037 エディスンに、たなボタ式の新発明 [映画の誕生]
037 エディスンに、たなボタ式の新発明
1895(M28)年10月。ウィリアム・ディクスンたちの「ミュートスコープパーラー」に追い上げられ、危機に瀕していたエディスン社直属の総代理店・キネトスコープ社(ラフ&ギャモン商会)に降って沸いた神の恵みの「ファントスコープ」。ジェンキンスとアーマットの合作によるその映写機は、果たして「キネトスコープ」で行き詰まりを見せるエディスン社の救世主となることができるのでしょうか。
●上には上が。
トーマス・アーマットを返したあと、ラフとギャモンは「ファントスコープ」があれば自分たちの会社は立ち直れる。そればかりか、これは絶対に金になる、と手を取り合いました。
●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ギルモア ●キネトスコープ
11月末、ノーマン・ラフはエディスン研究所の営業部長ウィリアム・ギルモアに連絡を取りました。
「私たちはキネトスコープのフィルムを上映できる映写機を見つけました。アーマットという青年が持ち込んだもので、技術的にも申し分の無いものです。彼は撮影機も作っていて特許を持っています。はなはだ申し上げにくいのですが、そちらで映写機開発の予定が無ければ、私たちがその権利を買ってこちらで製造したいと思うのですが、いかがでしょうか」
この話は早々にギルモアを経てエディスンに届きました。エディスンとしては愉快な話ではありませんでしたが、映写機を作ろうにも作れない現状では、その話を受け入れるしかありません。とにかく全幅の信頼を置いているギルモアに任せておけば、自分が不利になるようなことにはならないだろう。そう考えてエディスンは、アーマットの映写機の件はギルモアに任せることにしました。
●リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開ポスター
そうこうしているうちに年末を迎え、パリからはリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が大成功に終わったことが伝わってきました。エディスンは覗き見式「キネトスコープ」の終焉を悟りました。暮れから新年に向けて、ギルモアの裏工作は着々と進められました。
●2,000ドルか、名声か。
一方、「ファントスコープ」の特許が売れるかもしれないという感触を得たアーマットは、しばらく会わなかったジェンキンスに連絡を取りました。「ファントスコープ」の特許はチャールズ・ジェンキンスとの連名になっているので、それを自分名義に移しておこうと考えたのです。
アーマットはジェンキンスに、
「この件はどうなるか分からないが、自分としてはすでに5,000ドルを投資したような形でそのままになっている。けれども、あと2,000ドルほど出す用意がある。それだけあれば君も研究を続行できるだろう。その代わりその2,000ドルで、君の持つ権利の一切を買い取りたいと思うが、どうだろう」、と相談しました。
●「ファントスコープ」共同開発者のトーマス・アーマット(左)とチャールズ・ジェンキンス(右)
アーマットから5,000ドル出してもらっている弱みがあり、相変わらず研究資金も潤沢でないジェンキンスにとって、目先の2,000ドルは大金です。彼は反対する理由が見つからず、その場で了解のサインをしたのでした。それはチャールズ・ジェンキンスの名が映画開発の歴史から消えた瞬間でした。(でも、エディスンの裏話といっしょに、映画の発明で忘れてはならない人としてこのような形で語り継がれてはおります)
●若者は、威光暗示に弱かった。
1896(M29)年の年が明けたばかりの1月なかば。約束どおり手直しを加えた「ファントスコープ」を携えて、再びアーマットがラフとギャモンのキネトスコープ社を訪れました。機械の動作を一通り確かめて、随分良くなりましたね、と褒めた後、ラフが切り出しました。
「今度のお話は、エディスン氏も大変期待していますよ。そこで私たちはあなたの提案を受けようと思います。あなたの権利を買いましょう」。
あの偉大なエディスンにも認められた。それだけでアーマットの気持ちは高揚しました。その様子を見て取ると、ラフは話を続けました。
「そこでですが、私たちがこの映写機を量産するに当たっては、まず資金を調達する必要があります。私たちはファントスコープでもアーマットスコープでも、どんな名前で着手してもいいのですが、問題は果たして投資家たちがそのネーミングに魅力を感じるかどうか。はっきり言って金が集まるかどうかという懸念があります。
ところが幸い、私たちにはトーマス・エディスンという大発明家がついています。この名前を使わない手は無いと思います。もちろん、売り出すときにはアーマット型映写機と名づけてもいいし、軌道に乗れば発明者としてあなたの名前を登録することもやぶさかではありません。
こうした手順は商売のやり方のひとつで、日ごろよく行われていることはあなたもお判りでしょう。私たちはあなたもきっと同じ立場で考えていただけるものと思っておるのですが、いかがでしょう」
●新年の祝杯は、ことの他うまかった。
「ファントスコープ」をエディスンの発明とするようにラフとギャモンに知恵を授けたのはギルモアでした。
彼らのキネトスコープ社が破産してしまうと元も子もないのはエディスン側です。ギルモアとしてもそれは絶対に防がなければなりません。そこでギルモアは、彼らが「ファントスコープ」を作ることを認めて上げることを恩に着せ、その代わりにアーマットの「ファントスコープ」をエディスンの発明とするというところに持っていくように知恵を授けたのでした。策略といってもいいでしょう。もちろんこういった謀議は書類には残しません。具体的に指示を与える訳でもありません。双方、阿吽の呼吸で行われるものです。
ラフとギャモンにしても、「ファントスコープ」を目にしたときから、なんとかアーマットを仲間に引き込みたいとは考えたのですが、そのレベルまででした。ところがギルモアはアーマットをエディスン研究所に招いて「ファントスコープ」の改良を続行させる考えでした。その方策を聞いて、さすがエディスンが頼りにしている重役だけのことはある、と感心しました。
これがうまく行けば、エディスン側とラフとギャモンの双方にとって有益であるばかりでなく、アーマットにもちゃんと見返りがあるわけです。誰も損をしないで三方丸く収まる…こんないい話は無いではないか。アーマットが反対する理由など無いはずだ、と自賛しながら、彼らは新年の祝杯を挙げたに違いありません。
●先進技術をわざわざ引き戻したエディスン。
言葉こそ丁寧ですが、ラフの話にはNOと言えない響きがありました。若いアーマットはエディスンに認められたよろこびでいっぱいでした。それに2,000ドルどころか7000ドルの回収も夢ではない。アーマットの頭の中はうれしさが渦を巻いていました。彼が無条件でその申し入れを受け入れたことは言うまでもありません。 事の成り行きは、老かいなギルモアと商才に長けたラフとギャモンの思惑通りになりました。
エディスンは、すでに完成している「ファントスコープ」をそのまま受け入れたのでは自分の発明とはならないので、アーマットに指示して手を加えさせると、「ヴァイタスコープ」と名づけました。
その最初の「ヴァイタスコープ」とは、ただそれまでののぞき見方式の「キネトスコープ」用50フィートフィルムをエンドレスで上映するだけのものでした。
このように、上映式とは言っても、今さら1分足らずのエンドレスフィルムを2~3回繰り返し見せられるだけで喜ぶ観客はおりません。それはあくまでも"エディスンの発明による上映式映写機"と宣言することが重要だったのではないでしょうか。
●最初の「ヴァイタスコープ」1896 上映式とはいえ、相変わらず50ftフィルムのエンドレス上映
●改良型ヴァイタスコープ
エディスンはすぐに、大会場で上映するための「ヴァイタスコープ」の改良をアーマットに指示しました。フィルムの運びをよりスムースにするためにスプロケットが改善され、明るい映写画面を得るためにレンズの前に広い開角度を持つ回転シャッターが付きました。
それらは当然エディスンの新たな特許として申請されるため、こうした過程を経るうちに、いつしか「ヴァイタスコープ」の原型を発明したアーマットの名前は薄れていきました。
●いちばん得をしたのは誰?
まもなく新聞は、エディスンが満を持して発表する傑作映写機の発売を予告。1896(M29)年4月にニューヨーク最大のミュージックホール「コスター&バイアルズ」で「トーマス・エディスン、最新の驚異、ヴァイタスコープ」として初公開されました。
上映はボードヴィルの幕間でしたが、ホールの後ろにしつらえられた急ごしらえの映写室で、アーマットが「ヴァイタスコープ」の手回し操作に汗を流しているとき、エディスンはステージ上で、場内を埋め尽くした観客から絶大な賞賛の拍手を浴びていました。
エディスンがほとんど手を施さずに上映にこぎつけた映写機「ヴァイタスコープ」は、フランスのリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」公開に遅れること約4ヶ月。こうして誕生しました。
エディスン、この時49歳。
●スプロケットとシャッター羽根に改良が加えられた上映式「ヴァイタスコープ」
この本体の上下にリールが付き、後ろにアーク灯のランプハウスが置かれる。、
●長尺リールを備えた劇場用ヴァイタスコープ
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
アナベルはブロードウェイのダンサー。撮影者の妻が1コマずつ手で彩色した。
写真が動けば、次はカラー……という願望がすでに顕在化している
●エディスンの発明とされる「ヴァイタスコープ」の上映 いよいよ大画面上映時代の幕は上がった。
一方、アーマットと別れたチャールズ・ジェンキンスは、その後も「ファントスコープ」で興行を続けていました。アメリカ南部ではそこそこの成功を収めていましたが、ラフとギャモンのテリトリーと競合するシカゴその他の北部地域ではなぜか客が集まらず、現地の新聞はジェンキンスの興行を手ひどくこき下ろしました。ジェンキンスの名は映画発明家の栄誉から漏れただけでなく、事業としても結果は悲惨でした。その陰には、ラフとギャモンの手下による映写技師と新聞記者の買収という妨害工作があったと伝えられています。
また、ラフがアーマットにした口約束…軌道に乗れば、あなたを発明者としよう…も、結局なし崩しの形で、守られることはありませんでした。 つづく
◆「ブァイタスコープ」関連の機器及び図版の写真は 映写機研究家・永吉洋介氏提供
裏がいろいろあったのですねぇ --;)
回を重ねるごとに自分の中のディスンのイメージが変わって行く気が・・・^^;
by さる1号 (2015-05-03 18:01)
さる1号さん、こんばんは。
普通、映画史は何年に誰が何を作ったか、でいいのでしょうが、ここでは普段あまり語られることのない登場人物の人となりにも焦点を当ててみようと考えました。だから連載の物語形式です。エディスンについては会社の体質として描いていますので、エディスン個人に対する敬意は持っておりますから安心してお読みください。笑
by sig (2015-05-03 20:20)
ご心配をお掛けしましたm(_ _)m
体重も戻ってきましたので、もう少しで完治出来ると思います(^^)
ただ、大型連休は・・・ゆっくりさせて頂きます(^^ゞ
by kontenten (2015-05-04 23:43)