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021 お堅いのはダメ。柔軟でなくっちゃ。 [写真を動かす試み]

021 〈動く写真〉こそ、人の「分身」に迫るもの。 

        アンシュッツ / グリーン / ドゥメニ

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●19世紀末。ジャン・ペロー描く、ブーローニュの森のセレブたち  馬を自転車に乗り換えて… 

〈動く写真〉を実現させるには、連続する被写体の動きをレンズの前で一瞬、停止させなければならない。前にお話したマイブリッジやマレー、それに今回お話しする三人も、「間欠運動」の仕組みを考えるとき、例外なく突き当たっていた機構上の壁…それは写真を定着させるメディア(媒体)がガラスだということでした。
  〈動く写真〉の開発者たちは、誰もがガラスと同じ透明度を備え、しかもしなやかで丈夫なものが必要であることが分かってきました。その発明もあと一歩というところまで来ていましたが、開発者たちはそれを待てずに、依然としてガラスやゼラチン、はては丈夫な紙を用いて
研究を続けていたのでした。

●ドイツ  オットマール・アンシュッツ
   19世紀の終わりも近い1880年代。欧米で鳥の飛翔を分析しようとしたのはエチエンヌ・マレーに留まりません。走る馬を撮影したエドワード・マイブリッジはもちろん、ベルリンの写真家で科学者でもあったオットマール・アンシュッツもその例外ではありませんでした。彼もやはり鳥の飛翔を撮影するために高速シャッターの必要性を感じていました。

エティエンヌ・マレー.pngマイブリッジ.JPG IMGP7708.JPG
●マレー        ●マイブリッジ     ●マイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」

オットマール・アンシュッツ 3 .gif●オットマール・アンシュッツ

  アンシュッツは、1888(M21)年にフォーカルプレーンシャッターを発明したことで有名です。このシャッターの仕組みがのちにスチルカメラの機構に大きく寄与するのですが、彼が1885(M18)年に公開した「エレクトリック・タキスコープ」と呼ぶ動画装置では、まだシャッターの重要性をそれほど重く見ていなかった節があります。

  
「タキスコープ」はマイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」1880(M13)
にヒントを得て、大型の円盤に24枚のゼラチン乾板による写真を配置したもので、彼が撮影した動物や鳥などの連続写真がはめ込まれていました。
★マイブリッジの関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-20


アンシュッツのタキスコープ1895.jpg
●アンシュッツの「エレクトリック・タキスコープ」1885
 観客は上の窓の向こう側から観覧する

 
それぞれの写真の下には金属製のピンが植えられていて、電極に接するようになっています。つまり、手動ハンドルで円盤を回転させると、ピンが電極に接した瞬間、ガイスラー管が光り、その連続で写真が動いて見えるという仕掛けでした。絵の送りと光の点滅とを連動させて、間欠運動に似せた働きを作り出した訳です。
 所詮は円盤ですから、同じ動きがエンドレスで繰り返されるだけでしたが、〈動く写真〉に初めて接する人たちには珍しく、「ラピッド・ビューアー」とも呼ぶこの装置を用いた興業は、あちこちで人気を呼びました。
ガイスラー管/1857年、ガイスラーが発明した高圧放電管。蛍光管の元祖

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●ガイスラー管高電圧装置の公開実験 1894

1894 IMG_3327_R-2.JPG  1894 IMG_3332_R-2.JPG
●1894年に覗き見方式に改造されたアンシュッツの「シュネルゼア」。左の凸部が覗き窓。
  写真2点は映写機研究家・永吉洋介氏提供


●イギリス  
ウィリアム・フリーズ・グリーン

イギリスでは写真家で発明家のグリーンが「動く写真」の先鋒でした。1884(M17)年、彼は幻灯機を動画用に改良することを思いつき、7枚の連続写真を動かす方法を考えました。これには初歩的なシャッターが付いていましたが、たった7枚の絵では大した動きは作れません。

  彼はその限界がガラス板にあることに気づくと、もっと柔軟な帯状の材質に写真を写し込めないものかと考えました。彼の頭の中にはすでに、平らな円盤に写真をはめてエンドレスで同じ動きを繰り返す、というような動画ではなく、お話として見せたいという構想があったのでしょう。
  そのためには何が何でも継続する長い帯のようなメディア(媒体)が必要でした。
「円」ではなく、「直線」という発想です。それはとりもなおさず、「時間」という見えないものを「帯」に記録することによって可視化させるという、当時としては先端的な発想でした。

グリーン.JPG●ウィリアム・フリーズ・グリーン

そこで彼は、オイルに浸した半透明の紙テープに感光剤を塗ったペーパーフィルムを使う撮影機を完成させました。彼は毎秒10枚ほどのスピードで撮影することを考えていたのですが、フィルムの幅が広かったのでうまく平均的に送れません。

  その問題を解消するために、彼は、フィルム送りを担う丸棒(ドラム)の両サイドに一定間隔の突起を付け、ペーパーフィルムの両サイドにはその突起に見合う位置に穴を開けて噛み合わせることを考えました。これによってフィルムはスムースに送られることとなりました。これが後にパーフォレーションと呼ばれるものです。セルロイドのフィルムが登場したのはちょうどその頃で、グリーンが早速それを採用したことはいうまでもありません。

  1889(M22)年に特許を取得した彼のカメラには、1コマにつき1回転するシャッターと、それに連動して1コマずつ間欠的にフィルムを送る機構が組み込まれていました。もちろん手回しですが、これらのメカニズムは今日でも映画用カメラと映写機に必須の機構となっているものです。彼はこれを「マシン・カメラ」と呼びました。

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●フリーズ・グリーンの「マシン・カメラ」 の撮影機部と パーフォレーション付きフィルム

  「マシン・カメラ」は、カメラであると同時に映写機としても使えるように設計されていました。つまり、撮影する時はフィルムを入れて裏ぶたを閉めた密閉状態で行い、上映する時は裏ぶたを開けたまま現像後のフィルムを掛け、その後ろに光源を置くことで投影することができたのです。撮影機兼映写機という合理的なこの方式は、後発の開発者たちに受け継がれていくことになります。

  彼は1890年6月に開かれたイギリス連合王国写真大会の会議の席でこのカメラを披露する準備を整えていたのですが、残念ながら会議に向かう途中で何らかのトラブルが起き、壊れたカメラとフィルムを提示できただけで、上映に至らなかったようです。

写真を動かすという「映画」の技術的な基本機構を考え出したフリーズ・グリーン。驚くべきことに、彼はこの他にも立体映画を撮影するカメラを開発したり、天然色写真の研究で特許を取ったりしているのです。そんな彼のことですから、写真がうまく動けば音声を付けたいということは当然の考えでした。
  現実の風景、人物、物体、事象はすべて色彩を備え、音声を持ち、立体で示されてこそ……それは彼が、どうすれば〈動く写真〉を現実そのままに見せることができるか、という視点を持っていたということに他なりません。
  それはまた、まだ誕生もおぼつかない「映画」というものの未来についてのとてつもない先見性を物語るものであり、更に映画誕生後の人々の願望を予言したものと言えるでしょう。

  こうした事実を以ってイギリスでは、フリーズ・グリーンを映画の発明者とみる人たちが多いそうです。けれども彼は、他の多くの研究者、開発者の例にもれず、その功績や特許を利益に結びつける商才には乏しかったらしく、晩年は私財のほとんどを研究に投入し尽くして、寂しい人生を送ったと伝えられています。

グリーン 立体鏡映画カメラ.JPG グリーン5.JPG
●フリーズ・グリーンの立体映画撮影装置 と そのフィルム

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●フリーズ・グリーンが開発した〈動く写真〉の装置  1890年代のものと思われる


●フランス ジョルジュ・ドゥメニ

  ジョルジュ・ドゥメニは、兄を通してアルチュール・ランボーと面識がある俊才で、前回お話したエチエンヌ・マレーの教え子でした。その優秀さを買われ、マレーが1882年に生理学研究所を設立した際に、研究のパートナーとして迎えられました。当時ドゥメニは40歳。マレーとは20歳離れていましたが、先に述べた固定乾板式「クロノフォトグラフ」の開発や生理学研究所で行われた大規模な撮影装置の開発・実験などで功績をあげ、今また次の段階の「クロノフォトグラフ」…フィルムを使用するための…の完成に向けて、マレーと研究を続けていました。

ドゥメニ.JPG●ジョルジュ・ドゥメニ            
 
1882マレーの生理学研究所.JPG
●マレーの生理学研究所全景 1882

  ドゥメニは、マレーの「クロノフォトグラフ」で撮影された連続写真を〈動く写真〉として再生する際に生ずるガタつきに、大きな不満を持っていました。それは1コマごとに中心がずれることに起因しているのですが、生き物の生態を分析することを主に考えいるマレーにとっては、〈動く写真〉の再現性については、それ程シビアに考えていなかった節があります。

  ドゥメニの考えは、大きく飛躍していました。〈動く写真〉こそ人の「分身」に迫るもの。そのためには連続写真はきちんと動きを再現するものではなくてはならず、更には声を持たせたい、とまで考えていました。
  「生きて、動いて、話している様子をそのまま残せるなら、いつでもそれを甦らせることができるではないか。それが何を意味するか……」。

  このあたりの考えは、なんと上記のウィリアム・グリーンと似ていることでしょう。

  それはともかく、視点の違いが研究にも反映し、マレーとドゥメニの間に次第に亀裂が生まれてくるのですが、それはまだ先のことです。


  ところで次回は〈動く写真〉の研究で忘れてはならない、もう一人のフランス人に
登場していただきましょう。
  その人の名は、オーギュスタン・ル・プランス。なじみのない名前かもしれませんが、そのエピソードを読んだら、忘れられない人物になるかもしれません。




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