024 昨日の友は、今日の敵。 [技術の功労者]
024 そのPRはプラス? マイナス?
トーマス・アルバ・エディスン - 2
●1880年代末にエディスンを訪れたこともあるフランスの舞台女優サラ・ベルナール。
初期のフランス映画にも登場。
1870年、若干23歳で、特許で得た40,000ドルを元手に本格的な事業を発足させたトーマス・アルバ・エディスン。彼は、1876(M9)年、ニュージャージー州メンロー・パークに研究所を開設すると、スタッフと設備を充実。成果第一号として翌1877年に「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)の発表に至りました。
彼は財界への働きかけも怠らず、当時の花形である鉄道や銀行の大物たちと強固なパイプで結ばれるようになっていきます。彼は自分を成功に導いた「特許」というものの計り知れない効力を知り、発展の限界が見えないほどの将来性を持つ電気の開発に打ち込んでいきます。本国はもちろんヨーロッパへと多忙を極めるエディスンには、〈動く写真〉を考える余裕はありませんでした。
●白熱電球の明るさに、人々は天国を見た
当時、アーク灯やガス灯に代わる新しい照明として「電気」の研究が進められていたのですが、エディスンは1878年に「エディスン電灯会社」を輿し、国内ではウェスティングハウス・エレクトリック社、海外ではドイツのジーメンス(シーメンス)社といった第一線の企業と競合しながら、その開発を急いでいました。
●トーマス・アルバ・エディスン ●エディスンの白熱電球 1879(M12)
照明システムの末端は電球です。メンロー・パークの研究者たちは、真空のガラス球の中に白金の細い線を封じ込み、電流を通じて発光させるところまでは成功していました。けれども、電圧を上げるとたちまち溶けてしまうため、それに代わるものとしてエディスンは、炭素のフィラメントを考えつきました。それに適する素材が見つかるまで、考えられるあらゆる繊維が試されたといわれていますが、1879(M12)年10月の末、ついに成功。
それは、特殊な真空ポンプで空気を抜いたガラス球の中に、炭化させた糸を封じ込めたものでしたが、その電球は45時間も連続して輝き続けたのでした。
研究はさらに続けられ、新たな電球の公開実験が1880(M13)年の新年パーティを兼ねてメンロー・パークで行われることになりました。招待された政財界の大御所や新聞記者たちは、大晦日の夜、特別仕立ての列車で到着しました。
彼らは真っ暗闇の中で、何が起こるのだろうと半信半疑のまましばらく待たされていましたが、しびれを切らす直前に突然閃いたまばゆい明かりに、思わず声を失ってしまいました。彼らは光り輝く何百という電球に取り囲まれていたのでした。
翌日の新聞には、パーティに参加した記者による「私は天国を見た!」という記事が踊っていました。この発明で、京都男山・岩清水八幡宮の竹がフィラメントとして利用された話は有名です。
またしてもエディスンの演出の勝利でした。ガス会社の株は暴落し、エディスンの人気は留まるところを知りません。1881(M14)年にエディスンは、米国屈指の資産家で銀行家のモルガンの後ろ盾で、鉄道や電信で成功した投資家たちに支援され、「エディスン電気照明会社」を興しますが、その後も継続して、電気照明のシステム開発をはじめ発電、送電用機器の開発に力を注ぎます。
●出るくいは打たれることも
1882(M15)年、35歳のエディスンはニューヨークのウォール街南部をモデル地域に定め、オフィス、商店、住宅などの照明として13,020個もの電球に電気を供給することになりました。そのために市内に4階建てのビルを購入。蒸気機関を動力とする8基の発電機を備えた「エディスン中央発電所」が発足しました。
●上4枚 エディスン中央発電所 1880~ 1882
●ニューヨークにおける大統領選挙キャンペーン・デモパレード 1884(M17)
●馬車にもヘッドライトと室内灯が 1885(M18)
「これからは電気の時代です。太陽のように明るく、無色無臭で健康的。しかも炎を出さないから安全快適。電線は新時代の象徴として町中に張り巡らされ、家庭では照明に限らず、暖房、ミシン、洗濯機などの動力をはじめ、トースターや電気アイロンなど、便利に使われるようになるでしょう」・・・・・・
ところが、その前に立ちはだかったのがウェスティングハウス社でした。この会社はエディスン社が直流の電気を普及させようとしていたのに対して、交流の電気を主張している会社でした。1883(M16)年にジョージ・ウェスティングハウスは交流式の方が柔軟な電力供給システムを組めることをつかみ、特許をとろうとしていたのです。その技術の最先鋒は、エディスン社で働いていたことのあるニコラ・テスラでした。彼はエディスン社で交流電流の優位性を主張してエディスンと対立し、たった1年ほど在籍しただけで、ウェスティングハウス社に移っていたのでした。
結果的に今日の家庭の電流は交流式なのですが、エディスンにとって、これは会社の将来を脅かす大問題でした。まして直接のライバルが以前の部下とあっては退くことはできません。
●ニコラ・テスラ
●仰天。ライバルに向けたエディスン側の対抗策とは
●エディスン電灯会社の外観と内部の復元写真 1886(M19)
デトロイト郊外「ヘンリー・フォード博物館」に移築されている
エディスンは直流の方が交流よりも優れていることを証明しなければなりませんでした。そこで例のPR活動が登場します。
ただし、この話は必ずしもエディスンが指示したとは言えません。どんな会社にもお偉方に気に入られるように先手を打って立ち回る勝手連がいるように、これもそういった軽薄極まる連中が<エディスンのためを思って>考え、実施したことだと思います。
それは広告業界でネガティブ・キャンペーンと呼ばれるもので、相手のマイナス面を挙げて自己の優秀性をアピールする手法ですが、エディスン側のやり方は、現在では到底考えられない発想によるものでした。
彼らは、ウェスティングハウス社が提唱する交流電流の危険性をアピールする公開実験を企てました。たくさんの野良犬、野良猫が狩り出され、報道陣の前で交流電流を通した鉄板に乗せられて焼かれたというのです。当時は衛生面や危険性などで社会に悪影響を及ぼすものを排除するということで、歓迎されたかもしれません。
また、1888年(M21)、処刑用に電気椅子が考えられたときには、エディスン側は得たりとばかりに、「死刑にこそ交流電流がふさわしい」ことをPRするために、野良犬による公開実験を行ったりしたのでした。
これらの動物たちが研究の役に立ったというならまだしも、単なるデモンストレーションの犠牲にされたということは、今日では考えられないことでした。
●電気椅子のテスト、といっても彼は座っているだけですよ、当然。 1890( M23))
この話をするときには、19世紀末では小動物に対する倫理観が希薄だったことを前提にしなければなりません。アジアでは犬は食卓にのぼっていましたし、ヨーロッパでは野犬がもたらす狂犬病も脅威でした。野良犬、野良猫は、当時はゴミ同様の存在だったかもしれません。
それにしても、このような公開実験が大衆に全面的に支持されたとは思えません。部下がやったとしても、それはトップの座にあるエディスン自身に何らかの形で跳ね返るはず。知らないでは済まされません。
そう考えると、エディスンの発明それ自体は輝やいているのですが、この後に続く映画誕生に関する限り、そこに登場するエディスンは必ずしも他の発明ほどには輝いて見えないのです。
蒸し返すようですが、ニコラ・テスラがエディスン社を離れた理由については、次のようなエピソードがあります。交流電流の優位性を唱えるテスラにエディスンは言いました。「それなら、もし、直流用に設計されているこの工場のシステムを、君の言う交流電源で動かすことが出来たら、50,000ドルのご褒美を上げようじゃないか」。
自分の持論に自信を持っていたテスラは、勇んで設計を見直し、見事にそれを実現してしまいます。ところがエディスンに「あれは冗談で言ったんだよ」とはぐらかされてしまったというのです。このエピソードも冗談だといいのですが・・・。
とはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いのエディスンは、1889年、電気関連の系列会社をまとめた大企業のトップとして君臨することになります。その企業とは彼の名を冠した、エディスン・ゼネラルエレクトリック・カンパニー(のちのGE)です。
つづく
●ニコラ・テスラの人体放電実験 1877
●ニコラ・テスラの高電圧放電実験
こんにちは。
ニコラ テスラと言えばマッドサイエンティストなんて烙印を押されていますが、大発明家ですよね。ある意味エジソンを超えるかも。
今、電気自動車では最先端を行くテスラモータースという会社が米国にありますが、社名はニコラ テスラへのオマージュとしてつけられたものだそうです。(^_^ゞ
by 路渡カッパ (2015-04-07 10:54)
映画は1日にして成らず・・・色々な発明があって、今日にいたるんですね?
BBQは残念ですが、またの機会に☆?(ゝ。∂)
by 駅員3 (2015-04-07 13:48)
路渡カッパさん、こんにちは。
タイトルは忘れましたが、デビッド・ボウイがテスラのマッドサイエンティストぶりを演じて居た映画がありましたね。テスラはウェスティングハウス社の優れたエンジニアですよね。テスラモータースという電気自動車の会社は期待できそうですね。
by sig (2015-04-07 15:54)
駅員3さん、こんにちは。
「シネマは一日にしてならず」です。このブログではもう少しすると発明段階の1895年に至りますが、その後1920年ころまで続けたいと思います。
BBQ、残念ですが、今年はパスです。
by sig (2015-04-07 15:59)
いつもありがとう〜♪
何事も閃きとアイデアと努力。
そして、結果が付いて来るんやね。^^
by hatumi30331 (2015-04-07 20:13)
hatumi30331さん、こんばんは。
いいひらめきに、いい結果ありですね。まちがったことからは、いい結果は生まれませんからね。コメントありがとうございます。
by sig (2015-04-07 21:10)
ふむふむと、読ませていただきました。^^。
by 空の Ray (2015-04-08 17:14)
空のRayさん、こんばんは。
機械と化学のお話なので、その方面の説明はできるだけ最小限にとどめるようにして、研究者の物語としてすすめるよう努めています。
by sig (2015-04-08 21:34)
直流と交流の攻防があったのですね?
とにかく今の便利な物の原点を発明した方々には
頭が下がります。
by 響 (2015-04-09 04:47)
最初、証明ができた時は驚いたでしょうね。
夜が明るくなる・・・
by green_blue_sky (2015-04-09 06:11)
響さん、こんにちは。
ほんとうに、私たちの周りにあるものは押しなべてこのような成り立ちをしていると思うと、20世紀に生まれたことの幸せを感じますね。
それにしても、響さんの美しい写真を見せて頂くと、自然のままで何もなかった大昔も、まんざらではなかったということを考えさせられます。
by sig (2015-04-09 09:31)
green_blue_skyさん、こんにちは。
うまい! 証明と照明にざぶとん3枚です。
by sig (2015-04-09 09:33)
おはようございます。直流には直流、交流には交流の良いところがあるのですが、エジソンの目も当時は曇っていたようですね。
ただ彼の偉人たるゆえは、単なる学究の発明者で終わることなく、それらを使用した事業への展開を図った事業家でもあったことですね。
企業とのトラブルを引き起こした、青色LED実用開発の中村教授を思い出しました・・・ ^^
by 般若坊 (2015-04-09 09:55)
般若坊さん、こんばんは。
おっしゃる通りですね。電流はどちらも一長一短あるでしょうし、安全性についてもそれぞれ考えられるはずでしょうからね。
また、アイディアを実験させていくエディスンの事業家としての才覚は素晴らしいもので、他の発明家とは決定的に違うと思います。ただ、こと映画に関しては特許を守るために組んだトラストに置いて、かなり強引なことが行われたことが通例になっていて、それは押さえておきたいのです。そのあとの映画製作の項でまた挽回させていただきます。青色LEDに関する訴訟問題は難しくて何とも言えません。
by sig (2015-04-09 22:57)