトは、かなり高度な合成を簡単にやってくれますね。
by sig (2015-05-10 09:35)