073 チャップリン登場とグリフィス「国民の創生」着手 [大作時代到来]
073 おまたせ。ようやくチャップリン
D・W・グリフィス「国民の創生」-①
●13番目のDから新人女優が投身自殺したことからLANDの4文字が取り払われたという。
アメリカ西海岸に映画の都ハリウッドが誕生した1910年代半ば。現在HOLLYWOODと描かれている大看板がHOLLYWOODLANDと表示されていたその頃。1914年7月にヨーロッパで勃発した戦火は世界の列強を巻き込み、一挙に世界大戦の様相を呈してきたのですが、幸いなことに、アメリカは最後まで参戦を控えていました。世界戦争は蚊帳の外。それがアメリカ映画を大きく躍進させることになります。
●イギリス陸軍の志願兵募集ポスター ●西部戦線へ向かう兵士 1914.7
●グリフィス、チャップリンと出会う
1913年.トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC)の制約で長編を作らせてくれないバイオグラフ社に愛想を尽かして離れたD・W・グリフィス。イタリア映画の大作「カビリア」のうわさは、長編大作を目指していたグリフィスを促し、いよいよ彼はその実現に向けて動き出します。
グリフィスは長編を作る準備としてミューチュアル社に入り、スタジオを設立しますが、そこに「新しい会社を作りたいのでぜひ加わってほしい」というエッサネー社からの誘いがありました。エッサネー社はライバルであるマック・セネットのキーストン社から、「キーストンコメディ」などで人気上昇中のチャールズ・チャップリンを引き抜いたばかりでした。
スターシステムの確立により、俳優の名で映画を売り出そうと考えるようになってからのハリウッドは、各社とも観客に受けそうな個性的な俳優を、血眼でスカウトするようになっていたのです。
●売り出した当時のチャールズ・チャップリン。
●お金持ちの紳士の格好をした浮浪者というミスマッチが大衆の共感を呼んで、爆発的な人気者となる。右はデビュー作の「成功争い」1914
チャップリンはイギリスのパントマイム劇団に所属してヨーロッパを巡回。ジョルジュ・メリエスが「極地征服」を発表した1912年頃は、パリのミュージックホール、アルハンブラ劇場でギャグ芸人として出演していました。翌年チャップリンはアメリカを巡業。あの独特なパントマイムによるこっけいなギャグはたちまち低所得者層や移民たちの心を捉え、爆発的な人気を呼びました。
そのチャップリンを映画の世界に呼び入れたのが、元はバイオグラフ社の演出担当でキーストン社に在籍していたマック・セネットでした。チャップリンのデビュー作は、1913年に製作され、1914年に公開された「成功争い」です。
●マック・セネット ●トーマス・H・インス ●D・W・グリフィス
そのチャップリンとマック・セネットの二人を引き抜いたのがエッサネー社なのですが(ややこしい。でも当時のアメリカ映画界ではこのような転職は日常茶飯事)、この会社は映画特許会社(MPPC)の制約に縛られない、長編映画を作る会社を新しく興そうとしていたのです。
こうして、マック・セネット、トーマス・H・インス、それにD・W・グリフィス三人の名声を統合したトライアングル社が、ロックフェラーのスタンダード石油から融資を受けて設立されます。
●俳優は一流。キャラクターも多彩
トライアングル社は3人の関係で有名な俳優たちも揃いました。
喜劇畑のセネットの元には、美貌ながらズッコケ上手のメーベル・ノーマンド、曲がったひげがトレードマークのベン・ターピン、デブで売っていたロスコー・アーバックル。
●メーベル・ノーマンド ●ベン・タービン ●ロスコー・アーバックル
インスの元には、当代一と謳われる性格俳優のフランク・キーナン、西部劇の立役者ウィリアム・S・ハート、アクション俳優ダグラス・フェアバンクス、日本から来たハリウッドスター早川雪州。
●ウィリアム・S・ハート●ダグラス・フェアバンクス ●早川雪州
グリフィスの元には、彼が手塩にかけて育てたリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ブランチ・スイートらが勢ぞろい。(そろそろ聞いたことのありそうな名前が出てきていませんか。早川雪州は「戦場にかける橋」のあの捕虜収容所長です)
こうした強力なバックボーンと製作環境を得て、グリフィスはかねてから構想していた「国民の創生」に着手することができたのでした。
●リリアン・ギッシュ ●ブランチ・スイート ●メイ・マーシュ
ところで、グリフィスとチャップリンの関係ですが、グリフィスは大作文芸路線、チャップリンは小粒なスラップステックを得意としていましたから、グリフィスが分野の違うチャップリンを起用して映画を作ることは考えられなかったようです。
ただ、良好な関係は続いていたと思われます。それは後に、グリフィスはチャップリンと組むことになるからです。
●「国民の創生」は南北戦争終結50周年記念作
「国民の創生」は南北戦争を背景にした物語です。南北戦争終結は1865年ですから、1915年に公開されることになる「国民の創生」には南北戦争終結50周年という意味がありました。けれどもグリフィスは、大農園を経営し南軍で戦った父の姿をこの映画に託そうとしたのではないでしょうか。
グリフィスは周到な準備の後、相棒のカメラマン、ビリー・ビッツァーと組んで念願の大作を撮り始めました。
●名カメラマン、ビリー・ビッツァー(左)とD・W・グリフィス
初期の電動式カメラは1910年に登場したが、ビッツァーはあえてパテ・フレール社の手回しカメラを使用している。
つづく