SSブログ

078 手回し映画は、次の世代に託された。 [手回し映画時代の終焉]

078  手回し映画は、次の世代へ託された。
         ハリウッド主導の映画の時代へ

グロリア・スワンソン.JPGグロリア・スワンソン.JPG
●グロリア・スワンソン サイレント時代の彼女は知らないが、1920年代の映画界の裏側を描いた「サンセット大通り」(1950)は超おすすめ。
1950 サンセット大通り.JPG●ラストの鬼気迫る演技は圧巻

 第一次世界大戦は、民主主義を守るという名目で最後にアメリカが参戦したことで1918年11月11日、一挙に終結。けれども、映画先進国だったフランス、イタリア、イギリスを初めとするヨーロッパ各国の映画産業は戦争で衰え、唯一ハリウッドだけが急速成長を遂げていました。
 1920年代、映画は手回し・サイレントの時代からようやく電動式・トーキーの時代へと進むことになり、映画創生期のお話はここに終わりを告げます。

IMGP8361.JPG IMGP8360.JPG
●400ftフィルム使用の電動式撮影機 サイレントだから1秒16コマで1巻約10分


●廃墟として残った破天荒の城壁
 「ローリング・トゥエンティ」と呼ばれるハリウッドの黄金時代が幕を開けても、サンセット・ブールバード(大通り)脇の草むした広大な広場には、まだあの古代バビロンの幻「イントレランス」(1916)の大城砦が廃墟の姿でそびえ立っていました。

 D・W・グリフィスは、誰もが思いつかなかった4つ時代の物語が時空間を超越して並行進行するという、現在の言葉でいえば奇想天外な「パラレル・ワールド」的着想と、誰もがなし得なかった前代未聞のスケールを持つ「イントレランス」に、"これぞ、映画
"、という絶対の自信を持っていたはずです。

 そしてそれこそ、映画が絵画や写真とは決定的に異なる、時空間超越のタイムマシンの原型であり、例えそれが興行という面で失敗作とされたとしても、芸術としての「イントレランス」の評価は揺るぎないものであるということも。 

IMGP8885.JPG
●「イントレランス」のオープンセットは1925年頃まで残されたままだった。

 今ここに、崩れかけても未だ威容を誇るそのセットを感慨深げに眺めている青年は、ウォルト・ディズニー、22才。
 3年前、1920年に始めたばかりのアニメーションの事業に失敗し、ハリウッドに活路を求めて兄と2人で故郷カンザスシティから鞄一つで出てきたばかりでした。

 映画監督になりたくて、ラ・ブレア通りに面したチャップリンのスタジオの前を行ったり来たり。思い切って「ユニバーサル」社のスタジオに乗り込んだのですが、「監督は間に合ってるよ」と断られ、「パラマウント」で最初の「十戒」(1923)を撮っていた大監督セシル・B・デミルのコンテを書いたりしているのでした。
(ディズニーはこの3年後にユニバーサル映画のカール・レムリを紹介され、「しあわせうさぎのオズワルド」シリーズを作るようになります)

デミル.JPG カール・レムリ Carl Laemmle.jpg
●セシル・B・デミル               ●カール・レムリ
IMGP6555.JPG IMGP8929.JPG
●「しあわせうさぎのオズワルド」とウォルト・ディズニー

 「イントレランス」の廃墟は、映画が手回し・サイレント時代の終わりを告げる象徴とも言えるものでした。映画の基礎を築いた世代が、次の世代にバトンを渡そうとしています。 
 そこにはすでに、ディズニーのように新時代を切り拓く映画の申し子のような才能が集まり、世界一の映画産業の舞台となったハリウッドの空気を高揚させていました。
 特に戦後、ヨーロッパから優秀な監督や魅惑的な女優がたくさん流入したことも、ハリウッドの振興に大きく寄与することになります。第一次世界大戦中には、ようやく望遠レンズを使えるレンズ交換式の撮影機も登場しました。


●今日のメジャー映画会社は、1920年代に揃い踏み
 D・W・グリフィスは1915年の「国民の創生」(1915)と1916年「イントレランス」(1916)の2作で現代に通じる映画の文法を生み出したことで<映画の父>と讃えられ、世界映画史にその名を刻みました。

 
1919年にグリフィスは、自分が見出した女優メアリー・ピックフォードとチャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクスと4人で映画会社を創立します。それが「ユナイテッド・アーチスツ」です。

グリフィ ス.jpg  IMGP8928.JPG
●D・W・グリフィスと「ユナイテッド・アーチスツ」の創設者たち 1919  

 これでハリウッドには、すでに最古参のカール・レムリの「ユニヴァーサル」をはじめ「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」「20世紀フォックス」「パラマウント」「コロンビア」「ワーナーブラザース」といった今日につながるメジャー会社が揃いました。 

UNI.jpgMMGM.jpg

20そ.jpgpara.jpg

CKOO.jpgなちちち.jpg

WBB.jpgRKO.jpg 
●右下/一時ディズニー映画を配給したこともあるハワード・ヒューズ(映画「アビエーター」1904 のモデル)のRKOだけは現在消滅している。
 

●映画は次の世代に受け継がれた
 
 このあと映画は、D・W・グリフィスが生み出した映画技法を「映画の文法」として理論的にまとめ実践したセルゲイ・エイゼンシュテイン、フセボロド・プドフキンといった人たちに受け継がれます。

 ルイス・ブニュエル、フリードリッヒ・ムルナウ、ジャン・コクトーといった人たちは、映画の可能性を広げる実験的な作品づくりを進めます。
 文芸のジャンルではロベルト・ヴィーネ、フリッツ・ラング、アベル・ガンス、といった監督たち。また、ロバート・フラハティなど、記録映画にも名作が現れてきます。
 一方で映画は娯楽の頂点に上り詰め、楽しさを創造する監督や俳優たちに引き継がれます。

 創造性と芸術面を支える技術的進化も著しく、
1927年以降トーキー時代へ。1935年以降はカラー、1953年以降ワイドスクリーン、ステレオ音響の時代へと発展して、今やすべてがコンピュータ仕様、映像はCG全盛の時代へと至った訳です。

IMGP8899-2.JPG

●「映画前史~映画誕生」を終えるにあたって
 この「タイムマシン創世記」は、古代から書き起し、「映画前史」「映画誕生」「映画創生期」と3期にわたってサイレント映画時代の終わりまで、ほぼ80回の連載となりました。
 みなさんもご存知のチャールズ・チャップリン、ウォルト・ディズニーが登場したところまで、ようやくつなげることができました。(と言ってもまだ私自身生まれていない
1920年代ですが)


 では、なぜこのブログを終えるのか。ここでその疑問に答えておかなければなりません。
 ここまでのお話でみなさんは、映画は写真が動いたとたんに、どの開発者も例外なく「色彩」と「音声」に思い及び、さらにはすぐに「立体」効果をも考えた、ということを思い起こしていただきたいと思います。

 実はこのような映画は、ヨーロッパでもアメリカでも、映画誕生直後からそれぞれの研究者によって「総合映画」「完全映画」としてイメージされていたのです。

 とすれば、現在の映画は、技術的には全くその延長線上にあるにすぎないのです。つまり、今日の映像技術は、ある意味で、120年前に思い描かれた究極ともいえる映画のイメージを、現時点の最先端技術でスケールアップしてきたにすぎないということが分かります。

 従って、私が語りたいのは〈人はなぜ、このようなものを考え出したのか〉ということですから、ここまでご覧いただければ、この後のトーキーの誕生、総天然色カラー時代、ワイドスクリーン登場、3D映画出現と続く映画技術史を、いちいち詳細に追いかける必要はないということがお分かり頂けると思います。

  

 ところで通常の映画史は、人物あるいは技術を単位に語られることが多く、それは知識の取得としてはいちばん簡潔で分かりやすいのですが、では、いろいろな人物がどのように絡み、技術が相互の関係の中でどのように発展していったのかという全体の動向を同時代の流れとしてとらえたいと思うと、それではなかなか把握しにくいのでした。
 私の興味は、時代のタイムラインをベースに、研究者や技術がどのように絡み合ったのかを知りたかったのです。人物同士の交流や技術情報の伝播は、研究開発とは決して無縁なものではないと思ったからです。

 例えば、リュミエール兄弟やトーマス・エディスンが映画の研究に乗り出そうとしたとき、他の研究者はどこまで進んでいたのか、とか、ジョルジュ・メリエスとシャルル・パテはどのような立場と関係だったのか、とか、いう具合です。
 このような視点をこのブログに持たせたかったため、「創世記」という物語形式をとってみたのですが、成功したとは言えず、同一人物が何回かの記事に分かれたりして、かえって複雑になってしまった感があり、反省しきりです。
 その代り、書物なら何度も巻頭の登場人物紹介をめくり直さなければならないところを、1回単位でご覧いただいても
人物や技術が分かるように、写真のフォローには気を使いました。その分、継続してご覧いただいている読者には、うっとおしく感じられたかもしれません。

 とにかく、資料を繰りながら感じたことは、第七芸術と呼ばれる映画というメディアの奥の深さです。それは映画が創造や表現という感性の世界だからだと思います。またクロスオーバーする技術の発展経緯、人間関係の興味もありました。
 この映画前史から映画誕生までの物語は、初めは仕事に関連して、その後は自分自身の生涯学習として始めたものですが、ご愛読頂いたみなさんのおかげで、当初から予定していた着地点を迎えることが出来ました。本当にありがとうございました。



これまでに採り上げた主な人物は下記の通りです。
  左袖の「記事検索」欄に下の氏名をコピーし、リターンキーを押すと関連記事が提示されます。

◎映画の機械的な基礎部分を作り上げた人たち
エドワード・マイブリッジ、エチエンヌ・マレー、オーギュスタン・ル・プランス、フリーズ・グリーン、エミール・レイノウ、ジョージ・イーストマン、ウッドヴィル・レイサム、
トーマス・アーマット、チャールズ・ジェンキンス、リュミエール兄弟

 
◎映画の表現手法の基礎を見出した人たち
ウィリアム・ディクスン、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエス、アリス・ギイ、エミール・コール、エドウィン・ポーター、D・
W・グリフィス、トーマス・インス、ビリー・ピッツァー

◎映画を事業として拡大した人たち
トーマス・エディスン、ロバート・ポール、シャルル・パテ、レオン・ゴーモン、カール・レムリ

◎初期のムービー・スター
ブロンコ・ビリー・アンダースン、フローレンス・ローレンス、メアリー・ピックフォード、リリアン・ギッシュ、メエ・マーシュ、マック・セネット、ウィリアム・S・ハート、チャールズ・チャップリン、


ウォルト・ディズニーについては、別ブログにシリーズを掲載。
  「
ディズニー長編アニメ再発見

   http://fcm.blog.so-net.ne.jp/archive/c45409934-1
 



デル株式会社


nice!(40)  コメント(4)  トラックバック(1) 
共通テーマ:映画

077 10年残った、夢の跡  「イントレランス」② [大作時代到来]

077 10年残った、夢の跡
    
D・W・グリフィス「イントレランス」②

コンスタンス・タルマッジ.JPG
●コンスタンス・タルマッジ

前回からの続きです。

●豪華絢爛。本格的ピクチャー・パレス時代到来
 「イントレランス」D・W・グリフィスお抱えのリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、フレッド・ターナー、リリアン・ラングドン、コンスタンス・タルマッジ、そして2年後の1918年にターザン映画第1作「猿人ターザン」で売り出すことになるエルモ・リンカンなど、売れっ子俳優によるオールスターキャストで製作費は190万ドルという超豪華大作でした。
 
 イントレ ポスター.JPG 
●「イントレランス」 ドイツのポスター           

P1060371.JPG エルモ・リンカン.JPG
●ターザン映画第一作「猿人ターザン」1918 と主役のエルモ・リンカン
  
 製作に丸2年を擁し、撮影されたフィルムは10万メートル。グリフィスははじめ8時間の映画にする構想でしたが、さすがに会社や映画館側は反対。結局半分以下の3時間半に短縮されて、1916年9月、前作「国民の創生」を初公開したと同じニューヨーク/ブロードウェイの「リバティ劇場」で公開されました。

IMGP2730-2.JPG
IMGP8874.JPG1910年代半ばの映画館.jpg
●1915年以降1920年代 ピクチャー・パレスのイメージ

 残念ながら手元に「リバティ劇場」のデータがないのですが、大作映画時代を背景に出現した当時の映画館とは、どんなものだったのでしょうか。それはピクチャー・パレスの呼び名通り、豪華絢爛の映画宮殿。その先鞭をつけたのは、ミッチェル・マークでした。

 
1914年4月、ニューヨーク/ブロードウェイにオープンした「ストランド劇場」は、円形の2階建て、約3,000席。金ぴかのデコレーション、きらめくシャンデリアの下、ガイドに導かれふかふか絨毯を踏んで座席に座ると、ステージ手前に30人程のオーケストラボックスと巨大なワーリッツァー・オルガン。見上げると両袖には賓客の座るバルコニー席があります。入場料は25セントとニッケル・オデオンの5倍もしますが、そこは非日常の世界、まさに<夢の宮殿>の内部です。

ロキシー.JPG IMGP8877.JPG
●映画館王「ロキシー」とワーリッツァー・オルガン

 ついでながら映画館の歴史上のヒーローは、“ロキシー”ことサミュエル・L・ロサフェルです。彼は1913年までに「アルハンブラ劇場」、「リージェント劇場」といった著名な劇場を建て直し、1914年から1920年にかけて上記「ストランド劇場」も含めて「リアルト」、「リヴォリ」、「キャピタル」といった大劇場を吸収し、ついには自分の名を冠した「ロキシー劇場」を造り、劇場王の名をほしいままにします。「ロキシー劇場」は大理石を使ったロココ調のデザイン、客席は6,200、オーケストラは110人編成というけた外れのものでした。

 このように大規模なピクチャー・パレスの建設は、イタリアの歴史劇の成功やグリフィスの大作によって加速されるのですが、このようにして映画は芸術性と娯楽性を適度に融合させて、
1920年代には全米で第4位の産業にのし上がるのです。
 1895年に誕生した「映画」。そのわずか20年後のこの姿を、誰が予想できたでしょうか。


●商業映画はやっぱり、内容よりも興行収入

 それはともかくD・W・グリフィスの偉大なる実験作「イントレランス」は、このような大劇場で公開されました。「古代・バビロ二ア編」ではオーケストラによるサンサーンス作曲のオペラ「サムソンとデリラ」の演奏が観客の心を揺さぶりました
前回の動画参照)。
 ところが興行的には前作の「国民の創生」を越えるどころか、大変な赤字を出してしまったのです。

IMGP8667.JPG IMGP8857-2.JPG
●D・W・グリフィス           ●「イントレランス」バビロンの一場面

 その理由として、元々8時間の内容を半分以下に切り詰めたために、すばやい場面転換に慣れていない観客が戸惑ってしまったこと。4つの物語が時代を越えて交錯するという構成が斬新過ぎて、観客が理解しにくい作品だったこと。キリスト受難のエピソード以外はアメリカ人になじみの薄い国の話であったこと。主な輸出先のヨーロッパは大戦中で映画どころではなかったこと。更に、戦争を<不寛容>のひとつとしたことが、第一次大戦に参戦直前の国民意識を逆なでしたこと。などが挙げられています。

 「イントレランス」の興行的敗北は、いかに芸術的色彩が濃くても、商業映画は作品内容よりも興行収入によって評価されるものであることを明白にしました。資本主義の国アメリカは、映画製作に対しても銀行や民間企業から投資の形で資金供給を受ける訳ですから、それ以上の利益を確保できなかったトライアングル社は致命的な打撃を受け、グリフィス自身も巨額の負債を負うことになりました。

IMGP8885.JPG
●「イントレランス」、バビロンの城砦の巨大なオープンセット

 こうして幻の栄華を誇ったバビロニア宮殿の大オープンセットは取り壊す費用もままならず、草むしたままサンセット・ブールバードの土ぼこりにまみれて10年以上も放置されることになるのです。


●エディスン・トラスト(
MPPC)の瓦解
 いずれにしても1910年から1920年にかけて、インディペンデント(独立経営映画会社)の1時間を越える長編映画が主力になると、全米に客席1,000を越える本格的な映画館が急激に増加しました。豪華に飾られたピクチャー・パレスの時代が到来したのです。
 反対に、エディスン・トラストと呼ばれる映画特許会社(MPPC)系列で製作される短編映画の上映館ニッケル・オデオンは目に見えて廃れていきました。

エジソン.jpeg●映画特許会社の総帥 トーマス・A・エディスン

 弱り目に祟り目のエディスン・トラストの衰退に追い討ちをかけたのが、第一次世界大戦を挟んで続いたシャーマン・トラスト禁止法に基づく反トラスト訴訟の結果でした。映画特許会社(MPPC)は1911年に反トラスト法違反の告発を受けていたのですが、1917年にエディスン・トラストは違法であるという判決が降りたのです。けれどもそのころまでにはすでにほとんどの加盟会社が手を引いて意味を成さなくなっていたのです。

 短編に限定して長編を作らせなかったエディスン・トラストは、そのカセを嫌った加盟会社が別会社で長編を作ることを促進させ、それがエディスン・トラストを追い詰めるという自己矛盾をはらんでいたのでした。

 こうして映画特許会社(
MPPC)は瓦解。最初は特許違反を訴える側で10年。後半は訴えられた側で7年。ここに17年にも及ぶエディスン社の特許戦争はようやく収束したのでした。最後まで残っていたのはバイタグラフ社1社でしたが、それも1912年に設立された「ワーナー・ブラザース」に吸収されてしまいます。 

つづく



Oisix(おいしっくす)デル株式会社
















nice!(35)  コメント(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

076 タイムマシン発進! 「イントレランス」① [大作時代到来]

076 タイムマシンの始祖、グリフィス。
      D・W・グリフィス「イントレランス」―①

IMGP8857-2.JPG
●グリフィスのタイムマシンが、観客を紀元前539年のバビロンにいざなう。

 1915年、第一次世界大戦のさなか。中立を保っていたアメリカでD・W・グリフィスが発表した長編大作「国民の創生」は大当たりをとりました。グリフィスはその莫大な利益と個人資産のほとんどを次の作品につぎ込み、翌1916年、前作を上回るスケールで「イントレランス」を完成させました。

P1060332.JPG   いんとれ.JPG


●「イントレランス」はタイムマシンの壮大な実験作
 D・W・グリフィスは前作「国民の創生」を製作する過程で、映画の特性とはまさしく時間と空間の飛躍にあることをはっきり意識したと思われます。「イントレランス」は「国民の創生」を超えようとして、考えられる限りの映画技法を駆使して作られた<時空超越・瞬間移動>の実験作だったように思われます。

グリフィ ス.jpgD・W・グリフィス

 映画ではひとつのカットはリアルタイムで進行しますが、次のカットとの間には時間が省略されます。この飛躍が実は1ヶ月間の世界一周旅行を1時間で見せる事を可能にします。また東京からパリでもロンドンでも世界中のあらゆる場所へ、カットをつなぐだけでどこへでも即座に移動できるばかりでなく、現代から未来へも過去へも瞬時に移動することができるのです。
 タイムトンネルやタイムマシンは決してSFの世界ではなく、100年以上も前に開発された映画こそが、実は時間と空間を自在に往来できるタイムマシンなのではないか。グリフィスの「イントレランス」は、それを実証しようとした実験映画のように見える作品なのです。

 彼は「イントレランス」で、古代から現代まで、時代の異なる4つの物語を合体させた映画…つまり4本分の映画を1本の映画にしてしまったのです。


●4つの物語を1本に。その作劇法とは

 「イントレランス」とは<不寛容、狭量>と訳されますが、分かりやすく言えば<人間の心の狭さ>ということ。この映画でグリフィスは、宗教、政治、法律などに見受けられる不条理は、他を許容できない偏見によるものとして、そのために翻弄される人々の姿を時代を超越して描こうとしています。

 「イントレランス」は、無実の罪で死刑を宣告される貧しい青年を描いた「現代・アメリカ編」。
 欧米人にはなじみ深い宗教上の争い、聖バーソロミューの虐殺を描いた「中世・ヨーロッパ編」。
 最後の審判の結果、十字架に掛けられるキリストの受難を描いた「紀元発祥・ユダヤ編」。
 ペルシャ王サイラス軍の攻略によるバビロンの崩壊を描いた「紀元前・バビロニア編」。この4つの時代で構成されています。

 つまりこの映画は、紀元前539から映画が作られた1910年代までのおよそ2,450年間という膨大な時空間が封じ込めらたタイムカプセルであり、観客は映画館というタイムトンネルの中で、現在から過去へ、過去から現在へとグリフィスの意志に翻弄されながら時空間を彷徨することになるのです。
  

現代.JPG 現代4.JPG
●現代・アメリカ編

中世.JPG 中世2.JPG
●中世・ヨーロッパ編

IMGP8849.JPG IMGP8844.JPG 
●紀元発祥・ユダヤ編

古代5.JPG 古代.JPG
●紀元前・バビロニア編

IMGP8840.JPG
●4つの時代の4つの物語を結ぶ、ゆりかごを揺らす母親の姿

 ここで注目したいのは、グリフィス自身が書いたシナリオのドラマツルギーです。4つの物語は「不寛容」というキーワードを共通項としながら、いわゆるオムニバス方式で一話ずつ順に展開するのではなく、4つの時代と場所…つまり4つの時間と空間が交互に入り混じって進行する形式です。

 とはいうものの、4つの時空間は全く脈絡なくつながれている訳ではなく、例えば「紀元発祥編」のキリストに対する審判のシーンの次に、無実の青年に死刑の判決が下される「現代編」の審判のシーンが続くという具合に、関連する事柄でシリトリのように場面を転換する「擬似転換」がすでに発想されていることに注目したいものです。

現代1.JPG 古代2.jpg 

IMGP8843.JPG 現代5.JPG  

 実際に「イントレランス」を細かく見ていくと、まず4つの時代の4本の作品が編集された後に、4本を1本に統合するために、全体の流れのタイミングを見計らって異なる時代へと交互に切りつなぐ編集がなされていることが分かります。
 また4つの時代が切り替わるときには、4話をつなぐブリッジとして、詩人ウォルト・ホイットマンの「ゆりかごは永遠に過去と未来を結ぶ」というフレーズに基づく、ゆりかごを揺らす母の姿が挿入されます。

 こうして4本の大河は、さながら4楽章の交響楽のように河口めざして次第に速度を増してクライマックスを迎え、どの時代にも共通する普遍的な平和への願いとして収束するのです。
 
時は第一次世界大戦のさなか。グリフィスは愚かな人間が繰り返してきた不寛容を描くことによって、大戦に向かおうとするアメリカに、平和への覚醒を促そうとしたのではないでしょうか。 


●紀元前・バビロニア編より ベルシャザール王宮のシーン
 平和な城砦が異民族の侵攻によってたちまち戦乱の巷と化す



●世界の映画界で、前代未聞のスケール
 アメリカ映画史始まって以来の長編スペクタクル「イントレランス」でグリフィスが特に力を注いだのは、メソポタミアの栄華を誇るベルシャザール王宮のシーンでした。
 グリフィスのねらいは<歴史の再現>でした。それはとりもなおさず、時間と空間を超越できる映画の特性をもっとも顕著に示すことになるからです。グリフィスは古くは紀元前539年のバビロンの城塞都市の真っ只中に観客をいざなおうとしたのです。

  
IMGP8774.JPG

 当時はまだ未舗装の地方道サンセット・ブールバード(大通り)の脇に、高さ70メートルもの城壁のオープンセットが張り巡らされました。城壁の奥は人が豆粒程に見える空中庭園、そしてイタリア映画「カビリア」をしのぐ数頭の巨大な象の立像。城壁の幅は戦車が2両並んで通れる上に、兵士たちも往来できる余裕がありました。
 また城内の奥行きはなんと1,200メートルもあり、そこにはいろいろな民族や身分に扮した4,000人を超すエキストラがひしめいていました。

シーケンス 01.jpg
●遠くからも望めたといわれる高さ70メートルの大城砦

IMGP7931.JPG
●監督するグリフィス(左)とカメラマン、ビリー・ビッツァー

 グリフィスはこの空前の作品を作るために監督と芸術顧問を4人従え、自らは総監督として当たりました。
 この壮大な景観を高所から俯瞰撮影するために、城壁に届きそうな高いやぐらが組まれました。グリフィスはまた、低所から高所への垂直移動撮影を行うために高さ
100フィートものエレベーター式カメラタワーを作るなど、空前絶後の手法が考えられました。もちろん世界初です。サンプル動画に見られる、スムースな上下移動撮影はこうして実現したのでした。

 撮影は名コンビのカメラマン、ビリー・ビッツァー。当時ムービーカメラは手回しから電動式に変わりつつありましたが、これだけのスケールの撮影に彼が使ったのは、120メートル(400フィート)フィルムを装填したパテ・フレール社製手回しカメラでした。 なお、このカメラは、同社が1910年にリュミエール社の特許を買い取って開発されたものです。


●はじめて映画が自然の演技を身に付けた

 「イントレランス」では俳優の演技が、無声映画特有の大げさに誇張された動きから自然の動きへと移行していることも見逃せません。
 前作の「国民の創生」にもそのきざしは見られましたが、この2作における演出法は、映画の演技がようやく演劇の演技法を離れ、自然で自由な<映画の演技法>へと移行したとみていいでしょう。


グリフィ ス2.jpg
D・W・グリフィス監督
 
 それにしてもこれだけの広大な場所で、グリフィスはどのように撮影の指示を出していたのでしょうか。写真では超大型メガフォンを構えたD・W・グリフィス監督が写っていますが、それだけでは到底遠方に届くはずはなく、ところどころに伝令を配置しなければ指示を徹底させることはできなかったと思われます。誕生して間もない電信も使われたでしょう。エキストラの移動や整理のために鉄道を敷いたとか、気球に乗って上空から指揮を行ったという記述も残っています。 つづく

※映画やテレビ、コンサートなどの会場で撮影や照明のために組む高いやぐらを業界用語で「イントレ」と呼んでいますが、その語源がこの「イントレランス」です。



nice!(43)  コメント(9)  トラックバック(1) 
共通テーマ:映画